ワインとチーズとバレエと教授
ただ、年を取るにつれ、大学病院で感じる父は、威厳を感じさせるものの、几帳面さと真面目さと頑固さが次第に目立ち始め、やや、権威的主義な姿勢に傾いていったー
そして父親の在籍していた精神科の医局は次第に、ピリピリした雰囲気になっていった。
父親に悪気はなかったのだろう。
ただ、自分にも、他の医局員にも完璧を求めた。
この大学病院の精神科は全国的に、全てにおいてトップクラスであった。
病棟面積は全国一位。
ベッド数も全国一位。
患者数も全国一位。
医師の人数も全国一位。
症例数も全国一位。
向精神薬開発も最先端を行き、全国の向精神薬のセンターに近い存在だった。
この国立大学精神科の伝統を守る父親は、誠一郎から見ても、太刀打ちできないほどの気迫を感じた。
父親の薦めで誠一郎はトロント大学に留学した。
そのとき、早苗とも別れた。35歳のときだった。
約2年間、イギリスの医療を引き継ぐカナダで研究し、帰国したら父親がおかしくなっていた
診察室で患者と口論となり、止めに入った医局員を殴り、それを見た誠一郎は父親を殴り、外来は大混乱となった。
父親は暴れ、「一体、誰に向かって、俺にそんな口を利いてるんだ!俺の研究論文を奪っただろ!?」
と誰かれ構わず、患者の前でまくし立てた。誠一郎は内線で「セルシンを持ってこい!はやく!」と支持を出し、そして父親に打った。父親がガクッと意識を失った。
そのすきに、誠一郎は、すぐに脳神経外科に内線を入れ、父親を診察してもらった。診断は若年性アルツハイマーだとわかった。
知的で頭の良い人がなりやすいと説明されたが、それは誠一郎も知っていた。そして、頑固で真面目な人もなりやすい。
父親は目覚めたあと、自分が何の病気かは気づいていただろうが プライドが邪魔して
「ちょっと疲れていただけだ」と言った。
そして父親の退官までの3年間は、医局員も、誠一郎もピリピリしながら父を見張るように、大事が起こらないよういつも、見守っていた。いや、監視していた。
父親が学会で口ごもったら、他の医局員がメモを渡し、それでもダメなら誠一郎が変わりに発表を続けた。
そして無事に2018年の3月、65を迎えた誠一郎の父は国立大学精神神経科教室名誉教授として退官した。誠一郎は、40歳になったばかりたった。
誠一郎の誤算は、皮肉にも父親の後を引き継ぎ、この大学病院の教授となってしまったことだ。
自分はてっきり別の大学で教授をすることになると思っていたし、それが望ましいと自分でも思っていた。
しかし、誠一郎には実績があり、さらに父親譲りの分析力や論文での評価が高く、教授選で、他の大学の医師から対抗馬があったものの、満了一致で次期教授は誠一郎に決まった。
また、医局員たちが「藤崎准教授が教授として就任しなければ、我々は大学を去る」と理事会に強い意思表明を提出したことが、誠一郎が教授戦を勝ち抜いた大きな要因だった。
ここまで医局員の熱望がある以上、外部から例え優秀な教授が来ても、医局員は、理事会が誠一郎を追い出したと思うだろうし、ここまで誠一郎を慕っている医局員が、新しい教授を招いても、ついていかない事が目に見えたので、誠一郎の就任が相応しいと理事会は結論づけた。それだけ、誠一郎は医局員から信頼されていた。
誠一郎が40歳の夏の教授選だった。
そして父親の在籍していた精神科の医局は次第に、ピリピリした雰囲気になっていった。
父親に悪気はなかったのだろう。
ただ、自分にも、他の医局員にも完璧を求めた。
この大学病院の精神科は全国的に、全てにおいてトップクラスであった。
病棟面積は全国一位。
ベッド数も全国一位。
患者数も全国一位。
医師の人数も全国一位。
症例数も全国一位。
向精神薬開発も最先端を行き、全国の向精神薬のセンターに近い存在だった。
この国立大学精神科の伝統を守る父親は、誠一郎から見ても、太刀打ちできないほどの気迫を感じた。
父親の薦めで誠一郎はトロント大学に留学した。
そのとき、早苗とも別れた。35歳のときだった。
約2年間、イギリスの医療を引き継ぐカナダで研究し、帰国したら父親がおかしくなっていた
診察室で患者と口論となり、止めに入った医局員を殴り、それを見た誠一郎は父親を殴り、外来は大混乱となった。
父親は暴れ、「一体、誰に向かって、俺にそんな口を利いてるんだ!俺の研究論文を奪っただろ!?」
と誰かれ構わず、患者の前でまくし立てた。誠一郎は内線で「セルシンを持ってこい!はやく!」と支持を出し、そして父親に打った。父親がガクッと意識を失った。
そのすきに、誠一郎は、すぐに脳神経外科に内線を入れ、父親を診察してもらった。診断は若年性アルツハイマーだとわかった。
知的で頭の良い人がなりやすいと説明されたが、それは誠一郎も知っていた。そして、頑固で真面目な人もなりやすい。
父親は目覚めたあと、自分が何の病気かは気づいていただろうが プライドが邪魔して
「ちょっと疲れていただけだ」と言った。
そして父親の退官までの3年間は、医局員も、誠一郎もピリピリしながら父を見張るように、大事が起こらないよういつも、見守っていた。いや、監視していた。
父親が学会で口ごもったら、他の医局員がメモを渡し、それでもダメなら誠一郎が変わりに発表を続けた。
そして無事に2018年の3月、65を迎えた誠一郎の父は国立大学精神神経科教室名誉教授として退官した。誠一郎は、40歳になったばかりたった。
誠一郎の誤算は、皮肉にも父親の後を引き継ぎ、この大学病院の教授となってしまったことだ。
自分はてっきり別の大学で教授をすることになると思っていたし、それが望ましいと自分でも思っていた。
しかし、誠一郎には実績があり、さらに父親譲りの分析力や論文での評価が高く、教授選で、他の大学の医師から対抗馬があったものの、満了一致で次期教授は誠一郎に決まった。
また、医局員たちが「藤崎准教授が教授として就任しなければ、我々は大学を去る」と理事会に強い意思表明を提出したことが、誠一郎が教授戦を勝ち抜いた大きな要因だった。
ここまで医局員の熱望がある以上、外部から例え優秀な教授が来ても、医局員は、理事会が誠一郎を追い出したと思うだろうし、ここまで誠一郎を慕っている医局員が、新しい教授を招いても、ついていかない事が目に見えたので、誠一郎の就任が相応しいと理事会は結論づけた。それだけ、誠一郎は医局員から信頼されていた。
誠一郎が40歳の夏の教授選だった。