美神

榊 久司という医者

 9月初旬。25歳になる誕生日翌日の結婚式は、もちろん有給扱い。同期の結婚式はこれが初めてで、25歳という年齢的にも香月の周りはまだ独身が多く、結婚式という場に来てしまうと、みな憧れずにはいられなかった。

 しかし、自分はいったい何に憧れているのだろう。あの純白のドレスか、それとも、銀行マンの相手か、それともただ、この空気にそんな気持ちにさせられているだけか……。

 今の自分はどうやってもこの空気の主役には到底なりえない。そんな擦れた気持ちが、式の讃美歌合唱を口パクにさせ、披露宴での写真撮影も作り笑顔でしかいられなかった。

 都内で最も顧客満足度が高いことで知られる老舗ホテルが会場であったことも、理由の1つかもしれない。良い日ともなれば、数家族の結婚式が重なり、披露宴が終わった廊下やホールはそれぞれの来賓でにぎわっている。

 誰かが、「ホテルより式場よね」と囁いているのを耳にし、その通りだ、とまた溜息を1つつく。

 二次会を夜に控え、夕方早々に帰宅するわけにもいかず、同僚達とカフェでしばらく時間を潰すことにする。サンルームには来賓用の椅子やテーブルが用意されていたが、まだ日差しが強かったこともあって、誰も外には出ていなかった。

 ただ、開け放たれた小窓から、外に向かって冷房で冷えた空気が出ているのが気になって、ドアを閉めようと試みる。

 この擦れた心でも、細やかな行動1つで少しは中和される気がした。

 外は一面芝生になっており、ガーデンチャペルがある一角で誰かの式が行われていた。ここから少し離れている。だけど、見える。

 もし、この瞬間、外を見なかったら何にも気づかなかっただろう。

 そのまま時は流れ、何事も変わらなかっただろう。

 頭の中は自分では冷静だと思った。

 だが予想以上に心は反応した。驚愕、といってもいい。

 表情は見えない。だから、もしかしたら、違う人かもしれない。

 しかし、見間違えるだろうか?

 髪の毛は相変わらず、耳下より少し長い茶色。黒いスーツ姿だっていつもの私服となんら変わりはない。

「お一人ですか?」

 隣から誰かが声をかけてくる。

 だがその方を見ようともしなかった。

 そんなことはどうでもよかった。

 近くに行って確かめなければ、と思った。

 何を?

 あれが、彼であることを?

 そんな必要、本当にある?

 冷静な考えも頭を巡った。だけれども、走る足は止められなかった。フォーマルドレスの裾が気になりながらも、人でごった返している廊下を走った。

 何に慌てているのだろう。

 行って何になる?

 そう考えながら。

 人目もくれず、ただ、今見た現場へと走る。ヒールが高くて走りづらい。それでも、転倒だけはしないように、配慮して廊下を走った。

 ようやく、芝生に出るとタイミングよく式が終わったのか人々がホテルに向かって歩いてきていた。

 最初は傾斜があり、とてもドレスで走れるような場所ではない。

 だが、この時点ではそんなことはどうでも良かった。

 いつぶりだろう、6年……もうそんなになるのか。

 こちらの顔も多分少しは変わってしまって……。
 
 思い出せないかもしれない。
 
 ドレスが走る様に数人の視線を感じたので、早歩きに切り替える。
 
 風通しの悪いドレスのせいで全身に汗をかいていた。

 今日は晴天。結婚式には相応しい。こんな晴々とした結婚式に、一人、黒服の女が汗だくで華やかな現場に足を踏み入れようとしている。

 あまり、近づきすぎてはいけない。そう思いながら、誰かと話す彼の方を見ていた。

 おそらく、それほど親しい相手ではなかったのだろう。

 彼はこちらに気づくと、スマートに談笑の輪を抜けて近寄ってきた。

 表情を整えようかどうか迷った。だが、それは迷いだけで。

「今式が終わったけど、披露宴からの出席?」

 6年ぶりのセリフがそれ。

「えっ!? ちっ、私はっ、別の式で……」

「ああ、ここじゃなくて?」

「そ、そう。上から見えたから……」

 言葉が出なかった。なぜならそれは、彼もこちらを見つめていたから。

 一瞬、回想シーンに2人は溺れたと思う。

 そして、「ワッ!!」という芝生につまづきかけたおばさんの声で我に返った。

「じゃあまた……後で」

 振り返りながら、伏し目がちに言葉をかける。相変わらずだ。

「後で会えたらな」

 懐かしくて涙が出そうだった。何も変わっていない。

 いてもたってもいられなかった。

 彼の環境が変わっていたのなら。全ては振り出しに戻って、全部がやり直せる。

 頭は彼のことしか考えていなかった。

 香月はそれから2時間、二次会もすっぽかし、彼の方の披露宴が終わるのを一人ホールで待ち続け、「後で会える」ように自分で段取りをした。

 やがて、夜の部が終わる。それと同時に各客間からたくさんの人々でまたごった返した。 

 香月は榊 久司(さかき ひさし)の姿を目をこらして必死に探した。

 かつて、彼は香月の恋人であった。友人の主治医の息子で、その友人の軽い風邪の見舞いに行ったとき、医者となった彼と初めて知り合った。

 香月の一目惚れであった。その時、榊は29歳、独身。大学一年生の香月の一方的な強い押しでどうにか2人は付き合い始めることができた。

 初めての大人の付き合い。

 香月は榊の手の上で簡単に踊った。見事に舞った。煌びやかに、艶やかに。見事に中心をとらえる、駒のように、くるくるくると。

 だが、それは突然だった。

「医院長の娘を、妊娠させた」

 その、たった一言で終わった。

 全てが、切り捨てられた。

 出会うきっかけとなった友人は医師に真意を但し、罵倒したそうだが、そんなことは何の役にも立たなかった。

 しばらく大学には行かなかった。

 だけど、今考えれば、それだけのことである。しばらく大学に行かなかったからといって、何かに影響したわけではない。

 彼はすぐに妊娠した院長の娘と結婚をした。その後のことは知らないが、10か月経って子をもうけただろう。

 その彼が、今先ほど、会いたいと……そのようなことを言った。

 彼は、不倫などしない。そのような男ではない。

 だが微かな希望は勝手に確信へと変わっていく。

 彼は、妻と離婚をし、妻は子を連れて家を出た。

 それだけの妻だったである。榊はきっと、それに振り回されただけのこと。

 ほら、だから……。

 こんなに人がいても、あんなに遠くても、彼の居場所が分かる。

 やはり、一人。

 今度こそ。

 香月はゆっくりと、落ち着いて近づく。

 多分きっと……

「見違えたよ」

 そう、言うと思った。

「そう?」

「ドレスがよく似合ってる」

 香月は頬を赤らめて下を向いた。

「今は? 学生?」

「もう25よ」

「いや、博士課程かと聞いている」

「いいえ」

「勉強熱心だったからてっきりそうかと」

「……そうね……」

「今は……マーケティングの方へ?」

「……………エレクトよ。家電販売」

「へえ、ちょっと驚いたな……」

「嘘、結構驚いてるじゃない」

 2人はしばし笑った。

「今もお医者さんよね?」

「あぁ、今は桜美院(おうびいん)でいる」

「そうなの!? 私、この前日帰りだけど入院したのよ?」

「ああ、坂野咲が騒いでた美人というのは愛のことか」

 突然の呼び捨てに、心が痛いほど動揺した。

「……どうかしら」

 目を逸らす。

「酒を飲まされたのではない? 客の家で」

「そうだけど」

「それはお気の毒に」

 あんな失態を、まさか榊に知られていたことに、戸惑いながらも会話は続いていく。

「俺はまだまだ修行中だよ。院長が現役だからね」

「い……」

 ってまさか……。

「今更なんだが、あのときはすまなかったな……。ずっと気になってた。あれから、一度も会えなかっから。謝りに行こうと何度も思ったよ。だけど、樋口のお嬢様から助言も受けて、まあ、罵倒も受けて(笑)、やめた」

 香月の表情は動かない。

「今は……そのまま結婚はしているけど、子供は堕りた」

「……お……」

 おりたって何……。

 堕りたって……。

 榊は言葉の出ない香月の顔をまじまじと見て、

「樋口のお嬢様から何も聞いてない?」

「……」

 香月は微かに首を縦に振った。

 榊は一度、周囲を確認してから「ちょっと」。1人用のソファにさらりと腰かけると、肘掛の隣に立つよう目で指示した。

「今更だけど」

 小声で一息つく。

 無意識に口元に手を当てた香月は、無心で床の絨毯を眺めた。

「今更だから言う……ことにしよう。

 あのときお腹にいた子は俺の子じゃない」

「……え?」

 どんな顔をすればいいか分からなかった。

「誰の子か知らない」

「……じゃあ。どうして結婚したの?」

「医者として迷っていた時期だった。引き抜きの誘いもあったし、友人は独立したりで。そんな中であの、東條(とうじょぅ)病院が自分の物になると思ったらそのままでいいと思ったんだ。

まだ、お前は若かったし」

 つけ足しのように言う。

「今も子供はいない。だけど、その中で本当に東條病院が自分の物になるとかそんなことで結婚をしている自分が、時々……迷うときはあるけどね」

「…………そう……」

「今は、独身?」

「……ええ」

「結婚なんか、しない方がいい」

 榊は優しく笑って立ち上がった。
 
「…………そういえば、もう榊じゃないんだね……」

「いや、病院では榊で通している。榊でいいよ」

 その名を、今度いつ呼ぶんだと思いながら、少し笑った。

「6年経つか……。俺も年をとったわけだ」

「そういえば、最近、(ゆう)ちゃんにも会ってないわ」

 会話に詰まるのが嫌で、咄嗟に思い出したことを言う。

「意外だな。愛はずっと続いてると思ってた」

 やはり名前を呼ばれて、再びどきりとする。

「理由は特にないけど」

「あいつはいい奴だよ。俺のことは嫌いみたいだけど」

「、知ってるんだ」

 お互い笑う。

「番犬には丁度いいのに。愛の周りはいつも変なのが多いから」

「それ聞いたら絶対怒る」

 犬呼ばわりされて怒る一成 夕貴(かずなり ゆうき)の顔が目に浮かんだ。

「本当のことだよ」

 榊はこちらを見ずに、どこか遠くを見つめ始めた。

 会話に詰まってきたんだろう。やっぱりね、そりゃそうだ……。

「紹介するよ……」

 だがまさかと思って、彼が見た方を見た。

「妻の加奈(かな)だ」

 意外にも、まあ、綺麗といえなくもない女性だった。肌の色は少し濃く、大きな瞳は印象的だが、ボーイッシュな印象である。ドレスが黒でまあどうにか落ち着いてはいるが、どうも榊のチョイスではなさそうだ。

「初め、まして……」

 加奈はあからさまに誰? という顔をして、榊に助けを求めた。

「樋口のお嬢様の友人だ」

 なるほど……そういう紹介の仕方もあるか。

「香月と申します。榊先生とはお久しぶりでビックリしました」

「そうですか。それにしても、綺麗な方……ですね。私の方こそビックリしました。主人にこんな素敵なお知り合いがいたなんて」

 皮肉かどうか、一瞬迷う。

「6年ぶりだよ。お嬢様の家によく来られていた」

 さらりと流す榊も相変わらずだ。

「では、私はそろそろ……」

 次の会話が思いつかずに、香月は急いた。

「あぁ。また」

 また、なんてないくせに。

 香月は両者に軽く会釈をすると、さっと後ろを向いた。

 一瞬、これは、夢の世界の話なのではないか、という希望を思い出す。

 だけど、それでも同じこと。人の者には変わりない。

 香月は人々の間をぬって、急ぎ足で会場を去った。

 ここで、シンデレラは片方の靴を落とす。だけど、階段でも靴は足から脱げない。

 自分はシンデレラではないのだ。

 香月はようやく気づいた自分が可笑しくて、涙も堪えずに笑った。

 自分の浅はかな期待に失望を。

 あるはずもない妄想に絶望を。

 榊……忘れよう。

 ここで会ったが、人生の最後、全部、忘れよう。

 そう考えていた。はずなのに。頭ではずっと回想をしていた。その後遅れながら二次会に参加しても2人を祝うことすらなく、ずっと自分の過去を思い出していた。




 インターフォンを鳴らし、ドアが開く瞬間を待ち焦がれていた香月に向かって、榊は涼しい顔で平然と冷たい言葉を放つ。

「学校は休むな」

 その日はどうしても会いたくて、大学を休んでまでマンションに行ったのに。迷惑そうな顔をされて。

「会いたかったから……」

 負けじと素直に言うと、

「学校の後でもいい」

と。

 さすがに帰されることはなく、半分怒りながらでも部屋に通してくれたが、彼はずっと書斎で仕事をしていた。これは、学校へ行かなかった自分へのあてつけだと思った。

 だけどソファから、その横顔を見ていても全然飽きなかったから。ずっと座って、デスクの横顔を見ていた。

「……」

 彼は小1時間経過してからようやく、目を深く閉じて伸びをする。そして、ちらっとこちらを見てから立ち上がった。

「昼は? 何食べる?」

「な、なんでも! あ、作ろっか?」

「……外行こう。ランチ」

「別に作っても……」

「食材が何もないから」

 そして、簡単に部屋から出て行こうとする。

 榊はいつもこちらが仕掛けない限り、何もしない。だから今日もこうやって、突然抱きついてからタイミングをはかる。

 多分、タイミングをはかってから抱きついたりしてたら、それで一日が終わる。

 自分で唇をつけて、目を閉じて、ぎゅうと抱きしめる。

 そこまでしないと、何も始まらない。

「……」

 溜息か吐息か分からない、榊の音。

「ん……」

 ソファに背中からゆっくり倒されていく。

 ゆっくり。

 まるで、患者を寝かせるように。

「なんか、患者さんみたい」

 雰囲気も台無しに、笑ってしまった。

「どんな病気の?」

 見つめながら聞かれて、

「……大好きで仕方ない病気……」

 恥ずかしいと思いながら、言い切って、ぎゅっとシャツにしがみつく。

「恥ずかしいなら言うな」

 バレバレだ。

「だって。言わないと、分からないし……」

「そんな病気はない」

「そう、だけど……。ねぇ、キス、して?」

 キスは何度かした。だけど、セックスはまだ……片手で数えられるほど。

「……」

 榊は無言で、優しく唇に軽く触れる。

「……して……」

 と、言わないとダメなのだ。多分、こちらが未成年なのを気にしているからだとは思うが、少し痛々しかった。

「今日はやめよう」

「どうして?」

 香月は間髪入れずに質問する。

「そんな頻繁にするもんじゃない」

 最後に会ったのが2日前だったことを思い出す。

「何で?」

「理由はない」

「なんでー?」

「………。これで……我慢な……」

 榊は分かってないんだ。

 そうか、わざとそういう風に仕向けているか。

 だって優しくて、ちゃんとしたキスを、深いキスをしてくるんだもの。

 ずるいのか、天然なのか……。

 ソファで刺激に疼く香月は、外に出る準備をする榊をぼんやりと眺めているだけで。

 もう少し大人になったら……。

 大人になったら、大人扱いしてくれると思っていた。

 もう少し待っていてくれるはずだったのに……。 





「全く仕事にならなんな」

「そうですね」

 宮下から指示を仰がれた仲村はすぐにトランシーバーのマイクのスイッチを入れた。

「カウンター、カウンター、人集まりすぎです。用がない者は直ちに外に出るように」

 全国的に秋祭りが有名な東都市の中心部にある東都店では、9月15日の祭り最終日は毎年浴衣DAYと決まっていた。

「あっ、ちょっと帯が乱れてきたからトイレに行ってもいい?」

「どうぞ、どうぞ」

 着用しているのは女性のみだが、女も男もほとんど仕事をしていない。皆浴衣に惑わされ、浮き足立っている。午前中は特に大変だった。テレビの取材は来るし、客は入るし、女性陣は仕事をしないし、男はすぐに集まるし。

「ほんと毎年大変ですね。客も浴衣を見に来てますからねぇ」

 仲村の見方は正しい。

「客数が伸びてありがたいが……。で、ちょっと。実は朝から気になってたんだが」

「何ですか?」

「どうしてあいつは浴衣を着ている」

 宮下はその方向を見ただけだが、仲村は笑った。

 浴衣は基本会社から支給されているので女性はほとんどが着用をしている。だがその中でも1人目立った男がいた。

 矢伊豆副店長である。なぜか彼は男性で1人、今日の朝から浴衣だった。

「自前らしいですよ。これも客寄せのひとつだって。これで来年から男も着るようになったら面倒で嫌ですけど。したい人はいいんじゃないですか?」

「下駄まで仕込んでいたし、結構な気合の入れようだな」

「好きなんじゃないですかねえ、マダムにさっきから引っ張りだこですよ。まだ昼も行ってないけど、今日は行けないんじゃないですか?」

「せっかくだから命一杯働いてもらおう」

「今日が済んだらまた落ち込みますからね」

 2人は冷静な会話をしながらまた仕事に戻った。

 カウンターは人でいっぱいだ。もちろん香月のレジも。

 今日朝彼女を見たとき、いつもの服より胸元が開いているのが気になって、また変な客が来やしないかと少し心配をしていたところだった。だが、今日は心配損に終わるとは思う。これだけ人がいればレジを打って一日が終わるだろうし、とにかくレジから出さないつもりだ。

 電話マスターにすることも少し考えたが、臨時レジリーダーとしての活躍に期待してレジにまわした。その考えは間違っていなかったと言える。

 そして午後2時。店内も若干落ち着いてきたし、そろそろ昼でも、とスタッフルームに入り一旦停止。

「お疲れ様でーす」

 すれ違う従業員の声でハッとするくらい、その光景に自分でも信じられないくらい見入ってしまった。

 何故……この2人が?

「……」

 宮下は無言でその隣の空いた席につく。

「お疲れさまでーす」

「お疲れッス」

「お疲れ様です」

 3人の声は全く普通だ。

「来年から男も浴衣ですかねぇ、地元が祭りだから浴衣なんて面倒なだけですよ」

 その西野の問いかけに、

「さあな……」

 としか返事ができない。

「西野、もう休憩入ってだいぶなるんじゃないか?」

「まだあと10分ありまッす」

「永作さんのは自前?」

 佐藤は香月に尋ねる。

「はい、可愛いですよね。浴衣にレースがついてるなんて。どこかのブランドか、オーダーメイドですよ、きっと」

 香月は普通に応えた。それで少しホッとする。

「矢伊豆副店長のも自前ッスよね? 和服も持ってるとは、さすが違う。でも俺も、どうせ着るなら白がいいなぁ」

 スマホ片手に呟く西野。

「白だと自前?」

 香月は笑った。

「男の会社用のができたら、絶対変なやつだよ……ロゴが入ってたりさ。女のは普通の花柄だからいいけど」

「いいじゃないか男なんだし」

 佐藤も普通だ。

「そんなん言い出したらおっさんですよ、佐藤さん」

「そうか? 俺は昔からこんな感じだけどなあ」

「まあ、元がいいとそうかもしれませんけどねー」

 適当に返答した西野。

 それはイヤホンに入ってきていた音声のせいではない。きっと本音だろう。

 その音を聞いて、西野が「西野休憩出ます」と去る。そしてすぐにまた耳に声が入って、

「はい」

 と仕方なさそうに佐藤が席を立った。仕方なさそうだったのは、きっと見間違いではない。

 2人きりになると宮下はすぐに香月に話しかけた。

「佐藤さん、どうもないか?」
 香月は少し驚いた顔をしてから、笑い、

「大丈夫ですよ、こうやって一緒に食事するのは多分初めてですけど。たまたまです。西野さんと佐藤部門長が一緒に食事しているところに、西野さんに呼ばれてここに座っただけですから」

「そうか……」

「最近は……大丈夫です。少し話しもするようになったけど、普通の部門長って感じです」

「……」

 宮下は一瞬言葉を考えたがしかし、

「そうか、それならいいが……」

 としか言いようがなかった。

「それに、やっぱり副店長に上がるんですね」

「え? いや……」

「え? 違うんですか?」

 香月の表情からして、確信しているのだと知る。

「香月、それは誰に聞いた?」

「え? 佐藤部門長本人にですよ?」

「まだ極秘の段階だ」

 宮下はどこも見ずに言う。

「あ、はい……それは言ってました。けど、今、宮下店長だから言ったんです……」

 香月はバツが悪そうに視線を下げてしまったので、

「あぁ、いや。それが分かってるならいいんだ」

 一瞬考えたが、

「やっぱり香月は特別なんだな」

口に出した。

「そんなことないですよ」

 そう言うと思った。

「私、思うんですけど……」

「何?」

 目を合わせる。

「佐藤部門長、本当に私のことをそんな風に見ているでしょうか?」

 つい、浴衣の胸元に視線が落ちてしまう。

「……いや、分からんな……」

 考えながら喋る。

「ですよね!!」

 分からんな……の後、何を言おうか迷っている間に香月に嬉しそうな顔をされたので、そのまま言葉に詰まってしまった。

 香月的には、佐藤の人柄を重視して、これからも一緒に仕事をしていきたいのだろう。

「あれだって、もう昔の話だし……」

 忘れたいのだろう。全部忘れて、昔の、店長と従業員の、何でもなかった関係に戻りたいのだろう。 

 確かに、それくらい信頼、尊敬できる人ではある。

 だが、今の香月に佐藤という人が、果たして必要だろうか?  



 さて、その日の帰り。

 従業員の大半が浴衣のまま飲みに出る中、香月は1人歩いて家路についていた。皆と一緒に飲みに出るという選択肢もあったのだが、慣れない浴衣の疲れが出たのか、なるべく早く帰宅したかった。早く寝たい。しかも、明日は朝一番の出勤になっている。

 自転車で5分の道のりも、浴衣のせいで乗れず、歩けば遠い。それでも、重い足を引きずりながら近道を選んで前に進んでいた。もうすぐそこに東京マンションの門が見えている。

「!?」

 大通りから入ってすぐのところで、突然街灯下の灯りに左手が見えたので、驚いて立ち止まった。男が1人立っている。が、明かりで少し逆光になっており、顔はまったく見えない。

 男は左手を水平に出すと通せんぼをしているようで、怖くて浴衣の裾を握りしめた。

「あの、道を尋ねたいんですが……」

 Tシャツにジーパンにキャップ帽。まだ若い感じがする。

「あ、はい……」

 どう考えても普通ではない。

「ここなんですけどね……」

 男は暗いながらにも大判の地図を取り出すと、こちらに向かって歩き始めた。指で位置を確認している。振り切る勇気もなかった香月は仕方なく、立ち止まって指先を見た。

「ええーっと……」

 男は場所を探しているようなので、次に話しかけてくるのを待っていようと何気なく空を見上げた瞬間、ものすごい力で右腕を引っ張られた。

「え……」

 咄嗟で声が出ない。体は男に引っ張られるままで、足から下駄がすぐに脱げた。

「来い!!」

 気付かなかったが道路の反対側に黒い車が停められていた。そこに引きずり込むつもりなのである。

「い……」 

 嫌、が声に出ない。

 とにかく右腕を強く摑まれ、引かれるがまま。

 浴衣も邪魔をして手足に力が入らず、きんちゃくも手から離れ、抵抗することもできない。

 車のドアが思い切り開かれたその時。

 突然、眩しい光が2人の背後から当たり、同時に男の動きが停止した。

 車の走行音が小さくなると同時に、更に強く光が差した。

 停車したことに気付いた男は腕を突然放す。

 香月は支えを失ってその場に倒れた。

「チッ」

 舌打ちのような声が聞こえた。

 車のドアが閉まり、すぐに走り去っていく。

 その間、運転席から若い男が出てきてくれていたが、間に合わなかった。

 状況を飲み込むことができず、呆然と浴衣の裾も気にせず座り込んでいる香月に、若い男は近寄ってくる。

「大丈夫?」

 その男は、まず香水の匂いがした。そして、黒いスーツにピンクのワイシャツ。

「どうする? 今の知った奴?」

 言いながら転げたきんちゃくを拾い、手渡してくれる。

「え、いえ、いや……でも暗かったからそんなに顔が見えなかったけど……」

「彼氏とかではない?」

「違います」

「今だって拉致られかけてたよな?」

「た……ぶん……」

 そう言われて初めて意識する。そう、まさに今、地図を出しながら道を教えてくれと迷ったふりをしながら、こちらに近づき、車の中に引っ張りこもうとした……。

「警察行った方がいいよ。ほら、立てる?」

「あ、すみません……」

 差し出された手にすんなり摑まった。

「いや、呼んだ方がいいのかな?」

「いえ……私もう今日は疲れてて……早く家に帰りたいです」

「あそう……じゃあ、まあ帰る? って家……え、まさか、東京マンション?」

 彼は軽く笑った。

「まあ…」

 香月は、何の笑いだと思う。

「あ、でももし後からなんかあるといけないから。俺の連絡先教えとくね」

 彼は胸ポケットから一枚名刺を取り出した。

「ハーティの美紗都(みさと)です。良かったら、今度お店に来てね」

「あ、どうも……」

 暗くてよく読めないが、店名と名前と電話番号くらいが書かれているのだろう。

「それにしても、俺が通りかかってよかったね」

「すみません。……ほんと、ありがとうございました。ほんとですね……。もし、誰もここを通らなかったら危なかったです」

「まあ、この辺治安はいい方だけどさ。夏だし変な奴も多いから。気をつけなよ」

「そうですね……」

「じゃぁ」

 そのまま、帰ろうとする美紗都の後姿を見たとき、やはり何か礼くらいはしなければと思い始めた。次回……日を改めて、物でも持って行く? 品を買って、電話をして、待ち合わせるか、場所を聞いて自宅に送るか……。どれもこれも面倒だ……。

「あ、あの!!」

「なにー?」

 彼はすでに車に乗り込んでいる。

「あ、あの……よかったら、お礼をしたいんですけど……」

 変に聞こえないように、ゆっくりと真面目に喋る。

「あぁ、別にいいよ」

「いえでも、そんなわけには……」

 それでいいならそうでもいいけど、やはりそんなわけにはいかない風を装っておかなければいけない。一度くらいは。

「じゃぁ……あ、今からでもいい?」

「え、あー……」

「良かったら、同伴付き合ってくれたら嬉しいかな」

 同伴って……確か、一緒に店に行くことだっけ? 多分彼は本気で喋っているのだろう、顔笑ってはいるが頭は本日の予算を算段しているようにも見える。

「あ、まあ……」

「いい? 別に、そのまま店に入ってくれればいいだけだからさ。今日は飯ももう済んでるし。ハーティも初めてでしょ?」

「あ、はい」

「なら最初は2000円で飲み放題だから。ぽっきり」

 まあ、それくらいの額なら、とも思う。

「分かりました。それでいいです」

「よっし、じゃ乗って?」

 もし、その店が2000円じゃなくて、大変なことになったらどうしよう……。

 内心、思わないわけでもなかった。だけど、ここまで来たら行かない以外の道はない。……と、思う。

 車中は車の匂いではなく、彼自身がつけている香水の香りが充満していた。綺麗な車内である。物が何もない。

「ホストクラブ、初めて?」

「いえ……何度かはあります」

「どこ? 店の名前は?」

「エース」

「あぁ、はいはい、超有名店」

「友達がホストクラブ結構好きで……」

「ホストの名前はイッセイ?」

「はい」

「超どんぴしゃじゃん! まあ有名だからねー」

「そうですねぇ……」

「テレビとかに出てるの、知らない?」

「まあ……」

「実は俺も出てるんだけどなー」

「えっ?」

 しまった、リサーチ不足。

「これでも結構売れっ子なのよ」

 少し視線を感じた気がしたのであえてまっすぐ前を向いて。

「あ……すみません……」

 『知らなくて』、は余計だろう。

「今日から知ってね、よろしく♪」

「……」

 ドンペリ入れてとか言われたら、どうしよう。そんな持ち合わせはない。2000円だって実はぎりぎりだ。普段カードは持ち歩かないので、現金2000円と小銭が今日の全財産であった。 

 彼、美紗都は白い肌に茶色い長い髪の毛が顔にかかった20代後半の若者であった。まだ明るい場所で顔をよく見てはいないがその体は細い。どうせ日々酒を流し込んでいるであろう、老化した内臓が透けて見える気がした。

「あの……すみません。本当にご迷惑をおかけしました」

「いいよ。いいお礼だと思ってるから」

 それもそうか。

 タクシー内での美紗都の雑談はまあ面白かった。さすがに初対面の女性を悦ばせる仕事についているだけはある。遠い共通の知人であるイッセイの話しがメインであったので、難しいことではなかったが、それでも十分その素質はあった。そのせいか、案外早くハーティに到着する。

「久しぶりです、ホストクラブ」

「楽しんで行ってね」

 こちらの店も浴衣の店員が大半、客も浴衣が多い中、狭い通路を抜けて案内された隅のテーブルに、香月は腰かけた。

 革張りの白いソファが緊張感を漂わせる。

 すぐにボーイがメニュー表を持って来る。

「いらっしゃいませ。今夜は何になさいますか?」

「……えっと……」

 2000円のコースで、と言えばいいのだろうか。実は、ホストクラブに1人で来たのは初めてであった。いつも友人が全て仕切ってくれていたし、酒も1人で頼んだことがない。

 一人迷っているとカウンターで用を済ませてきた美紗都がすぐに近づいてきて、

「初回コースで」

 と告げた。そして、隣に座る。

「何飲む?」

「えっと……あの、私、2000円しか持ってなくて……」

 ここでツケでもいいからと言われたら、断れるだろうか。

「うん。このメニューの中なら追加なしだよ。飲み放題」

「えーっと……じゃあこのカルピスハイで……」

「え!?」

 店内は音楽がやたら煩くて、こんなに近くにいるのに声が全然聞こえない。

 そのせいにしたって、初対面の人にこんなに耳を近づけられたらドキっとしないわけがない。

「カルピス!」

 彼は親指を立ててジェスチャで応えると、ウェイターに顔を近づけて注文した。

「ほんとにホストクラブ来たことある?」

 笑いながらおしぼりを渡してくれる。

「いや……友達としかないです。1人では初めて。だから、お酒も注文したことない」

「ああ、いいよ。大丈夫 」

 彼はにこやかに笑うとすぐに出てきた2つのカクテルのうちのひとつを持たせてくれる。

「じゃあ、2人の予期せぬ出会いに……乾杯」
 
 実はずっと彼の腕が自分の肩のすぐ後ろのソファにかけられていることが落ち着かなかった。肩を抱かれているかのようなよくある思索に、いちいち戸惑ってしまう自分は、まだ若い。

「今日はあんまりゆっくりいられないかもしれないけど」

「えっ、あぁ……」

 言われて見渡してもここから全ての席が見えるわけではないので混み具合が分からないが、さきほどからあちこちで歓声が上がっているようだし、祭りの日だけに忙しいのだろう。というか、それほどの日なのに同伴もいないというのは、実は売れっ子というのも自己評価なのかもしれない。

「美紗都さんはどうして浴衣着なかったんですか?」

 店内に入ってすぐに感じていたことを尋ねる。

「昨日汚したから。大変だったんだよ、酔って寄りかかってきちゃった子がいてさ、びしゃーってこの辺真っ赤。さっき、その子と新しいの見に行ったんだけど、和服も洋服も気に入るのがなくてさぁ、それでの帰りだったわけ」

「そうだったんですか……」

「でもほんと良かったねー」

「はい、あのままだったら私……」

「間違いなくここにはいないよ」

「そう……ですね」

「まあ、助かったんだしさ。今日はもう忘れちゃえ」

 あ、この笑顔可愛いかも。

 初めてそう思った時、反対端のテーブルでシャンパンコールが鳴り、彼共々ホスト達は上客の元へ集まっていく。香月は内心ホッとした。この瞬間、ホッとした客はいないだろう。

 しばらくして帰ってきたものの、

「楽しめてる?」

 1人にしておいて、それはない。

「あ、いえ、私はあの……はい、楽しいです」

 精一杯気遣ってにこやかに言うが、

「あ、ちょーっとゴメン……」

 って多分聞いてないな。

 隣の女子2人が、

「なんか今日は忙しくてダメだねー」

「店変える?」

と、言いながら既にバックを持っている。

 あ、この人達がいなくなるんだったらついでに一緒に帰ろうかな。

 本人が帰って来る前に帰るつもりが、美紗斗は思ったよりも早く帰って来た。

「えっ、もう帰るの???」

「……明日早いもので」

 まあ相手も、2000円で2時間粘られるよりも、30分で帰られた方が回転がよくて良いに決まっている。

 香月はここからどうやって帰るか一度立ち止まり、スマホを確認したところで、

「あー!!!」
 
 という若い女性の楽しそうな悲鳴の方を見た。

 ホステスらしい女性がその時、そんな大声を出さなかったら、後ろを振り返ることなんてなかった。

 視線が止まる。

 体が硬直する。

 心臓だけが、素早く動く。

「あぁ…………ホストクラブ?」

 榊久司は、声をかけてきたはずのホステスの女性を素通りし、香月の少し手前で立ち止まった。目の前の看板を見上げている。

「え、先生、何、知り合いー!?」

 と投げかける女性を無視して。

 久しぶりに見た。懐かしい、仕事帰りのスーツ姿。榊はこちらに気付きながら、歩み寄って来る。

「……」 

 香月は無言で少し顔を下げた。

「え、何々、先生の知合いー??」

 女性がしつこく話しかけてくると、榊は、

「まあ…」

 そして、

「ホスト遊びとは……未だにしていたとはな」

 なんでそんな口ぶりで話すかなぁ、知らない人の前で。

 見知らぬ女性は何もかも忘れたかのように、交互に2人を見る。

「まさか、先生彼女いたの??」

「あぁ、昔の恋人」

 なっ……

「えーーーー!?!?!?!?!?!?!?」

 いやもう一番叫びたいのは私です!!

「ほんとに?」

「嘘じゃないと思ってるけど?」

 榊は軽く笑った。

「えー、ショックー」

 女性はさも恨めしそうにこちらを見た。

「タクシーは?」

 女性のことなど全く気にしていない様子の榊は、誰とも見ずに言う。

「え、いやまだ……」

 香月の返事を聞くなり、彼は車道に向かって手を挙げた。

「……」

 女性は大きな瞳でこちらを凝視する。何もうこの空気……。

 榊の右手に、タクシーはすぐに捉まった。

「愛」

 何で……呼び捨てなんかに……。

 そう思いながらも、香月は一歩前へ出て、そのまま彼の元へ。そして、1人ドアの中へ。

「えっと……どこ?」

 そうか、住所知らないんだ。

「東京マンション」

「東京マンションまで、乗せて行って下さい」

 と言いながら彼は財布から1万円を取り出す。

「えっ、ちょっ……」

「これで」

 運転手は受け取るなり、一旦停止する。そりゃそうだ。ここから東京マンションなら、かかっても3千円だろう。

「釣りはいらない。代わりに無事に届けてください」

「あ、はい!」

 運転手はチップの良さに、現金にも精一杯元気よく返事をする。

「あっ、あの……」

「気をつけて帰れよ」

「え……あ……」

「何?」

「お金……」

 そうだ、確かに今ホストクラブで使い果たしたため、現金が小銭しかない。

「気にするな。じゃあな」

 彼はさっと身を引くとバタンと戸を閉めた。

 すぐに指示器の音が車内に響く。

 なんで……。

 涙が出た。だって、彼は私をあっさり捨てて、上司の娘を妊娠させたと言い、結婚した人……。

 なんでこんなに優しい? 昔の女をあっさり切り捨てる方法はいくらでもある。知らないふりをすればいい。

 それなのに彼は……。 そうやって、甘やかす。

 どうして、今更……。

 もう、会うこともないだろうに……。

 なんで、優しく……。

 でも、もしかしたら、奥さんより優しく?

 だとしたら、自分に愛人をする度胸なんてあるだろうか……。

 真剣に考える。

 妻がいる。それを承知で彼を愛し、抱かれ、玄関口で帰らないでと拗ねることができるだろうか……。

「お客さん、着きましたよ」

 予想通り、すぐにマンションのエントランスに着く。香月はすぐに下車したが、足がそこから動かなかった。

 いくら愛し合っていたって、妻から電話が鳴ればすぐに家に帰る。

 そんな愛人が、世間に公表できない擦れた役が果たして、できるだろうか……。

 次の車がエントランスに停車してから、足はようやく前に動き始める。

 もし、もしもの話。妻が流産によって不妊症になったのであれば、自分は代わりに産むだろうか?

 榊が欲しいと言ったら、身ごもって、子供と2人で生きていこうなどと、決心できるだろうか?

 足はついに自宅の玄関に入った。

 香月は思い切ってベッドにそのまま倒れ込んだ。

 そうでないと全てが崩れると思った。

 すぐにでもさっきの場所へ戻り、歩き探して、泣きながら抱きついてしまうと思った。

 後のことなど考えず、全てを投げ出してその元へ行ってしまうと思った。

 明日は朝一からだ。浴衣の片づけもしないといけないし、そのまま寝落ちすると肌によくない。

 そんなことを考えられるくらい頭は余裕を取り戻していたはずなのに、反対に声を上げて泣いてしまう。

 私は、辛かったんだろうか?

 榊に優しくされて、辛かったんだろうか。

 だけどその時には、そんなことは既にどうでもよくなっていて。

 今はただ目を閉じ、深い眠りにつく体力しか残っていなかった。






「阿佐子からの連絡嬉しかったよ」

「そう? そんなことよりね……」

 樋口 阿佐子(ひぐち あさこ)は珍しく丁寧に髪を結い上げていた。警視庁総監の娘である彼女は生まれつきのお嬢様でベンツには必ず運転手がついており、運転免許も持っていない。

 こんなに香月とは何もかも勝手の違う彼女と知り合ったのは随分昔ことになる。

 幼少時代、父親の奨めでピアノスクールに通っていた頃。まだ2度目の練習の日、たまたま阿佐子がスクールの見学に来ていた。その当時のことは、周囲の助言をかりて空想したもので、ほとんど覚えてはいない。話しによると、スクールが終わるなり突然自宅に遊びに来ないかと誘われた。迎えに来ていた継母は戸惑ったが、付き添いの初老の男性に丁寧に誘われて、そのまま娘をベンツの中に入れたのである。

 結局香月はスクールは3度目でやめてしまったが、阿佐子はその講師を専属でつけて自宅で練習を始めた。

 子供ながらに、阿佐子が忙しい人だということはよく分かっていた。ピアノ、茶華道、日本舞踊、確か乗馬もしていたと思う。その合間を縫って城のような自宅に送り迎え付きで招待をしてくれていた。何をして遊んだだろう。チェスを始めとするボードゲームや、愛犬の散歩、自宅のプールでも泳いだか……。必ず美味しいお菓子を出してくれてそれがとても楽しみだった。自宅で食べるような10円、20円の駄菓子ではなく、高級店の上等な菓子だということは、子供ながらに十分伝わった。

 それから、中学、高校、大学もずっと違う学校だったが、2人の仲は途絶えることはなかった。時々阿佐子は自分の友人も紹介して、その中に交えてくれた。学生でも、阿佐子の周りは皆華やかだった。だけれども普通の香月を誰もそのようには扱わなかったし、逆に丁重に接してくれた気がする。嫌な気持ちがしたことは、ただの一度もない。

 その友人の一人が現役ホストのイッセイ、本名 一成 夕貴(かずなり ゆうき)である。彼の父が樋口の父の部下であり、産まれたときからの仲らしかった。彼は格別に、優しく丁寧に相手をしてくれたので、今の職業もまあ、向いているんじゃないかと思う。

 阿佐子は目的地へ向かうベンツの中で話の続きを始める。

「本当に素敵な方なのよ、驚くわ」

「日本語どれくらい喋れるの?」

「日本人以上に」

「なるほど……」

 さて、本日は何の集まりなのかというと、事の始まりは昨日の昼のこと。突然阿佐子から電話がかかり、

『素敵な中国の方を愛に紹介したいの。明日の夜ちょっと出て来てね』というわけなのである。それにしても中国人というところが気になって、

「どういう知り合い?」

『話せば長くなるの。とにかく明日迎えに行くわ』

「良かった、明日は休み。何時でもいいよ」

という具合に簡単にまとまったのである。

 ベンツは小一時間ほど走ると、見たこともない、もちろん来たこともないとても高級そうな料亭の駐車場で停車した。まさに政治家御用達という感じである。

「お連れのお客様がお部屋でお待ちでございます」

 何の前触れもなく、着くなりの大勢での出迎えに驚いて、阿佐子の陰に隠れるように一歩下がってしまう。女将の言葉に、阿佐子は靴を片すこともせずまるで自宅のように上がり、急ぎ足で廊下を歩き始め、

「お部屋、早く案内して」

 自分が脱いだ靴を片づけようとしたのを仲居に制された香月は、慌てて阿佐子の意思に従った。

「お父様の知り合いに会わないようにしなきゃ」

 彼女は背筋を伸ばして女将の後ろを歩きながら呟くが、自分はこんなところに知り合いなどいないので安心してきょろきょろ後ろを着いて行っていた。

 彼女が連れてきてくれる店は必ず上品な店だが、それでもこんな角ばった店は初めてだった。それほどの相手だということがよく分かる。

 相手は阿佐子が射止めた中国人。そういえば何をしている人なのだろう。年はいくつ?

 そういえば、さっきから格好いいとか、素敵とか、抽象的な言葉しか聞いていない。

「こちらでございます」

 丁寧な案内に緊張しながら、開けられた障子の向こうには。

「お待たせして申し訳ありません」

 阿佐子は戸が開ききるより先に中に入った。

「いえ、私も今来たところです」

 長い髪の毛が印象的だった。多分最初に男と聞いていなければ、まずそこを迷っただろう。

 黒いスーツに長い黒髪。その人は、上座に座り、テーブルに広々と料理を並べ、既に酒を手にしていた。

「初めまして」

 相手が座ったままなので、どうやって挨拶をしようか迷いながら、とりあえずお辞儀する。

「こちらがお話ししていた彼女です。香月さん」

 阿佐子はその人の隣にすっと跪いた。

「あぁ、初めまして。どうぞ、かけてください」

 さっと出した掌は白く細い。顔も白く、またとても端整な顔立ちだった。切れ長の目は優しく揺れ、まっすぐ伸びた鼻も、薄い唇も、真ん中で分けられた綺麗な髪の毛も全てが美しいという他ない。

 産まれて初めてこんな美しい人に出会った。今がまさにその瞬間だろう。

「愛、突っ立ってないで、座ったら?」 

 阿佐子に言われてようやく気付き、なんとか一番入り口近くの下座の座椅子にちょこんと座った。室内は、十分な広さがあり、床の間を始めとする、ふすまや照明も細かい造りが施されており、とても豪華な雰囲気で、手に箸をとることも忘れるほどだった。

 あぁ、そういえば中国人……。

 今さら思い出すほどに、この場に飲み込まれていた。

「楽しみにしていましたよ」

「……え?」

 こちらに向かって話しかけられているのが不思議なくらいだ。

「阿佐子さんに素敵なご友人がいらっしゃるというので」

 阿佐子は得意そうにその人のお猪口に酒を注いだ。

「え、ああ……い、いえ、そんなっ、滅相もない!!」

「滅相もないって」

 阿佐子はいつもより上品に笑った。

「そんな私、あのこんな綺麗な……初めてで、今ビックリしているところです」

「そうですか?」

 優しく笑う、その笑顔を直視することも難しい。

「阿佐子さん。あなたも、食事を召し上がってください。愛さんも、さあどうぞ」

 あれ、この人、私の名前知ってるんだ……。というか、逆にこの人の名前知らない! ヤバイな……。

 阿佐子がスマートに立ち上がり、そしてこちらの隣に腰掛け、ようやく食べるのを見計らってから香月は箸を取り、無難な刺身から食べる。テーブルの上にはとにかく繊細な細工が施された彩鮮やかな料理が並んでおり、一体いくらくらいするのかも、まるで見当がつかない。

「香港に来たことはありますか?」

 多分その人は気を遣ってくれているのだろう。食べないで、しばらく話しかけてくるつもりのようだ。

「いえ、ありません」

 愛は、迷ったが、箸を持ったまま答えた。

「良い所ですよ。日本も良い所ですが。

 是非いらしてください。その時には必ず案内しましょう」

 その人はにっこり笑って微笑む。

「あ、はい。ありがとうございます……」

 食事も喉に通らないのが非常に惜しい。

「明後日までいらっしゃるんでしょう?」

 阿佐子は甘えた声で聞いた。

「いえ、明日に。急ぎの用ができてしまって」

「そうなんですの……残念ですわ」

 阿佐子は言葉そのままの表情でしゅんとなった。

 こんな阿佐子を見たのは初めてだった。確かに、そうなっても頷ける相手ではある。

「それにしても、魅力的な方ですね……」

 その人は阿佐子から視線を外し、こちらを見つめ始めると、両肘をテーブルについて、手を組み、その上に顔を乗せた。

「ええ、そうでしょうね……」

 阿佐子はこちらを見ない。

「え……」

 明らかな阿佐子の不機嫌さに戸惑いながら、返す言葉を懸命に探す。

「もしよろしかったら、何かプレゼントをさせていただけませんか? お会いできた印に」

「え?」

 初めて聞くセリフに戸惑い、阿佐子を見た。

 が、彼女はこちらに気付かない。

「何か欲しい物はありませんか? 何でも」

「えー……と、言われて、も……」

 阿佐子に向かって喋る。

「頂きなさい。そうするべきよ」

 彼女は食事に夢中なのか、こちらを見ずにそれだけ言ってグラスを傾けた。

「あ、では……」

「何がいいですか?」

「何でも……」

「うーん」

 その人は苦笑しながら、親指を口元にやった。

「車は何を持っていますか?」

「いえ、車は持っていません。今は自転車だけです」

 こんなお金持ちの人の前で恥ずかしくなったって仕方ないのだが、見栄のつもりで「今は」とつけた。持っていた時期もあるのだが、使わなくなったので、実家に預けているのである。それをごちゃごちゃ説明するよりも簡単に言えばそれでいい。

「では、車を贈りましょう」

「え!? 車!?」

 阿佐子を見た。だが彼女は全くの無関心だ。それどころかかなり機嫌が悪い気がする。

「車なんて、そ、そんな高価な物、頂けません!!」

 まあ、軽なら100万弱のもあるだろうけど……。多分、この人からすれば100万くらいはした金だろうが、こちらとしては、それに見合うお返しできるはずもなくて。

「今の時代、車はそれほど高価な物ではありませんよ。お気になさらずに、車をお贈りしましょう」

「いえ、そんな……今日初めてお会いした方に、そんな……」

「いいのよ、頂きなさい」

 阿佐子は会話を遮るように続けた。

「東京マンションまで送り届けてあげて下さい」

「東京マンションですね。楽しみにしていて下さい」

「え、あ、そん……」

「リュウ様直々のプレゼントなんてなかなか頂けないわよ」

 様?

 ってこの人一体……。

 結局一緒にいた1時間で、彼が中国人だということはほとんど忘れていた。外見は非常に端整だがそれほど日本人離れしているわけでもないし、言葉のイントネーションも同じ感じだし。

 ただ、丁寧な言葉を勉強したんだなということはよく分かった。日本人以上に日本人らしい。

 しかし、会話が3人で盛り上がるというよりは2人ずつで別れていることがほとんどで、よかったんだか悪かったんだか……。

 帰りがけ、特に気になったのが、阿佐子の表情であった。リュウ様の次に阿佐子が部屋を出たので廊下でも隣に位置していたはずなのに、全く楽しそうではなかった。

 遠距離ということは、滅多に会えないであろうに……明後日が明日に早まったことを密かにまだ拗ねていたのだろうか。

 それにしても表口に横付けされた、彼が乗って帰った車は見事なものであった。果てしなく長い。ロールスロイスという車であることは分かったが、それがこんなに長いものだということは、今回初めて知った。

 私たちはそれを見送ってからベンツに入ったのだが、上には上がいるものだということを実感した2時間であった。

「あの、聞きたいんだけど……。リュウ様って……どうして様なの?」

 阿佐子の気持ちを傷つけないように、車内で静かに尋ねる。

「何も言わない方がいいと思ったから言わなかったの……。

 あの方は、香港のマフィアのトップよ」

「ま……ふぃあ?」

「そう言ってもなかなか信じられないわよね」

 彼女はようやくこちらを向いて優しく笑った。マフィア=黒いスーツにサングラス、ハットを被った男性、としか思い浮かばない香月は、単純に、

「ほんとは、怖い人?」

「怖い人って、怖いってどういう定義で?」

 逆に質問されて、阿佐子への疑問が深まる。

「定義……。だから、こう……人を殺したり、殴ったり。よく映画とかにある、海に沈めるとか?」

「確かに、そういう世界ではあるわね。だけど、あの方が突然、何も知らない人を殺したりするわけじゃないわ」

「だけど……そういう世界なんだ……」

 阿佐子は早口でそっけなく答えた。

「そうね」

 ここで、理解をしなければいけないと思った。様々な不安が溢れたが、それが、阿佐子が香月に求めたことで、否定されることは絶対に望んでいないと勝手に解釈をした。

「どこで知り合ったの?」

 香月は続ける。

「学生の頃。一人で旅行に行ったでしょう?」

「え? ……カナダ?」

「カナダだって言わなかったら、お父様が行かせてくれなかったのよ。だけど本当は、
香港へ行ったわ。ただなんとなく、あの夜景が一人でゆっくり見たかったの。

そこで出会ったのよ。普通のバーのカウンターでね。たまたま一人で飲みに来ていて……そこで意気投合……というのもおかしいわね。それで、次の日船が……手持ちのカジノ船が出航するからどうかって誘ってくれたの。

 初対面の私を、VIPルームで遊ばせてくれたわ」

 そこで彼女はこちらを見てくすりと笑う。

「違うのよ。何もないの。だけど時々、こうやって日本に来たら一緒に食事をしたり、こちらから香港に出向いたり。ただの食事をする友達なのよ」

「どうして私に会わせたの?」

 そこまで聞いて、一番不思議に思ったことを聞いた。

「……思いついただけよ」

 いたずらに微笑み、軽く小首を傾げた。

「で、この前そのことを言ったら同席させても構わないって。もちろんそのために日本に来たわけじゃなくて、仕事のついで。だけど良かったじゃない。車プレゼントして頂けて」

「そんな……私みたいな普通の人からしたら車なんて高級品だよ? そんな物やすやすと貰っていいのかなぁ」

「リュウ様お気に入りって証拠よ」

「……なんか、怖いなぁ……。私、海に沈まされたりしないかなぁ……」

「大丈夫よ。私はちゃんと分かってるから」

 阿佐子はしっかりと自信に満ちた笑顔で応えたが。分かっているって……海に沈まされないということを?

「……でも、ほんと綺麗な人だったね。最初、男だって聞いてなかったら、まずそこを迷ったと思う」

「そうね、すごく素敵でしょう? ……抱かれてみたい……」

 阿佐子がこの手の言葉を発したのはこれが初めてだったので、

「ほんとに本気なんだね」

と驚いてコメントする。

「そう、こんなに人を尊敬して、好きになったのは初めてよ」

「あれ? けど、自分のことを好きになる人は嫌いなんでしょ?」

「いえ……今回ばかりは本当に手に入れたいわ」

「おおー、ようやく本気の恋に目覚めたんだね」

「そう……そうなのよ……」

 阿佐子はこちらを見ずに窓の外を眺めた。

 白い肌が美しく浮かび上がり、まさに絵になる彼女は昔、恋に落ちたことがある。

 それまでの彼女は自由奔放であった。いつも周りにモデルのような派手な友達を従え、堂々とベンツからおりて歩く。お嬢様そのものであった。そんなお嬢様が恋をした男がいる。

 香月は阿佐子と同じ学校ではなかったので相手の顔も詳しくは知らないが、彼女から聞く限りは、優秀な男だった。

 彼女はその時、何度も溜息を吐き、呟いていた。

 あの人が私をさらってくれたのなら、と。 

 相手は高校の教師だった。幸いにも独身。

 卒業するまで待てばそれなりに物になる関係だろうと思っていた。

 そんな一途な阿佐子を微笑ましく思った。

 だが、次に会ったとき、

「そんなことってあり得ないでしょう?」

 確かに、あり得なかった。

 その教師は阿佐子の気持ちに気づき、自惚れ、のめりこんだ。

 自分が教師であることを、一時忘れた。

「抱きついてくるなんて、信じられない。だから大声を出してやったの」

 乱暴な言葉を使う彼女にハラハラしながらも、自信満々に話す次の言葉が待ち遠しくて仕方ない。

「私のことを好きになるなんて……なんか、がっかりでしょう?」

 あの人に近づかれた瞬間、冷めたわ」

 だが、阿佐子らしいと思った。

 産まれながらにして、冨も名誉も知能も美貌も整った彼女であれば、そんな一人の教師の人生を変えるくらい、どうということはない。むしろ、人一人の人生を軽く扱うその様が素敵だと思えるような人だった。

 阿佐子は猛アプローチをかけ、教師はその誘いに簡単に乗り、教室で2人きりになると当然のごとく抱きしめた。30近い教師からすれば、好意を持った女性を抱きしめるのは当然のことだが、今回ばかりは相手が悪すぎた。

 阿佐子はその教師の失態を父に告げ、逮捕させた。

 ほんのちょっと。生徒の人気を取った教師が、あっという間に前科者になってしまったのである。しかも、強制わいせつ罪。ニュースや新聞で、小さくではあったが報道された。

 女生徒は教師を慕っていたが、まさか無理矢理羽交い絞めにされて股間を擦り付けられるとは思ってもみなかった、と。

「すごいね」

 いつもこんな平凡な言葉しかかけられない香月だが、阿佐子のことをいつも羨ましく思っていた。この時だって、そう。人の人生を捻じ曲げても、ただ笑って終わらせるその、堂々とした人間性に惚れ惚れしていた。

 気が強く、背筋をピンと張り、思い通りに事を成す、可愛いらしい女性に。

「今日はいい夢が見られそう」

 ほら、そうやって、にっこり笑って好きな人のことを考える。

 数年前に陥れた、あの教師のことなどきっと、すっかり忘れてしまっているに違いない。 




「あの車、どしたの!?!?」

 大雨の日、自転車で濡れる気がしなくて、つい車で出社した。途端、玉越と西野に同時に詰め寄られ、白のBMWで会社に行くということがこれほど目立つことだと初めて知った。

 BMWの頭文字がどんな意味なのかも知らない、車そのものに興味がない香月には「宝の持ち腐れ」という言葉が非常に似つかわしい。

「……もらった」

「もらったぁ!?!?」

 ちょっ、声でかい。

「おい、あのBM誰のだ?」

 この焚き火に寄って入ってきたのは矢伊豆だ。

「……」

 玉越は何も言わずに驚き顔のまま香月を指す。

「おー、すごいな。全額ローンか?」

「ちちちちち、ち、待て」

 西野は何を制したいのか、右手を相撲取りのように突き出して制した。

「何?」

 矢伊豆はその無意味な動きに顔をしかめた。

「あれ、まだ日本では発売してないだろ? 確か、あのモデルは12月からのはずだ」

「買いもしないのにそんな知識は豊富だな」

「ちっ、違うんすよ、そりゃ買わないけど、あれだって日本ではまだだって確かテレビで……」

「さぁ……?」

 香月は肩をすぼめて応える。

「もらったんだって」

 玉越は矢伊豆に説明した。

「えー!? すごいなぁ!!」

「誰に?」

 西野の質問はとても分かりやすい。

「えーっと……」

 3人は息を呑み、それぞれ妄想する。

「……知らない人」

「っ、んな、ことあるわけねーだろぉ!」

 何故か西野は必要以上に興奮している。

「分かった。知られたくない相手なのね」

 玉越は何か勘違いをしている。

「俺も誰か車くんねーかなぁ」

 矢伊豆は人のことなどどうでもいいようだ。

「実際どうなんだ? そんな発売前の車くれるなんてどっかのお偉いさんか何かだろう?」

 西野のその予想は少なからず当たっている、が。

「うんまあ……、友達の知り合いで、外国の人がいて。その人が……」

「そういえばお前、この前誕生日だったな」

 西野は顎に手をやり、顔を顰める。

「先月じゃん、それ。けど納品にそれくらい時間かかるか……。誕生日プレゼントにBM……」

 玉越は唸って考える。

「世の中間違ってる……」

 西野は頭を抱えた。

「いや、あの、誕生日プレゼントとは言ってないけど、なんか、出会った印に……って」

「私に紹介しろ」

「いや、俺に紹介してくれ」

「あんた男じゃん!! ねね、やっぱカッコいいの? どんな人!?」

「そんな聞いたって無駄じゃん」

 西野は玉越に呆れてみせる。

「うん、中国人だから黒髪で……けどすごい綺麗な人だった。びっくりするくらい」

「うわぁ……何してる人?」

 まさかここで、人を海に沈めているとは言えない。

「うーん。貿易みたいな感じかな」

 濁すに限る。

「……死ぬ」

 玉越は目を閉じた。

「玉越、中古の軽なら俺でも買えるぞ」

 笑う矢伊豆の側で、

「そんなもん自分でも買えますよ!」

 玉越は所構わず怒りを露にした。

「おーい、あ、誰か知らないか? 駐車場に無断で車を……」

 遅れて宮下がグッドタイミングで入ってきた。

「白のBM?」

 玉越が聞く。

「あぁ、あそこは誰も登録してないんだが」

「ビックリしてください。あれは香月さんが海外のお金持ちに見初めてもらった出会いの印のプレゼントです」

 一旦間が空き、

「……何の話だ?」

 宮下は当然ながら怪訝な顔をした。

「普通は信じられないですよね、そんなドラマみたいな話。ドラマでもなかなかないよ。現実味がなさすぎて」

「え、あれは香月の車なのか?」

「あ、はい。今日登録しようと思って、とりあえず乗ってきました」

「ああ、別に構わんが……。後で登録用紙渡すから……。で、海外のお金持ちっていうのは?」

「だからもう……あぁ、……めまいがする」

 玉越はまた大袈裟に目を閉じてふらついた。

「要するに、あれはプレゼントでもらったものなんすよ。しかも、まだ未発売の車」

 西野は自信をもってしっかり発言したが、

「……へぇ」

「感動薄ー!」

 2人は同時に発した。

「まだ未発売のパソコンだってうちにあるじゃないか」

「まあ、そう考えたらあれですけどぉ、ほら、一般の人は買えないじゃないすか」

「まあそうだな」

 宮下はすぐにその場を去った。

「あんまり車に興味ないのかなぁ……」

 その後ろ姿に、西野はつぶやく。

「まあね、その発売してるかしてないかって所はマニアくらいにしか分からないかもねー」

 そんな同じような会話が3日も続いたのである。ただやはり、永作1人が驚かなかったところが、やはりお金持ちは違うと感心させられた一面でもあった。発売日や金額くらいどうにでもなるということである。

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