ワインとチーズとバレエと教授
「…なんてこった…」
誠一郎は頭に手をやった。
「それだけ、あなたは大変だったんですよ。誰にも弱音を吐かず、家ではお父様の介護をし、お母様の自殺を堪えて、お父様の名誉も挽回しようと必死でしたから…もう十分、頑張って来られました。これ以上、自分を責めず、これからは理緒さんとの幸せのために、前向きに生きて行った方がよろしいのでは?」
「あなたが精神科医になった方が良さそうだ」
誠一郎のその言葉に山本医師がふふっと笑った。
「あなただって患者に対して同じことを言うでしょう?」
「今は、私が患者ですね…」
「内科的にも、精神科的にもね。ただ、解離性健忘はもう終わりました。藤崎先生の時間は3年前ら、もう取り戻せたわけですから」
「みんな、私が父親の病室に見舞いに行くとき、ゾロゾロついてきてたのは私のためでしたか…」
「そうですよ、あなたがお父様の病室に行くたび
お母様の自殺のことを思い出すんじゃないかと、皆さん、ヒヤヒヤしてました」
「みんなに迷惑をかけたな…」
「でも誰もあなたを責めても、見捨ててもいない、
むしろあなたは、医局員からも患者からも尊敬されている。お父様と同じように、それはあなたの人徳ですよ」
「父と一緒にしないでくれ」
「まあ、反抗期は、その辺でやめておいたらどうですか?」
山本医師はふふっと笑った。
「退院したばかりで、午前中に倒れるなんて情けないですよ…」
「そんなことはありません、少しずつ、業務を再開されたらよろしいでしょう。まだ、無理してはダメです」
「いえ、早く元の業務に戻ろうと思います」
「多分、それは難しいと思いますよ…記憶を思い出したばかりですし、それと…」
山本医師が誠一郎に何かを手渡した。それは、ビー玉のような袋紙に包まれたアメ玉だった。
「あなたが持っていました」
「…あぁ、これは、さっき、父からもらったんです。子供の頃の僕だと間違えたようで」
「いいお父様じゃありませんか」
「…そうだったのかもしれませんね…」
誠一郎は起き上がった。
「頭を打ってないですか?」
「大丈夫そうです、これから医局に戻り、皆さんに説明し謝罪します」
「皆さん、十分、分かってくれるでしょう」
誠一郎はベッドから身体を起こすと
「お世話になりました」と山本医師に頭下げた。山本医師は今朝と同じように、ポンと背中を叩いた。
「理緒さんは、先にご自宅に帰っているようです。
今日は理緒さんと、よく話し合ってください。そして、せっかく退院したのですから、いい夜にしてください」
山本医師の含みのある言い方に誠一郎はふっと笑って、医局へ向かった。

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