ワインとチーズとバレエと教授
バカみたいな話だが、理緒が診察室から去ったあと、誠一郎は、仕事が全く手につかなかった。
その日は大変な患者もおらず、込み入った仕事がなかったのが唯一の救いだった。
誠一郎が理緒を意識したのは、初めて会った、初診の日からだった。
美しい黒髪の、日本人形のような理緒を見た瞬間、純粋に「キレイだ」と、思った。
ただ、カルテに記載されている経歴は、
あまりに、過酷な虐待を受け、亮二に引き取られたというもので、美しく品格を感じる理緒を見ると複雑な心境だった。
その時は、恋心というより「気になる」患者程度だった。
誠一郎が理緒を本気で好きだと自覚した日は、理緒がトイレで泣いた日だった。診察室で「もう死にたい!」と叫んだとき、誠一郎は心の中で「たのむからやめてくれ!いなくならいでくれ!」と、こころの中で叫んだ。それが「私のために生きてもらえないでしょうか?」という言葉となった。
その時、誠一郎は、この先、理緒に何があっても
責任を取ろうと思った。
その時の誠一郎は医者でなく、個人の気持ちを優先した。
「公」でなく「私」を優先した。
だから、責任を取るのは当然と考えた。
それが誠一郎の覚悟だった。
まさか、理緒が自分を好きでいるとは思わなかったが、好かれてはいると思った。
自分でも、冷淡で、頑固で、偏屈で、素直な性格じゃないということは理解している。
若いうちは、それなりに恋愛もした。
それなりの恋愛ー
でも、研究や臨床に没頭して、結婚の意志が見えない誠一郎から、女性たちは、去っていった。
大学で研究している男性は、婚期が遅れると、よく言われているが、誠一郎は、まさにその典型例だった。
精神科医のクセに人間嫌いー
人との接点も、出来るだけ少なくしてきた。
医局員と飲むことはあっても、腹を割って話すことは出来なかった。
医局員も、教授の自分に気を遣うだろう。
誠一郎は、二次会に参加することなく、あとは、医局員たち同士の交流に任せた。
自分は、目立たず、威厳は保ちつつ、大学病院という精神科の秩序を守り、医学部生に講義し、医局員を指導し、研究する。
それで十分な人生だった。
他の教授から、見合いの話を持ってこられたときも、教授の顔を立てて女性と会うものの、
「…ご無理なさらず…私から、ご縁がなかったと
教授にお伝えしておきますね…」
と、女性に気を遣わせる始末で、結局、結婚には至らなかった。
なのに、理緒にはなぜか特別な印象を持つ。
美しいからー?
若いからー?
いや、それだけではない。
よく分からないが、誠一郎は、なぜか、ベタベタしてこないで、構ってほしそうにもせず、一人で頑張り続ける理緒に惹かれた。
これから、どんな付き合いになるのだろう。
そう考えると亮二の顔がよぎった。
彼は今は理緒の義理の父親であり、
同級生だ。彼に頭を下げて
「お嬢さんと付き合わせてください」
と言うのも、何か違う。
そして、誠一郎は、亮二に不信感を抱いたままだった。なぜ慢性疲労症候群のことを、理緒に伝えなかったのか?
なぜその状態でバレエを止めなかったのか?
内科から連絡を受けたとき、医者として亮二に
「何を考えているんだ」と言ってやりたくなった。
そして怒りまで沸いた。
でも、それを理緒に言ってもしょうがない。
そんな事を考えていると、理緒からLINEが来た。
「津川理緒です」
本当に一言だった。
誠一郎は、ひとまず既読にせず、
週末をどうするか考えた。