ワインとチーズとバレエと教授

誠一郎は理緒が診察室から
出て行くのを確認すると
ため息をついた。

自分はずいぶん、ひどいことを理緒に言った。 

きっと、今頃、ショックを受けているだろう。
でも、あそこまで言わなければ
理緒は絶対に自分の病気を認めない。

精神的なトラウマなど、
全く完治などしていないと、
自覚もしないだろう。

今回の診察で、理緒を淡々と追いつめたのは
そのためだった。

理緒が、どのように、
自分の生活を穏やかなに改善するよう
「検討する」のか、そしてどうやって、
その成果を上げていくのか医師としても、まだ分からない。

あるいは、誠一郎に言われた言葉を
受け入れることが出来ずに、
さらに暴走し、もっと過激に仕事を行い、
悪化して病院にやって来るか、
どちらに出るかは分からない。

が、おそらく後者の方だろうと誠一郎は見立てた。

理緒が初診で大学病院を訪れた時とき、
全く隙がなかった。

「私は幸せです」

「乗り越えました」

「成長する自分が好きです」など

ポジティブな言葉を口にしていたが、
それは躁的防衛の典型例であると
誠一郎はすぐに見抜いた。

躁的防衛には、過去の辛い出来事から
回復するため、今まで努力し、
積み上げてきた行動を無駄にしないため、

自分自身を追い込んで
ポジティブな振る舞いをすることだ。

素直に泣いたり、
弱みを見せたり、
症状を訴えることはしないー

病院に、きれいな服を着きて来たり、
突然、運動をしだしたり、
スポーツジムやヨガなどに
通いだしたり、趣味に没頭したり、
夜に、友人と飲み歩いたりする場合もある。

とても病人とは思えない
ポジティブな生活をするのが特徴で、その言葉も

「私は大丈夫です」

「私は元気です」

「幸せです」

「感謝しています」

など使う患者が多い。

それは、病気とは真逆の方向に
自分を持っていくことで、
病気が完治したと自分に思わせる
防衛策の一つだった。

これは真面目な患者に
よくある現象だ。

でも、その患者は躁的防衛をしているなど無自覚で、本当に自分は大丈夫だと思っている。

特に理緒は、過去の複雑性PTSDから、
過集中に走り、めちゃくちゃな生活を送っている。
だから、ストレスにより異型狭心症を起こす。

その時点で、過去の虐待による
トラウマは完治していないと言える。

だが、実家にいた時よりは
随分マシな生活にはなっただろう。

それは亮二のおかけだ。

その地獄のような生活から
抜け出し、理緒はおそらく、
持ち前の向上心で、必死に亮二の援助のもと、
バレエやピアノや料理など、色々頑張ったのだろう。

まるで虐待など、なかったかのように
強く振る舞っているのは、

「それは過去の出来事で
今の自分には、もう関係ない」

という強すぎる信念でもある。

それがかえってバレエやピアノを
過激にさせていく。

そして最後は、異型狭心症が起こるー

教科書に書いてあるような典型的な症例だ。
ただ、本人は無自覚だ。

今まで、亮二に援助してもらった日々や努力を、水の泡にさせたくないと思っているのだろう。

そして、虐待によるトラウマは、
すでに完治したと思いたいのだろう。

そんな理緒に、自分は
さぞ意地悪に見えただろう。

でも゙自分が悪者にならなければ
いけないと思った。

理緒が誠一郎の言葉を
素直に受け入れてくれたら良いが、
そうではなく、反発して 
自分は病気でないということを確信するために、
仕事へ没頭しなければよいが…

誠一郎は本当は、とても理緒を心配していた。

あんな細い体で
どうやって激しいバレエを踊るのだろう。

壮絶な虐待の中で、これほどまでに
這い上がれたのはなぜだろう?

もちろん亮二の力もある。

それでも、複雑性PTSDを
乗り越えるには、あまりにも時間が短過ぎる。
むしろ、順調すぎる。
順調すぎるから、誠一郎は、躁的防衛を疑ったら
やはりそうだった。

理緒には、もっと、ゆっくり
やって欲しいー

誠一郎は、理緒が崩れないか案じたー

そして、誠一郎は、理緒に対して
やたらに冷たく接している自分にも気がついていた。
なぜか、彼女との治療は、距離感がつかめない。
同期の亮二の姪で、養女だからかも知れないが、
それ以外の感情も、含まれていると、誠一郎は思ったが、それを認めたくない自分もいた。

患者に惹かれるだなんてー…

誠一郎は理緒に合うたび
ドキドキする自分を認めざるを得なかった。
そして、そんな自分に嫌気が差した。

相手は亮二の娘だー
俺は何を考えているんだ…

誠一郎は、どうしようもない淡い恋心を
ため息で吐き出すくらいしか出来なかった。

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