美神
佐藤 公明という上司
今からおよそ2年前、香月が家電専門店エレクトに入社し販売担当として売り場に出て間もない頃。
当時は実家から一番近い小店舗での勤務だった。佐藤 公明はそこの店長だった。優しくて、仕事ができて、真面目で、部下からの信頼も厚い既婚者。つまり、普通のオジサンだった。
「香月、ちょっと聞きたいんだが……」
当時、本社営業部のエース、宮下 昇がプライベートなことで話しかけてきたのはこれが初めてだったと思う。宮下といえば若手の有望社員なので常に大型店か本社で役職についており、香月などとは無縁で、この日のような店舗視察でもなければ顔を見ることもない。
帰りがけ、自転車の前で呼び止められ、何事かと思った。
「何ですか?」
宮下は一度後ろを振り返って人を確認すると、顔を近づけた。
「正直に言いなさい。佐藤店長と何か関係があるのか?」
「え? 何かって……?」
「実は、本社に匿名で電話があったそうだ。香月って女の子と怪しいって」
「え!?」
「まあ、ただの嫌がらせか、噂か何かだと思うが……。だけど、今日見た感じでは、ちょっと……気になってな」
宮下は驚くほど真剣な眼差しを向けてきた。
「えっ!? 私と佐藤店長は何もありません!」
そこで終わると逆に怪しいと思われそうだったので更に続ける。
「私の態度のどこか変でしたか?」
「いや、具体的にどうというわけではない」
「そんな……皆、他の皆も何もないということは知っています!」
「まあ……そうだな」
それでも、宮下は納得したという表情にはならなかった。
「……もう、いいですか?」
「あぁ、悪かったな」
「……失礼します」
この時の宮下は最低だと思った。どうせその電話とかいうのも単なる悪ふざけ電話で、その日の佐藤を見た雰囲気というのも勘違いで……単なる宮下の思い過ごしだと思った。多分、宮下は佐藤のことが少し嫌いで、ちょっと嫌味な部分が出たんだと思った。若くて仕事ができるから、年配の佐藤を少し虐めてやろうとか……エリートだし、そういう人なんだと思った。
だから次の日の帰り、わざと残業して佐藤を帰りの駐車場で呼び止めた。
「あの……ちょっと相談というか……」
「なんだ?」
「その……」
駐車場から車が何台か出て、すぐに残りはこの一台だけになる。市街から少し離れたこの店は閉店が21時であり、30分後の21時半でも辺りは既に暗く、国道の明かりがあるくらいだった。
「中入った方が落ち着いて話せるだろ」
「……はい」
言われるがまま助手席に上がりこむ。マークⅡはエンジンがかかると、すぐに冷房で車内を心地よくさせた。
「あの……昨日なんですけど、宮下さんが……」
「うん。どうかした?」
「あの……匿名で誰かが本社に電話した……とかいう話、聞きました?」
「え?」
薄暗くて表情まではよく分からないが、少なくとも佐藤は驚いている。
「あの……私と佐藤店長のこと……で、あの、なんか変な話なんですけど……」
「あぁ……いや、……」
突然、歯切れが悪くなる。おそらく宮下が先に佐藤に確認して、否定していたのにも関わらずこちらにも確認していたので、どう慰めようか迷ったのだろう。
「そんなわけないのに、もう、迷惑ですよね。そういう電話が匿名で……きたとかなんとか……」
「昨日、宮下さんから聞いたのか?」
「はい……」
なんか、声が真剣になっている。
「宮下さんは……匿名だと?」
「はい……え……」
もしかして……
「……匿名ではなかったんですか?」
「いや……。……」
佐藤はフロントガラスの外を、その奥をじっと見つめて動かなくなった。
香月はかける言葉を充分に考えてから、
「……何があったんですか?」と静かに聞いた。
「……。もう、ずっと……思っていたことだから」
「何をですか?」
突然、彼は場違いなほどに明るい表情を見せた。暗がりの中でも見える、その歯は白い。
佐藤はいつもそう、クレームや繁忙期や、危機を乗り切った時はいつもこういう笑顔を見せる。
「正直に話そう」
一瞬、まさか、その電話をしたのが佐藤本人ではないのかと有りもしない無駄な予感が過ぎる。
「俺も……最初は本社の人からその話を聞いた。匿名でこんな電話があったけど大丈夫かって。だから、大丈夫です、ただのいたずらです、と答えた」
「あぁ、そうですよね! だって、本当に何もないんだから……」
香月が息を漏らして、少し笑ったのと同時に、
「笑えるだろ? 」
「えっ!?…………」
手に何かが触れて驚いた。
「え……」
咄嗟に手元を見ると、そこには紛れもない佐藤の茶色く分厚い左手が己の白い手に覆いかぶさっていた。
その瞬間、女の勘が全てを気づかせた。
夫婦は不仲なのであった。
「妻は……ずっと俺と香月との関係を疑っていた」
香月は、何よりも早く手を引っ込めた。
「え、そんな、だって。一緒に働き始めて三か月くらいじゃないですか! そんな、ずっとって……」
突然の信じられない目の温かみに、危機感を覚えた。
「そう、本当に俺と香月はただの従業員と店長の関係で……。
だけど俺はある日、妻の前で、香月の名前を呼んでしまった」
「え!? そ、それだけで!?」
「詳しく……話そうか」
声が一層低くなり、体がすこし助手席側に近づいた。
「え、だって……そんな……そんな、私は疑われるようなこと、何もしてませんよね!?
だって……電話かけたことすら……ないことはないけど。それだって用事だし……」
「俺は妻を……抱きながら香月の名前を呼んだ」
どうすることもできない。
それはショックというよりは、衝撃だった。
「……そ……」
んな……どうして? が、なかなか声にならない。
「……俺は、正直、香月のことを可愛いと思っている」
一瞬考えた。
そうだ、これは、多分『従業員として』に違いない。そう思ったのに、
「かわい……」
振り払ったはずの、佐藤の空いた手がこちらに伸びてきた。伸びてきていたのは分かったが、体が動かなかった。
「入社式のときからそう思っていたよ」
顔に軽く触れられた。
背中が凍る。
「……って……」
「香月……。香月のためなら……全て捨てる。そう、思っているんだ」
次は、頬を撫でる。
「家族も、この地位も、全部」
「なに、を……」
「何もいらない……」
「え……」
「何も、いらないんだ」
顔が近づいてきた。
まさかとは思った。
信じたくなかった。
だが、それらは全て佐藤の意思で。
唇と唇は密着した。
軽く。
「振り向いてくれるまで、待つよ」
信じられない。
「いくつになっても」
体が動かない。
「だから……それまで……」
もう一度唇が触れ合う。
逃げられなかった。
逃げたかったと思う。
だけど、逃げられなかった。
「何もしない」
当然だ。
「妻との離婚話は既についている。息子も、妻が育てていく。不倫とか、遊びとか、そういうつもりで言っているんじゃない。再婚したくて言っているわけでもない。
ただ、香月と一緒に、何のことも気にせずいられる時間ができたら、と思っているんだ」
「……きっ、急に!」
「急ぐつもりはないよ。年を取るのは怖いけど」
佐藤は軽く笑い、暗い中でも再び白い歯はよく見えた。
「そ、そんな……たかが名前を……」
「香月……」
佐藤は宥めようとしているようで、再び頭を軽く撫でた。
「ち、ちょっと待ってください!」
さすがに頭を振った。
何故何事も起こしていないこちらが、まるで何か犯したかのような扱いを受けなければいけないのか。
「気にするな。明日から俺はしばらく、本社へ出張だし」
「そんな、そんなことではありません! 離婚なんかしないで下さい! 私は……そんな気持ちに応えられるとは……」
「思わない?」
「はい」
助け舟を出されて、すぐに言葉が出てきて良かった。
「だから待つよ、それまで」
「……そんなこと……」
「それくらいの気持ちになってしまったんだよ」
「だって、仕事だって、明日も本社で昇格試験じゃなかったんですか!?……子供さんだっているし、そんな……」
「試験なんてもう形だけで結果は決まったようなもんさ。そんな電話がかかってきて、事実宮下さんには疑われている。あの人は俺を落とすよ」
目が合い、彼が何か言い出すことが分かったので、俯いた。
「だから、それくらい、香月のことを……愛してるって言ったら驚くかもしれないけど」
嘘……そんな……。
「だけどそれくらいじゃないと離婚なんてしない。
正直、名前を呼んだときは自分でも驚いたよ。でも、それくらい、香月のことを考えているんだって気づいた。
だから、後悔はしない」
「私は、佐藤店長とはどうもなりません。だから、お願いだから、離婚しないで下さい!」
香月は必死で説得を始めた。
「そんな……いつか後悔しますよ。だって、奥さんには謝れば大丈夫かもしれないし。息子さんだって、一緒に暮らしたいと思ってるに決まってますよ!」
「遊びでもいいよ」
「え?」
聞き違いだとは思うが、今、なんて……。
「香月に遊ばれてもいい」
不審なくらい、佐藤はにっこりと笑ったので
「やめてください! 私は、佐藤店長を尊敬しています。仕事ができる佐藤店長を尊敬しています。皆、そうです。皆そう言ってます!」
「うん……。仕事をしないと食べていけないから。仕事は頑張っているよ」
「だったら……」
「だけど、この気持ちだけは譲れない。香月のことが好きだ。それで人生を棒に振ってもいいと思ったんだ。もう香月くらい想いを寄せるような女性は二度といない」
「……そう思って、奥様とも結婚されたはずです」
「そんな軽い気持ちじゃない」
「では、そんな軽い気持ちで子供を作ったんですか!?」
香月は激しく迫った。
「家庭というのは、そういうものだよ」
行き場のない怒りに、言葉も迷って出てこない。
「香月……。僕の家庭のことは、僕が考えて決断をしたことだ。僕だけじゃない。息子ももう自分で考えられる年だし、妻も納得をしている」
「……確かに……家庭のことは……私が分かることじゃないけれど……」
佐藤は本当に、本当に愛おしそうに、見たこともないような優しい表情でこちらを見つめた。
「だったらせめて……。私は普通にしていますから。お願いですから、佐藤店長も普通にしていてください。これまでみたいに、普通にしていてください!」
「今も普通だよ。それに、3日間は本社だ」
「そう……ですか……」
ふっと香月の表情が緩んだ瞬間を見逃さなかった佐藤は、
「安心したか?」
といつものように軽く笑った。
この状況でよく笑えるものだと思った。
それくらい、この時の佐藤の顔は清々しくて、意味が分からなかった。
「自転車か?」
「え……?」
「今日自転車で来ているのか?」
「あ、はい……」
「送ろうか?」
こちらを見ずに、シートベルトをかけながらあんまりにも普通に放たれる。
「え、いえ……」
「送るよ。もう遅いし、危ない」
こちらを見ずに、エアコンを少し下げる。
「すぐ……そこですし」
「嫌か?」
何故このタイミングでこちらを向く……。
「嫌というか……明日の朝、自転車がないのに困ります」
「それもそうか」
「だから、今日はいいです」
「いつか……送っていけるように……」
さすがに視線を逸らした。あまりにも重い、視線。
「……失礼します。お疲れ様でした」
「ああ。お疲れ。気をつけて帰れよ」
「はい」
とりあえず返事をして、さっと車から降りると駐輪場まで走った。
自転車にまたがるときも、ハンドルを握っているときも、前がよく見えなかった。
視界はかなりぼやけている。
暗い中、危ないと思った。だけど、一刻も早くそこから、逃げ出したかった。
そして誰かに相談したかった。この、不快な苦しみを、誰かにわかってほしかった。
全くもって不愉快だった。自分の勝手で離婚をしておきながら、その原因を自分に擦り付けられたかのような、そんな感じがした。
「お疲れ様です、香月です。あの……すみません、今お時間よろしいでしょうか?」
香月は自宅に帰ってすぐ、食事もせずに自室に入ると宮下に電話をかけた。以前店長からの伝言を伝えるため本社に電話をした時、宮下の携帯番号を教えられたことがあって、それを登録しておいた番号がまだ残っていたのだった。
午後10時前。大型店はまだ勤務時間内だ。つまり、本社もまだ稼働していると思われる。
「ああ! はい。ちょっと待って……」
何かガサガサ音がして、バックの音が消えた。ちゃんと話を聞いてくれるのだと安心する。休みだったのか、自宅だろうか。テレビを消したようである。
「何? どうかした?」
「あの……私、どうしたらいいか……」
「佐藤店長のこと?」
「私、全然知りませんでした……」
「知らなかった、とは?」
「……、私と佐藤店長は本当に、そういう関係ではないんです。だから、私、昨日宮下さんにそう言われて、気になって……さっき佐藤店長と話をしたんです。2人きりで」
「うん」
「奥様とは離婚するつもりだって、私のことを待っているって」
「そう言われたのか?」
「……あの、これは……セクハラだとかそう言いたいわけではなくて、ただ……本当に……」
「うん」
「……。私……ショックでした。なんか……私のことをそういう目で見ていたなんて……。だから離婚するなんて……。だから、離婚しないで下さいって頼みました」
「うん、そしたら?」
「それは……もう妻も納得したからって。でも、私は佐藤店長が離婚したからって結婚しないし、そんなことで離婚しなくても……だって、息子さんも可愛そうです!」
「まあ……そうだな」
「私はすごく尊敬してきたし、佐藤店長の仕事のお手伝いをしたかったし、佐藤店長に認められたかったし……」
「うん」
「それが……」
「分かった。確か、佐藤店長は明日から本社で試験だった……かな」
「確か……」
「佐藤店長はどちらにしてもその店には戻らない。それは今香月が言ったからじゃなく、新店ができたための人事異動だ」
「えっ!? そうなんですか!? 」
「まだ極秘の段階だ。微調整が遅くなって、明日付けで本社から店長の代わりの者が向かうことになっている。
俺も佐藤店長のことは尊敬している。どうして今あの小さな店舗の利益がとれているのかというと、そういう人だからだよ。それは香月もよく知っていると思う」
「はい……」
涙が溢れた。
「会わなくなったら、楽になるだろう?」
「……はい……」
「香月?……」
「……はい」
掠れた涙声が、小さく受話器に伝わった。
「……予定は……佐藤店長の人事予定は、とりあえずひと月、臨時で本社の要員になってもらって。……大型店の店長はもう任せられないけど」
「はい……。
あの、誰にもこのことを知られたくないです! こんなこと、自分でも信じたくありません。お願いですから、誰にも言わないで下さい」
「……どの部分を?」
「佐藤店長が……私のことを待っていて……。それが発端で離婚をするつもりだということです」
「いたずら電話の件が事実だったとしてもそうでなかったとしても、他言しないことを知っている全員に必ず伝えておく」
「はい……。あの、もしかして、私、辞めた方がいいんでしょうか?」
思ってもいないことだが、ふっと思ったのでとりあえず質問してみる。
「辞めたいのか?」
「……全く」
「じゃぁ、辞めなくていい。香月は何も悪くない。誰も何も悪くはないけれど」
そのつけ足しは、少し納得がいかない。
「……はい」
「大丈夫か?」
「……はい。しばらく会わなくてもいいと思ったら、気が楽です」
「そうだな。でも、佐藤店長も立派な人だから。気の迷いで後悔するわけじゃないだろう。佐藤店長にとって、香月は運命の人だったんだよ、多分。香月はそうじゃなかったというだけで」
「……もうだって、オジサンです」
「はは、そうだな(笑)」
「……あの、すみません。ありがとうございました。電話してよかったです」
「うん。いい方向に進めるように考えてみる。……また、何かあったら、いつでも電話どうぞ」
「……私の番号、登録しておいてください」
「分かった」
当時は実家から一番近い小店舗での勤務だった。佐藤 公明はそこの店長だった。優しくて、仕事ができて、真面目で、部下からの信頼も厚い既婚者。つまり、普通のオジサンだった。
「香月、ちょっと聞きたいんだが……」
当時、本社営業部のエース、宮下 昇がプライベートなことで話しかけてきたのはこれが初めてだったと思う。宮下といえば若手の有望社員なので常に大型店か本社で役職についており、香月などとは無縁で、この日のような店舗視察でもなければ顔を見ることもない。
帰りがけ、自転車の前で呼び止められ、何事かと思った。
「何ですか?」
宮下は一度後ろを振り返って人を確認すると、顔を近づけた。
「正直に言いなさい。佐藤店長と何か関係があるのか?」
「え? 何かって……?」
「実は、本社に匿名で電話があったそうだ。香月って女の子と怪しいって」
「え!?」
「まあ、ただの嫌がらせか、噂か何かだと思うが……。だけど、今日見た感じでは、ちょっと……気になってな」
宮下は驚くほど真剣な眼差しを向けてきた。
「えっ!? 私と佐藤店長は何もありません!」
そこで終わると逆に怪しいと思われそうだったので更に続ける。
「私の態度のどこか変でしたか?」
「いや、具体的にどうというわけではない」
「そんな……皆、他の皆も何もないということは知っています!」
「まあ……そうだな」
それでも、宮下は納得したという表情にはならなかった。
「……もう、いいですか?」
「あぁ、悪かったな」
「……失礼します」
この時の宮下は最低だと思った。どうせその電話とかいうのも単なる悪ふざけ電話で、その日の佐藤を見た雰囲気というのも勘違いで……単なる宮下の思い過ごしだと思った。多分、宮下は佐藤のことが少し嫌いで、ちょっと嫌味な部分が出たんだと思った。若くて仕事ができるから、年配の佐藤を少し虐めてやろうとか……エリートだし、そういう人なんだと思った。
だから次の日の帰り、わざと残業して佐藤を帰りの駐車場で呼び止めた。
「あの……ちょっと相談というか……」
「なんだ?」
「その……」
駐車場から車が何台か出て、すぐに残りはこの一台だけになる。市街から少し離れたこの店は閉店が21時であり、30分後の21時半でも辺りは既に暗く、国道の明かりがあるくらいだった。
「中入った方が落ち着いて話せるだろ」
「……はい」
言われるがまま助手席に上がりこむ。マークⅡはエンジンがかかると、すぐに冷房で車内を心地よくさせた。
「あの……昨日なんですけど、宮下さんが……」
「うん。どうかした?」
「あの……匿名で誰かが本社に電話した……とかいう話、聞きました?」
「え?」
薄暗くて表情まではよく分からないが、少なくとも佐藤は驚いている。
「あの……私と佐藤店長のこと……で、あの、なんか変な話なんですけど……」
「あぁ……いや、……」
突然、歯切れが悪くなる。おそらく宮下が先に佐藤に確認して、否定していたのにも関わらずこちらにも確認していたので、どう慰めようか迷ったのだろう。
「そんなわけないのに、もう、迷惑ですよね。そういう電話が匿名で……きたとかなんとか……」
「昨日、宮下さんから聞いたのか?」
「はい……」
なんか、声が真剣になっている。
「宮下さんは……匿名だと?」
「はい……え……」
もしかして……
「……匿名ではなかったんですか?」
「いや……。……」
佐藤はフロントガラスの外を、その奥をじっと見つめて動かなくなった。
香月はかける言葉を充分に考えてから、
「……何があったんですか?」と静かに聞いた。
「……。もう、ずっと……思っていたことだから」
「何をですか?」
突然、彼は場違いなほどに明るい表情を見せた。暗がりの中でも見える、その歯は白い。
佐藤はいつもそう、クレームや繁忙期や、危機を乗り切った時はいつもこういう笑顔を見せる。
「正直に話そう」
一瞬、まさか、その電話をしたのが佐藤本人ではないのかと有りもしない無駄な予感が過ぎる。
「俺も……最初は本社の人からその話を聞いた。匿名でこんな電話があったけど大丈夫かって。だから、大丈夫です、ただのいたずらです、と答えた」
「あぁ、そうですよね! だって、本当に何もないんだから……」
香月が息を漏らして、少し笑ったのと同時に、
「笑えるだろ? 」
「えっ!?…………」
手に何かが触れて驚いた。
「え……」
咄嗟に手元を見ると、そこには紛れもない佐藤の茶色く分厚い左手が己の白い手に覆いかぶさっていた。
その瞬間、女の勘が全てを気づかせた。
夫婦は不仲なのであった。
「妻は……ずっと俺と香月との関係を疑っていた」
香月は、何よりも早く手を引っ込めた。
「え、そんな、だって。一緒に働き始めて三か月くらいじゃないですか! そんな、ずっとって……」
突然の信じられない目の温かみに、危機感を覚えた。
「そう、本当に俺と香月はただの従業員と店長の関係で……。
だけど俺はある日、妻の前で、香月の名前を呼んでしまった」
「え!? そ、それだけで!?」
「詳しく……話そうか」
声が一層低くなり、体がすこし助手席側に近づいた。
「え、だって……そんな……そんな、私は疑われるようなこと、何もしてませんよね!?
だって……電話かけたことすら……ないことはないけど。それだって用事だし……」
「俺は妻を……抱きながら香月の名前を呼んだ」
どうすることもできない。
それはショックというよりは、衝撃だった。
「……そ……」
んな……どうして? が、なかなか声にならない。
「……俺は、正直、香月のことを可愛いと思っている」
一瞬考えた。
そうだ、これは、多分『従業員として』に違いない。そう思ったのに、
「かわい……」
振り払ったはずの、佐藤の空いた手がこちらに伸びてきた。伸びてきていたのは分かったが、体が動かなかった。
「入社式のときからそう思っていたよ」
顔に軽く触れられた。
背中が凍る。
「……って……」
「香月……。香月のためなら……全て捨てる。そう、思っているんだ」
次は、頬を撫でる。
「家族も、この地位も、全部」
「なに、を……」
「何もいらない……」
「え……」
「何も、いらないんだ」
顔が近づいてきた。
まさかとは思った。
信じたくなかった。
だが、それらは全て佐藤の意思で。
唇と唇は密着した。
軽く。
「振り向いてくれるまで、待つよ」
信じられない。
「いくつになっても」
体が動かない。
「だから……それまで……」
もう一度唇が触れ合う。
逃げられなかった。
逃げたかったと思う。
だけど、逃げられなかった。
「何もしない」
当然だ。
「妻との離婚話は既についている。息子も、妻が育てていく。不倫とか、遊びとか、そういうつもりで言っているんじゃない。再婚したくて言っているわけでもない。
ただ、香月と一緒に、何のことも気にせずいられる時間ができたら、と思っているんだ」
「……きっ、急に!」
「急ぐつもりはないよ。年を取るのは怖いけど」
佐藤は軽く笑い、暗い中でも再び白い歯はよく見えた。
「そ、そんな……たかが名前を……」
「香月……」
佐藤は宥めようとしているようで、再び頭を軽く撫でた。
「ち、ちょっと待ってください!」
さすがに頭を振った。
何故何事も起こしていないこちらが、まるで何か犯したかのような扱いを受けなければいけないのか。
「気にするな。明日から俺はしばらく、本社へ出張だし」
「そんな、そんなことではありません! 離婚なんかしないで下さい! 私は……そんな気持ちに応えられるとは……」
「思わない?」
「はい」
助け舟を出されて、すぐに言葉が出てきて良かった。
「だから待つよ、それまで」
「……そんなこと……」
「それくらいの気持ちになってしまったんだよ」
「だって、仕事だって、明日も本社で昇格試験じゃなかったんですか!?……子供さんだっているし、そんな……」
「試験なんてもう形だけで結果は決まったようなもんさ。そんな電話がかかってきて、事実宮下さんには疑われている。あの人は俺を落とすよ」
目が合い、彼が何か言い出すことが分かったので、俯いた。
「だから、それくらい、香月のことを……愛してるって言ったら驚くかもしれないけど」
嘘……そんな……。
「だけどそれくらいじゃないと離婚なんてしない。
正直、名前を呼んだときは自分でも驚いたよ。でも、それくらい、香月のことを考えているんだって気づいた。
だから、後悔はしない」
「私は、佐藤店長とはどうもなりません。だから、お願いだから、離婚しないで下さい!」
香月は必死で説得を始めた。
「そんな……いつか後悔しますよ。だって、奥さんには謝れば大丈夫かもしれないし。息子さんだって、一緒に暮らしたいと思ってるに決まってますよ!」
「遊びでもいいよ」
「え?」
聞き違いだとは思うが、今、なんて……。
「香月に遊ばれてもいい」
不審なくらい、佐藤はにっこりと笑ったので
「やめてください! 私は、佐藤店長を尊敬しています。仕事ができる佐藤店長を尊敬しています。皆、そうです。皆そう言ってます!」
「うん……。仕事をしないと食べていけないから。仕事は頑張っているよ」
「だったら……」
「だけど、この気持ちだけは譲れない。香月のことが好きだ。それで人生を棒に振ってもいいと思ったんだ。もう香月くらい想いを寄せるような女性は二度といない」
「……そう思って、奥様とも結婚されたはずです」
「そんな軽い気持ちじゃない」
「では、そんな軽い気持ちで子供を作ったんですか!?」
香月は激しく迫った。
「家庭というのは、そういうものだよ」
行き場のない怒りに、言葉も迷って出てこない。
「香月……。僕の家庭のことは、僕が考えて決断をしたことだ。僕だけじゃない。息子ももう自分で考えられる年だし、妻も納得をしている」
「……確かに……家庭のことは……私が分かることじゃないけれど……」
佐藤は本当に、本当に愛おしそうに、見たこともないような優しい表情でこちらを見つめた。
「だったらせめて……。私は普通にしていますから。お願いですから、佐藤店長も普通にしていてください。これまでみたいに、普通にしていてください!」
「今も普通だよ。それに、3日間は本社だ」
「そう……ですか……」
ふっと香月の表情が緩んだ瞬間を見逃さなかった佐藤は、
「安心したか?」
といつものように軽く笑った。
この状況でよく笑えるものだと思った。
それくらい、この時の佐藤の顔は清々しくて、意味が分からなかった。
「自転車か?」
「え……?」
「今日自転車で来ているのか?」
「あ、はい……」
「送ろうか?」
こちらを見ずに、シートベルトをかけながらあんまりにも普通に放たれる。
「え、いえ……」
「送るよ。もう遅いし、危ない」
こちらを見ずに、エアコンを少し下げる。
「すぐ……そこですし」
「嫌か?」
何故このタイミングでこちらを向く……。
「嫌というか……明日の朝、自転車がないのに困ります」
「それもそうか」
「だから、今日はいいです」
「いつか……送っていけるように……」
さすがに視線を逸らした。あまりにも重い、視線。
「……失礼します。お疲れ様でした」
「ああ。お疲れ。気をつけて帰れよ」
「はい」
とりあえず返事をして、さっと車から降りると駐輪場まで走った。
自転車にまたがるときも、ハンドルを握っているときも、前がよく見えなかった。
視界はかなりぼやけている。
暗い中、危ないと思った。だけど、一刻も早くそこから、逃げ出したかった。
そして誰かに相談したかった。この、不快な苦しみを、誰かにわかってほしかった。
全くもって不愉快だった。自分の勝手で離婚をしておきながら、その原因を自分に擦り付けられたかのような、そんな感じがした。
「お疲れ様です、香月です。あの……すみません、今お時間よろしいでしょうか?」
香月は自宅に帰ってすぐ、食事もせずに自室に入ると宮下に電話をかけた。以前店長からの伝言を伝えるため本社に電話をした時、宮下の携帯番号を教えられたことがあって、それを登録しておいた番号がまだ残っていたのだった。
午後10時前。大型店はまだ勤務時間内だ。つまり、本社もまだ稼働していると思われる。
「ああ! はい。ちょっと待って……」
何かガサガサ音がして、バックの音が消えた。ちゃんと話を聞いてくれるのだと安心する。休みだったのか、自宅だろうか。テレビを消したようである。
「何? どうかした?」
「あの……私、どうしたらいいか……」
「佐藤店長のこと?」
「私、全然知りませんでした……」
「知らなかった、とは?」
「……、私と佐藤店長は本当に、そういう関係ではないんです。だから、私、昨日宮下さんにそう言われて、気になって……さっき佐藤店長と話をしたんです。2人きりで」
「うん」
「奥様とは離婚するつもりだって、私のことを待っているって」
「そう言われたのか?」
「……あの、これは……セクハラだとかそう言いたいわけではなくて、ただ……本当に……」
「うん」
「……。私……ショックでした。なんか……私のことをそういう目で見ていたなんて……。だから離婚するなんて……。だから、離婚しないで下さいって頼みました」
「うん、そしたら?」
「それは……もう妻も納得したからって。でも、私は佐藤店長が離婚したからって結婚しないし、そんなことで離婚しなくても……だって、息子さんも可愛そうです!」
「まあ……そうだな」
「私はすごく尊敬してきたし、佐藤店長の仕事のお手伝いをしたかったし、佐藤店長に認められたかったし……」
「うん」
「それが……」
「分かった。確か、佐藤店長は明日から本社で試験だった……かな」
「確か……」
「佐藤店長はどちらにしてもその店には戻らない。それは今香月が言ったからじゃなく、新店ができたための人事異動だ」
「えっ!? そうなんですか!? 」
「まだ極秘の段階だ。微調整が遅くなって、明日付けで本社から店長の代わりの者が向かうことになっている。
俺も佐藤店長のことは尊敬している。どうして今あの小さな店舗の利益がとれているのかというと、そういう人だからだよ。それは香月もよく知っていると思う」
「はい……」
涙が溢れた。
「会わなくなったら、楽になるだろう?」
「……はい……」
「香月?……」
「……はい」
掠れた涙声が、小さく受話器に伝わった。
「……予定は……佐藤店長の人事予定は、とりあえずひと月、臨時で本社の要員になってもらって。……大型店の店長はもう任せられないけど」
「はい……。
あの、誰にもこのことを知られたくないです! こんなこと、自分でも信じたくありません。お願いですから、誰にも言わないで下さい」
「……どの部分を?」
「佐藤店長が……私のことを待っていて……。それが発端で離婚をするつもりだということです」
「いたずら電話の件が事実だったとしてもそうでなかったとしても、他言しないことを知っている全員に必ず伝えておく」
「はい……。あの、もしかして、私、辞めた方がいいんでしょうか?」
思ってもいないことだが、ふっと思ったのでとりあえず質問してみる。
「辞めたいのか?」
「……全く」
「じゃぁ、辞めなくていい。香月は何も悪くない。誰も何も悪くはないけれど」
そのつけ足しは、少し納得がいかない。
「……はい」
「大丈夫か?」
「……はい。しばらく会わなくてもいいと思ったら、気が楽です」
「そうだな。でも、佐藤店長も立派な人だから。気の迷いで後悔するわけじゃないだろう。佐藤店長にとって、香月は運命の人だったんだよ、多分。香月はそうじゃなかったというだけで」
「……もうだって、オジサンです」
「はは、そうだな(笑)」
「……あの、すみません。ありがとうございました。電話してよかったです」
「うん。いい方向に進めるように考えてみる。……また、何かあったら、いつでも電話どうぞ」
「……私の番号、登録しておいてください」
「分かった」