美神
井野 康夫という客
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ふと視線を上げて、重要書類を熟読しようとしているのにも関わらず、全く違うことを考えている自分に気付いて溜息を吐く。
ここは、家電専門店。株式会社エレクトの東都シティ本店。会社の存在価値として都心に建てられた随一の巨大店舗に、香月は配属されていた。
まるでホテルのロビーような内装で、ピシッとキメ揃った黒の制服で従業員が接客を行う高級感を売りにしている当社は、上質なサービスとメーカーとコラボしたグレードの高い商品を武器とし、他店の値段には合わせず、独自の路線で子会社、店舗数を増やしている家電を重点的に置く専門店だ。
エレクトの常連客になるのが裕福層のステータスというのが主な狙いで、ここで買ってこその満足感というのを常に追い続けている。
商談カウンターに座るだけでオレンジジュース、契約コーナーでは高級チョコレートが当然のように出て来る。そこまでして、価格を気にせず、気持ちよく買い物がしたいという客は、予想を遥かに上回る数で実は存在しているのである。
そこで香月がどんな仕事をしているかというと、大半雑用だ。担当は特にない。日別シフトにも、フリーと記載されていることがほとんど。全ての作業の雑用ともいえる微調整をチョコチョコやっている。
今はそろそろ定期監査の前に書類チェックをしておかないと、と、2階にある重要書類閲覧室と隣接している店長室の窓から、吹き抜けになっている売り場フロアを見ていた。
香月 愛(こうづき あい)、24才独身、入社して2年目。
父は地元総合病院の院長、母は父より10も若い継母だ。
実母は香月が生まれてすぐに病気で亡くなり、手伝いの乳母に育てられた。父が再婚したのは8歳の時。継母は、18歳と4歳の連れ子と共に、香月家に入り込んで来たのであった。
黒髪が長い、色白のくねくねした継母をどうも好きにはなれなかったが、幸いにも兄弟の仲はうまくいった。
兄は結局、香月家では住まずに大学の近くで一人暮らしを始め、今考えるとそれが3人の仲を円滑にしたのかもしれなかった。
まあ、なに不自由ないといえばない。実母はいないが、そんなことに感傷的になることもなかったし、今はアパートだが一人暮らしは出来ているし、仕事は楽しいし、それなりに友達もいるし。
特に、今の香月の中で大半を占めているのが、仕事であった。職場は同じ年頃の人が多く、頼れる上司、頼れる後輩、頼れる客によって、今日も笑顔で「いらっしゃいませ」を言える。
「疲れたか?」
背後から音もなく声がして振り返ると、巨大店舗をその手で操る店長、宮下 昇がファイル片手に店長室に入ってきていた。清潔感にあふれたその様は、従業員のお手本そのものである。
「いえ、うーん……はい」
「休憩取れよ」
一度腕時計を見て時間を確認。まだ午後5時。閉店の22時まではまだまだ時間がある。
「早めに取ろうかな」
「うん」
一応店長確認してから、全員が装着しているトランシーバーのマイクのスイッチを入れると「香月休憩入りまーす」と断る。
なんとなく、宮下を上目遣いで見た。
「今日はちょっと忙しいですね」
言いながら、部屋の真ん中にある長方形の机に沿った4脚のパイプ椅子の一つに香月は腰掛けた。
「うーん、まあまあかな。それより今日は荷物が多いからな。それが晩までにはけないかもしれない」
「私、後から行きましょうか?」
「いや、いい。それより、カウンター周辺で伝票チェックしておいて」
「はい」
ここに配属される前、入社したての頃から小さな店で伝票処理や小物販売、メール処理、倉庫整理など全てこなしてきた。それを知っている宮下はこちらを自由に使うが、まあ自分の立場はわきまえておきたいと思う今日この頃だ。ついつい、役職陣に近づきすぎてしまうと、お局様達から妬まれかねない。
「それと、リサイクル券の入力……」
「それ、午前中にやりました」
「そうか」
「昨日溜まってるって言ってましたから」
「いや、言ったけど、朝はわりと忙しかったから」
「ちょっと時間ができたんです」
「そうか……あれだな。ここもできた頃、よくローラースケートがほしいって皆言ってたな。昨日第2倉庫まで2回往復して思い出したよ」
宮下は、長机に書類を置くと、そのまま出ようとする。香月はそれに合わせるように、足を動かした。
「ローラースケートじゃなくて、ブレートですよね?」
「え? ブレート?」
「知りません?」
「……まあ、年が1回りも離れてたら仕方ない」
今日の宮下はそこそこ機嫌が良さそうだと判断した香月は、
「じゃあスケートとブレートの違いは帰って奥様にでも聞いてみてください」
笑いながら切り返した。
「それ嫌味?」
「え?」
妙に顔を顰められたので、香月は一瞬止まった。
「俺は独身だよ」
「えーーーーーー!!」
「びっくりしすぎ」
「そうなんですかぁ! えー、でも、えー……確か西野さんが、年下の若い奥様がいるとかなんとか」
「でたらめだよ、あいつのことだから」
「まあ……そう言われてみればそうだけど」
「ただ今恋人募集中」
「なんか冗談に聞こえませんね」
「……早く休憩行け」
「はい」
元気よく店長室を抜け、スタッフルームの扉を開ける。その30畳ほどの広いスペースには白い長机が並び、午後5時を過ぎたというのに、十数人がまだ昼食をとっていた。その一角を目指して香月は、当然のように腰掛ける。
「ほんと、本社の真藤さんってめっちゃかっこいいですよねー、ね、香月先輩」
まだ20歳になって間もない佐伯 春奈は、大きな瞳をくりくりさせ、更に大きな口を伸び伸び開いて、胸をときめかせようとしていた。
「……どうですか、永作さん?」
特に、佐伯に賛同する気もなかった香月はスル―し、隣で綺麗なランチョンマットに家政婦特製の自家製の幕の内弁当を広げる永作 知美に意見を求めた。
「悪くはないと思います」
こちらも特に興味がないようだ。
佐伯は更に目を大きくさせて、
「私が知り合った中で、会社の中で一番だと思います!」
「……うーん」
香月はフル回転させながら過去を検索するが、永作はそれを待たずに
「一番格好良い人は他にいると思います」
「えー!?」
2人は周囲も構わず声を上げた。
「どっ、どっ、ど、」
香月は、いつも自分の世界の中でしか息をしていない高価な日本人形のような永作の、衝撃的なセリフに言葉をかんでしまう。
「香月先輩落ち着いて!」
「どっどっ、どこに!?」
「落ち着いて、落ち着いて」
笑い声と一緒に、香月を制しようとする佐伯の腕が伸びて来る。
「だって、どこに他に格好いい人がいるの!?」
「そんな私に怒られても……」
「どんな人!?」
香月は身を乗り出して、陶器のような上品な永作の顔に近づいた。
「どんな人と言われても……」
いつもは無表情の永作が、珍しく少し照れながらも答えようとしてくれるが、香月の興奮は冷めやらず、永作の返事を聞く前にフライングしてしまう。
「まっ、まさか、依田さん、とか言うんじゃない!?」
「んなことあるわけないじゃないですかー!」
今度は佐伯が笑いを通り越して怒りをぶちまけた。依田は倉庫担当の正社員だが、まだ入社したてで若く、かろうじて髪の毛が深い茶色ということでなんとなくオシャレしたようには見えるが、それも、何かをカバーできているのかというと微妙なラインだ。
仕事はそこそこできてはいるようだが一言でいえば、永作お嬢様が相手にするような身分の男ではない。
「いや(笑)、だってさあ。なんとなく、一番確率低いところから攻めようと思って……」
香月は苦笑いする。
「高いところからにしてください!」
「じゃあ高いってどこ?」
「うーん、一般的にぃ……」
「この店舗の中だと、多分一番人気あるのは西野さんだよね?」
香月は、2人に確認した。西野 誠二とは、香月、佐伯と3人でつるむことも多い、気の知れた仲間だ。年も若く20代半ばの、利発的で常に店内売上ベスト3に入っている店長からの信頼も厚い、会社にとっても貴重な存在の人物である。
「え、そんな話聞いたことないですよ?」
佐伯はすぐに否定する。
「そう? 何回か聞いたことあるからてっきりそうなのかと」
「それだったら、数の多さだったら。普通に格好いいとかいい感じっていうのだったら、圧倒的に矢伊豆副店長じゃないですか?」
矢伊豆と香月はあまり関わることがない。ほぼ近くを歩いているのを見たことがあるくらいだし、そういえば下の名前も知らない。しかし、彼が年のわりに格好いいと若者の間でもてはやされているのは十分承知していて、主婦層の間でも抱かれたい店員ナンバーワンであることは有名だ。
少し長めの前髪が上手に後ろに流され、切れ長の目、暑い日でも徹底した長袖のワイシャツ、帰りの時間帯に見える外された第二ボタンから覗く厚そうな胸板。
男を評価することを生きがいに感じている文句の多い玉越 よしえ29歳が、「まあ、いい方」と珍しく納得した男でもある。
一言でいえば、セクシーなオヤジ。確か年は40を過ぎていたと思うが……。
「うーん、あれはなんか数には数えないような……」
香月は宙を見ながら呟いた。
「ひどい」
佐伯もそう言ってはいるがしっかり笑っている。
「いやなんか、どう言えばいいのかな……。え、まさか、矢伊豆副店長?」
香月は久しぶりに永作に話を振った。
「何ですか?」
綺麗に揃ったさらりと長い黒髪を揺らして小首を傾げる姿は、奥ゆかしい日本人そのものだ。
「矢伊豆副店長、格好いいと思う?」
「悪くはないと思います」
「うーん、まあねぇ。悪くはないか」
「悪くはないですよね、確かに」
佐伯も納得する。
「けど、依田さんも結構いいと思います」
永作お嬢様の小さな口から出た、にわかに信じ難い言葉に一同唖然とした。
「……、ほんとに?」
香月は目をまん丸にして、永作を見つめた。
「……」
永作は、少しの白ご飯を上品に箸で口にしただけで何も言わなかったが、その表情がいつもとは全く異なっていた。
「依田さんだったらイケますよ!」
佐伯は簡単に、しかも大声で確信する。
「うんまあ、軽く落ちるタイプではあるかな」
香月も勝手知ったる我が男のように、評価する。
「いつも面白くて、明るいですよね」
弁当を見つめながら顔を赤らめる永作が、あの依田のことをそんな風に思っていたのだと知ってしまったことに、2人は心底驚いて、しばし言葉を失った。
「そう……優しいよね。ジュース買ってくれたりするし……」
依田に何かいい所があったのだろうかと、香月は思い出すことに専念する。
「えっ?」
ビックリするほど素早く、永作はこちらを向いた。
「え? あ、いや……倉庫で、喉が乾いたなぁとか思ってると、皆に買ったりするよ?」
永作に刺激を与えないよう、精一杯誤魔化す。
「あ、私も買ってもらったこと……あったような気がする……。けどあれは依田さんじゃなかったかな……」
佐伯も言いかけて止まらなかったのだろう。なんとか濁している。
「私も、倉庫行きたいな……」
まさかこんなに綺麗なお嬢様があの汚い倉庫に行くだなんて、いや、単純に、販売できる社員をどうでもいい倉庫に配属させることなんかできないと思うのだが。
「いやあのその、いや、あのー、まあ……、そうだね。あ、そっか……」
「香月先輩、動揺しすぎ」
佐伯は笑って突っ込んだが、
「いやいや、違うの。フリーの私と交代なんかしたら倉庫いけなくもないかなぁって瞬時に考えてたところなのよ!」
現在フリーの香月は、雑務中心なので店内はもちろん、倉庫や駐車場も自由に行き来することができる。パソコン周辺でしか販売できない範囲の決められた担当者の永作と交代しようと考えたのだが、自分がパソコンを担当できないのでその交代案は絶対に無理なのだった。
だが、フリーであれば倉庫も自由に行けるので、基本的に倉庫に配属されることがない女子が依田と会うには一番現実的な位置だ。
「え、本当に倉庫がいいんですか?」
倉庫でどのような業務をしているのか自体を知らない携帯電話販売担当の佐伯は想像をしながら、永作に聞いた。
「倉庫がどんなところか分からないけど、行ってみたいかな……」
「香月先輩、うまく替われないんですか?」
佐伯は肘をつつきながらニヤニヤこちらを見てくるが、
「えー、宮下店長にどう言おうかなぁ。私がパソコン売れないからな……」
「素直に、倉庫行きたいですって言ったら、いいんじゃないですか? 休みの日とか?」
佐伯も疑問に思いながら喋っているだけあって、全く考えていないようだが、
「それいいかも」
永作は素直に目を時めかせた。
「えー!? ままま、待って待って! そんな、それだったらいっそのことデート誘おうよ!」
「うんうん、皆でカラオケとか行く時に誘いましょうよ!」
2人はようやく一番良い方法を思いついたが、
「うーん……それはまだ早いかな」
永作がたじろぐので、
「早いの意味が分かりませんよ」
佐伯は眉をしかめて突っ込む。
「もっと、お店で、倉庫でどんなことをしているのか、どんな風なのか知りたいかな」
「あぁ、そっか、確かにねぇ……」
「じゃあとりあえず、次の休みの日は倉庫、と……」
佐伯はさっそく段取りを立て始める。継いで香月は、
「どうする、本当に倉庫行く?」
永作は考えてから、
「私が休みの日に、お店に仕事をしに来たフリをして倉庫に行っても不自然じゃないでしょうか?」
「まあ、不自然じゃないことはないけど……あ、お菓子持ってきました作戦にする? 私が宣伝しておくからさ、今日永作さんが美味しいお菓子を持ってきてくれる約束になってるんですよーって。そしたら飛びつくよ」
「手づくりがいいんじゃないですか?」
佐伯の表情は真剣だ。
「手づくりならアップルパイでもいいですか?」
永作は控えめに強調する。
「全然オッケイ!」
佐伯は親指を立てて、無駄にウィンクもしてみせる。
「……」
永作は真剣な表情をして少し視線をずらした。アップルパイを作る算段をしているのだろうか。
「あ、そろそろ時間……」
香月はお気に入りの腕時計を見ながら立ち上がるが、永作はこちらを見ようともせず、
「佐伯さん、アップルパイとチーズパイって一般的にどっちが好まれると思います?」
変わらず真剣な眼差しを続けた。
人はよく、自分にないものを他人に求めることがある。
それがよく表された例ではないかと思った。
それに、依田なら彼女もいなさそうだし大丈夫だろう。まず下調べをしておいた方がいいか……。
いや、もし永作以外の人が好きだとか、彼女がいることが分かったら、それを永作に伝えることができるだろうか?
それができないのなら、下調べもいらない。
突如襲い掛かる独り者の寂しさから逃れようと、淡々とフロアまでの廊下を歩いていると、トランシーバーのイヤホンから声が聞こえてきた。
『香月さん、現在地は? 一眼コーナーで男性のお客様がお待ちです』
イヤホンの声が途切れるなり、マイクのスイッチを押して一秒経過してから、
「了解、今階段です。すぐに行きます」。
息を吐いて、足を速める。
毎日、客が求める家電の商品説明を丁寧にし、相手が納得いくように上品に販売をする。それがエレクトの売り場に勤める者の主な仕事内容だが、香月がしていることは実際は、売り場で型遅れ商品を集めているところへ、悩んで話しかけて来た客ににっこり笑顔で返して一緒にどの商品にするか悩む、という手法にすぎなかった。要は、知識不足を持ち前の明るさとその美貌でカバーしているだけである。
真っ白い、一つのくすみのないその肌はとてもキメが細かく、その上に乗った両の瞳は大きいアーモンド形で、それを覆う睫毛は、誘うように揺れ、また、その瞳に吸い寄せられた者を軽蔑するようにも、見える。鼻は真っ直ぐ筋が通っており、その下にある唇は薄く、赤い。
その美貌を香月は、営業でこの上なく発揮していたが、本人はそんなこと全く気にはしていなかった。
朝顔を洗って、エチケットで化粧をしなければいけないという気持ちしかあらず、ささっと整えただけにすぎない髪の毛も、時間がないときは背中まであるのをそのまま流して行き、更衣室で結ったり。口紅が嫌いで、なんとなくリップを塗ってはいるが、それも何歳までこんな手抜きで許されるのだろう、と時々自問しているくらいだった。
♦
「来月女子達で休日申請出そうかって話が出ててね」
6月初旬の平日午後1時半すぎ。東都シティ本店の広いスタッフルームでは十数人が昼食をとっており、その一角に私たちはいた。
隣に座っている玉越よしえは29歳。理美容商品担当の強気で有名な凛々しい美人だ。社長と何らかの縁があるらしく、本社の幹部とも仲が良いため、皆ちょっとした幹部扱いをしている。まあ、それだけ聞けば微妙な感じだが、持ち前の性格と仕事のデキでそれらを十分にカバーできているのが彼女という人間だ。
「皆でランチしてカラオケでもどうかなって。夜だともうクタクタじゃん?」
玉越は起用にも、食べながら提案し、香月も「そうだねえ」とすんなり日にちを思案し始めたところに、
「じゃあいつにするー?」
斜め前に座って、スマホとラーメンを見ながらタイミングをずっと見計らっていた西野はようやくここぞとばかりに、話しかけてきた。
「ってかあんた、呼ぶとも言ってないし」
「俺がいないと盛り上がらないじゃん」
「あ、大丈夫、大丈夫。他に人呼ぶつもりだから」
玉越は、右手を振ったが、西野はすぐに
「他、誰にする?」。
玉越は笑いながらこちらを見たので、香月も素直に笑った。
「あんたがいると、なんかそわそわするのよねー。ゆっくりご飯食べたいのに」
玉越のきつい本音が始まったのと同時に西野は、
「そういやさあ、香月は今どこ住んでんの? なんか通勤変更届け出してなかった?」
どこで誰に見られてるか分からないなと、少し警戒心を抱きながら、
「東京マンション」
と、隠さず答えた。
「ゲ、いいとこ住んでんじゃん!」
「前住んでたところの近くに空き巣が出たって父に言ったら、知り合いのとこが空いてるって」
「空いてるったって、給料全額もってかれるんじゃね?」
「知り合いだから、ちょっと安いのかな」
「マジ?! おいおい、どんだけ安くなってんだよ…」
「え、西野さんは今どこ住んでんの?」
「俺はラインズクラブの一軒家の方」
「あれってマンションじゃなくて、一軒家をルームシェアするってところなんだよね? 」
「そう、俺は自分でそこ選んだわけじゃなくて、姉貴の代わりなんだよ。姉貴が友人の妹とかと住んでたんだけど、仕事で海外に単身赴任になったからさ。用心棒ってわけ」
「危険な用心棒だね」
香月は笑った。
「お前なあ、俺が今どんだけ苦労してることか! 最近の若い女は全然そういうデリカシーねーから困るんだよなあ、こっちが! トイレなんかドア開けたまますんだぜ!? どういう教育受けてんだよ! ったく。ゴミ出し、掃除、全部俺。汚いことは、俺の役目なんだよ」
「普通じゃん」
玉越はさも面白そうに笑った。
「姉貴が家賃半分払うっていうから乗ったらこの始末だ……、人の部屋勝手に漁ってゲームはするし、俺のプライバシーは金で買われたんだよ」
「売ったの自分じゃん(笑)」
女2人は他人の苦労を、楽しく笑い飛ばす。
「って、自分なんか家持ちじゃん」
西野は玉越に向かって少し口を尖がらせてみせた。
「掃除が大変で嫌なのよ」
玉越は身のなりにそぐわぬ、自分の一軒家を持っている。もちろん、実家ではなく、独身の彼女自身で建てた家だ。自らの給与でフルローンを組めばそれだけのことができないわけではないが、羽振りのよさからして全額既に支払われているのではないか、というのが周囲の見立てであった。
香月は彼女がどういう家庭に育ったのか、どうやって一軒家を建てたのか全く知らないが、彼女と接する上でそんなことはどうでもいいことであった。
「……まあなー。俺んちなんて平均年齢低くて大変よ……。俺が平均値上げてるからなあ」
「え、いくつの人がいるの?」
香月は目を見開いて聞く。
「すごいから、この家」
玉越は苦笑した。
「大学生が3人。しかも女ばっか」
「え! 何それ!!」
「話あわねーし、全然つまんねー。オヤジ扱いに、加えて、アッシー呼ばわり」
「いいじゃんねー、花の女子大生生活」
玉越は、この上なく楽しそうに西野ににやけ顔を見せたのを見て、ひょっとしてと思ったが、
「ぜんっぜん。俺ガキには手つけないタチだから」。
「ま、それが普通でしょ」
玉越は、冷静にはねのけた。
次の瞬間、全員が鋭い視線を宙に向ける。仕事中はもちろん、休憩中も、耳につけているイヤホンを外すことはしない。イヤホンはトランシーバーに繋がれており、店内くらいの距離なら電波をとばすことができる簡単な物だ。誰かに何か伝えたい時や何か聞きたい時にスイッチを入れて小型マイクに喋る。すると、全員のイヤホンに伝わり、それに答えられる人が誰とも言わず、答えるシステムになっている。広い店内をカバーするのには欠かせない仕事道具であった。
『香月さん、香月さんご指名の男性のお客様がカウンターでお待ちです』
副店長の仲村だ。
「はい、すぐ行きます」
即座にマイクに答える。
『テレビのご購入を検討されています』
「了解です。すぐに行きます」
といってもここから走ると1分近くはかかるだろう。というか、男性のテレビ買うような知り合い、いたかなあ……。
香月は普段、テレビや冷蔵庫のような大物の接客はほとんどしない。理由は単に知識がないからだ。今はその知識を高める必要も特にないように感じていたので、自分で販売はせず、極たまに友人や知人に販売員を紹介する程度なのである。
なので、小走りで現場へ向かったとしても、説明できることなんてほぼないに等しい。
「すみません! お待たせいたしました!」
後姿から確認していたが、どうも知り合いではない。
「あ、いや。すみません」
やはり、見たことのない。黒づくめの男は丸いサングラスとキャップをかぶっていて顔がよく分からない。それに、上下揃いらしい黒のジージャンとジーパンに中は白いTシャツ。年は30後半くらいか。
香月は一瞬で観察を終えて、会話に集中する。
「香月さん、こちらの方、SOの90型にしようかどうか迷われています」
副店長の一人、仲村がこちらをじっと見ながら喋った。知り合いか? と聞いているのだ。
香月は、難しい顔をして少し首を傾けた。
「あのぉ……この90型が以前から気になっていたのでとりあえず一台。次の二台目の時は新しいのが出てからでもいいかなぁって思ったりして(笑) 」
第一声はまあ、普通の客のようである。
「はい、かしこまりました」
香月が返事をすると、仲村は2人の側からさっと去ったが、1コーナーだけ離れた所で待機している。販売の過程においてミスがないか見守ると同時に、客の素性を把握しようとしているのである。よって、仲村の判断において、この客は怪しいと最初から踏まれていた。
「香月さん」
「はい」
香月はソファに座っている客の前で、膝まづき、一緒にカタログを見ながら、分かる範囲の商品説明をしていた。
「渕の色はいろいろあるんですよね?」
「はい。黒、赤、白、グレー、ベージュ、ブラウン、モスグリーン、ピンクです」
実はこの商品、先日メーカーの商品勉強会に参加して多少調べていたのでまだ少なからず、知識があったので非常に助かっていた。
「香月さんならどの色がいいと思いますか?」
「そうですね……。個人的にはブラウンが好きですが部屋によって色々違いますし、でも一番見やすいのは黒ですね」
「あの……僕の部屋……こんな感じなんです」
驚いたことに男は、携帯電話の画像フォルダから自室と言い張る写真を見せてきた。にしても、似てもにつかない、豪勢な部屋である。まるでどこかのホテルの写真のようだ。
「……ご立派な素敵なご自宅ですね」
「いや、インテリアには少し興味がありましてね」
ならテレビの色くらい自分で選べよ……。
「これなら黒……かな」
何の根拠もないが、一番無難だと判断し、しかもすぐ在庫があるであろう色にしておく。
「やっぱりそうですよね。じゃあ、ブラックにします」
「えっ、よろしいのですか?」
不安一杯で聞いたが、男の妙な笑顔に一瞬引いた。
「はい、香月さんおススメ、ってことで」
笑うところだろうな、ととりあえず笑顔を見せる。
とにかく、型は完全に決まったが、配線関係、工事関係の話が全く分からない。これはトランシーバーで誰かに一々聞いて分かるような範囲では、とてもない。
仲村はいるだろうか……と少し顔を動かすと、すぐに目が合う。やはり気にしていてくれているのだ。
香月は目を合わせて頷いた。
仲村はすぐに寄って来る。
「すみません、この商品に決まったんですけど……」
仲村は香月からメモを取ると、すぐに客の方を見た。
「はい、では、ご自分で設置なさいますか?」
「んなモンできるわけねぇだろ!」
顔つきが一瞬で完全に変わったので驚いた。一気に緊張感が高まり、言葉が全く出てこなかった。
しかし仲村は普通ではない客にも、もちろん慣れている。何一つ表情に出さず、落ち着いて説明し、重要なことをちゃんと商談メモに記入していく。その間香月は、固まった体を序所に解凍しなおしていくことしかできない。
「はい、ではこれで大丈夫です」
仲村は大丈夫か? と言いたげに商談メモを香月に渡した。最高にゆがんだ顔を見せたいのを我慢して、無表情を装い、とにかく目だけで訴える。
「はい……では、こちらの商談メモをカウンターまでお持ちします。後は契約コーナーで担当の者がおりますので、そちらでご契約をお願いします」
「えっ?」
相手の顔を見る勇気がなかった。威嚇のような驚きの声である。
「い……いえ、あの、あの、私がしましょうか……」
「はい、お願いします」
映像コーナーからカウンターまでの長い間、男はずっと自分のことを話していた。フリーカメラマンであること。意外に若く、30才であること、黒が好きなこと、家電が好きなこと、よくここに来ること、そして、たまに香月を見かけること。
「いえね、香月さんの印象がすごくよかったものですから(笑) 。香月さんはむいてますよね。電池の接客をしていただいたのですが、よく分かりました」
電池の接客……。
「……そ、そうですか?」
「そうですよ!!」
契約コーナーは人でいっぱいだった。このまま一緒に待つのが嫌だったので、空いたレジで自分で伝票を作ることにする。
「すみません、こちらでおかけになってお待ちください。私はあちらのレジで伝票を作って参りますので」
「いや、座らなくてもいいですよ。香月さんが伝票を作るのを見ていたいので近くでいます」
「……すみません……」
だんだん分かってくる、相手の素性……。
男の名前は井野 康夫。住所は店の近く。
じっと見られている緊張感に堪えられず手が震えてくるが、それをどうにか落ち着かせ、素早く伝票を打ち上げる。
「お支払い方法は……」
「現金一括払いで」
手提げのバックからそのまま札束を出してきたことに驚いた。
実はこの風貌からしてローンを組むのではないかと予想して、クレジット契約の細かい部分を思い出し直していたせいで現金が不審に思えてしまい、更に手が震える。
どうにか落ち着いて、ゆっくり札束を数える。おそらく、間違いなく85枚ある。だが、10枚以上の万札はダブルチェックするルールになっているのでもちろんルール通りに、近くで心配していた玉越よしえに
「すみません、念のためにダブルチェックお願いします」
と札を手渡そうとした途端、
「俺の金に触るな! しっし!」
あり得ない客の態度にさすがの玉越も、こちらに驚いた表情を見せた。
泣きそうだった。こちらもそれを訴える。
「あ、では……。香月さん、確認したんですよね?」
さすが十年選手の玉越。この状況でも仕事は怠らない。
「あ、はい。85万ありましたので……」
「俺も数えてるから心配しなくていいよ」
井野は香月だけには優しく話しかけた。それが余計に、伝票を打ち込む手をいっそう早める。間違えていたら、後でやり直そう。
仕上がった領収書は封筒に入れ、最後はきちんと自動ドアまで見送りに行った。そうしないとまたあの恐ろしい形相を見せそうで怖かったからだ。
「よかったよ。また来るから、指名してあげるよ」
『よかった』って何だ……。
所要時間、80分。実に長い接客だ。
その間、ほとんど仲村が気にして近くにいたことは言うまでもない。
「ふぅ……」
カウンターまで帰ってくると、仲村と玉越が話しをしていた。多分さっきの「しっし!」を報告しているのだろう。
「伝票、ちゃんとできたか?」
「多分。急いで打ったから……」
「見せてみろ」
仲村は一枚の長い伝票にしばらく目を落とす。
「うん。まあ、いいだろう。ただ、追加で工事内容もっと詳しく書いた方がいい」
「うっわー! すごい! あんなに急いだのに!」
「なんかちょっと怪しい感じだったな。初めての客か?」
「相手は電池の接客を受けたことがあるって言ってはいましたけど、全然覚えていません」
「気をつけておくよ。井野か」
「私も気をつけとく」
ガードの堅い玉越がそう言ってくれるだけで、ほっとした。
「あ、そうだ。それが済んだら、返品を集めてきてくれないか?」
仲村は腕時計に一度目を落とすと、手にしていた井野の伝票をカウンターの上に置いた。香月はそれをすぐに拾い上げる。
「分かりました」
「AV小物コーナーだ」
「はい!」
♦
「しまった……」
閉店1時間後の23時。従業員通用口まで出てようやく外が雨であることに気付いた。自転車通勤の上に、傘はナシ。こんなときに限って仲良しは皆早上がりだ。誰かいればその辺まで送ってくれるのに。いくら7月が迫っているといえど、深夜の仕事帰りに濡れて自転車で帰りたい気分ではない。
とにかく今日は踏んだり蹴ったりだ。井野というおかしな客に捉まるし、第二倉庫まで返品を2回も取りに行かされるし、最後は雨だし。
「迎え、待ってるのか?」
久しぶりの声だが誰だか分かる。
ドキッとした。のは、声のせいか、タイミングのせいか。
「びっ……くりした……」
「傘ないのか?」
「はい……」
佐藤公明 部門長……。ちょっとした縁のある人だ。
「自転車で来てるんだろ?」
何故知っている。引っ越ししてから自転車に変えたのに。
「はい……」
「送ろうか?」
「……」
このセリフをどのように捉えようか、迷う。
「えっと……」
「香月ー!」
更に後ろから宮下の声が聞こえて振り返った。ずっと後ろだ。
「はい!!」
この状況から逃れたいためか、こちらも必要以上に大声で返事をしてしまう。
「……」
しかし、返事をしているのにも関わらず、宮下は何も言わずこちらまで近づいてくる。
「この雨の中、自転車は大変だろう」
宮下は笑いもせず、無表情で言った。
「はい、今、それを……」
「雨で」
突然佐藤が口をきき、揃って2人はそちらを向いて黙った。
「雨で傘がないそうで。私が送っていきます」
「……傘ないのか?」
「あ、はい……」
「いえ、いいです。佐藤さん、家反対方向じゃないですか。僕、丁度通り道なんで乗せていきますよ」
更に宮下は視点を変えた。
「来月のシフトのことも話したかったし」
「あ……はい」
確か来月からシフトの流れを変えるという話は2、3日前にした。宮下の余計な心遣いが息苦しくて、言葉に詰まる。
「そうですか。じゃあ、お疲れ様でした、また明日……いや、明後日」
佐藤はすんなり引くと、雨の中、傘を差して駐車場へと進んでいった。
「……佐藤さん、明後日出社なんですか?」
「さあ、知らない」
明後日は香月の出社予定日だ。佐藤はそれを見越していたのだろうか。そして宮下は、それに気づいているだろうか。
「ちょっと待ってて。あと、上の確認だけしてくるから。先、車入っとけばいい」
と、スカイラインのキーだけ渡手してくれる。そして
「これ傘」
と、驚いたことに消火器と壁の隙間から当然のように紺色のありがちな傘を出してきた。
「え!? なんでこんな所に……」
「誰かが持って帰って使いまわされた後だがな」
「傘立てに置いておいてもすぐなくなりますよね」
「あぁ。車、分かるか?」
「白のスカイラインですよね?」
「そう」
そこまで言うと、宮下は後ろを向いた。
逆に香月は前を見る。あれ、そういえば、車どこに置いてるんだろう……。
まあ、行けば分かるか。後は残っている副店長を含めて残り2台しかないはず。
受け取ったキーで勝手に乗り込みしばらく待つと、5分もしないうちに人影がドアを開ける。店舗を施錠して戻ってきた宮下は、雨の中走ってきたせいでびしょ濡れだった。
「わっ!! あっそっか、傘……」
「意外に濡れた」
「すすす、すみません!! ハンカチなら……」
「ありがたく受け取る」
慌てて取り出した皺になったハンカチが役立つ。しかし、一週間くらい前から使いまわしている物であることは黙っておこう。
「佐藤さん……大丈夫か?」
「えっ?」
宮下はハンドルに右腕を伸ばし、まっすぐ前を見る。車はゆっくり前進した。
「あれから……。さっきも固まってたように見えたから……。えっと、東京マンション、だっけ?」
「あ、はい……。佐藤さんのことは……別に……何も……」
宮下の心配が分からないではない、と思いながら続けた。
「ここは人が多いし、ほとんど会うこともないし、今日喋ったのだって、仕事以外ではほんと久しぶりでした」
「最近AVコーナーに行かせることが多かったからな」
宮下はまっすぐと前を見ている。
「でも、仕事のときは普通ですよ。……今もわりと普通だったけど……」
「そうか?」
「…………」
なぜ、宮下が佐藤のことをここまで心配するのか。
それは単なる過剰反応ではない。二年前のことは、今でもお互いリアルに思い出せるのだ。
「なんか……思い出しました。私が初めて宮下店長と話しをしたときのことを」
スカイラインの車内はエンジンの音だけが聞こえていた。東京マンションへはほんの2分ほどで着いてしまい、一瞬回想に溺れていた香月は、自ら声を出して我に返った。
「えっと……店舗視察に行った時、か」
「あのときからまだ2年くらいしか経ってないんですね……ほんと、つい昨日の……」
「あまり、深く考えるな。
言わなかったが、あれからすぐに佐藤さんは離婚したそうだ。今は一人で暮らしている」
「……」
宮下はエントランスに車を停めた。
「香月が佐藤さんのところに行くなら別だが、」
「行きません……」
あまりに理不尽な会話の流れになったため、溜め息混じりで答えた。
「そうか。……今度の人事異動で佐藤さんが役職につく可能性がある」
「……店長ですか?」
「それはない。だが、副店長の可能性はある」
「逆に私が異動になるとか……」
「ないな。誰も2人のことは気にしていない。本当に何もなかったと思っているし、離婚したなら尚のことだ」
「そうですか……」
「まあ、まだ可能性の段階だ。だが、その色は強い。やっぱり今の店の状態としては起用したいしな」
「職権乱用するような人ではないと思います」
「俺もそう思うよ」
「……そうですよね……」
「あぁ。じゃあまた、明後日」
「さすが! 私のシフト、覚えて下さってるんですね 」
「いや、明日は俺が休みだから……」
宮下は仕事の疲れからか、軽く微笑むと香月を見送った。香月は一礼したあと、自動ドアへ向かう。
その間、一度も後ろを振り返らなかったが、しばらくしてからスカイラインが立ち去ったのを、音だけで確認した。
♦
香月はあまり料理をしない。なぜなら、食べたい物が食べたい味にできないからだ。
一人暮らしする前は、自分ではそこそこできる範囲だと思っていたし、最初はやる気だったし、実際本を見て何度か作ってみた。だが、その努力と味の差が縮まらないことに気づいて、やめた。
小学校の頃、自分の継母は何故キッチンには向かわず、手伝いの女性が食事を作っていることが嫌で随分反抗した。母親というものになったのなら、母親らしくしていればいいのに。少なくとも自分の母親ではないが、弟や兄の母親ではあるのに。いつもリビングか自分の部屋で何かをしている。そういう、母親らしくないところが、とても嫌いだった。
だが、今になって料理というものは理論上、きちんとできる人がした方が良いとは思う。だが、母親は子供に料理を作るべきだとは思う。
本日休暇の香月はというと、昨日の夜中に食べたプリンのせいか、まだおなかがすいていなかったので、パジャマのままベッドに寝っ転がって昨日佐伯から入ってきたメールに返信を打ちながら、どう面白く返答しようか考えていると、別の画面が表示された。
液晶には宮下店長と出ている。時刻は10時10分。開店早々なんかあったか……。
「もしもし、お疲れ様です。香月です」
起き上がりながら声を出す。
『今あの井野様が来店してて。テレビなんだが覚えてるか?』
「はい」
伝票は仲村にきちんと身直ししてもらっている。抜かりなかったはずだ。しかも配送は今日の午後指定なのを昨日ちゃんと確認している。
『配送時間を昨日の夜に香月が電話で伝えてくれるはずだった、と言ってるんだがどうなってるんだ?』
「いえ、そのようなことは……。でも、誰が電話するか、までは言ってなかったかも……」
『まあ、そうだな。とにかく、今ものすごくお怒りでな。店まで来てる』
「えっ!? み、店に!? い、行きましょうか……?」
『いや、確認したかっただけだ。その前にどうして香月がテレビを売ったんだ? たまたまか?』
「いえ、お客様のご指名です。全く知らない人でしたが、以前私に接客されていたと言っていました。あの、行きます。今何もしてないし、私が話しておいた方がいいと思うので」
『いや、うーん……。まあ、それは確かにそうだけど……』
「10分……では無理かもしれないけど、15分で行きます。なんとか」
『了解。早めに来い』
「はい!」
電話を切って思う。しまった。朝食とっておけばよかった。
猛スピードで自室で着替えて、なんとなくヘアメイクを整えてリビングに出る。
……せっかく出てきたんだから、帰りはランチでもして帰るか……。そんなことを頭の片隅で考えながら自転車を高速でとばす。
それでも店に着いた頃には10時35分だった。とにかく、宮下の力でもう話が終わっている、と笑われることを祈る。
しかし、駐輪場から走ろうとすると携帯がまた鳴り、
『本人からお詫びを聞きたいと会議室で待ってるから急いで来い』
と催促の電話が入り、猛ダッシュで店内に入った。
会議室で待っているということは相当暴れたんだろう。
久々に息が切れるほど走る。会議室の前まで来たときには、ドアをノックすることも忘れてそのまま開けた。
「すみません、遅れました!!」 室内のどれだけの目が注目するのかと思っていたら、いたのは2人だけだった。
「井野様、すみません……。申し訳ありませんでした。私の説明が足りなかったがために、大変申し訳ありませんでした」
長机をはさみ、パイプ椅子に座っていた井野は香月が見るに、それほど怒った様子ではなかった。
普通に笑っている。丁寧に詫びたからというよりは、香月が出社してきたことが井野の中で重要だったようだ。
「あ……いや、あはは。いや、てっきり電話くれるものだと思っていたから」
「そうですよね。すみません。もう少し井野様の立場に立ってちゃんと説明するべきでした」
「いやその……僕はね、あれですから。そういう仕事ぶりも、あれですから……」
意味が分からない。し、笑うと気持ち悪い。
言葉に詰まったのを察してか、宮下が
「今回のことは……」と言いかけると、
「今は香月さんと喋ってるんだよ!」
宮下に激しく威嚇した。その二重の人格に、香月は硬直して黙った。
「あ、あの……これ、良かったら……」
えらく低姿勢で紙袋から何を出してくるのかと思ったら、驚くことに老舗和菓子屋の菓子折りだった。
「いえっ、でも……」
「いえ、僕も言い過ぎたところがあったので。あとで香月さんが食べてください」
「あ……」
宮下の顔色を伺う。彼は少し頷いて見せた。
「では、頂きます。すみません、ありがとうございます」
物は大きめだったが、もし手が触れ合ったらどうしようと、恐々手を出す。
「ここのお菓子、美味しくて有名なんですよ。知りません?」
「あ、はい……」
知っていたが、受け答えが妙になってしまう。
「有名なんですよー。すごく美味しい。店は僕の家の近くなんですけどね。あ、よかったら、午後の設置、見にきませんか? 今日は休みだから午後の予定も特にないでしょう?」
「え、あ……」
「申し訳ございませんがお客様、テレビの設置には専門の者が参りますので……」
「別に用ないよね?」
井野は宮下の話など全く聞いていないフリをしている。
「……では、設置の者と一緒に参りましょう、か?」
香月は宮下を見ながら喋ったが、彼は厳しい表情のままだった。
「いえ、お客様。香月は資格も何もありませんし、設置には……」
「僕の家を見せただろう? あそこにテレビを入れたところを是非見てほしいんだ」
彼の視界に宮下は全く入っていない。
「では、設置の者と私と香月が一緒に参ります」
宮下は、宮下を見ない井野に提案をした。
「あ、はい。あの、一緒に、ということで……」
香月も、それに従った。
井野は一瞬宮下を睨んだが、すぐに香月に視線を戻し、
「美味しいお茶でもお出ししますから……。では午後から楽しみにしてますよ」
井野はそう言うと、少し頭を下げて自分から席を立った。すさまじい精神力と動力のある男である。香月は、井野がドアノブに手をかけるやいなや、安堵の溜め息をついてしまいそうになったが、それでも宮下は客が帰る時もいつもの営業スタイルを崩さなかった。場慣れ、とはこういうことだろうか。
2人は駐車場のベンツまで送り届けると、すぐに会議を始めた。
「怖かった……」
香月は顔を顰めて話しかけたが、宮下の視線は宙を舞っている。
「了解」
トランシーバーのイヤホンから入る声を聞いていたようだ。
「井野様の配送は丸田さんが行くそうだから、俺たちも行くようになったと伝えておくよ」
今度はこちらの目を見ている。
「……はい」
「危ない男だ」
宮下の視線が菓子折りにあることに気づいて、
「捨てていいですか?」
「さすがに怪しい物は入ってないと思うが。まあ、もらったのは香月だから、好きにしなさい」
「帰って捨てよ」
「迷ったんだがな……。あそこで行かないと突っぱねて返品になるのも有りかなと思ったんだ」
「えっ!? そうなんですか!?」
「ちょっとな」
「えー。うわー、何も言うんじゃなかった……」
「お客様を大切にするということは、悪いことじゃない」
「はい……」
「えーっと、じゃあ、1時くらいに出るか……。丸田さんとは現地集合になる」
「はい。じゃあそれまでにご飯食べてきます」
「大丈夫か?」
「朝食べてなかったから、おなかすいてます」
「いや」
宮下はクスリと笑った。
「まあ、いいけど」
♦
香月はどこで食事をしてきたのか、1時前には俺を見つけて、社用の軽の助手席に乗り込んでいた。
「写真を見せられたんですよ、テレビを買いに来たとき。自室の写真だって言ってたんですけど、それがホテルみたいな豪華な部屋で……」
「雑誌をそのまま撮ったかのような?」
宮下はそのままギアをドライブに入れて走り出す。
「かのような。でもさっきのお菓子が風月堂のだったから本当にそうなのかなぁ……」
「丸田さんが言うには、この辺では有名な地主らしい。立派な屋敷だそうだ」
「じゃあ本当にそうなんだ! うわー、最初会ったときは全然そんな感じしなかったのになぁ」
「今日会ったが、確かにそんな感じはしない」
「なんか普通じゃないですよね……」
「ちょっとどころか」
「うーん。なんか、もう怖いですよ。私、今考えてもよくテレビ売ったなあと思います。頑張った! って感じ」
「そうだな。それはよくやった」
「もうどんなに大変だったか……契約コーナーで契約しますって言ったら一瞬怖い顔になって」
「何で?」
「分からないけど。でも、私が契約しますって言って一緒に歩いたら普通でしたけど」
「とんだファンだな」
「もう……。次からは絶対大物の接客はしません」
言われなくても、宮下もそのつもりだった。
間違いなくこの美貌が、尋常ではないファンを引き寄せてしまったのに違いない。本人は気づいていないだろうが、また、そういう抜けた要素も魅力の1つだと言える。普段はにこにこ、大事なときには真剣になって、不安なときには心配する。そういう普通の表情が、このバランスのとれた大きな瞳と小さな唇が乗る白い肌の上で絶妙に表現されるのである。
そんなおかしな客でなくても、普通の人間でも、ふっと近づいてみたくなることは容易にあるはずだ。
「……もしかして、あそこ!?」
「そうだな。丸田さんの車が止まっている」
「本当に……お屋敷……」
家の周りは2メートル以上ある塀でぐるりと囲まれている。しかし、それが閉鎖的であるかといえばそうではない。まるでヨーロッパにスリップしたかのような、レンガ調で高級感があった。また、幅が広く背の高い門扉が明るい白で演出されているため、ここから抜けて入ってみたいと思わせる。
しかし、入ってしまったら最後、二度と戻れはしない……のはおとぎ話の読みすぎか。
軽トラックが止まっている来客用駐車場に駐車するなり、丸田が伝票を持って現れた。
「どんなクレーム?」
既に定年近い白髪混じりのベテラン丸田は、助手に準備をさせながら聞いてくる。
「いや、もう処理は終わったんですけどね。まあ、見に来いというので……」
「ふーん。ちょっと変わってんのかもなあ。そんな話は聞いたことある。あの、若い方だろ?」
「ええ、30半ばくらいの」
「オヤジさんは銀行のえらいさんだったけどね……。息子はどうしたことか……」
そこまで言うと、後ろを向いて、ようやく仕事に入った。
「さて。行くか」
4人は宮下を先頭に外のインターフォンを押してしばらく待つ。と、ビックリするくらいクラシカルな、お手伝い、ではなく、メイドと呼ぶに相応しい女性が出てきた。
驚きすぎた香月が白と黒で整ったメイドの全身を嘗め回すようにジロジロと見ている。後でちゃんと注意しておこう。
案内されて、堂々と開かれた門扉の間から構内に入る。中は、たくさんの木が植えられており青々と茂っているが、地面には葉一枚落ちておらず、完璧な手入れが行き届いているようだった。花壇に植えられている花も名は分からないが、全て咲き誇っている。きっと庭番がいるのだろう。
家自体は時々テレビで見る大豪邸、といった特に変わりない風景であった。白い壁に大きな窓が空いていたり、デザイン性中心の豪勢な建物である。どちらかといわずとも、家よりメイドの方が驚いた。蒸し暑い日にも関わらず黒い長そでのシスターのような衣装。今時こんな恰好の人物がいるのか……。
「いやあ、お恥ずかしい」
井野の苦笑いに、自ら誘っておいてそれはないだろうと、つい突っ込んでしまう。
しかし、確かに井野は恥ずかしいくらい、建物に全く似合わない風貌だった。つまり、先ほどと同じただのティシャツにジーンズ地上下の自称フリーカメラマンの格好である。そこで久しぶりにフリーカメラマンであることを思い出して、応接室のソファに案内されたあと、しばらく部屋中を見渡したが、それらしい証拠は一つも見当たらなかった。
香月はというと、多分そんなことは忘れているのだろう。井野の話にできるだけ合わせて頷いたり、笑ったりしている。
「まあ、お茶でも召し上がってください。こちらは中国の品でね。匂いが甘くて飲み易いんですよ」
「では……」
香月がこちらを見たので、少し頷く。
「頂きます」
「どうぞどうぞ、召し上がってください」
井野は珍しくこちらを向いて笑う。少し気味が悪いなと思ったが、「すみません、頂きます」と丁寧に断って、カップに口付けることにした。
「宮下さん!」
突然背後から丸田に呼ばれ、飲む前にカップを一旦ソーサーに戻す。
「すみません、ちょっと」
井野に断ったが、彼はこちらを見てはいない。
「どうしました?」
言いながら、廊下を挟んですぐ隣の設置室まで行く。一人残してきた香月が心配なのですぐに帰ろう。
「ここ、アンテナ線がないけどこのコーナーに設置希望って伝票に書いてあるんだけど」
「え!? そこからですか!?」
香月が打った伝票を誰か確認しなかったのかと、怒りがそこに向かう。
「ちょっと話してみます」
「次予定が詰まってるからアンテナ工事は今日できないよ」
「そうですよね」
苦い怒りを噛みしめながら、すぐに元の応接室へ戻る。
「え……」
さすがに驚いた。
「ちっ……」
「相当疲れていたんでしょう……」
一つしか原因が思い浮かばなかったため、すぐに退散することを決意する。
香月は青ざめた顔をして崩れるように、井野の手によって抱きかかえられているところであった。
「中国の物がもしかしたら体質に合わなかったのかもしれません。けど、心配しなくても、1、2時間寝室で寝かせておけば……」
「いえ、帰ります」
「ここに寝かせておけばいい!」
井野は激しく睨んで、香月の柔らかそうな身体に手が食い込むほどに握り締めながら口調を荒げたが、まさかお茶を飲んで倒れた従業員を見捨てて帰るわけにはいかない。
「そういうわけにはいきません! お客様のご自宅で眠るなど! 」
こちらも負けじと大声を出して、その身体に手を伸ばした。声に怯んだのか、井野は簡単に力を緩める。
「ただ横になるだけじゃないですか……」
名残惜しそうに香月を見つめながらも、ようやく井野は彼女を手から離した。
「突然気分が悪くなるなんて、どう考えてもおかしいでしょ。お茶の中に何か薬でも入ってたんじゃないんですか?」
井野がどんな態度に出るのか分からなかったので少し勇気がいったが、低い声で指摘した。
相手の顔は、見事に大きく歪む。
その隙に香月の体を抱きかかえ、奴から少し離れた。
「……確かに、少し疲れているのかもしれませんので、今日はこれで失礼します」
「……」
井野はものすごい剣幕で睨んでいるが、もうここは危ない。
宮下はそのまま、くるりと向き直り、香月を抱きかかえたまま元来た玄関へ戻り靴を履いた。忘れずに彼女の靴を彼女の腹に乗せ、そのまま出る。
後ろも振り返らなかった。
「香月、香月!」
車へ戻るまで、少し揺さぶりながら何度か呼びかけてみるが、彼女は眉間に皺を寄せたまま、辛そうな表情で口元を押さえている。一体何を飲まされたのか、やはり薬でも混入していたのではないか!?
車内の助手席シートを倒し、そこに寝かせるとすぐに携帯を手にとった。番号を押しながら、車を発進させる。
もし、奴が仕事中だったら出ない。当分折り返しもできないだろう。
だが、幸運なことに、奴はすぐに出た。
「もしもし! 今どこ!?」
『会議室だよ。今から部屋に戻るとこ。何? 腹でも刺されたか。昔の女に』
坂野咲はクククと笑う。
「あと15分くらいで着く。すぐに診てほしい」
『ホントに刺されたか?』
奴の口調はすぐに変わった。
「さっき客の家に行った女の子が突然気分が悪くなった。薬かもしれん」
『薬?』
「中国のお茶と言って出されたが、飲んだら突然倒れて……」
『意識はあるか?』
「一応あると思う」
『痙攣は?』
「してない。けど息苦しそうだ」
『分かった。準備しておく。受付にも通しておくから、着いたら緊急搬入口の方から入ってこい。表玄関のすぐ隣だ』
「あぁ、分かる。頼む」
坂野咲が普段とは違う口調になったせいで、ついアクセルに力をこめてしまう。
大丈夫。ただ、即効性の……眠り薬をお茶に混ぜて飲んでしまっただけだ……。
まさか、信じたくもないことだが、だがしかし……。お茶を飲んだだけでこんなことになるなんて、薬物を使用しない限り有り得ない。
とにかく、丸田には「出されたお茶を飲んだら香月が突然気分を悪くした」と有りのままの警告をした。まあ、年老いた丸田と助手を眠らせても意味がないと思うので、その注意は特に必要がなかったかもしれないが……。
病院に到着すると、坂野咲医師は救急玄関の前まで出てきてくれていた。おかげで助かる。
奴はすぐに、看護師が持ってきた担架に香月を乗せると中に入った。
これで、一安心。
車を駐車してから建物の中に入る。たまたま通りかかった看護師がすぐに坂野咲の居場所を教えてくれた。
なんだ、ただの処置室である。
「うとうとしてるけど意識はあった。今、血液検査しているけど多分アルコールだよ」
ベッドの上で目を閉じて横になっている香月の顔をじろじろ確認していた坂野咲は、それはそれは偉そうに、白衣を翻して大袈裟に椅子に腰かけ、患者の付き添いに、あえて小声で説明を始めた。
「酒? お茶じゃないのか?」
「バカめ……。匂いで分かる」
「……そうだったのか……」
「しばらく横になっていれば大丈夫だろう」
宮下が椅子に座るのと同時に、若い看護師が奥から一枚の紙きれを持って来た。坂野咲は一秒見た後、
「ちょっときつめの酒だよ」
「なんて奴だ……」
「客の家でだって?」
「あぁ……あ、一応診断書書いておいてくれ」
「えー、面倒臭ぇなあ……」
言いながらも、もちろん奴はすぐにデスクトップのファイルを開き始めている。
天邪鬼なのは昔からだ。
「で、茶だと思ってたって?」
「あぁ……。変な客がいてな。そこにテレビをつけている間にお茶を出されたんだ。香月だけそれを飲んだ」
「自分だけ助かろうって魂胆か……」
宮下はそれには応えず、
「にしても、酒……だったのか。コップにお茶と言って出すから、てっきりお茶だと……まあ、俺だけでも助かってよかった。2人とも気分悪くなってたらと思うとゾッとするよ」
「なかなかの美人だからな。いや、起きてみんとよくは分からんが」
「……」
坂野咲に評価されたことを当然だと思いながら、宮下は香月の寝顔を見て、心底安心した。本当にただただ眠っているだけで……。
「まんざらでもなさそうだな」
こらちを見ずに、坂野咲はぼそっと呟く。
「何が?」
「……」
奴は診断書に忙しいふりをして、それには答えない。
しばらく黙った後、
「よし……できた」
印刷した物を丁寧に折りたたんで、封筒に入れるとデスクの隅にポイと投げる。
「もってけ泥棒」
「このまま帰るのか?」
「さすがにそういうわけにはいかんだろう。今ならベッドが空いている。ちゃんと確保してるよ。そのくらい」
「じゃあ、起きるまで寝かしておくか……」
「誰か家族呼んだ方がいいな。お前も仕事の途中でそれに抜けて、でまたここへ抜けてきたんだろう?」
「あぁ。電話しないとな……」
「吉野君!」
坂野咲はカーテンの向こうで大声を出すと、助手を呼んだ。
「酒飲んで眠ってるだけだから、3階の205空けてあるから運んで」
「よろしくお願いします」
宮下はまだ若い看護師に、丁寧に頭を下げた。
「はい」
若い看護師はてきぱきと用意をし、すぐに彼女をキャスター付きのベッドに乗せると、
「じゃあな。俺は少し仮眠をとるから。彼女が起きたら呼んでくれ」
「悪いな」
「仕事だ」
奴はニヤっと笑う。多分、香月が起きたときの顔が見たいだけだ。
「ありがとう」
まあ、しかし、今週末の酒代程度で安心な処置をしてもらえたのだから、文句もない。
その後、香月が大部屋のベッドに移されたのを確認してから、一度廊下に出ると携帯を見た。意外なことに着信はない。そうか、まだそれほど時間が経ってないのか。今店に残っている副店長は仲村と矢伊豆で、今日は平日だし大丈夫だろうが連絡だけは入れておく。
宮下はその後室内に入り、香月までゆっくり歩み寄った。
大部屋といっても今は女性2人しか入っていない静かなものだ。
当の香月は白い顔をして目を閉じている。いつも赤い唇も今は薄い。いつだったか、他の女子従業員と香月がカウンターで無駄話をしていた。口紅のメーカーとかそんな話だったんだと思う。
それまで、何の疑いもなく、ただ玉越や佐伯らと同じように、当然のごとく香月も口紅をしているんだと思っていた。
「えー!? 香月さん口紅してないんですか? リップだけって意味?」
「ううん、リップもしない。なんかベタベタするのが嫌いで」
「ほんとに? ……うわーほんとだ。安上がりですね」
「なんかそれ、私が安い女みたいじゃない」
「少なくとも私よりは(笑)」
「ひどーい(笑)」
それからしばらく、本当に口紅をしていないのか、観察していた。しかし、そう言われて見ていても、それが本当にそうなのかはっきりしなかった。
だが、ある日たまたま玉越がいつもと違う派手な口紅をしてきたとき、あぁ、口紅ってこういうものなのか、と改めて気づき、香月と比べると、それはやはりただの素肌であった。
感心して、つい
「香月は唇が赤いな」。
今考えても失言だ。
だが、彼女は慣れたように
「唇が赤いって健康な証拠なんですよ」
と、簡単に流した。
その唇が今は薄いピンクだ。
自分がついていながら、と一通り反省する。だが、あの状況で防ぐことは到底不可能だった。むしろ、あの客を遠ざけるためのよいきっかけになったと考える方がいい。
ベッドの隣のパイプ椅子に腰掛ける。ちょうど彼女が顔を少しこちらに向けていたので、この位置からでもよく顔が見えた。
少し眠ろう。パソコンがないので仕事もできないし。丁度、昨日は寝不足だ。
首を捻りながら、斜めに体勢を整える。
だがしかし、眠くなるまで、その美しい寝顔を見ていようか……。
♦
体勢を支えていた頭が少しズレたせいで目が覚めた。腕時計が既に午後三時半だった。30分近くも眠っていた自分に驚きながらすぐにスマホを確認したが、誰からの着信もない。 だがそれが、頭を回転させずに、続けて彼女の顔を見つめるのに好都合だった。
いや、そんなことをしている場合ではない。
とりあえず仲村にももう一度電話して、帰りがまだ遅れることを伝え、缶コーヒーを買って室内に戻る。
そっと、その白い顔を覗き込むと、驚いたことに目が開いていた。
「起きたのか?」
「……」
彼女はこちらを見たが難しい顔をしている。
「全然覚えてないのか?」
「……宮下……店長?」
「あぁ、そうだ……そうだよ! 分かるか!?」
まさか記憶喪失では!? と、焦り、コーヒーをベッドに滑らせ、もう一度顔をよく見せた。
「……」
目が虚ろで、まだ眠りから完全に目が覚めていないようだ。
「ち……、ち、ちょっと待て。先生、呼んでくるから」
慌てて詰め所に、彼女が起きたことを伝える。
だが、もう一度部屋に戻るとまた目を閉じていた。
「……こ」
起こそうかどうか迷う。
しばらくそのままにしていたら、小さな寝息が聞こえてきた。まだ眠いのか。
「起きた?」
ナースが来るのかと思いきや、すぐに坂野咲医師は白衣を着てこれまた堂々と現れてくれる。
「いや、また寝た」
そう言っているのに、奴は躊躇いもせず彼女のベッドに腰掛けた。
「えっと、名前なんだっけ?」
「香月」
と言っているにも関わらず、奴はベッドの名札を確認してから呼んだ。
「愛さーん」
医師の呼びかけに、彼女は簡単に目を開いた。
「分かりますか?」
奴は言いながら、彼女の額に手を当てる。
「……」
彼女の視線は宙を舞っていた。
「ここは病院です。分かりますか?」
更に、布団の中から右手首を出し、脈を測る。
「……病院」
「覚えていますか?」
「え……」
彼女は視線を逸らして考え始めた。
「全然覚えてない?」
「宮下店長……」
こちらを確認する彼女に、とりあえず笑顔を見せる。
「今までは普通に寝てただけだからね。体は大丈夫だよ。うん、ちょっと布団はぐるね」
言いながら既にはぐっている。
というか、この状況で白衣を着ている奴に、かなりの違和感を感じた。職権乱用という言葉がとてもよく似合う。
「痛いところはないですか?」
「はい……」
「胸焼けとかもない?」
「……うーん、はい」
「大丈夫そうだね」
その言葉に安心した。
「……私。あの、お客さんの家にテレビを……」
「そう、そう!」
「宮下店長と2人で……」
「そうだよ。そこで、お茶飲んだの覚えてるか?」
「はい」
「あれはお茶じゃなくて酒だったらしい」
「少しきつい酒だけど、異常はないよ」
坂野咲医師は、実に医師らしく優しげに、診察を続けた。
「え……え……」
「多分、あの井野さんに盛られたんだ」
「……どうして?」
「それは、本人に聞いてみないと分からないけど」
「どうして私が……え、宮下店長もですか?」
「もしかしたら俺のカップにも入っていたかもしれないけど、たまたま飲まなかったから」
「……なんか、すごくまずかった気がする。もしかして、飲みすぎたら死んでいましたか?」
香月は坂野咲に質問をした。
「いや、それはない」
「俺が飲んでいなくて良かったよ、本当に……」
「そうだな」
坂野咲は珍しく素直に同意した。
香月は自分でゆっくりと起き上がる。
「あの、……今、何時ですか?」
「今は、3時半。誰か家族に迎えに来てもらった方がいい」
という宮下をそのままに、
「そうしないと帰れないんですか?」
と坂野咲に問うた。
「いや、体調いいなら別に構わないけど。危ないから、ちゃんと宮下店長に送ってもらってね」
「じゃあ、もう帰ります。その前にトイレに行ってもいいですか? 喉も渇いた……」
「トイレは詰め所の隣。そこの廊下出ればすぐに分かるよ。歩ける? 宮下、ポカリ買ってきて」
「あぁ」
香月がゆっくりベッドから降りようとすると、坂野咲は当然のように部屋の隅から車椅子を持ってきた。
「座れる?」
「え、歩けると思いますけど……」
「一応ね。ふらつくと危ないから」
香月は素直に従い、恐る恐る腰掛けていく。
奴はそのまま押して行った。こうやって見るとちゃんとした医者だ。いや、こんな大病院で担当を持っているのだから、そもそもちゃんとした医者ではあるのだが。プライベートを知っているのでついつい自分好みの患者を口説いたりしないのかと心配なのである。
5分ほどしてすぐに笑い声とともに2人は戻ってくる。
「……だよ。今度宮下店長に連れて行ってもらえばいいよ」
香月は意味ありげにこちらを見てから、「はい」と笑った。
「どこへ?」
「駅前の串屋」
「あぁ。元気になったらな……。はい、ポカリ」
「あ、ありがとうございます」
奴は彼女を慣れた手つきでベッドへ移した。
そしてしゃがんで、ベッドの脇に腰掛けた彼女の視線まで下がり、
「……」
無言で、少し顔にかかっている髪の毛を耳にかけてやっているのを見て、
「……先生、それは治療の一環ですか?」。
「ええ、そうです」
お医者様は、付き添いの苦言を物ともせずに偉そうに立ち上がった。
「香月さん、綺麗な髪の毛ですね」
なぜか香月も赤面しているし。
「……なんだ? 宮下店長」
坂野咲のにやにやした顔がこちらを向いているが、無視無視。
「じゃぁ、俺は、そろそろ下りないと」
腕時計を確認している姿が、白衣と実にマッチしている。
「あれ、時計変えた?」
「あぁ、自分へのご褒美にね」
嘘つけ……どうせまた彼女かなんかからもらったプレゼントだろ……。
「ナースに言っておくから」
「分かった。ありがとうな」
「香月さん、もう大丈夫ですよ」
坂野咲はくるりと向き直ると、また医者に戻る。
「先生、ありがとうございました」
「うん、お大事に」
奴は優しい顔をして、また無意味に髪を撫でたが。香月は満足そうだ。
「……宮下店長のお知り合いですか?」
坂野咲がいなくなってから、彼女は喋りだす。
「あぁ。高校のときの同級生だ。大学が同じでね、職場が近いから、未だにつるんでるよ」
こちらもようやく落ち着いて、椅子に座ることができる。
「すみません、ポカリ頂きます」
「うん、開けるよ」
そのか細い指では固いキャップがあきづらいだろうと、捻ってやる。彼女はそのままごくんと一口飲んだ。
「それにしても、ああやってお茶と偽って酒を出すなんて、普通では考えられない」
「……そうですね……」
彼女は長い睫を伏せ、視線を逸らして考え始めた。
「だけどいい経験になったと思います。店長の判断を聞いてから、お客様と約束する」
「まあ、そうだが。……やっぱり、立ち位置はフリーから外そうと思ってな。どうだ? 今はそこまで考えられないか?」
いつでも目を合わせられるように、その、澄んだ瞳を覗き込む。
「いえ、そんなことはないです。けど……。私は今のままがいいかな……。私は今の仕事が好きですし」
「そうか……。それならまあ、それでもいいが……。とりあえず今回のことは本社に連絡する。本社の対応というのもあるから……」
「私は今のままがいいです」
そんなにこの仕事を好いていると正直思っていなかったので、多少意外だった。
「みんな、優しいし。面白いし……」
「そう。なら、仕方ないか」
「はい」
彼女は笑った。つられて、自分も笑ってしまう。
特等席だと思いながら、香月の表情をずっと見ていた。バックが真っ白なのでその顔立ちがよく映える。まだ顔色は青白いが、序所に頬に赤みがさし、長い睫は忙しく揺れる。だが、決してその誘いには乗ってはいけない。
「そろそろ下りるか」
宮下は、自らを戒めるように、病室の外を見つめて立ち上がった。
ふと視線を上げて、重要書類を熟読しようとしているのにも関わらず、全く違うことを考えている自分に気付いて溜息を吐く。
ここは、家電専門店。株式会社エレクトの東都シティ本店。会社の存在価値として都心に建てられた随一の巨大店舗に、香月は配属されていた。
まるでホテルのロビーような内装で、ピシッとキメ揃った黒の制服で従業員が接客を行う高級感を売りにしている当社は、上質なサービスとメーカーとコラボしたグレードの高い商品を武器とし、他店の値段には合わせず、独自の路線で子会社、店舗数を増やしている家電を重点的に置く専門店だ。
エレクトの常連客になるのが裕福層のステータスというのが主な狙いで、ここで買ってこその満足感というのを常に追い続けている。
商談カウンターに座るだけでオレンジジュース、契約コーナーでは高級チョコレートが当然のように出て来る。そこまでして、価格を気にせず、気持ちよく買い物がしたいという客は、予想を遥かに上回る数で実は存在しているのである。
そこで香月がどんな仕事をしているかというと、大半雑用だ。担当は特にない。日別シフトにも、フリーと記載されていることがほとんど。全ての作業の雑用ともいえる微調整をチョコチョコやっている。
今はそろそろ定期監査の前に書類チェックをしておかないと、と、2階にある重要書類閲覧室と隣接している店長室の窓から、吹き抜けになっている売り場フロアを見ていた。
香月 愛(こうづき あい)、24才独身、入社して2年目。
父は地元総合病院の院長、母は父より10も若い継母だ。
実母は香月が生まれてすぐに病気で亡くなり、手伝いの乳母に育てられた。父が再婚したのは8歳の時。継母は、18歳と4歳の連れ子と共に、香月家に入り込んで来たのであった。
黒髪が長い、色白のくねくねした継母をどうも好きにはなれなかったが、幸いにも兄弟の仲はうまくいった。
兄は結局、香月家では住まずに大学の近くで一人暮らしを始め、今考えるとそれが3人の仲を円滑にしたのかもしれなかった。
まあ、なに不自由ないといえばない。実母はいないが、そんなことに感傷的になることもなかったし、今はアパートだが一人暮らしは出来ているし、仕事は楽しいし、それなりに友達もいるし。
特に、今の香月の中で大半を占めているのが、仕事であった。職場は同じ年頃の人が多く、頼れる上司、頼れる後輩、頼れる客によって、今日も笑顔で「いらっしゃいませ」を言える。
「疲れたか?」
背後から音もなく声がして振り返ると、巨大店舗をその手で操る店長、宮下 昇がファイル片手に店長室に入ってきていた。清潔感にあふれたその様は、従業員のお手本そのものである。
「いえ、うーん……はい」
「休憩取れよ」
一度腕時計を見て時間を確認。まだ午後5時。閉店の22時まではまだまだ時間がある。
「早めに取ろうかな」
「うん」
一応店長確認してから、全員が装着しているトランシーバーのマイクのスイッチを入れると「香月休憩入りまーす」と断る。
なんとなく、宮下を上目遣いで見た。
「今日はちょっと忙しいですね」
言いながら、部屋の真ん中にある長方形の机に沿った4脚のパイプ椅子の一つに香月は腰掛けた。
「うーん、まあまあかな。それより今日は荷物が多いからな。それが晩までにはけないかもしれない」
「私、後から行きましょうか?」
「いや、いい。それより、カウンター周辺で伝票チェックしておいて」
「はい」
ここに配属される前、入社したての頃から小さな店で伝票処理や小物販売、メール処理、倉庫整理など全てこなしてきた。それを知っている宮下はこちらを自由に使うが、まあ自分の立場はわきまえておきたいと思う今日この頃だ。ついつい、役職陣に近づきすぎてしまうと、お局様達から妬まれかねない。
「それと、リサイクル券の入力……」
「それ、午前中にやりました」
「そうか」
「昨日溜まってるって言ってましたから」
「いや、言ったけど、朝はわりと忙しかったから」
「ちょっと時間ができたんです」
「そうか……あれだな。ここもできた頃、よくローラースケートがほしいって皆言ってたな。昨日第2倉庫まで2回往復して思い出したよ」
宮下は、長机に書類を置くと、そのまま出ようとする。香月はそれに合わせるように、足を動かした。
「ローラースケートじゃなくて、ブレートですよね?」
「え? ブレート?」
「知りません?」
「……まあ、年が1回りも離れてたら仕方ない」
今日の宮下はそこそこ機嫌が良さそうだと判断した香月は、
「じゃあスケートとブレートの違いは帰って奥様にでも聞いてみてください」
笑いながら切り返した。
「それ嫌味?」
「え?」
妙に顔を顰められたので、香月は一瞬止まった。
「俺は独身だよ」
「えーーーーーー!!」
「びっくりしすぎ」
「そうなんですかぁ! えー、でも、えー……確か西野さんが、年下の若い奥様がいるとかなんとか」
「でたらめだよ、あいつのことだから」
「まあ……そう言われてみればそうだけど」
「ただ今恋人募集中」
「なんか冗談に聞こえませんね」
「……早く休憩行け」
「はい」
元気よく店長室を抜け、スタッフルームの扉を開ける。その30畳ほどの広いスペースには白い長机が並び、午後5時を過ぎたというのに、十数人がまだ昼食をとっていた。その一角を目指して香月は、当然のように腰掛ける。
「ほんと、本社の真藤さんってめっちゃかっこいいですよねー、ね、香月先輩」
まだ20歳になって間もない佐伯 春奈は、大きな瞳をくりくりさせ、更に大きな口を伸び伸び開いて、胸をときめかせようとしていた。
「……どうですか、永作さん?」
特に、佐伯に賛同する気もなかった香月はスル―し、隣で綺麗なランチョンマットに家政婦特製の自家製の幕の内弁当を広げる永作 知美に意見を求めた。
「悪くはないと思います」
こちらも特に興味がないようだ。
佐伯は更に目を大きくさせて、
「私が知り合った中で、会社の中で一番だと思います!」
「……うーん」
香月はフル回転させながら過去を検索するが、永作はそれを待たずに
「一番格好良い人は他にいると思います」
「えー!?」
2人は周囲も構わず声を上げた。
「どっ、どっ、ど、」
香月は、いつも自分の世界の中でしか息をしていない高価な日本人形のような永作の、衝撃的なセリフに言葉をかんでしまう。
「香月先輩落ち着いて!」
「どっどっ、どこに!?」
「落ち着いて、落ち着いて」
笑い声と一緒に、香月を制しようとする佐伯の腕が伸びて来る。
「だって、どこに他に格好いい人がいるの!?」
「そんな私に怒られても……」
「どんな人!?」
香月は身を乗り出して、陶器のような上品な永作の顔に近づいた。
「どんな人と言われても……」
いつもは無表情の永作が、珍しく少し照れながらも答えようとしてくれるが、香月の興奮は冷めやらず、永作の返事を聞く前にフライングしてしまう。
「まっ、まさか、依田さん、とか言うんじゃない!?」
「んなことあるわけないじゃないですかー!」
今度は佐伯が笑いを通り越して怒りをぶちまけた。依田は倉庫担当の正社員だが、まだ入社したてで若く、かろうじて髪の毛が深い茶色ということでなんとなくオシャレしたようには見えるが、それも、何かをカバーできているのかというと微妙なラインだ。
仕事はそこそこできてはいるようだが一言でいえば、永作お嬢様が相手にするような身分の男ではない。
「いや(笑)、だってさあ。なんとなく、一番確率低いところから攻めようと思って……」
香月は苦笑いする。
「高いところからにしてください!」
「じゃあ高いってどこ?」
「うーん、一般的にぃ……」
「この店舗の中だと、多分一番人気あるのは西野さんだよね?」
香月は、2人に確認した。西野 誠二とは、香月、佐伯と3人でつるむことも多い、気の知れた仲間だ。年も若く20代半ばの、利発的で常に店内売上ベスト3に入っている店長からの信頼も厚い、会社にとっても貴重な存在の人物である。
「え、そんな話聞いたことないですよ?」
佐伯はすぐに否定する。
「そう? 何回か聞いたことあるからてっきりそうなのかと」
「それだったら、数の多さだったら。普通に格好いいとかいい感じっていうのだったら、圧倒的に矢伊豆副店長じゃないですか?」
矢伊豆と香月はあまり関わることがない。ほぼ近くを歩いているのを見たことがあるくらいだし、そういえば下の名前も知らない。しかし、彼が年のわりに格好いいと若者の間でもてはやされているのは十分承知していて、主婦層の間でも抱かれたい店員ナンバーワンであることは有名だ。
少し長めの前髪が上手に後ろに流され、切れ長の目、暑い日でも徹底した長袖のワイシャツ、帰りの時間帯に見える外された第二ボタンから覗く厚そうな胸板。
男を評価することを生きがいに感じている文句の多い玉越 よしえ29歳が、「まあ、いい方」と珍しく納得した男でもある。
一言でいえば、セクシーなオヤジ。確か年は40を過ぎていたと思うが……。
「うーん、あれはなんか数には数えないような……」
香月は宙を見ながら呟いた。
「ひどい」
佐伯もそう言ってはいるがしっかり笑っている。
「いやなんか、どう言えばいいのかな……。え、まさか、矢伊豆副店長?」
香月は久しぶりに永作に話を振った。
「何ですか?」
綺麗に揃ったさらりと長い黒髪を揺らして小首を傾げる姿は、奥ゆかしい日本人そのものだ。
「矢伊豆副店長、格好いいと思う?」
「悪くはないと思います」
「うーん、まあねぇ。悪くはないか」
「悪くはないですよね、確かに」
佐伯も納得する。
「けど、依田さんも結構いいと思います」
永作お嬢様の小さな口から出た、にわかに信じ難い言葉に一同唖然とした。
「……、ほんとに?」
香月は目をまん丸にして、永作を見つめた。
「……」
永作は、少しの白ご飯を上品に箸で口にしただけで何も言わなかったが、その表情がいつもとは全く異なっていた。
「依田さんだったらイケますよ!」
佐伯は簡単に、しかも大声で確信する。
「うんまあ、軽く落ちるタイプではあるかな」
香月も勝手知ったる我が男のように、評価する。
「いつも面白くて、明るいですよね」
弁当を見つめながら顔を赤らめる永作が、あの依田のことをそんな風に思っていたのだと知ってしまったことに、2人は心底驚いて、しばし言葉を失った。
「そう……優しいよね。ジュース買ってくれたりするし……」
依田に何かいい所があったのだろうかと、香月は思い出すことに専念する。
「えっ?」
ビックリするほど素早く、永作はこちらを向いた。
「え? あ、いや……倉庫で、喉が乾いたなぁとか思ってると、皆に買ったりするよ?」
永作に刺激を与えないよう、精一杯誤魔化す。
「あ、私も買ってもらったこと……あったような気がする……。けどあれは依田さんじゃなかったかな……」
佐伯も言いかけて止まらなかったのだろう。なんとか濁している。
「私も、倉庫行きたいな……」
まさかこんなに綺麗なお嬢様があの汚い倉庫に行くだなんて、いや、単純に、販売できる社員をどうでもいい倉庫に配属させることなんかできないと思うのだが。
「いやあのその、いや、あのー、まあ……、そうだね。あ、そっか……」
「香月先輩、動揺しすぎ」
佐伯は笑って突っ込んだが、
「いやいや、違うの。フリーの私と交代なんかしたら倉庫いけなくもないかなぁって瞬時に考えてたところなのよ!」
現在フリーの香月は、雑務中心なので店内はもちろん、倉庫や駐車場も自由に行き来することができる。パソコン周辺でしか販売できない範囲の決められた担当者の永作と交代しようと考えたのだが、自分がパソコンを担当できないのでその交代案は絶対に無理なのだった。
だが、フリーであれば倉庫も自由に行けるので、基本的に倉庫に配属されることがない女子が依田と会うには一番現実的な位置だ。
「え、本当に倉庫がいいんですか?」
倉庫でどのような業務をしているのか自体を知らない携帯電話販売担当の佐伯は想像をしながら、永作に聞いた。
「倉庫がどんなところか分からないけど、行ってみたいかな……」
「香月先輩、うまく替われないんですか?」
佐伯は肘をつつきながらニヤニヤこちらを見てくるが、
「えー、宮下店長にどう言おうかなぁ。私がパソコン売れないからな……」
「素直に、倉庫行きたいですって言ったら、いいんじゃないですか? 休みの日とか?」
佐伯も疑問に思いながら喋っているだけあって、全く考えていないようだが、
「それいいかも」
永作は素直に目を時めかせた。
「えー!? ままま、待って待って! そんな、それだったらいっそのことデート誘おうよ!」
「うんうん、皆でカラオケとか行く時に誘いましょうよ!」
2人はようやく一番良い方法を思いついたが、
「うーん……それはまだ早いかな」
永作がたじろぐので、
「早いの意味が分かりませんよ」
佐伯は眉をしかめて突っ込む。
「もっと、お店で、倉庫でどんなことをしているのか、どんな風なのか知りたいかな」
「あぁ、そっか、確かにねぇ……」
「じゃあとりあえず、次の休みの日は倉庫、と……」
佐伯はさっそく段取りを立て始める。継いで香月は、
「どうする、本当に倉庫行く?」
永作は考えてから、
「私が休みの日に、お店に仕事をしに来たフリをして倉庫に行っても不自然じゃないでしょうか?」
「まあ、不自然じゃないことはないけど……あ、お菓子持ってきました作戦にする? 私が宣伝しておくからさ、今日永作さんが美味しいお菓子を持ってきてくれる約束になってるんですよーって。そしたら飛びつくよ」
「手づくりがいいんじゃないですか?」
佐伯の表情は真剣だ。
「手づくりならアップルパイでもいいですか?」
永作は控えめに強調する。
「全然オッケイ!」
佐伯は親指を立てて、無駄にウィンクもしてみせる。
「……」
永作は真剣な表情をして少し視線をずらした。アップルパイを作る算段をしているのだろうか。
「あ、そろそろ時間……」
香月はお気に入りの腕時計を見ながら立ち上がるが、永作はこちらを見ようともせず、
「佐伯さん、アップルパイとチーズパイって一般的にどっちが好まれると思います?」
変わらず真剣な眼差しを続けた。
人はよく、自分にないものを他人に求めることがある。
それがよく表された例ではないかと思った。
それに、依田なら彼女もいなさそうだし大丈夫だろう。まず下調べをしておいた方がいいか……。
いや、もし永作以外の人が好きだとか、彼女がいることが分かったら、それを永作に伝えることができるだろうか?
それができないのなら、下調べもいらない。
突如襲い掛かる独り者の寂しさから逃れようと、淡々とフロアまでの廊下を歩いていると、トランシーバーのイヤホンから声が聞こえてきた。
『香月さん、現在地は? 一眼コーナーで男性のお客様がお待ちです』
イヤホンの声が途切れるなり、マイクのスイッチを押して一秒経過してから、
「了解、今階段です。すぐに行きます」。
息を吐いて、足を速める。
毎日、客が求める家電の商品説明を丁寧にし、相手が納得いくように上品に販売をする。それがエレクトの売り場に勤める者の主な仕事内容だが、香月がしていることは実際は、売り場で型遅れ商品を集めているところへ、悩んで話しかけて来た客ににっこり笑顔で返して一緒にどの商品にするか悩む、という手法にすぎなかった。要は、知識不足を持ち前の明るさとその美貌でカバーしているだけである。
真っ白い、一つのくすみのないその肌はとてもキメが細かく、その上に乗った両の瞳は大きいアーモンド形で、それを覆う睫毛は、誘うように揺れ、また、その瞳に吸い寄せられた者を軽蔑するようにも、見える。鼻は真っ直ぐ筋が通っており、その下にある唇は薄く、赤い。
その美貌を香月は、営業でこの上なく発揮していたが、本人はそんなこと全く気にはしていなかった。
朝顔を洗って、エチケットで化粧をしなければいけないという気持ちしかあらず、ささっと整えただけにすぎない髪の毛も、時間がないときは背中まであるのをそのまま流して行き、更衣室で結ったり。口紅が嫌いで、なんとなくリップを塗ってはいるが、それも何歳までこんな手抜きで許されるのだろう、と時々自問しているくらいだった。
♦
「来月女子達で休日申請出そうかって話が出ててね」
6月初旬の平日午後1時半すぎ。東都シティ本店の広いスタッフルームでは十数人が昼食をとっており、その一角に私たちはいた。
隣に座っている玉越よしえは29歳。理美容商品担当の強気で有名な凛々しい美人だ。社長と何らかの縁があるらしく、本社の幹部とも仲が良いため、皆ちょっとした幹部扱いをしている。まあ、それだけ聞けば微妙な感じだが、持ち前の性格と仕事のデキでそれらを十分にカバーできているのが彼女という人間だ。
「皆でランチしてカラオケでもどうかなって。夜だともうクタクタじゃん?」
玉越は起用にも、食べながら提案し、香月も「そうだねえ」とすんなり日にちを思案し始めたところに、
「じゃあいつにするー?」
斜め前に座って、スマホとラーメンを見ながらタイミングをずっと見計らっていた西野はようやくここぞとばかりに、話しかけてきた。
「ってかあんた、呼ぶとも言ってないし」
「俺がいないと盛り上がらないじゃん」
「あ、大丈夫、大丈夫。他に人呼ぶつもりだから」
玉越は、右手を振ったが、西野はすぐに
「他、誰にする?」。
玉越は笑いながらこちらを見たので、香月も素直に笑った。
「あんたがいると、なんかそわそわするのよねー。ゆっくりご飯食べたいのに」
玉越のきつい本音が始まったのと同時に西野は、
「そういやさあ、香月は今どこ住んでんの? なんか通勤変更届け出してなかった?」
どこで誰に見られてるか分からないなと、少し警戒心を抱きながら、
「東京マンション」
と、隠さず答えた。
「ゲ、いいとこ住んでんじゃん!」
「前住んでたところの近くに空き巣が出たって父に言ったら、知り合いのとこが空いてるって」
「空いてるったって、給料全額もってかれるんじゃね?」
「知り合いだから、ちょっと安いのかな」
「マジ?! おいおい、どんだけ安くなってんだよ…」
「え、西野さんは今どこ住んでんの?」
「俺はラインズクラブの一軒家の方」
「あれってマンションじゃなくて、一軒家をルームシェアするってところなんだよね? 」
「そう、俺は自分でそこ選んだわけじゃなくて、姉貴の代わりなんだよ。姉貴が友人の妹とかと住んでたんだけど、仕事で海外に単身赴任になったからさ。用心棒ってわけ」
「危険な用心棒だね」
香月は笑った。
「お前なあ、俺が今どんだけ苦労してることか! 最近の若い女は全然そういうデリカシーねーから困るんだよなあ、こっちが! トイレなんかドア開けたまますんだぜ!? どういう教育受けてんだよ! ったく。ゴミ出し、掃除、全部俺。汚いことは、俺の役目なんだよ」
「普通じゃん」
玉越はさも面白そうに笑った。
「姉貴が家賃半分払うっていうから乗ったらこの始末だ……、人の部屋勝手に漁ってゲームはするし、俺のプライバシーは金で買われたんだよ」
「売ったの自分じゃん(笑)」
女2人は他人の苦労を、楽しく笑い飛ばす。
「って、自分なんか家持ちじゃん」
西野は玉越に向かって少し口を尖がらせてみせた。
「掃除が大変で嫌なのよ」
玉越は身のなりにそぐわぬ、自分の一軒家を持っている。もちろん、実家ではなく、独身の彼女自身で建てた家だ。自らの給与でフルローンを組めばそれだけのことができないわけではないが、羽振りのよさからして全額既に支払われているのではないか、というのが周囲の見立てであった。
香月は彼女がどういう家庭に育ったのか、どうやって一軒家を建てたのか全く知らないが、彼女と接する上でそんなことはどうでもいいことであった。
「……まあなー。俺んちなんて平均年齢低くて大変よ……。俺が平均値上げてるからなあ」
「え、いくつの人がいるの?」
香月は目を見開いて聞く。
「すごいから、この家」
玉越は苦笑した。
「大学生が3人。しかも女ばっか」
「え! 何それ!!」
「話あわねーし、全然つまんねー。オヤジ扱いに、加えて、アッシー呼ばわり」
「いいじゃんねー、花の女子大生生活」
玉越は、この上なく楽しそうに西野ににやけ顔を見せたのを見て、ひょっとしてと思ったが、
「ぜんっぜん。俺ガキには手つけないタチだから」。
「ま、それが普通でしょ」
玉越は、冷静にはねのけた。
次の瞬間、全員が鋭い視線を宙に向ける。仕事中はもちろん、休憩中も、耳につけているイヤホンを外すことはしない。イヤホンはトランシーバーに繋がれており、店内くらいの距離なら電波をとばすことができる簡単な物だ。誰かに何か伝えたい時や何か聞きたい時にスイッチを入れて小型マイクに喋る。すると、全員のイヤホンに伝わり、それに答えられる人が誰とも言わず、答えるシステムになっている。広い店内をカバーするのには欠かせない仕事道具であった。
『香月さん、香月さんご指名の男性のお客様がカウンターでお待ちです』
副店長の仲村だ。
「はい、すぐ行きます」
即座にマイクに答える。
『テレビのご購入を検討されています』
「了解です。すぐに行きます」
といってもここから走ると1分近くはかかるだろう。というか、男性のテレビ買うような知り合い、いたかなあ……。
香月は普段、テレビや冷蔵庫のような大物の接客はほとんどしない。理由は単に知識がないからだ。今はその知識を高める必要も特にないように感じていたので、自分で販売はせず、極たまに友人や知人に販売員を紹介する程度なのである。
なので、小走りで現場へ向かったとしても、説明できることなんてほぼないに等しい。
「すみません! お待たせいたしました!」
後姿から確認していたが、どうも知り合いではない。
「あ、いや。すみません」
やはり、見たことのない。黒づくめの男は丸いサングラスとキャップをかぶっていて顔がよく分からない。それに、上下揃いらしい黒のジージャンとジーパンに中は白いTシャツ。年は30後半くらいか。
香月は一瞬で観察を終えて、会話に集中する。
「香月さん、こちらの方、SOの90型にしようかどうか迷われています」
副店長の一人、仲村がこちらをじっと見ながら喋った。知り合いか? と聞いているのだ。
香月は、難しい顔をして少し首を傾けた。
「あのぉ……この90型が以前から気になっていたのでとりあえず一台。次の二台目の時は新しいのが出てからでもいいかなぁって思ったりして(笑) 」
第一声はまあ、普通の客のようである。
「はい、かしこまりました」
香月が返事をすると、仲村は2人の側からさっと去ったが、1コーナーだけ離れた所で待機している。販売の過程においてミスがないか見守ると同時に、客の素性を把握しようとしているのである。よって、仲村の判断において、この客は怪しいと最初から踏まれていた。
「香月さん」
「はい」
香月はソファに座っている客の前で、膝まづき、一緒にカタログを見ながら、分かる範囲の商品説明をしていた。
「渕の色はいろいろあるんですよね?」
「はい。黒、赤、白、グレー、ベージュ、ブラウン、モスグリーン、ピンクです」
実はこの商品、先日メーカーの商品勉強会に参加して多少調べていたのでまだ少なからず、知識があったので非常に助かっていた。
「香月さんならどの色がいいと思いますか?」
「そうですね……。個人的にはブラウンが好きですが部屋によって色々違いますし、でも一番見やすいのは黒ですね」
「あの……僕の部屋……こんな感じなんです」
驚いたことに男は、携帯電話の画像フォルダから自室と言い張る写真を見せてきた。にしても、似てもにつかない、豪勢な部屋である。まるでどこかのホテルの写真のようだ。
「……ご立派な素敵なご自宅ですね」
「いや、インテリアには少し興味がありましてね」
ならテレビの色くらい自分で選べよ……。
「これなら黒……かな」
何の根拠もないが、一番無難だと判断し、しかもすぐ在庫があるであろう色にしておく。
「やっぱりそうですよね。じゃあ、ブラックにします」
「えっ、よろしいのですか?」
不安一杯で聞いたが、男の妙な笑顔に一瞬引いた。
「はい、香月さんおススメ、ってことで」
笑うところだろうな、ととりあえず笑顔を見せる。
とにかく、型は完全に決まったが、配線関係、工事関係の話が全く分からない。これはトランシーバーで誰かに一々聞いて分かるような範囲では、とてもない。
仲村はいるだろうか……と少し顔を動かすと、すぐに目が合う。やはり気にしていてくれているのだ。
香月は目を合わせて頷いた。
仲村はすぐに寄って来る。
「すみません、この商品に決まったんですけど……」
仲村は香月からメモを取ると、すぐに客の方を見た。
「はい、では、ご自分で設置なさいますか?」
「んなモンできるわけねぇだろ!」
顔つきが一瞬で完全に変わったので驚いた。一気に緊張感が高まり、言葉が全く出てこなかった。
しかし仲村は普通ではない客にも、もちろん慣れている。何一つ表情に出さず、落ち着いて説明し、重要なことをちゃんと商談メモに記入していく。その間香月は、固まった体を序所に解凍しなおしていくことしかできない。
「はい、ではこれで大丈夫です」
仲村は大丈夫か? と言いたげに商談メモを香月に渡した。最高にゆがんだ顔を見せたいのを我慢して、無表情を装い、とにかく目だけで訴える。
「はい……では、こちらの商談メモをカウンターまでお持ちします。後は契約コーナーで担当の者がおりますので、そちらでご契約をお願いします」
「えっ?」
相手の顔を見る勇気がなかった。威嚇のような驚きの声である。
「い……いえ、あの、あの、私がしましょうか……」
「はい、お願いします」
映像コーナーからカウンターまでの長い間、男はずっと自分のことを話していた。フリーカメラマンであること。意外に若く、30才であること、黒が好きなこと、家電が好きなこと、よくここに来ること、そして、たまに香月を見かけること。
「いえね、香月さんの印象がすごくよかったものですから(笑) 。香月さんはむいてますよね。電池の接客をしていただいたのですが、よく分かりました」
電池の接客……。
「……そ、そうですか?」
「そうですよ!!」
契約コーナーは人でいっぱいだった。このまま一緒に待つのが嫌だったので、空いたレジで自分で伝票を作ることにする。
「すみません、こちらでおかけになってお待ちください。私はあちらのレジで伝票を作って参りますので」
「いや、座らなくてもいいですよ。香月さんが伝票を作るのを見ていたいので近くでいます」
「……すみません……」
だんだん分かってくる、相手の素性……。
男の名前は井野 康夫。住所は店の近く。
じっと見られている緊張感に堪えられず手が震えてくるが、それをどうにか落ち着かせ、素早く伝票を打ち上げる。
「お支払い方法は……」
「現金一括払いで」
手提げのバックからそのまま札束を出してきたことに驚いた。
実はこの風貌からしてローンを組むのではないかと予想して、クレジット契約の細かい部分を思い出し直していたせいで現金が不審に思えてしまい、更に手が震える。
どうにか落ち着いて、ゆっくり札束を数える。おそらく、間違いなく85枚ある。だが、10枚以上の万札はダブルチェックするルールになっているのでもちろんルール通りに、近くで心配していた玉越よしえに
「すみません、念のためにダブルチェックお願いします」
と札を手渡そうとした途端、
「俺の金に触るな! しっし!」
あり得ない客の態度にさすがの玉越も、こちらに驚いた表情を見せた。
泣きそうだった。こちらもそれを訴える。
「あ、では……。香月さん、確認したんですよね?」
さすが十年選手の玉越。この状況でも仕事は怠らない。
「あ、はい。85万ありましたので……」
「俺も数えてるから心配しなくていいよ」
井野は香月だけには優しく話しかけた。それが余計に、伝票を打ち込む手をいっそう早める。間違えていたら、後でやり直そう。
仕上がった領収書は封筒に入れ、最後はきちんと自動ドアまで見送りに行った。そうしないとまたあの恐ろしい形相を見せそうで怖かったからだ。
「よかったよ。また来るから、指名してあげるよ」
『よかった』って何だ……。
所要時間、80分。実に長い接客だ。
その間、ほとんど仲村が気にして近くにいたことは言うまでもない。
「ふぅ……」
カウンターまで帰ってくると、仲村と玉越が話しをしていた。多分さっきの「しっし!」を報告しているのだろう。
「伝票、ちゃんとできたか?」
「多分。急いで打ったから……」
「見せてみろ」
仲村は一枚の長い伝票にしばらく目を落とす。
「うん。まあ、いいだろう。ただ、追加で工事内容もっと詳しく書いた方がいい」
「うっわー! すごい! あんなに急いだのに!」
「なんかちょっと怪しい感じだったな。初めての客か?」
「相手は電池の接客を受けたことがあるって言ってはいましたけど、全然覚えていません」
「気をつけておくよ。井野か」
「私も気をつけとく」
ガードの堅い玉越がそう言ってくれるだけで、ほっとした。
「あ、そうだ。それが済んだら、返品を集めてきてくれないか?」
仲村は腕時計に一度目を落とすと、手にしていた井野の伝票をカウンターの上に置いた。香月はそれをすぐに拾い上げる。
「分かりました」
「AV小物コーナーだ」
「はい!」
♦
「しまった……」
閉店1時間後の23時。従業員通用口まで出てようやく外が雨であることに気付いた。自転車通勤の上に、傘はナシ。こんなときに限って仲良しは皆早上がりだ。誰かいればその辺まで送ってくれるのに。いくら7月が迫っているといえど、深夜の仕事帰りに濡れて自転車で帰りたい気分ではない。
とにかく今日は踏んだり蹴ったりだ。井野というおかしな客に捉まるし、第二倉庫まで返品を2回も取りに行かされるし、最後は雨だし。
「迎え、待ってるのか?」
久しぶりの声だが誰だか分かる。
ドキッとした。のは、声のせいか、タイミングのせいか。
「びっ……くりした……」
「傘ないのか?」
「はい……」
佐藤公明 部門長……。ちょっとした縁のある人だ。
「自転車で来てるんだろ?」
何故知っている。引っ越ししてから自転車に変えたのに。
「はい……」
「送ろうか?」
「……」
このセリフをどのように捉えようか、迷う。
「えっと……」
「香月ー!」
更に後ろから宮下の声が聞こえて振り返った。ずっと後ろだ。
「はい!!」
この状況から逃れたいためか、こちらも必要以上に大声で返事をしてしまう。
「……」
しかし、返事をしているのにも関わらず、宮下は何も言わずこちらまで近づいてくる。
「この雨の中、自転車は大変だろう」
宮下は笑いもせず、無表情で言った。
「はい、今、それを……」
「雨で」
突然佐藤が口をきき、揃って2人はそちらを向いて黙った。
「雨で傘がないそうで。私が送っていきます」
「……傘ないのか?」
「あ、はい……」
「いえ、いいです。佐藤さん、家反対方向じゃないですか。僕、丁度通り道なんで乗せていきますよ」
更に宮下は視点を変えた。
「来月のシフトのことも話したかったし」
「あ……はい」
確か来月からシフトの流れを変えるという話は2、3日前にした。宮下の余計な心遣いが息苦しくて、言葉に詰まる。
「そうですか。じゃあ、お疲れ様でした、また明日……いや、明後日」
佐藤はすんなり引くと、雨の中、傘を差して駐車場へと進んでいった。
「……佐藤さん、明後日出社なんですか?」
「さあ、知らない」
明後日は香月の出社予定日だ。佐藤はそれを見越していたのだろうか。そして宮下は、それに気づいているだろうか。
「ちょっと待ってて。あと、上の確認だけしてくるから。先、車入っとけばいい」
と、スカイラインのキーだけ渡手してくれる。そして
「これ傘」
と、驚いたことに消火器と壁の隙間から当然のように紺色のありがちな傘を出してきた。
「え!? なんでこんな所に……」
「誰かが持って帰って使いまわされた後だがな」
「傘立てに置いておいてもすぐなくなりますよね」
「あぁ。車、分かるか?」
「白のスカイラインですよね?」
「そう」
そこまで言うと、宮下は後ろを向いた。
逆に香月は前を見る。あれ、そういえば、車どこに置いてるんだろう……。
まあ、行けば分かるか。後は残っている副店長を含めて残り2台しかないはず。
受け取ったキーで勝手に乗り込みしばらく待つと、5分もしないうちに人影がドアを開ける。店舗を施錠して戻ってきた宮下は、雨の中走ってきたせいでびしょ濡れだった。
「わっ!! あっそっか、傘……」
「意外に濡れた」
「すすす、すみません!! ハンカチなら……」
「ありがたく受け取る」
慌てて取り出した皺になったハンカチが役立つ。しかし、一週間くらい前から使いまわしている物であることは黙っておこう。
「佐藤さん……大丈夫か?」
「えっ?」
宮下はハンドルに右腕を伸ばし、まっすぐ前を見る。車はゆっくり前進した。
「あれから……。さっきも固まってたように見えたから……。えっと、東京マンション、だっけ?」
「あ、はい……。佐藤さんのことは……別に……何も……」
宮下の心配が分からないではない、と思いながら続けた。
「ここは人が多いし、ほとんど会うこともないし、今日喋ったのだって、仕事以外ではほんと久しぶりでした」
「最近AVコーナーに行かせることが多かったからな」
宮下はまっすぐと前を見ている。
「でも、仕事のときは普通ですよ。……今もわりと普通だったけど……」
「そうか?」
「…………」
なぜ、宮下が佐藤のことをここまで心配するのか。
それは単なる過剰反応ではない。二年前のことは、今でもお互いリアルに思い出せるのだ。
「なんか……思い出しました。私が初めて宮下店長と話しをしたときのことを」
スカイラインの車内はエンジンの音だけが聞こえていた。東京マンションへはほんの2分ほどで着いてしまい、一瞬回想に溺れていた香月は、自ら声を出して我に返った。
「えっと……店舗視察に行った時、か」
「あのときからまだ2年くらいしか経ってないんですね……ほんと、つい昨日の……」
「あまり、深く考えるな。
言わなかったが、あれからすぐに佐藤さんは離婚したそうだ。今は一人で暮らしている」
「……」
宮下はエントランスに車を停めた。
「香月が佐藤さんのところに行くなら別だが、」
「行きません……」
あまりに理不尽な会話の流れになったため、溜め息混じりで答えた。
「そうか。……今度の人事異動で佐藤さんが役職につく可能性がある」
「……店長ですか?」
「それはない。だが、副店長の可能性はある」
「逆に私が異動になるとか……」
「ないな。誰も2人のことは気にしていない。本当に何もなかったと思っているし、離婚したなら尚のことだ」
「そうですか……」
「まあ、まだ可能性の段階だ。だが、その色は強い。やっぱり今の店の状態としては起用したいしな」
「職権乱用するような人ではないと思います」
「俺もそう思うよ」
「……そうですよね……」
「あぁ。じゃあまた、明後日」
「さすが! 私のシフト、覚えて下さってるんですね 」
「いや、明日は俺が休みだから……」
宮下は仕事の疲れからか、軽く微笑むと香月を見送った。香月は一礼したあと、自動ドアへ向かう。
その間、一度も後ろを振り返らなかったが、しばらくしてからスカイラインが立ち去ったのを、音だけで確認した。
♦
香月はあまり料理をしない。なぜなら、食べたい物が食べたい味にできないからだ。
一人暮らしする前は、自分ではそこそこできる範囲だと思っていたし、最初はやる気だったし、実際本を見て何度か作ってみた。だが、その努力と味の差が縮まらないことに気づいて、やめた。
小学校の頃、自分の継母は何故キッチンには向かわず、手伝いの女性が食事を作っていることが嫌で随分反抗した。母親というものになったのなら、母親らしくしていればいいのに。少なくとも自分の母親ではないが、弟や兄の母親ではあるのに。いつもリビングか自分の部屋で何かをしている。そういう、母親らしくないところが、とても嫌いだった。
だが、今になって料理というものは理論上、きちんとできる人がした方が良いとは思う。だが、母親は子供に料理を作るべきだとは思う。
本日休暇の香月はというと、昨日の夜中に食べたプリンのせいか、まだおなかがすいていなかったので、パジャマのままベッドに寝っ転がって昨日佐伯から入ってきたメールに返信を打ちながら、どう面白く返答しようか考えていると、別の画面が表示された。
液晶には宮下店長と出ている。時刻は10時10分。開店早々なんかあったか……。
「もしもし、お疲れ様です。香月です」
起き上がりながら声を出す。
『今あの井野様が来店してて。テレビなんだが覚えてるか?』
「はい」
伝票は仲村にきちんと身直ししてもらっている。抜かりなかったはずだ。しかも配送は今日の午後指定なのを昨日ちゃんと確認している。
『配送時間を昨日の夜に香月が電話で伝えてくれるはずだった、と言ってるんだがどうなってるんだ?』
「いえ、そのようなことは……。でも、誰が電話するか、までは言ってなかったかも……」
『まあ、そうだな。とにかく、今ものすごくお怒りでな。店まで来てる』
「えっ!? み、店に!? い、行きましょうか……?」
『いや、確認したかっただけだ。その前にどうして香月がテレビを売ったんだ? たまたまか?』
「いえ、お客様のご指名です。全く知らない人でしたが、以前私に接客されていたと言っていました。あの、行きます。今何もしてないし、私が話しておいた方がいいと思うので」
『いや、うーん……。まあ、それは確かにそうだけど……』
「10分……では無理かもしれないけど、15分で行きます。なんとか」
『了解。早めに来い』
「はい!」
電話を切って思う。しまった。朝食とっておけばよかった。
猛スピードで自室で着替えて、なんとなくヘアメイクを整えてリビングに出る。
……せっかく出てきたんだから、帰りはランチでもして帰るか……。そんなことを頭の片隅で考えながら自転車を高速でとばす。
それでも店に着いた頃には10時35分だった。とにかく、宮下の力でもう話が終わっている、と笑われることを祈る。
しかし、駐輪場から走ろうとすると携帯がまた鳴り、
『本人からお詫びを聞きたいと会議室で待ってるから急いで来い』
と催促の電話が入り、猛ダッシュで店内に入った。
会議室で待っているということは相当暴れたんだろう。
久々に息が切れるほど走る。会議室の前まで来たときには、ドアをノックすることも忘れてそのまま開けた。
「すみません、遅れました!!」 室内のどれだけの目が注目するのかと思っていたら、いたのは2人だけだった。
「井野様、すみません……。申し訳ありませんでした。私の説明が足りなかったがために、大変申し訳ありませんでした」
長机をはさみ、パイプ椅子に座っていた井野は香月が見るに、それほど怒った様子ではなかった。
普通に笑っている。丁寧に詫びたからというよりは、香月が出社してきたことが井野の中で重要だったようだ。
「あ……いや、あはは。いや、てっきり電話くれるものだと思っていたから」
「そうですよね。すみません。もう少し井野様の立場に立ってちゃんと説明するべきでした」
「いやその……僕はね、あれですから。そういう仕事ぶりも、あれですから……」
意味が分からない。し、笑うと気持ち悪い。
言葉に詰まったのを察してか、宮下が
「今回のことは……」と言いかけると、
「今は香月さんと喋ってるんだよ!」
宮下に激しく威嚇した。その二重の人格に、香月は硬直して黙った。
「あ、あの……これ、良かったら……」
えらく低姿勢で紙袋から何を出してくるのかと思ったら、驚くことに老舗和菓子屋の菓子折りだった。
「いえっ、でも……」
「いえ、僕も言い過ぎたところがあったので。あとで香月さんが食べてください」
「あ……」
宮下の顔色を伺う。彼は少し頷いて見せた。
「では、頂きます。すみません、ありがとうございます」
物は大きめだったが、もし手が触れ合ったらどうしようと、恐々手を出す。
「ここのお菓子、美味しくて有名なんですよ。知りません?」
「あ、はい……」
知っていたが、受け答えが妙になってしまう。
「有名なんですよー。すごく美味しい。店は僕の家の近くなんですけどね。あ、よかったら、午後の設置、見にきませんか? 今日は休みだから午後の予定も特にないでしょう?」
「え、あ……」
「申し訳ございませんがお客様、テレビの設置には専門の者が参りますので……」
「別に用ないよね?」
井野は宮下の話など全く聞いていないフリをしている。
「……では、設置の者と一緒に参りましょう、か?」
香月は宮下を見ながら喋ったが、彼は厳しい表情のままだった。
「いえ、お客様。香月は資格も何もありませんし、設置には……」
「僕の家を見せただろう? あそこにテレビを入れたところを是非見てほしいんだ」
彼の視界に宮下は全く入っていない。
「では、設置の者と私と香月が一緒に参ります」
宮下は、宮下を見ない井野に提案をした。
「あ、はい。あの、一緒に、ということで……」
香月も、それに従った。
井野は一瞬宮下を睨んだが、すぐに香月に視線を戻し、
「美味しいお茶でもお出ししますから……。では午後から楽しみにしてますよ」
井野はそう言うと、少し頭を下げて自分から席を立った。すさまじい精神力と動力のある男である。香月は、井野がドアノブに手をかけるやいなや、安堵の溜め息をついてしまいそうになったが、それでも宮下は客が帰る時もいつもの営業スタイルを崩さなかった。場慣れ、とはこういうことだろうか。
2人は駐車場のベンツまで送り届けると、すぐに会議を始めた。
「怖かった……」
香月は顔を顰めて話しかけたが、宮下の視線は宙を舞っている。
「了解」
トランシーバーのイヤホンから入る声を聞いていたようだ。
「井野様の配送は丸田さんが行くそうだから、俺たちも行くようになったと伝えておくよ」
今度はこちらの目を見ている。
「……はい」
「危ない男だ」
宮下の視線が菓子折りにあることに気づいて、
「捨てていいですか?」
「さすがに怪しい物は入ってないと思うが。まあ、もらったのは香月だから、好きにしなさい」
「帰って捨てよ」
「迷ったんだがな……。あそこで行かないと突っぱねて返品になるのも有りかなと思ったんだ」
「えっ!? そうなんですか!?」
「ちょっとな」
「えー。うわー、何も言うんじゃなかった……」
「お客様を大切にするということは、悪いことじゃない」
「はい……」
「えーっと、じゃあ、1時くらいに出るか……。丸田さんとは現地集合になる」
「はい。じゃあそれまでにご飯食べてきます」
「大丈夫か?」
「朝食べてなかったから、おなかすいてます」
「いや」
宮下はクスリと笑った。
「まあ、いいけど」
♦
香月はどこで食事をしてきたのか、1時前には俺を見つけて、社用の軽の助手席に乗り込んでいた。
「写真を見せられたんですよ、テレビを買いに来たとき。自室の写真だって言ってたんですけど、それがホテルみたいな豪華な部屋で……」
「雑誌をそのまま撮ったかのような?」
宮下はそのままギアをドライブに入れて走り出す。
「かのような。でもさっきのお菓子が風月堂のだったから本当にそうなのかなぁ……」
「丸田さんが言うには、この辺では有名な地主らしい。立派な屋敷だそうだ」
「じゃあ本当にそうなんだ! うわー、最初会ったときは全然そんな感じしなかったのになぁ」
「今日会ったが、確かにそんな感じはしない」
「なんか普通じゃないですよね……」
「ちょっとどころか」
「うーん。なんか、もう怖いですよ。私、今考えてもよくテレビ売ったなあと思います。頑張った! って感じ」
「そうだな。それはよくやった」
「もうどんなに大変だったか……契約コーナーで契約しますって言ったら一瞬怖い顔になって」
「何で?」
「分からないけど。でも、私が契約しますって言って一緒に歩いたら普通でしたけど」
「とんだファンだな」
「もう……。次からは絶対大物の接客はしません」
言われなくても、宮下もそのつもりだった。
間違いなくこの美貌が、尋常ではないファンを引き寄せてしまったのに違いない。本人は気づいていないだろうが、また、そういう抜けた要素も魅力の1つだと言える。普段はにこにこ、大事なときには真剣になって、不安なときには心配する。そういう普通の表情が、このバランスのとれた大きな瞳と小さな唇が乗る白い肌の上で絶妙に表現されるのである。
そんなおかしな客でなくても、普通の人間でも、ふっと近づいてみたくなることは容易にあるはずだ。
「……もしかして、あそこ!?」
「そうだな。丸田さんの車が止まっている」
「本当に……お屋敷……」
家の周りは2メートル以上ある塀でぐるりと囲まれている。しかし、それが閉鎖的であるかといえばそうではない。まるでヨーロッパにスリップしたかのような、レンガ調で高級感があった。また、幅が広く背の高い門扉が明るい白で演出されているため、ここから抜けて入ってみたいと思わせる。
しかし、入ってしまったら最後、二度と戻れはしない……のはおとぎ話の読みすぎか。
軽トラックが止まっている来客用駐車場に駐車するなり、丸田が伝票を持って現れた。
「どんなクレーム?」
既に定年近い白髪混じりのベテラン丸田は、助手に準備をさせながら聞いてくる。
「いや、もう処理は終わったんですけどね。まあ、見に来いというので……」
「ふーん。ちょっと変わってんのかもなあ。そんな話は聞いたことある。あの、若い方だろ?」
「ええ、30半ばくらいの」
「オヤジさんは銀行のえらいさんだったけどね……。息子はどうしたことか……」
そこまで言うと、後ろを向いて、ようやく仕事に入った。
「さて。行くか」
4人は宮下を先頭に外のインターフォンを押してしばらく待つ。と、ビックリするくらいクラシカルな、お手伝い、ではなく、メイドと呼ぶに相応しい女性が出てきた。
驚きすぎた香月が白と黒で整ったメイドの全身を嘗め回すようにジロジロと見ている。後でちゃんと注意しておこう。
案内されて、堂々と開かれた門扉の間から構内に入る。中は、たくさんの木が植えられており青々と茂っているが、地面には葉一枚落ちておらず、完璧な手入れが行き届いているようだった。花壇に植えられている花も名は分からないが、全て咲き誇っている。きっと庭番がいるのだろう。
家自体は時々テレビで見る大豪邸、といった特に変わりない風景であった。白い壁に大きな窓が空いていたり、デザイン性中心の豪勢な建物である。どちらかといわずとも、家よりメイドの方が驚いた。蒸し暑い日にも関わらず黒い長そでのシスターのような衣装。今時こんな恰好の人物がいるのか……。
「いやあ、お恥ずかしい」
井野の苦笑いに、自ら誘っておいてそれはないだろうと、つい突っ込んでしまう。
しかし、確かに井野は恥ずかしいくらい、建物に全く似合わない風貌だった。つまり、先ほどと同じただのティシャツにジーンズ地上下の自称フリーカメラマンの格好である。そこで久しぶりにフリーカメラマンであることを思い出して、応接室のソファに案内されたあと、しばらく部屋中を見渡したが、それらしい証拠は一つも見当たらなかった。
香月はというと、多分そんなことは忘れているのだろう。井野の話にできるだけ合わせて頷いたり、笑ったりしている。
「まあ、お茶でも召し上がってください。こちらは中国の品でね。匂いが甘くて飲み易いんですよ」
「では……」
香月がこちらを見たので、少し頷く。
「頂きます」
「どうぞどうぞ、召し上がってください」
井野は珍しくこちらを向いて笑う。少し気味が悪いなと思ったが、「すみません、頂きます」と丁寧に断って、カップに口付けることにした。
「宮下さん!」
突然背後から丸田に呼ばれ、飲む前にカップを一旦ソーサーに戻す。
「すみません、ちょっと」
井野に断ったが、彼はこちらを見てはいない。
「どうしました?」
言いながら、廊下を挟んですぐ隣の設置室まで行く。一人残してきた香月が心配なのですぐに帰ろう。
「ここ、アンテナ線がないけどこのコーナーに設置希望って伝票に書いてあるんだけど」
「え!? そこからですか!?」
香月が打った伝票を誰か確認しなかったのかと、怒りがそこに向かう。
「ちょっと話してみます」
「次予定が詰まってるからアンテナ工事は今日できないよ」
「そうですよね」
苦い怒りを噛みしめながら、すぐに元の応接室へ戻る。
「え……」
さすがに驚いた。
「ちっ……」
「相当疲れていたんでしょう……」
一つしか原因が思い浮かばなかったため、すぐに退散することを決意する。
香月は青ざめた顔をして崩れるように、井野の手によって抱きかかえられているところであった。
「中国の物がもしかしたら体質に合わなかったのかもしれません。けど、心配しなくても、1、2時間寝室で寝かせておけば……」
「いえ、帰ります」
「ここに寝かせておけばいい!」
井野は激しく睨んで、香月の柔らかそうな身体に手が食い込むほどに握り締めながら口調を荒げたが、まさかお茶を飲んで倒れた従業員を見捨てて帰るわけにはいかない。
「そういうわけにはいきません! お客様のご自宅で眠るなど! 」
こちらも負けじと大声を出して、その身体に手を伸ばした。声に怯んだのか、井野は簡単に力を緩める。
「ただ横になるだけじゃないですか……」
名残惜しそうに香月を見つめながらも、ようやく井野は彼女を手から離した。
「突然気分が悪くなるなんて、どう考えてもおかしいでしょ。お茶の中に何か薬でも入ってたんじゃないんですか?」
井野がどんな態度に出るのか分からなかったので少し勇気がいったが、低い声で指摘した。
相手の顔は、見事に大きく歪む。
その隙に香月の体を抱きかかえ、奴から少し離れた。
「……確かに、少し疲れているのかもしれませんので、今日はこれで失礼します」
「……」
井野はものすごい剣幕で睨んでいるが、もうここは危ない。
宮下はそのまま、くるりと向き直り、香月を抱きかかえたまま元来た玄関へ戻り靴を履いた。忘れずに彼女の靴を彼女の腹に乗せ、そのまま出る。
後ろも振り返らなかった。
「香月、香月!」
車へ戻るまで、少し揺さぶりながら何度か呼びかけてみるが、彼女は眉間に皺を寄せたまま、辛そうな表情で口元を押さえている。一体何を飲まされたのか、やはり薬でも混入していたのではないか!?
車内の助手席シートを倒し、そこに寝かせるとすぐに携帯を手にとった。番号を押しながら、車を発進させる。
もし、奴が仕事中だったら出ない。当分折り返しもできないだろう。
だが、幸運なことに、奴はすぐに出た。
「もしもし! 今どこ!?」
『会議室だよ。今から部屋に戻るとこ。何? 腹でも刺されたか。昔の女に』
坂野咲はクククと笑う。
「あと15分くらいで着く。すぐに診てほしい」
『ホントに刺されたか?』
奴の口調はすぐに変わった。
「さっき客の家に行った女の子が突然気分が悪くなった。薬かもしれん」
『薬?』
「中国のお茶と言って出されたが、飲んだら突然倒れて……」
『意識はあるか?』
「一応あると思う」
『痙攣は?』
「してない。けど息苦しそうだ」
『分かった。準備しておく。受付にも通しておくから、着いたら緊急搬入口の方から入ってこい。表玄関のすぐ隣だ』
「あぁ、分かる。頼む」
坂野咲が普段とは違う口調になったせいで、ついアクセルに力をこめてしまう。
大丈夫。ただ、即効性の……眠り薬をお茶に混ぜて飲んでしまっただけだ……。
まさか、信じたくもないことだが、だがしかし……。お茶を飲んだだけでこんなことになるなんて、薬物を使用しない限り有り得ない。
とにかく、丸田には「出されたお茶を飲んだら香月が突然気分を悪くした」と有りのままの警告をした。まあ、年老いた丸田と助手を眠らせても意味がないと思うので、その注意は特に必要がなかったかもしれないが……。
病院に到着すると、坂野咲医師は救急玄関の前まで出てきてくれていた。おかげで助かる。
奴はすぐに、看護師が持ってきた担架に香月を乗せると中に入った。
これで、一安心。
車を駐車してから建物の中に入る。たまたま通りかかった看護師がすぐに坂野咲の居場所を教えてくれた。
なんだ、ただの処置室である。
「うとうとしてるけど意識はあった。今、血液検査しているけど多分アルコールだよ」
ベッドの上で目を閉じて横になっている香月の顔をじろじろ確認していた坂野咲は、それはそれは偉そうに、白衣を翻して大袈裟に椅子に腰かけ、患者の付き添いに、あえて小声で説明を始めた。
「酒? お茶じゃないのか?」
「バカめ……。匂いで分かる」
「……そうだったのか……」
「しばらく横になっていれば大丈夫だろう」
宮下が椅子に座るのと同時に、若い看護師が奥から一枚の紙きれを持って来た。坂野咲は一秒見た後、
「ちょっときつめの酒だよ」
「なんて奴だ……」
「客の家でだって?」
「あぁ……あ、一応診断書書いておいてくれ」
「えー、面倒臭ぇなあ……」
言いながらも、もちろん奴はすぐにデスクトップのファイルを開き始めている。
天邪鬼なのは昔からだ。
「で、茶だと思ってたって?」
「あぁ……。変な客がいてな。そこにテレビをつけている間にお茶を出されたんだ。香月だけそれを飲んだ」
「自分だけ助かろうって魂胆か……」
宮下はそれには応えず、
「にしても、酒……だったのか。コップにお茶と言って出すから、てっきりお茶だと……まあ、俺だけでも助かってよかった。2人とも気分悪くなってたらと思うとゾッとするよ」
「なかなかの美人だからな。いや、起きてみんとよくは分からんが」
「……」
坂野咲に評価されたことを当然だと思いながら、宮下は香月の寝顔を見て、心底安心した。本当にただただ眠っているだけで……。
「まんざらでもなさそうだな」
こらちを見ずに、坂野咲はぼそっと呟く。
「何が?」
「……」
奴は診断書に忙しいふりをして、それには答えない。
しばらく黙った後、
「よし……できた」
印刷した物を丁寧に折りたたんで、封筒に入れるとデスクの隅にポイと投げる。
「もってけ泥棒」
「このまま帰るのか?」
「さすがにそういうわけにはいかんだろう。今ならベッドが空いている。ちゃんと確保してるよ。そのくらい」
「じゃあ、起きるまで寝かしておくか……」
「誰か家族呼んだ方がいいな。お前も仕事の途中でそれに抜けて、でまたここへ抜けてきたんだろう?」
「あぁ。電話しないとな……」
「吉野君!」
坂野咲はカーテンの向こうで大声を出すと、助手を呼んだ。
「酒飲んで眠ってるだけだから、3階の205空けてあるから運んで」
「よろしくお願いします」
宮下はまだ若い看護師に、丁寧に頭を下げた。
「はい」
若い看護師はてきぱきと用意をし、すぐに彼女をキャスター付きのベッドに乗せると、
「じゃあな。俺は少し仮眠をとるから。彼女が起きたら呼んでくれ」
「悪いな」
「仕事だ」
奴はニヤっと笑う。多分、香月が起きたときの顔が見たいだけだ。
「ありがとう」
まあ、しかし、今週末の酒代程度で安心な処置をしてもらえたのだから、文句もない。
その後、香月が大部屋のベッドに移されたのを確認してから、一度廊下に出ると携帯を見た。意外なことに着信はない。そうか、まだそれほど時間が経ってないのか。今店に残っている副店長は仲村と矢伊豆で、今日は平日だし大丈夫だろうが連絡だけは入れておく。
宮下はその後室内に入り、香月までゆっくり歩み寄った。
大部屋といっても今は女性2人しか入っていない静かなものだ。
当の香月は白い顔をして目を閉じている。いつも赤い唇も今は薄い。いつだったか、他の女子従業員と香月がカウンターで無駄話をしていた。口紅のメーカーとかそんな話だったんだと思う。
それまで、何の疑いもなく、ただ玉越や佐伯らと同じように、当然のごとく香月も口紅をしているんだと思っていた。
「えー!? 香月さん口紅してないんですか? リップだけって意味?」
「ううん、リップもしない。なんかベタベタするのが嫌いで」
「ほんとに? ……うわーほんとだ。安上がりですね」
「なんかそれ、私が安い女みたいじゃない」
「少なくとも私よりは(笑)」
「ひどーい(笑)」
それからしばらく、本当に口紅をしていないのか、観察していた。しかし、そう言われて見ていても、それが本当にそうなのかはっきりしなかった。
だが、ある日たまたま玉越がいつもと違う派手な口紅をしてきたとき、あぁ、口紅ってこういうものなのか、と改めて気づき、香月と比べると、それはやはりただの素肌であった。
感心して、つい
「香月は唇が赤いな」。
今考えても失言だ。
だが、彼女は慣れたように
「唇が赤いって健康な証拠なんですよ」
と、簡単に流した。
その唇が今は薄いピンクだ。
自分がついていながら、と一通り反省する。だが、あの状況で防ぐことは到底不可能だった。むしろ、あの客を遠ざけるためのよいきっかけになったと考える方がいい。
ベッドの隣のパイプ椅子に腰掛ける。ちょうど彼女が顔を少しこちらに向けていたので、この位置からでもよく顔が見えた。
少し眠ろう。パソコンがないので仕事もできないし。丁度、昨日は寝不足だ。
首を捻りながら、斜めに体勢を整える。
だがしかし、眠くなるまで、その美しい寝顔を見ていようか……。
♦
体勢を支えていた頭が少しズレたせいで目が覚めた。腕時計が既に午後三時半だった。30分近くも眠っていた自分に驚きながらすぐにスマホを確認したが、誰からの着信もない。 だがそれが、頭を回転させずに、続けて彼女の顔を見つめるのに好都合だった。
いや、そんなことをしている場合ではない。
とりあえず仲村にももう一度電話して、帰りがまだ遅れることを伝え、缶コーヒーを買って室内に戻る。
そっと、その白い顔を覗き込むと、驚いたことに目が開いていた。
「起きたのか?」
「……」
彼女はこちらを見たが難しい顔をしている。
「全然覚えてないのか?」
「……宮下……店長?」
「あぁ、そうだ……そうだよ! 分かるか!?」
まさか記憶喪失では!? と、焦り、コーヒーをベッドに滑らせ、もう一度顔をよく見せた。
「……」
目が虚ろで、まだ眠りから完全に目が覚めていないようだ。
「ち……、ち、ちょっと待て。先生、呼んでくるから」
慌てて詰め所に、彼女が起きたことを伝える。
だが、もう一度部屋に戻るとまた目を閉じていた。
「……こ」
起こそうかどうか迷う。
しばらくそのままにしていたら、小さな寝息が聞こえてきた。まだ眠いのか。
「起きた?」
ナースが来るのかと思いきや、すぐに坂野咲医師は白衣を着てこれまた堂々と現れてくれる。
「いや、また寝た」
そう言っているのに、奴は躊躇いもせず彼女のベッドに腰掛けた。
「えっと、名前なんだっけ?」
「香月」
と言っているにも関わらず、奴はベッドの名札を確認してから呼んだ。
「愛さーん」
医師の呼びかけに、彼女は簡単に目を開いた。
「分かりますか?」
奴は言いながら、彼女の額に手を当てる。
「……」
彼女の視線は宙を舞っていた。
「ここは病院です。分かりますか?」
更に、布団の中から右手首を出し、脈を測る。
「……病院」
「覚えていますか?」
「え……」
彼女は視線を逸らして考え始めた。
「全然覚えてない?」
「宮下店長……」
こちらを確認する彼女に、とりあえず笑顔を見せる。
「今までは普通に寝てただけだからね。体は大丈夫だよ。うん、ちょっと布団はぐるね」
言いながら既にはぐっている。
というか、この状況で白衣を着ている奴に、かなりの違和感を感じた。職権乱用という言葉がとてもよく似合う。
「痛いところはないですか?」
「はい……」
「胸焼けとかもない?」
「……うーん、はい」
「大丈夫そうだね」
その言葉に安心した。
「……私。あの、お客さんの家にテレビを……」
「そう、そう!」
「宮下店長と2人で……」
「そうだよ。そこで、お茶飲んだの覚えてるか?」
「はい」
「あれはお茶じゃなくて酒だったらしい」
「少しきつい酒だけど、異常はないよ」
坂野咲医師は、実に医師らしく優しげに、診察を続けた。
「え……え……」
「多分、あの井野さんに盛られたんだ」
「……どうして?」
「それは、本人に聞いてみないと分からないけど」
「どうして私が……え、宮下店長もですか?」
「もしかしたら俺のカップにも入っていたかもしれないけど、たまたま飲まなかったから」
「……なんか、すごくまずかった気がする。もしかして、飲みすぎたら死んでいましたか?」
香月は坂野咲に質問をした。
「いや、それはない」
「俺が飲んでいなくて良かったよ、本当に……」
「そうだな」
坂野咲は珍しく素直に同意した。
香月は自分でゆっくりと起き上がる。
「あの、……今、何時ですか?」
「今は、3時半。誰か家族に迎えに来てもらった方がいい」
という宮下をそのままに、
「そうしないと帰れないんですか?」
と坂野咲に問うた。
「いや、体調いいなら別に構わないけど。危ないから、ちゃんと宮下店長に送ってもらってね」
「じゃあ、もう帰ります。その前にトイレに行ってもいいですか? 喉も渇いた……」
「トイレは詰め所の隣。そこの廊下出ればすぐに分かるよ。歩ける? 宮下、ポカリ買ってきて」
「あぁ」
香月がゆっくりベッドから降りようとすると、坂野咲は当然のように部屋の隅から車椅子を持ってきた。
「座れる?」
「え、歩けると思いますけど……」
「一応ね。ふらつくと危ないから」
香月は素直に従い、恐る恐る腰掛けていく。
奴はそのまま押して行った。こうやって見るとちゃんとした医者だ。いや、こんな大病院で担当を持っているのだから、そもそもちゃんとした医者ではあるのだが。プライベートを知っているのでついつい自分好みの患者を口説いたりしないのかと心配なのである。
5分ほどしてすぐに笑い声とともに2人は戻ってくる。
「……だよ。今度宮下店長に連れて行ってもらえばいいよ」
香月は意味ありげにこちらを見てから、「はい」と笑った。
「どこへ?」
「駅前の串屋」
「あぁ。元気になったらな……。はい、ポカリ」
「あ、ありがとうございます」
奴は彼女を慣れた手つきでベッドへ移した。
そしてしゃがんで、ベッドの脇に腰掛けた彼女の視線まで下がり、
「……」
無言で、少し顔にかかっている髪の毛を耳にかけてやっているのを見て、
「……先生、それは治療の一環ですか?」。
「ええ、そうです」
お医者様は、付き添いの苦言を物ともせずに偉そうに立ち上がった。
「香月さん、綺麗な髪の毛ですね」
なぜか香月も赤面しているし。
「……なんだ? 宮下店長」
坂野咲のにやにやした顔がこちらを向いているが、無視無視。
「じゃぁ、俺は、そろそろ下りないと」
腕時計を確認している姿が、白衣と実にマッチしている。
「あれ、時計変えた?」
「あぁ、自分へのご褒美にね」
嘘つけ……どうせまた彼女かなんかからもらったプレゼントだろ……。
「ナースに言っておくから」
「分かった。ありがとうな」
「香月さん、もう大丈夫ですよ」
坂野咲はくるりと向き直ると、また医者に戻る。
「先生、ありがとうございました」
「うん、お大事に」
奴は優しい顔をして、また無意味に髪を撫でたが。香月は満足そうだ。
「……宮下店長のお知り合いですか?」
坂野咲がいなくなってから、彼女は喋りだす。
「あぁ。高校のときの同級生だ。大学が同じでね、職場が近いから、未だにつるんでるよ」
こちらもようやく落ち着いて、椅子に座ることができる。
「すみません、ポカリ頂きます」
「うん、開けるよ」
そのか細い指では固いキャップがあきづらいだろうと、捻ってやる。彼女はそのままごくんと一口飲んだ。
「それにしても、ああやってお茶と偽って酒を出すなんて、普通では考えられない」
「……そうですね……」
彼女は長い睫を伏せ、視線を逸らして考え始めた。
「だけどいい経験になったと思います。店長の判断を聞いてから、お客様と約束する」
「まあ、そうだが。……やっぱり、立ち位置はフリーから外そうと思ってな。どうだ? 今はそこまで考えられないか?」
いつでも目を合わせられるように、その、澄んだ瞳を覗き込む。
「いえ、そんなことはないです。けど……。私は今のままがいいかな……。私は今の仕事が好きですし」
「そうか……。それならまあ、それでもいいが……。とりあえず今回のことは本社に連絡する。本社の対応というのもあるから……」
「私は今のままがいいです」
そんなにこの仕事を好いていると正直思っていなかったので、多少意外だった。
「みんな、優しいし。面白いし……」
「そう。なら、仕方ないか」
「はい」
彼女は笑った。つられて、自分も笑ってしまう。
特等席だと思いながら、香月の表情をずっと見ていた。バックが真っ白なのでその顔立ちがよく映える。まだ顔色は青白いが、序所に頬に赤みがさし、長い睫は忙しく揺れる。だが、決してその誘いには乗ってはいけない。
「そろそろ下りるか」
宮下は、自らを戒めるように、病室の外を見つめて立ち上がった。