スノードロップと紫苑の花
☕️
「雪落くん、ちょっと休憩しない?」
近くにあったベンチに腰掛ける。
アキレアは出会ってからほぼ付きっきりいてくれている。
でも彼女のことを何も知らない。
7日間しかいないから知る必要などないのかもしれないが、なんとなく気になって聞いてみた」
「アキレアは何で涅槃師になったんだ?」
「ちょっと話長くなるけどいい?」
「じゃあいいや」
「殴っていい?」
「すみません、ぜひ教えてください」
💊
「そんなんじゃ良い企業に就職できないわよ?」
ママの口癖はそれだった。
いつも私のためって言うけれど、結局気にしているのは世間体。
良い大学に行ったからって将来が安泰なんて限らない。
学歴に拘泥するママが嫌いだった。
自分だってまともに学校に行ってなかったくせに。
何かと理由をつけてパパのせいにするママが嫌いだった。
授業参観は一度も来たことなかったし、イベントも何かと理由をつけて断っていた。
ママが不倫していたことは知っている。
夜中にこっそり抜け出して不倫相手に会いに行っているところを見たことがあるから。
ママは家では一度も見たことがない女の顔をしていた。
家族揃っても会話はなく、わたしとパパが会話すると机をドンっと叩いて会話を強制終了させる。
喧嘩すらしない家の中の空気はディソナンスにもならない牢獄のような環境だった。
それなのに世間体を気にしてか、外では愛想を振り撒き、私の自慢話ばかりする。
見栄っ張りで内弁慶のママはアイロニカルでシニカルなペテン師のような人。
実の母親とは思えないくらいやることなすことが理解できなかった。
そんな環境でもいつも優しいパパが好きだったけれど、離婚してからはいまどこにいるのかわからない。
親の前では勉強している風に見せたが、そんなのも付け焼き刃で結局不登校になった。
高校を中退して親から逃げるように上京しバイトを掛け持ちして生活してきたけれど、1人っ子の私には頼れるものはお金しかなかった。
ママを見返そうと、1人で生きていこうとたくさん稼いだ。
ママに何も言われないために、何も言わせないために勉強した。
でもそんなある日、知り合いの人に騙された。
東京で唯一と言っていいくらい信頼していたはずの人にお金を全部持っていかれた。
帰る家もない私はすべてを投げ出そうかと思っていたちょうどそのとき、プッシャーの募集を見つけたの。
生きるためのお金が欲しかった。
キャバクラや風俗よりも手っ取り早くお金が欲しかった。
DMでやりとりしたのは『ウォンス』と名乗る男。
簡単に抜け出せる。
そう思って手を染めた。
私はウォンスに指示された通り、部下の男とカップルを装い白昼堂々街中で売り捌いた。
いままで真面目に働いていたのがバカバカしくなるくらい簡単に稼げた。
同じプッシャー仲間には元保育士や介護士、クスリの快楽から逃れられない人、暇つぶしにやっている老人もいた。
「これ以上は危険だ。お前はまだ若いしこの世界から身を引け」
ちょうどプッシャーの仕事に慣れて味をしめてきたころ、心配してくれた1人の先輩にそう言われた。
でもいまさら戻れないし、途中で抜け出そうとすればきっとウォンスに何かされる。
そう思うと怖くなってきた。
結局抜け出すことはできなかった。
いつもと違り渋谷の路地裏でクスリを売ろうと待ち合わせしていたとき、私服警官に職質されてそのまま捕まった。
「そのとき気づいたの。私が稼いだお金は誰かの人生を狂わせていたんだって」
「言い方が合ってるかわかんないけど、捕まってよかったのかもな」
「そうね。おかげでここで償うことができる」
「この道を選んだのはアキレア自身なのか?」
「煉獄にいたときはそのまま地獄に堕ちると思っていたんだけど、私はチャンスをもらえた。穢れた心が完全に浄化されることがなくても対象者を浄化させることで涅槃師としての役割を全うするつもり」
「後悔はなかったのか?」
「後悔のない人生なんてないわ。どんなに金持ちでもどんなに良い人でも人は生きている限り何かしらの過ちを犯すでしょ?それと向き合っていくしかないと思うの」
向き合うとか受け入れるとか口にするのは簡単だけれど、やっぱり実行するのは難しい。
どんなに強い人でも成功者と呼ばれている人たちでもそれは変わらない。
マザー・テレサの言葉を借りるなら、
『思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから』
人の行動の動機は思考からはじまる。
もちろんそんなこと普段から考えているような人はいないけれど、それでも多くの傷を背負った人ほど強く美しい人になれると思う。
私は彼に言っておかなければならないことがあった。
彼がちゃんと浄化されるためには絶対に必要なことだから。
「1つ言っておかなきゃいけないことがあるの」
怪訝そうな表情を浮かべる雪落くんだったが私は続けた。
「私がプッシャーになるときにやりとりしてたのって、あなたのお兄さんなの」
☕️
「連れてってくれ」
「本気で言ってるの?」
「あぁ、直接会って真意を確かめる」
何十年も音信不通だった兄さんと再会する絶好の機会を逃すわけにはいかない。
実際会ったところで何を話せば良いかは正直わからない。
準備していくようなものでもないが、これだけ時間が経つと積もるような話もそうない。
もしかしたら印象が大きく変わっていて会ったとしても気がつかない可能性すらある。
それでも後悔しないために会う必要があると感じた。
もしウォンスが兄さんだとするなら裏社会の人間ということになる。
その真意を確かめたい。
アキレアに案内されたのは開放感のある街並み。
そこに少し懐かしさを感じた。
生前、海が見たくなったときや海風を浴びたくなったときによく訪れていた湘南近郊の街。
駅前にあるテラスモールは日常との乖離を優しくなだらかに感じられる場所で、ベンチで転寝することに罪悪感を感じさせないくらいの魅力的な場所でもある。
少し強い風を浴びる度、死んだことを忘れそうになる。
やってきたのはその街から少し離れたところにあるアパートの一室。
築年数の長いボロアパート。
ここに兄さんが?
「私はここで待ってるから」
アキレアの気遣いに感謝しながらインターホンを押す。
部屋に入ると、ラフな格好をした兄さんがコーヒーを飲みながらソファに座っていた。
マグカップを持つその腕には曼荼羅の刻印が刻まれていた。
久しぶりに会った兄さんの外見は昔のままだった。
変わっていたのは俺の方で、幼い頃に抱いていた尊敬の念は微塵もなかった。
「プッシャーやらせてたってどういうことだ?」
「久しぶりに会った第一声がそれかよ」
飲んでいコーヒーのマグカップをテーブルに置き、少し呆れたような表情で腕を組む。
挽きたてなのか部屋中にコーヒー豆の良い香りが漂っている。
「慶永も飲むか?」
「いや、いい」
コーヒーを飲みたいという気持ちよりも、目の前にいる実の兄が犯罪に加担していたのではないかという猜疑心。そして涅槃師になっているという事実確認をしたかった。
「ウォンス」
まるで俺が訊きたいことを知っているかのように自らゆっくりと言葉を発する。
「あの赤い髪の子から訊いたんだろう?」
「やっぱり兄さんがウォンスなのか?」
「あぁ。その場で偽名を使わなくちゃいけなくて思い浮かんだのがウォンス。雪の“snow”を逆さにして“wons”だったってだけだ」
なんともテキトーというかやっつけというか。
勘の鋭いひとならすぐに気がつきそうだが。
「俺は組の下っ端だったからプッシャーの斡旋をしていた。そのときにあの赤い髪の子と知り合った。仕事のできる子だったから助かったよ」
「それが犯罪だってわかってやってたのか?」
「裏社会にいる時点でそれは覚悟の上だ」
そこにいたのは俺の知っている兄さんではなかった。
人を騙して生きることに対して割り切っているというか何の感情もない。
これも病気が関係しているのかとさえ思えた。
「パラノイアってのは嘘だったのか?」
「嘘じゃねぇよ。ただ、ある人に出会って奇跡的に治ったんだ」
治った?
何年も治らなかった精神疾患が?
そんな話聞いたことないぞ。
「俺はな、その人に恩返しするために組にはいった」
恩返し?
「いつだったかな、たまたま外に出たときがあった。なぜだかはわからないがなんとなく出たい気分になって出てみたんだ。そのとき偶然出会ったのが恩師のマサヨシさんだ」
兄さんがパラノイアになってすぐのころは外に出ることも多かった。
一緒に公園で遊んだりしていたので俺も病気のことにはすぐに気がつかなかった。
時間が経つにつれ、人との交流がなくなってきたと同時に症状が悪化し蟄居するようになっていった。
「マサヨシさんは行き(生き)場所のない俺に居場所をくれた。それが裏社会だってこともわかってた。ただ、あのころの俺にとってはマサヨシさんが親父の代わりで心の拠り所だった」
行き場所も生き場所もないというのを実の兄から聞かされるといたたまれない気持ちになる。
「マサヨシさんは早くに離婚し、子供にも恵まれず、家族というものがうまくいかなかった。そんなときに出会った俺を息子のように可愛がってくれたんだ。毎日接していくうちに俺たちは家族以上の存在になっていて、いつの間にか病気も治ってたよ」
それぞれの故郷があるように人によって心の居場所があるのはわかるが、それでも裏社会の人間であることに変わりはなく、詭弁やこじつけにしかならない。
少なくとも俺と母さんはこの兄さんによって家庭を壊されたといっても過言ではなかったのだから。
「でもな、組に入ってそう経たないくらいにマサヨシさんが組を抜けると言い出した。だから俺もついていくことにした。いま思えば俺のことを思ってくれたのだろう。このまま裏社会に染めてしまえば二度と戻れなくなると思ったんじゃないか」
その人は本当に兄さんのことを息子のように可愛がっていたことが伝わる。
本当の家族じゃないが故に芽生える家族愛というものなのだろうか。
「もちろんそんなすぐに抜けられるほど甘くはなかったけどな。俺はまだしもマサヨシさんは長く組に属していたからだいぶ時間がかかってたよ」
裏社会に一度属してしまうとそこから戻るのは相当厳しいと聞く。
クレジットカードは作れないし、携帯も契約できない。
家も借りられないから真っ当な生活をするのはほぼ不可能らしい。
「知り合いの好誼もあってこの家に住ませてもらったある日の夜、構成員から襲撃された」
淡々と語る兄さんの表情は固いままで、そこには複雑な感情が入り混ざっているようにも思えた。
「どうして襲撃されたんだ?」
「詳しくはわからない。ただ、マサヨシさんのことを良く思わない構成員もいたことは事実」
「結局マサヨシさんは?」
「俺を庇って亡くなったよ」
雨の降る夜、2人で買い物をした帰り道に背後から襲撃された。
エントランスに落ちる野菜と真っ赤な血の残像がいまも消えないでいるそうだ。
組を抜け改心した兄さんはボランティア活動や介護のバイトで生計を立てていたらしい。
そこから数ヶ月間は平穏な日々を過ごしていた。
「で、何で涅槃師に?」
ある日兄さんがボランティア活動をしているとこを構成員が偶然見かけ、その帰り道に襲われてそのまま亡くなった。
「マサヨシさんのこと恨んでないのか?」
間違った質問かもしれないが訊いてみた。
もし出会っていなければ組に入ることもなかったし、命を落とすこともなかった。
人は命の最期の瞬間を選択することはできないが、仮に病気が治らなくても施設で友達を作ってそこで平和に暮らすこともできる。
「恨んだところであの人は喜ばないだろ」
復讐ほど意味のないものはない。
どう足掻いても自分の心と体を汚すだけ。
「この家もあの人が遺してくれたんだ」
ソファに座りながら見つめる兄さんの視線の先にはきっとその人の姿が浮かんでいるのだろう。
「俺の居場所はあそこしかなかった。表社会に雪落 英治という人間は存在していないに等しかったんだよ」
勝手に決めるなよ。心の中でそう叫んだ。
複雑ではあったけれど、同じ血の通った家族であることに違いはないのだから。
「相談してくれれば良かったじゃねぇか」
「精神疾患になった兄の言葉を誰が信じる?」
「それでも実の兄弟だろ」
「実の弟だから言えないんだよ」
父さんが死んでから雪落家は本当にめちゃくちゃになった。
誰かのせいにしてはいけないし、兄さんは兄さんで苦しんだのだと思う。
人が死ぬことは絶対に避けられない。
しかし、家族が裏社会に入っていたことを死後に知るなんて何とも言えない心境だ。
「父さんが死んだときどう思った?」
その質問の答えは1つしかない。
ショックだったに決まっている。
家族が急にいなくなったのだから。
「俺はな、一緒に死のうと思った」
はっ?
なぜ?
「葬式の後、じいちゃんから『これからはお前が支えるんだぞ』って言われてな。何かある度にあの言葉が重くのしかかって頭から離れなかったんだ」
きっとじいちゃんは何の他意もなかったんだと思う。
人の言葉は時にひどく残酷なもので、ふとした瞬間に強く重たい矢が突き刺さって抜けない。
兄さんはその強くて重たい矢が刺さった状態でずっと生きてきたんだろう。
結局俺は兄さんに何を求めていたのだろうか。
**
気づけば半日が経っていた。
余命宣告されている感覚だが正直実感がない。
しかし、目的を果たさないとここにいる意味はない。
父さんと母さんはどこにいるのだろう?
当てのない雲の道、前を歩いていたアキレアが立ち止まった。
考え事をしながら歩いていたためぶつかりそうになったが、ギリギリのところで足を止めることができた。
「おい、急に止まんなよ」
「ごめん。だけど、ここにいそうな気がするの」
「誰が?」
「あなたのご両親」
その言葉に一瞬疑問符が出てきた。
いそうな気がするってどういうことだ?
「なぁ、前から思ってたんだけどさ」
「何?」
「アキレアって俺の担当だろ?なのになんでそんな曖昧なんだ?」
「リストには浄化対象者の簡単な情報しかないの。さすがに相手の居場所まではわからないわ。だから他の涅槃師と情報共有する必要があるの」
「シンギュラリティの時代が近いときにやけにアナログだな」
「あのね、ここは死後の世界で天国に行くためには自らの意志で魂を浄化させないといけないの。ただでさえあなたの情報が少なくて困ってるのに居場所がわかってたら寄り道なんてしないでとっくに浄化させてるわよ」
「兄さんに訊けばわかるだろ?」
「あの人は早くに家族のもとを離れてるからあなたの情報が古くて参考にならないの。これ以上言うと毒づくから」
すでに毒づいているかと思うのですが。
彼女なりに色々と試行錯誤してくれていたのに失言してしまったようだ。
「ごめん」
「私の方こそごめん。わかってくれればいいの」
ちょっとだけ気まずくなったので近くにあったベンチに座ってコーヒーを飲むことにした。
遠くに見える空は果てしなく、呼吸することを忘れさせるほど圧倒的だった。
暑かったわけではないが腕周りが少し窮屈に感じたのでジャケットを脱いだそのとき、あるものが落ちた。
それを拾おうとしたとき、アキレアがひどく驚いた。
「ねぇ、それ!」
赤い刺繍がされたそれは、いつもポケットに入れていたサネカズラのハンカチだった。
しかし、なぜアキレアがそうも驚く?
ただのハンカチだぞ。
「なんで持ってるの?」
「なんでって俺のだから」
「そうじゃなくて、どうしてここにあるの?」
そんなこと言われても、いつもポケットに入れてるから理由などない。
「ありえないわ」
一体何がだ?
横でぶつぶつと独り言を呟く姿に疑問を抱きつつも先に進むことにした。
真っ直ぐ歩いていくと、1人の女性がとある施設に入っていくのが見えた。
この後ろ姿に見覚えがある。
真っ黒な球体が雲海に埋まっているような少し不気味なその施設。
「あの施設は?」
「あそこは『ヴァニタス』よ」
禍々しく薄気味悪い見た目にぴったりな名だ。
「入っても良いか?」
「また寄り道するの?」
さっきの黒いオーラはおそらくあの子だ。
まだちゃんと思い出せないが、きっと彼女は……
ヴァニタスの中は何とも異様で異質だった。
お化け屋敷のように薄暗いその壁にはたくさんのトランジと髑髏が飾られている。
「ここはこの世界で罪を犯した死者たちを収容し、強制的に地獄へ送る場所」
死んでもなお罪を犯すってどんな神経しているんだよ。
それにしても悪趣味だ。
中央には大きなステージがあり、目隠しとマスク、手錠をかけられた下着1枚の人たちが首に番号をつけられ、まるで商品のように並んで立っている。
それは閲覧者のいない罪人の品評会のようだった。
その中に1人だけ何の拘束もされていない女性が立っていた。
さっき外で見かけた真っ黒なオーラの女性。
間違いない。栞菜だ。
話しかけようとステージに上がろうとすると、
「それ以上近づいちゃダメ!」
強い口調でアキレアに止められる。
程なくして、ステージを囲むように赤い光が境界線を引いた。
これ以上は近づくなというラインだろう。
「栞菜ちゃん!」
何も応えない彼女。
「そこにいたら堕ちるぞ!」
「もう、いいの」
何を言っているんだ?
「堕ちたいの」
まったく想像していなかった言葉に耳を疑った。
自ら望んで地獄へ堕ちたいと思うことなんてあるのか?
「せっかくのぶくんと再会できたのに、彼は私のことなんて気にも留めなかった。1人でワクワクしてドキドキしてバカみたい」
「天国に行ったら会えるわよ」
「テキトーなこと言わないで。彼の瞳に映ってないのなら、どれだけ待っても何をやっても傷つくだけ」
その表情は、飛び方を忘れた鳥のように切なさと虚しさが滲み出ていた。
「待って。まだ間に合うわ」
「もういいから」
その声に覇気というものは微塵もなく、体内にあるすべてのものを唾棄するように言い放った。
地獄に行くくらいならここで終えた方が良いというのは全ての人に通ずるわけではないということだ。
「こんな世界、消えちゃえばいいのに」
そう言い放った直後、ステージに大きな漆黒の穴が開き、縛られた人たちが吸い寄せられていくように次々と堕ちていく。
栞菜も目を閉じたまま倒れ込むように背中から堕ちていった。
口角の上がる彼女の口元は、一瞬だけだったがなぜか満たされているように見えた。
結局彼女を止めることはできなかった。
これで本当に良かったのだろうか。
なんとも言えない複雑な心境のままヴァニタスを後にした。
「雪落くん、ちょっと休憩しない?」
近くにあったベンチに腰掛ける。
アキレアは出会ってからほぼ付きっきりいてくれている。
でも彼女のことを何も知らない。
7日間しかいないから知る必要などないのかもしれないが、なんとなく気になって聞いてみた」
「アキレアは何で涅槃師になったんだ?」
「ちょっと話長くなるけどいい?」
「じゃあいいや」
「殴っていい?」
「すみません、ぜひ教えてください」
💊
「そんなんじゃ良い企業に就職できないわよ?」
ママの口癖はそれだった。
いつも私のためって言うけれど、結局気にしているのは世間体。
良い大学に行ったからって将来が安泰なんて限らない。
学歴に拘泥するママが嫌いだった。
自分だってまともに学校に行ってなかったくせに。
何かと理由をつけてパパのせいにするママが嫌いだった。
授業参観は一度も来たことなかったし、イベントも何かと理由をつけて断っていた。
ママが不倫していたことは知っている。
夜中にこっそり抜け出して不倫相手に会いに行っているところを見たことがあるから。
ママは家では一度も見たことがない女の顔をしていた。
家族揃っても会話はなく、わたしとパパが会話すると机をドンっと叩いて会話を強制終了させる。
喧嘩すらしない家の中の空気はディソナンスにもならない牢獄のような環境だった。
それなのに世間体を気にしてか、外では愛想を振り撒き、私の自慢話ばかりする。
見栄っ張りで内弁慶のママはアイロニカルでシニカルなペテン師のような人。
実の母親とは思えないくらいやることなすことが理解できなかった。
そんな環境でもいつも優しいパパが好きだったけれど、離婚してからはいまどこにいるのかわからない。
親の前では勉強している風に見せたが、そんなのも付け焼き刃で結局不登校になった。
高校を中退して親から逃げるように上京しバイトを掛け持ちして生活してきたけれど、1人っ子の私には頼れるものはお金しかなかった。
ママを見返そうと、1人で生きていこうとたくさん稼いだ。
ママに何も言われないために、何も言わせないために勉強した。
でもそんなある日、知り合いの人に騙された。
東京で唯一と言っていいくらい信頼していたはずの人にお金を全部持っていかれた。
帰る家もない私はすべてを投げ出そうかと思っていたちょうどそのとき、プッシャーの募集を見つけたの。
生きるためのお金が欲しかった。
キャバクラや風俗よりも手っ取り早くお金が欲しかった。
DMでやりとりしたのは『ウォンス』と名乗る男。
簡単に抜け出せる。
そう思って手を染めた。
私はウォンスに指示された通り、部下の男とカップルを装い白昼堂々街中で売り捌いた。
いままで真面目に働いていたのがバカバカしくなるくらい簡単に稼げた。
同じプッシャー仲間には元保育士や介護士、クスリの快楽から逃れられない人、暇つぶしにやっている老人もいた。
「これ以上は危険だ。お前はまだ若いしこの世界から身を引け」
ちょうどプッシャーの仕事に慣れて味をしめてきたころ、心配してくれた1人の先輩にそう言われた。
でもいまさら戻れないし、途中で抜け出そうとすればきっとウォンスに何かされる。
そう思うと怖くなってきた。
結局抜け出すことはできなかった。
いつもと違り渋谷の路地裏でクスリを売ろうと待ち合わせしていたとき、私服警官に職質されてそのまま捕まった。
「そのとき気づいたの。私が稼いだお金は誰かの人生を狂わせていたんだって」
「言い方が合ってるかわかんないけど、捕まってよかったのかもな」
「そうね。おかげでここで償うことができる」
「この道を選んだのはアキレア自身なのか?」
「煉獄にいたときはそのまま地獄に堕ちると思っていたんだけど、私はチャンスをもらえた。穢れた心が完全に浄化されることがなくても対象者を浄化させることで涅槃師としての役割を全うするつもり」
「後悔はなかったのか?」
「後悔のない人生なんてないわ。どんなに金持ちでもどんなに良い人でも人は生きている限り何かしらの過ちを犯すでしょ?それと向き合っていくしかないと思うの」
向き合うとか受け入れるとか口にするのは簡単だけれど、やっぱり実行するのは難しい。
どんなに強い人でも成功者と呼ばれている人たちでもそれは変わらない。
マザー・テレサの言葉を借りるなら、
『思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから』
人の行動の動機は思考からはじまる。
もちろんそんなこと普段から考えているような人はいないけれど、それでも多くの傷を背負った人ほど強く美しい人になれると思う。
私は彼に言っておかなければならないことがあった。
彼がちゃんと浄化されるためには絶対に必要なことだから。
「1つ言っておかなきゃいけないことがあるの」
怪訝そうな表情を浮かべる雪落くんだったが私は続けた。
「私がプッシャーになるときにやりとりしてたのって、あなたのお兄さんなの」
☕️
「連れてってくれ」
「本気で言ってるの?」
「あぁ、直接会って真意を確かめる」
何十年も音信不通だった兄さんと再会する絶好の機会を逃すわけにはいかない。
実際会ったところで何を話せば良いかは正直わからない。
準備していくようなものでもないが、これだけ時間が経つと積もるような話もそうない。
もしかしたら印象が大きく変わっていて会ったとしても気がつかない可能性すらある。
それでも後悔しないために会う必要があると感じた。
もしウォンスが兄さんだとするなら裏社会の人間ということになる。
その真意を確かめたい。
アキレアに案内されたのは開放感のある街並み。
そこに少し懐かしさを感じた。
生前、海が見たくなったときや海風を浴びたくなったときによく訪れていた湘南近郊の街。
駅前にあるテラスモールは日常との乖離を優しくなだらかに感じられる場所で、ベンチで転寝することに罪悪感を感じさせないくらいの魅力的な場所でもある。
少し強い風を浴びる度、死んだことを忘れそうになる。
やってきたのはその街から少し離れたところにあるアパートの一室。
築年数の長いボロアパート。
ここに兄さんが?
「私はここで待ってるから」
アキレアの気遣いに感謝しながらインターホンを押す。
部屋に入ると、ラフな格好をした兄さんがコーヒーを飲みながらソファに座っていた。
マグカップを持つその腕には曼荼羅の刻印が刻まれていた。
久しぶりに会った兄さんの外見は昔のままだった。
変わっていたのは俺の方で、幼い頃に抱いていた尊敬の念は微塵もなかった。
「プッシャーやらせてたってどういうことだ?」
「久しぶりに会った第一声がそれかよ」
飲んでいコーヒーのマグカップをテーブルに置き、少し呆れたような表情で腕を組む。
挽きたてなのか部屋中にコーヒー豆の良い香りが漂っている。
「慶永も飲むか?」
「いや、いい」
コーヒーを飲みたいという気持ちよりも、目の前にいる実の兄が犯罪に加担していたのではないかという猜疑心。そして涅槃師になっているという事実確認をしたかった。
「ウォンス」
まるで俺が訊きたいことを知っているかのように自らゆっくりと言葉を発する。
「あの赤い髪の子から訊いたんだろう?」
「やっぱり兄さんがウォンスなのか?」
「あぁ。その場で偽名を使わなくちゃいけなくて思い浮かんだのがウォンス。雪の“snow”を逆さにして“wons”だったってだけだ」
なんともテキトーというかやっつけというか。
勘の鋭いひとならすぐに気がつきそうだが。
「俺は組の下っ端だったからプッシャーの斡旋をしていた。そのときにあの赤い髪の子と知り合った。仕事のできる子だったから助かったよ」
「それが犯罪だってわかってやってたのか?」
「裏社会にいる時点でそれは覚悟の上だ」
そこにいたのは俺の知っている兄さんではなかった。
人を騙して生きることに対して割り切っているというか何の感情もない。
これも病気が関係しているのかとさえ思えた。
「パラノイアってのは嘘だったのか?」
「嘘じゃねぇよ。ただ、ある人に出会って奇跡的に治ったんだ」
治った?
何年も治らなかった精神疾患が?
そんな話聞いたことないぞ。
「俺はな、その人に恩返しするために組にはいった」
恩返し?
「いつだったかな、たまたま外に出たときがあった。なぜだかはわからないがなんとなく出たい気分になって出てみたんだ。そのとき偶然出会ったのが恩師のマサヨシさんだ」
兄さんがパラノイアになってすぐのころは外に出ることも多かった。
一緒に公園で遊んだりしていたので俺も病気のことにはすぐに気がつかなかった。
時間が経つにつれ、人との交流がなくなってきたと同時に症状が悪化し蟄居するようになっていった。
「マサヨシさんは行き(生き)場所のない俺に居場所をくれた。それが裏社会だってこともわかってた。ただ、あのころの俺にとってはマサヨシさんが親父の代わりで心の拠り所だった」
行き場所も生き場所もないというのを実の兄から聞かされるといたたまれない気持ちになる。
「マサヨシさんは早くに離婚し、子供にも恵まれず、家族というものがうまくいかなかった。そんなときに出会った俺を息子のように可愛がってくれたんだ。毎日接していくうちに俺たちは家族以上の存在になっていて、いつの間にか病気も治ってたよ」
それぞれの故郷があるように人によって心の居場所があるのはわかるが、それでも裏社会の人間であることに変わりはなく、詭弁やこじつけにしかならない。
少なくとも俺と母さんはこの兄さんによって家庭を壊されたといっても過言ではなかったのだから。
「でもな、組に入ってそう経たないくらいにマサヨシさんが組を抜けると言い出した。だから俺もついていくことにした。いま思えば俺のことを思ってくれたのだろう。このまま裏社会に染めてしまえば二度と戻れなくなると思ったんじゃないか」
その人は本当に兄さんのことを息子のように可愛がっていたことが伝わる。
本当の家族じゃないが故に芽生える家族愛というものなのだろうか。
「もちろんそんなすぐに抜けられるほど甘くはなかったけどな。俺はまだしもマサヨシさんは長く組に属していたからだいぶ時間がかかってたよ」
裏社会に一度属してしまうとそこから戻るのは相当厳しいと聞く。
クレジットカードは作れないし、携帯も契約できない。
家も借りられないから真っ当な生活をするのはほぼ不可能らしい。
「知り合いの好誼もあってこの家に住ませてもらったある日の夜、構成員から襲撃された」
淡々と語る兄さんの表情は固いままで、そこには複雑な感情が入り混ざっているようにも思えた。
「どうして襲撃されたんだ?」
「詳しくはわからない。ただ、マサヨシさんのことを良く思わない構成員もいたことは事実」
「結局マサヨシさんは?」
「俺を庇って亡くなったよ」
雨の降る夜、2人で買い物をした帰り道に背後から襲撃された。
エントランスに落ちる野菜と真っ赤な血の残像がいまも消えないでいるそうだ。
組を抜け改心した兄さんはボランティア活動や介護のバイトで生計を立てていたらしい。
そこから数ヶ月間は平穏な日々を過ごしていた。
「で、何で涅槃師に?」
ある日兄さんがボランティア活動をしているとこを構成員が偶然見かけ、その帰り道に襲われてそのまま亡くなった。
「マサヨシさんのこと恨んでないのか?」
間違った質問かもしれないが訊いてみた。
もし出会っていなければ組に入ることもなかったし、命を落とすこともなかった。
人は命の最期の瞬間を選択することはできないが、仮に病気が治らなくても施設で友達を作ってそこで平和に暮らすこともできる。
「恨んだところであの人は喜ばないだろ」
復讐ほど意味のないものはない。
どう足掻いても自分の心と体を汚すだけ。
「この家もあの人が遺してくれたんだ」
ソファに座りながら見つめる兄さんの視線の先にはきっとその人の姿が浮かんでいるのだろう。
「俺の居場所はあそこしかなかった。表社会に雪落 英治という人間は存在していないに等しかったんだよ」
勝手に決めるなよ。心の中でそう叫んだ。
複雑ではあったけれど、同じ血の通った家族であることに違いはないのだから。
「相談してくれれば良かったじゃねぇか」
「精神疾患になった兄の言葉を誰が信じる?」
「それでも実の兄弟だろ」
「実の弟だから言えないんだよ」
父さんが死んでから雪落家は本当にめちゃくちゃになった。
誰かのせいにしてはいけないし、兄さんは兄さんで苦しんだのだと思う。
人が死ぬことは絶対に避けられない。
しかし、家族が裏社会に入っていたことを死後に知るなんて何とも言えない心境だ。
「父さんが死んだときどう思った?」
その質問の答えは1つしかない。
ショックだったに決まっている。
家族が急にいなくなったのだから。
「俺はな、一緒に死のうと思った」
はっ?
なぜ?
「葬式の後、じいちゃんから『これからはお前が支えるんだぞ』って言われてな。何かある度にあの言葉が重くのしかかって頭から離れなかったんだ」
きっとじいちゃんは何の他意もなかったんだと思う。
人の言葉は時にひどく残酷なもので、ふとした瞬間に強く重たい矢が突き刺さって抜けない。
兄さんはその強くて重たい矢が刺さった状態でずっと生きてきたんだろう。
結局俺は兄さんに何を求めていたのだろうか。
**
気づけば半日が経っていた。
余命宣告されている感覚だが正直実感がない。
しかし、目的を果たさないとここにいる意味はない。
父さんと母さんはどこにいるのだろう?
当てのない雲の道、前を歩いていたアキレアが立ち止まった。
考え事をしながら歩いていたためぶつかりそうになったが、ギリギリのところで足を止めることができた。
「おい、急に止まんなよ」
「ごめん。だけど、ここにいそうな気がするの」
「誰が?」
「あなたのご両親」
その言葉に一瞬疑問符が出てきた。
いそうな気がするってどういうことだ?
「なぁ、前から思ってたんだけどさ」
「何?」
「アキレアって俺の担当だろ?なのになんでそんな曖昧なんだ?」
「リストには浄化対象者の簡単な情報しかないの。さすがに相手の居場所まではわからないわ。だから他の涅槃師と情報共有する必要があるの」
「シンギュラリティの時代が近いときにやけにアナログだな」
「あのね、ここは死後の世界で天国に行くためには自らの意志で魂を浄化させないといけないの。ただでさえあなたの情報が少なくて困ってるのに居場所がわかってたら寄り道なんてしないでとっくに浄化させてるわよ」
「兄さんに訊けばわかるだろ?」
「あの人は早くに家族のもとを離れてるからあなたの情報が古くて参考にならないの。これ以上言うと毒づくから」
すでに毒づいているかと思うのですが。
彼女なりに色々と試行錯誤してくれていたのに失言してしまったようだ。
「ごめん」
「私の方こそごめん。わかってくれればいいの」
ちょっとだけ気まずくなったので近くにあったベンチに座ってコーヒーを飲むことにした。
遠くに見える空は果てしなく、呼吸することを忘れさせるほど圧倒的だった。
暑かったわけではないが腕周りが少し窮屈に感じたのでジャケットを脱いだそのとき、あるものが落ちた。
それを拾おうとしたとき、アキレアがひどく驚いた。
「ねぇ、それ!」
赤い刺繍がされたそれは、いつもポケットに入れていたサネカズラのハンカチだった。
しかし、なぜアキレアがそうも驚く?
ただのハンカチだぞ。
「なんで持ってるの?」
「なんでって俺のだから」
「そうじゃなくて、どうしてここにあるの?」
そんなこと言われても、いつもポケットに入れてるから理由などない。
「ありえないわ」
一体何がだ?
横でぶつぶつと独り言を呟く姿に疑問を抱きつつも先に進むことにした。
真っ直ぐ歩いていくと、1人の女性がとある施設に入っていくのが見えた。
この後ろ姿に見覚えがある。
真っ黒な球体が雲海に埋まっているような少し不気味なその施設。
「あの施設は?」
「あそこは『ヴァニタス』よ」
禍々しく薄気味悪い見た目にぴったりな名だ。
「入っても良いか?」
「また寄り道するの?」
さっきの黒いオーラはおそらくあの子だ。
まだちゃんと思い出せないが、きっと彼女は……
ヴァニタスの中は何とも異様で異質だった。
お化け屋敷のように薄暗いその壁にはたくさんのトランジと髑髏が飾られている。
「ここはこの世界で罪を犯した死者たちを収容し、強制的に地獄へ送る場所」
死んでもなお罪を犯すってどんな神経しているんだよ。
それにしても悪趣味だ。
中央には大きなステージがあり、目隠しとマスク、手錠をかけられた下着1枚の人たちが首に番号をつけられ、まるで商品のように並んで立っている。
それは閲覧者のいない罪人の品評会のようだった。
その中に1人だけ何の拘束もされていない女性が立っていた。
さっき外で見かけた真っ黒なオーラの女性。
間違いない。栞菜だ。
話しかけようとステージに上がろうとすると、
「それ以上近づいちゃダメ!」
強い口調でアキレアに止められる。
程なくして、ステージを囲むように赤い光が境界線を引いた。
これ以上は近づくなというラインだろう。
「栞菜ちゃん!」
何も応えない彼女。
「そこにいたら堕ちるぞ!」
「もう、いいの」
何を言っているんだ?
「堕ちたいの」
まったく想像していなかった言葉に耳を疑った。
自ら望んで地獄へ堕ちたいと思うことなんてあるのか?
「せっかくのぶくんと再会できたのに、彼は私のことなんて気にも留めなかった。1人でワクワクしてドキドキしてバカみたい」
「天国に行ったら会えるわよ」
「テキトーなこと言わないで。彼の瞳に映ってないのなら、どれだけ待っても何をやっても傷つくだけ」
その表情は、飛び方を忘れた鳥のように切なさと虚しさが滲み出ていた。
「待って。まだ間に合うわ」
「もういいから」
その声に覇気というものは微塵もなく、体内にあるすべてのものを唾棄するように言い放った。
地獄に行くくらいならここで終えた方が良いというのは全ての人に通ずるわけではないということだ。
「こんな世界、消えちゃえばいいのに」
そう言い放った直後、ステージに大きな漆黒の穴が開き、縛られた人たちが吸い寄せられていくように次々と堕ちていく。
栞菜も目を閉じたまま倒れ込むように背中から堕ちていった。
口角の上がる彼女の口元は、一瞬だけだったがなぜか満たされているように見えた。
結局彼女を止めることはできなかった。
これで本当に良かったのだろうか。
なんとも言えない複雑な心境のままヴァニタスを後にした。