ワインとチーズとバレエと教授
翌日、大学で講義をしたあと、病棟に戻るため
大学校内を歩いていた誠一郎が、ふと立ち止まった。
もう紅葉の時期かー
大学のイチョウの木は青々としたミドリから、少しずつオレンジ色に変わってきている。
そして大学校内は秋になれば、いずれイチョウで真っ赤になる。
誠一郎は少しベンチに座って、周りを見渡した。
車椅子に押されている人、急いで歩いている職員、
わいわいと話す学生たち。
なんとなく景色を見ていると、急に目の前に缶コーヒーを差し出された。振り返ると、早苗がいた。
「元気?」
早苗が、どさっと、誠一郎の隣に座って缶コーヒーを渡した。そして自分の缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「ありがとう…今、小銭がなくて」
「そんなのいいのよ、おごり」
「ありがとう」
そう言って、誠一郎は早苗の親切に甘えることにした。
缶コーヒーを開け、一気に飲み干した。
「こないだ学会で賞を取ったんですって?おめでとう」
「ありがとう、って、なんで循環器の早苗が知ってるんだ?」
「大学病院は噂の巣よ。あなたが賞を取ったことも
、うるわしき乙女と結婚間近だということも」
誠一郎は アハと笑った。
そして2人に少し沈黙が流れた。
「早苗は俺のことを知ってたのか?」
「え?」
「俺の解離性健忘のことー」
「まあね」
「そっか…」
「忘れてるんだから仕方ないじゃない」
「まあな…」
「あなたが急に倒れて、急に元気になったから
驚いたわよ、理緒ちゃんのおかげかしら?」
「多分な」
「ずいぶん素直じゃない」
「なぁ、早苗、俺、大学病院を辞めようと思うんだ」
「…え…」
早苗が誠一郎の顔を見た。誠一郎の言葉の意味を受け入れられずにいる。今度こそ、長い沈黙だったー
「すぐにじゃない、今年度いっぱいでで…」
「な…なんで…?どうして…?これからじゃない?医局は?研究は?」
早苗は矢継ぎ早に質問した。
「藤崎の代は俺で最後だ、そして、早く大学から
去った方が医局のためにもいい気がする。俺は父親のために教授になってしまったが、教授になりたかったわけでもない。その俺も解離性健忘を起こし医局に迷惑をかけた」
「それは仕方ないじゃない!誰もあなたを責めてないわ」
「みんなが優しいんだよ。父がよく教育してくれた」
「その教育をあなたが引き継いだわ!」
「この大学病院の精神科の理念も、治療方針も伝統も秩序も俺は父から受け継いだ、でも、もうやりきったように思う」
「やめてよ!ちょっと!これからどうする気?」
「実はもう天下り先の病院を見つけてある」
誠一郎はニヤッと笑ってみせた。
「なによ!もう手を回してるの?」
「3月で退職するんだ、就職活動は必要だろう?」
「次はどこ行くの?」
「A総合病院で働こうと思う」
そこは大学病院に近いほど、大きな総合病院だった。病院はホテルのように充実し、ベッド数も多く精神科は最先端の治療を行っている。
「…あなたはずっと、大学にいる人間と思ったわ」
「まぁ、もう大学病院はいいよ」
「元教授が来るとなったら、A総合病院も箔が付くでしょうね」
「そう思ってもらえると嬉しいな。それに、国家公務員より給料も年収1000万ぐらい高くなるしな」
早苗は誠一郎が金で就職先を決めるとは思えなかった。
おそらく大学病院や、複雑な組織関係から、誠一郎は手を引こうとしているのだろう。
そして、研究からも…
「理緒ちゃんには話したの?」
「いや、まだ話してない」
「なんでそんな話を私にするのよ!?先に理緒ちゃんに言いなさいよ!」
「たまたま早苗がいたからだ」
「なにそれ?」
「早苗が大学関係者で、早苗が俺に缶コーヒーを渡して、俺の許可もなく、当然のように隣に座って、
ズカズカ俺に話しかけてきたからだよ」
「本当にデリカシーのない男ね」
「そういうお前も結婚しろよ」
「自分がうるわしき乙女を見つけたからって、調子に乗らないでよね」
「そうじゃないけどさ…早苗は俺と結婚しなくて
よかったな、俺の父親のことがあって、母親は自殺して、多分結婚してたら早苗のお父さんもの名前にも傷がついただろうし…」
早苗も実のところ、それは思っていた。
「そうね、私は解離性健忘になったあなたの面倒なんか見れないかもしれない」
「だろうな」
誠一郎は、クスッと笑った。
「もう体調はいいの?」
「ああ、万全だよ、お前まで心配するのか?」
「みんな心配してたわよ!」
早苗も目を潤ませていた。
「なんだよ、泣くなよ、俺がいなくなるのがそんなに寂しいか?」
「……ええ、ちょっとはね…」
早苗はクスッと笑った。でも、誠一郎がいない大学病院に出勤したいと、早苗も思わなくなった。
「私も父の跡を継ごうかな…」
誠一郎は驚いた。
「どうしたんだよ、あんなに頑なに拒んでいたくせに」
「…んー、何となく…理緒ちゃんとの結婚式は呼んでよね!」
「結婚式か…」
「なに?教授が挙式を挙げないの?」
「まだ、そこまで考えてない」
「津川君とは、もう話し合ったんでしょ?」
「うん、快く承諾してくれた、俺が解離性健忘だと
いうことも知りつつ、理緒を幸せにしてくれと頼まれた」
「さすが津川君ね、ならもう準備万端ね!」
誠一郎は立ち上がった。
「今までありがとう、3月まで宜しく、缶コーヒーご馳走さま」
「いえいえ」
「じゃあ、病棟見てくる」
「いってらっしゃい」
誠一郎は手をひらひらさせ去って行った。
その後ろ姿は、前よりずっと軽やかで、まるで憑き物でも取れたような、清々しい顔つきに早苗には見えた。
「本当に私と結婚しなくてよかったわね、多分私だったら離婚してたわ」
早苗は クスッと笑いながら、軽やかな足取りで病棟に向かう、清々しい誠一郎の後ろ姿を見つめていた。
大学校内を歩いていた誠一郎が、ふと立ち止まった。
もう紅葉の時期かー
大学のイチョウの木は青々としたミドリから、少しずつオレンジ色に変わってきている。
そして大学校内は秋になれば、いずれイチョウで真っ赤になる。
誠一郎は少しベンチに座って、周りを見渡した。
車椅子に押されている人、急いで歩いている職員、
わいわいと話す学生たち。
なんとなく景色を見ていると、急に目の前に缶コーヒーを差し出された。振り返ると、早苗がいた。
「元気?」
早苗が、どさっと、誠一郎の隣に座って缶コーヒーを渡した。そして自分の缶コーヒーを開けて一口飲んだ。
「ありがとう…今、小銭がなくて」
「そんなのいいのよ、おごり」
「ありがとう」
そう言って、誠一郎は早苗の親切に甘えることにした。
缶コーヒーを開け、一気に飲み干した。
「こないだ学会で賞を取ったんですって?おめでとう」
「ありがとう、って、なんで循環器の早苗が知ってるんだ?」
「大学病院は噂の巣よ。あなたが賞を取ったことも
、うるわしき乙女と結婚間近だということも」
誠一郎は アハと笑った。
そして2人に少し沈黙が流れた。
「早苗は俺のことを知ってたのか?」
「え?」
「俺の解離性健忘のことー」
「まあね」
「そっか…」
「忘れてるんだから仕方ないじゃない」
「まあな…」
「あなたが急に倒れて、急に元気になったから
驚いたわよ、理緒ちゃんのおかげかしら?」
「多分な」
「ずいぶん素直じゃない」
「なぁ、早苗、俺、大学病院を辞めようと思うんだ」
「…え…」
早苗が誠一郎の顔を見た。誠一郎の言葉の意味を受け入れられずにいる。今度こそ、長い沈黙だったー
「すぐにじゃない、今年度いっぱいでで…」
「な…なんで…?どうして…?これからじゃない?医局は?研究は?」
早苗は矢継ぎ早に質問した。
「藤崎の代は俺で最後だ、そして、早く大学から
去った方が医局のためにもいい気がする。俺は父親のために教授になってしまったが、教授になりたかったわけでもない。その俺も解離性健忘を起こし医局に迷惑をかけた」
「それは仕方ないじゃない!誰もあなたを責めてないわ」
「みんなが優しいんだよ。父がよく教育してくれた」
「その教育をあなたが引き継いだわ!」
「この大学病院の精神科の理念も、治療方針も伝統も秩序も俺は父から受け継いだ、でも、もうやりきったように思う」
「やめてよ!ちょっと!これからどうする気?」
「実はもう天下り先の病院を見つけてある」
誠一郎はニヤッと笑ってみせた。
「なによ!もう手を回してるの?」
「3月で退職するんだ、就職活動は必要だろう?」
「次はどこ行くの?」
「A総合病院で働こうと思う」
そこは大学病院に近いほど、大きな総合病院だった。病院はホテルのように充実し、ベッド数も多く精神科は最先端の治療を行っている。
「…あなたはずっと、大学にいる人間と思ったわ」
「まぁ、もう大学病院はいいよ」
「元教授が来るとなったら、A総合病院も箔が付くでしょうね」
「そう思ってもらえると嬉しいな。それに、国家公務員より給料も年収1000万ぐらい高くなるしな」
早苗は誠一郎が金で就職先を決めるとは思えなかった。
おそらく大学病院や、複雑な組織関係から、誠一郎は手を引こうとしているのだろう。
そして、研究からも…
「理緒ちゃんには話したの?」
「いや、まだ話してない」
「なんでそんな話を私にするのよ!?先に理緒ちゃんに言いなさいよ!」
「たまたま早苗がいたからだ」
「なにそれ?」
「早苗が大学関係者で、早苗が俺に缶コーヒーを渡して、俺の許可もなく、当然のように隣に座って、
ズカズカ俺に話しかけてきたからだよ」
「本当にデリカシーのない男ね」
「そういうお前も結婚しろよ」
「自分がうるわしき乙女を見つけたからって、調子に乗らないでよね」
「そうじゃないけどさ…早苗は俺と結婚しなくて
よかったな、俺の父親のことがあって、母親は自殺して、多分結婚してたら早苗のお父さんもの名前にも傷がついただろうし…」
早苗も実のところ、それは思っていた。
「そうね、私は解離性健忘になったあなたの面倒なんか見れないかもしれない」
「だろうな」
誠一郎は、クスッと笑った。
「もう体調はいいの?」
「ああ、万全だよ、お前まで心配するのか?」
「みんな心配してたわよ!」
早苗も目を潤ませていた。
「なんだよ、泣くなよ、俺がいなくなるのがそんなに寂しいか?」
「……ええ、ちょっとはね…」
早苗はクスッと笑った。でも、誠一郎がいない大学病院に出勤したいと、早苗も思わなくなった。
「私も父の跡を継ごうかな…」
誠一郎は驚いた。
「どうしたんだよ、あんなに頑なに拒んでいたくせに」
「…んー、何となく…理緒ちゃんとの結婚式は呼んでよね!」
「結婚式か…」
「なに?教授が挙式を挙げないの?」
「まだ、そこまで考えてない」
「津川君とは、もう話し合ったんでしょ?」
「うん、快く承諾してくれた、俺が解離性健忘だと
いうことも知りつつ、理緒を幸せにしてくれと頼まれた」
「さすが津川君ね、ならもう準備万端ね!」
誠一郎は立ち上がった。
「今までありがとう、3月まで宜しく、缶コーヒーご馳走さま」
「いえいえ」
「じゃあ、病棟見てくる」
「いってらっしゃい」
誠一郎は手をひらひらさせ去って行った。
その後ろ姿は、前よりずっと軽やかで、まるで憑き物でも取れたような、清々しい顔つきに早苗には見えた。
「本当に私と結婚しなくてよかったわね、多分私だったら離婚してたわ」
早苗は クスッと笑いながら、軽やかな足取りで病棟に向かう、清々しい誠一郎の後ろ姿を見つめていた。