ワインとチーズとバレエと教授
病院から帰宅して、理緒は冷蔵庫をガバッと開けた。
泣き腫らした目も気にせず、ビールをいっきに飲み干した。
これでも、虚しさと、悲しさと、苦しさは晴れず
次はワインボトルを開けた。
ワイングラスに、なみなみと赤ワインを注ぎ、
それもいっきに飲み干した。
この二ヶ月間は、あまりに苦しかった。
仕事を休むこと、バレエを休むこと、ピアノを休むこと、全てが苦しかった。
薬物をやめるときは、こんな苦しみを味わうのかと
心底思った。
バレエ音楽を聞いたら、スタジオへ行きたくなる。
トゥシューズを見れば、踊れなくなっているのではと焦りを感じ、かと言ってスタジオや仕事に行って、何かに逃避するように没頭したらこの依存症の状態からは抜け出せない。
眠るときは無意識に首を掻きむしった。
悪夢にもうなされた。
翌朝、シースには血がついていた。
苦しくて痛みに逃げたくなり
手首を思いっきり噛んだ。
冷や汗が出て、食べたものも吐き、頭がどうにかなりそうだった。
それでも、この離脱症状から脱出しようと、強く思ったのは、誠一郎の存在があったからだー
いつも冷たくて、冷淡で、嫌味で、クールだが、知的で、時々、優しい気遣いが見える。
表情からは、何を考えているか、読み取ることが出来ない淡々とした、ブレない態度の誠一郎だが、なぜか理緒は、誠一郎が、心の傷を持っていると感じていた。
精神科医として、そして教授として、
肩に背負っている重みと、今まで患者に対して、
味わってきた無力さと、苦々しい記憶を隠しながら、誠一郎が仕事をしていると、初めて見た瞬間から誠一郎の心の闇を理解した。
誠一郎にはそんな影がある。
簡単に近寄れないオーラと、親しみづらい雰囲気、
その雰囲気を出すことで、患者と距離を置いているとすぐに分かった。
同じ心に傷を持つものが分かる独特な雰囲気だった。その人生の重みは、亮二とはまた違う。
理緒はそれを直感的に理解したからこそ、
誠一郎に負担をかけないよう気をつけた。
面倒な患者はいっぱい見てきただろう。
だから、自分は手のかからない患者でいようと心がけた。
だから、ついつい「大丈夫」と言ってしまった。
トイレで泣いたのも、わずらわしいと
思われないためだった。
誠一郎は、ぶっきらぼうだが、
実はものすごく繊細で、頑固だろうということも、理緒は理解していた。
いつもシワひとつない白衣と、きれいに七三分けをされてる髪からも潔癖さを感じる。
でも、近寄りがたい雰囲気なのに、どこかで親しみも感じる。
そして、細くて長い指に、男性にしては色白な影のある教授ー
理緒は初めて会った日から誠一郎を意識していた。
少しでも良くなって、誠一郎が無力感を味わってきた事が帳消しになるくらい、治してみせようと思った。
そう思ったのは、誠一郎への淡い恋心からだった。
だから、この二ヶ月間、必死に離脱症状に堪えた。
でも、その結果がこれだー
理緒は、また煽るようにワインを飲んだ。
「もう頑張れない!」
「私は死にたい!」
そんな言葉など、絶対、誠一郎の前では、言わないと決めていたのに、言ってしまった。
そして、誠一郎は、また無力感を味わうのだろうー
精神科とはそういうところだ。
でも、自分はどこかで誠一郎に認めて貰いたかった。
「よく頑張りましたね」
そんな言葉が聞けた前回は、本当に嬉しかった。
全ての苦労が報われた、そんな気がしました。
そして誠一郎には、
「私の力でこの患者は治った」
そう思って貰えるよう、頑張った。
が、一瞬で、その目標を壊してしまった。
理緒は再びワイングラスに、たっぷり赤ワインを注ぎ込み、飲み干した。
そして、亮二がなぜ慢性疲労症候群だと伝えなかったのか、それも考えた。
理緒が「出ていく」といった日、
亮二は何かを言おうとしていた。
「なぁ、バレエを休んでみないか?」
突然、そう提案してきた。
バレエをやっている理緒が好きなはずなのに、
止めようとした。
「…あの日、きっと亮二さんは慢性疲労症候群のことを告げようとしたのだわー
でも、ケンカになった…そして私は家を出たー
そして、私からバレエを奪ったら、本当に私が壊れると思ったのかしらー…」
理緒はそう解釈した。
でも、そんなことは、もうどうでもいいー
内科の山本先生に
「余後は悪いと思われます。
最悪、寝たきりになることも」
と言われたとき、ショックではあったが、
どこかでホッとした自分もいた。
もう頑張らなくていいー
どこかでそう思ったが、同時に、今まで頑張ってきたことが、全て水の泡となることも理解した。
人生は残酷だー
「誰かに愛されてみたい」
そう誠一郎に言ってみたのは、誠一郎への想いからだった。
おそらく、本人は気づいていないだろうが、理緒は、誠一郎に淡い恋心があった。
なぜか、初めて誠一郎に会った日、誠一郎の、薄暗い影を見て「助けてあげたいー」そう思った。
患者なのに医者を助けるだなんて、おかしな話だが、理緒には、誠一郎には、誰にも言えない心の傷があるように見えた。
誠一郎に理緒が出来ることは限られているが、
誠一郎に喜んでもらうために、治そうと思った。
だから、あんなにツラい離脱症状にも耐えた。
それが、今はどうだ。
これから何も出来なくなる。
そんなお荷物の私を誠一郎が愛する訳がないし、
そもそも、誠一郎は、結婚し子供もいるかも知れない。
そんな家庭的な雰囲気は何も感じないから
独身のように見えるが、亮二と同期なら44歳辺り。
結婚していても遅くはない。
それでも淡い恋心が理緒にとって
毎日の生活の糧になった。
今は、そんな恋心も持てないほど
酷いことを誠一郎に言ってしまった。
「もう、終わりだわ…」
理緒は、冷蔵庫に保管していた
チーズを取り出し、ひとつまみ、
口に放り投げた。
「私の人生、終った…」
理緒は絶望の中で涙も出なかった。
寝たきりになるなら、早くなればいいー
そして、さっさとこの人生を終えて、
穏やかに眠りたい。
最後にしたいことは、バレエ…
理緒は明日からスタジオに行き、思いっきり踊って
死のうと思った。
もう、人生なんて、どうでもいい。
もう誰の言う事も聞かない。
好きにやる。
今まで、散々な人生だった。
亮二には感謝しているが、素直に喜んではいない。
亮二も亮二で理緒を利用したー
もう、勝手にやろう…
好きなだけワインを飲んで
好きなだけ踊って
好きなときに薬でも飲んで死のうー
理緒は、全てがどうでも良くなった。