ワインとチーズとバレエと教授
その後すぐに、百合子の葬式が執り行われた。

喪主は父親の予定だったが、若年性アルツハイマーのため、現在教授であり、息子の誠一郎となった。

周囲の目は誠一郎に大変、同情的だった。
しかし、誠一郎は淡々と粛々に喪主を務めた。
初七日を終え、誠一郎はすぐに病院に出勤した。
いつも通りの仕事をこなすため、誠一郎は白衣に腕を通したー

そのとき、フッと目眩のようなものを感じた。
同時にキーンと耳鳴りを感じた。

「はぁ…疲れてるのかな…」

誠一郎は、大きなため息をついた。
そして医局員の一人が近寄ってきた。

「先生、この度は、お母様が大変でしたね…」

「……は?」

誠一郎は、ポカンとした顔をした。
その顔を見て医局員がポカンとした。

「母に何か?」

誠一郎は、一体、何のこと言ってるのか意味がわからなかった。

医局員は「あの、その…お母様の、この度の不幸を…」

「母なら元気ですよ、 内科病棟の父がなんか言ってましたか?気にしなくていいです。仕事を続けましょう」

誠一郎は白衣に袖を通し終わると、すぐに外来へ向かった。

翌日も不思議なことが起こった。外来の看護師から

「先生、この度はお母様がご愁傷様でして…」

誠一郎はポカンとした顔をした。

「何のことでしょう?」

その顔を見て看護師が ぎょっとした。

「えっと…お母様が、その…」

「母が何か?」

「…いえ…」

看護師が口ごもる。

昨日から、みんな、やけにおかしい。
その後、外来でも患者に

「…先生、もうよろしいのですか?」

「何がでしょう?」

「あ、いえ、 新聞を見まして…そのお母様が…」

「え?私の母がどうかしましたか?」

誠一郎はポカンとした。患者も驚いた顔をしたが、

「いえ、なんでも…」

なんだろうー?
誠一郎は首を傾げた。

「薬は2週間分です。何かあったら病院に来てくださいね」

「はい…」

患者は、いそいそと診察室を出て行った。
誠一郎は、いつも通り業務をこなし家に帰った。
留守番電話の通知ボタンが点滅してるように感じる。

再生ボタンを押すと

「誠一郎、お母さんよ、さっきは、ごめんなさいね」

また母親のうるさい 声か…
誠一郎は受話器を置いた。

めんどくさいな。携帯にかけてくればいいのに。
携帯にかけて来られてもめんどくさい。
でもなぜか、その録音を消す気にはなれなかった。



数日後ー


「あの…野々村先生…」と医局員の佐藤が野々村准教授に声をかけてきた。野々村は「なんだ?」と廊下を歩きながら佐藤と目を合わせず返事だけした。
「野々村先生、あの、藤崎先生ですが…」
「………」
「お母様が亡くなられたことを忘れられてるようで…医局の中でも、外来でも噂に…その、解離性健忘かと…」
野々村は足を止めた。
「あの…野々村先生、どうされるおつもりですか…?」
「黙りなさい!」野々村准教授は怒鳴った。

「分かっているよそんなこと!最初は前教授と同じ病気にでもかかったのかと思った!若年性アルツハイマーは、遺伝する場合もある。でも外来に支障はなく、業務も遂行し論文も今まで通りお書きになっている!お母様のことだけ記憶をなくした解離性健忘なのは間違いないだろう!だからって藤崎教授にそれを伝えるのか!?あなたのお母様は自殺して、最近お亡くなりになりましたよ?お忘れですか?と藤崎先生に言えるのか!?あのお方は、もう十分、苦しまれている!!」
野々村の目頭が熱くなっていた。それを見て佐藤は黙った。
「どうかされましたか?」
何事もなかったかのように誠一郎がやってきた。
「あ、いえ、佐藤先生のポスター発表の件で…」
「あぁ、そうですか、佐藤先生、もう準備は出来てますか?」
「…はい」
「今回の学会も期待してますよ」
誠一郎は、優しい微笑みで医局へ戻っていった。

二人はその後ろ姿を見送った。
「佐藤先生…私はとても藤崎先生に今の症状を申し上げることなど、とうてい出来ない…でも、いつか記憶が戻るだろう…とくに内科病棟に入院することになったお父様のお見舞いなど行くときだ。
我々もそのときは同行しよう…もし藤崎教授の記憶が戻ったら、おそらく、そうとうショックを受けるだろう。そのときは我々が対処しよう、それまではいつも通りだ」
野々村は、苦渋の決断をした。
佐藤も納得し、他の医局員も、看護師も、この常況を受け入れた。


















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