ワインとチーズとバレエと教授


「仕事をしていることはご家族はご存知ですか?」

あえて、「津川先生は」とは言わず「ご家族」という言葉を使ってみた。

「いいえ」

理緒が、これもあっさり否定した。

「…なぜご家族に仕事をしていることを伝えていないのですか?さしつかえなければ、お仕事は何をされているのでしょう?ご家族とは一緒に住まわれていないのですか?」

新米医師の予診情報にも目を通さず、誠一郎は、理緒の自主的な発言を求めた。

「仕事をしている事を伝えると、津川先生が心配されますので。仕事は法律事務所で事務をしております。先生が担当されている裁判に酷似した判例を
探してご提示したり、裁判所に出す書類を作成したり、裁判所に書類を届けたりしています。

津川先生とは一緒に住んではおりません。津川先生も、ご自身の生活がありますし、私も自立しなければと思います」

誠一郎が考えているより、立派な回答が返ってきた。

「あなたは過去、色々お辛かったと思いますが、体調はどうです?」

虐待という言葉はあえて避けた。

「はい、津川先生のおかげで乗り越えられ、今は元気です」

理緒はそう言うと、微笑んでみせた。

「異型狭心症はストレスによって発症します、最近ストレスを感じますか?」

「いいえ」

これも理緒はあっさり否定した。

「特にストレスは感じていません、今は幸せです」

さすがに、誠一郎は違和感を感じた。

元気?
ストレスはない?
乗り越えられた?
今は幸せ?
本当に…?

精神科医としての勘がうずく。誠一郎は、少し理緒を揺すってみることにした。「仕事のストレスではなく過去の記憶を思い出しストレスになる場合もあります…例えばPTSDなど…」

誠一郎は、そう言い終わると、チラッと、理緒の瞳を見つめたが、それに対しても、理緒は全く動じず

「過去の出来事を学びに変え、今の自分に生かすようにしてます。なので、特に過去の記憶をストレスに感じることはありません。それをストレスと感じると言うならまだ、心の傷が癒えていないか、対象の出来事から学んでいない状態と思います」

これは、立派な回答だ。教科書のような模範的回答だ。その通りー 

理緒は精神科医を必要としていないと、言わんばかりの発言をした。まるで、精神科医が求める回答を
すでに知っているかのようだー

模範解答をスラスラ述べた理緒に、誠一郎は全く
隙を与えられなかった。いや、隙を感じなかった。
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