ワインとチーズとバレエと教授


「あなたは、あえて忙しくしています。
今きっと、あなたの頭の中は、
バレエが出来なくなればピアノ、
ピアノが出来なくなれば、次は仕事と、
考えているのでしょうね」

まるで、理緒が何を考えているか
手に取るように分かっているかのように
誠一郎は、そう言った。

それは実際、当たっていた。

「あなたは、何かに没頭するのが
好きだと仰ってましたね。
中足疲労骨折になっても、
けんしょう炎になっても、
何かに没頭していたい、
そうしなければ、ならない理由は、
過去の辛い経験からの逃避ー
つまり没頭による過集中によっての逃避です」

理緒は驚いた顔をした。
これも誠一郎の中では想定内だった。

理緒にその自覚がないことは
最初から分かっていた。

「逃避は悪いことではありません、
ギャンブルでも、薬でも、
アルコールでも、博打でも、
患者さんが、これ以上、
壊れないように編み出した苦肉の策です。
あなたの場合は、バレエとピアノと仕事。

一見、健全なように見えますが、
あなたの頭の中で起きてる現象は
ギャンブルや、薬に手を出して
止めれない状態と同じです。
だから、あなたは、痛みを感じないし、
大丈夫というのでしょう」

理緒の顔が青ざめていく。

「でも、この逃避を行う限り
問題の根本的な解決は、
永遠にやって来ません。
それはわかりますか?」

誠一郎は、いったん、
一呼吸置いた。

誠一郎には、理緒が自分の状況を
飲み込めずにいるのが、手に取るように分かる。

「あなたにとって、何もしない時間は
地獄と同じなのでしょうね。
なぜなら過去の辛い思い出を
一瞬たりとも、思い出す機会を
作りたくないのだからー

そのために、あなたは
アスペルガー症候群特有の
過集中を利用して、何かに没頭して、
何かを忘れることにしたのではないですか?
バレエは、さぞ痛いでしょうね。
ピアノもさぞ、激しくひくのでしょうね。
あなたは前回、ノクターンをひく気分ではないと、私に言ってましたね。
そうでしょうね、ゆったりとした曲は
刺激が少ないー
あなたはノクターンでは、もう満足なんて出来ないのでしょう。
より激しく、より厳しい環境を
あなたは欲しいのではないのですか?
薬を打って、もっと薬が欲しくなる患者のように、 
過集中しなければ、出来ないほどの
刺激が欲しいのではないのですか?
それが、今のあなたの状態です。
そんな生活をしていたら
いつか、身体が壊れます。

異型狭心症が起こるのも
私から見たら当然のことです。

これが、私の、今のあなたへの考察です
いかがでしょう?」

誠一郎は、平然と、そして淡々と言ってみせた。

「…ちが…」

「…え?…なんですか?」

「ちがう!私は治ってます!」

「どこがどう治ってるんです?」 

「私は今、幸せです!」

「あなたの頭の中ではね」

「………」

「バレエもピアノも仕事も、
いったん、休んだらいかがですか?」

理緒にとって、それは地獄だろうと
誠一郎は思った。でも、言わなければいけない。

「………検討します」

「ええ、今度そこ、真剣に、検討してください
来月は、この日はどうですか?」

「はい…」

「では、お疲れ様でした、お大事に」

なんて冷たい声なのだろうー

誠一郎の無表情で、冷たく放たれ声に
理緒にはそう感じた。

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