交際0日で夫婦になったら~蜃気楼を二人で見る日まで~
3 寂しさの狭間
白い壁に囲まれた部屋に麻美が足を踏み入れると、部屋の主が振り向いた。
麻美はそのひとを見て驚く。そのひとは麻美の知っている姿ではなかった。頑なにスカートばかり穿いていた彼女の格好は地味なズボン姿に、いつもきちんと黒に染めていた髪は真っ白になっていた。
顔はよく見えないが、息遣いで彼女が笑った気配がする。
「どちらさんだったかね?」
そう優しく問われて、麻美は泣いているように笑い返した。
麻美は夜勤の間にうたたねをしていたらしかった。目を覚まして慌てたが、辺りは静まり返っていてうたたねの前と変わりはなかった。
麻美の勤めるグループホームは、平日は終日お年寄りを預かって世話をして、休日は日中だけ預かる。今のところ寝たきりのお年寄りはいないが、足が弱ったり記憶が曖昧だったりするので気は抜けない。
麻美がこの仕事に就いたのは、お年寄りが好きだからという理由と、どこでも仕事ができるからという現実的な理由がある。
実際に仕事を始めて、外から見たらわからなかった苦労も知ることになったが、自分はこれでいいと思えた。
時間になったので建物内の見回りをして、麻美はまた机に戻る。
事務仕事は、あまりはかどらなかった。窓の外に広がる畑を見やって、麻美は頬杖をつく。
闇の中、鈴虫の音が合奏のように響いていた。
日曜日の午後、麻美と透は高台を目指して川沿いに歩いていた。
さやさやと清流が鳴る。歩いているのは二人だけではない。壮年の夫婦や老人会の団体が、川沿いの遊歩道を登って行く。
木々が色づいている様を見上げていた透が、つと木立の上を指差した。
「ヒヨドリがいる」
目じりが赤い灰色の鳥が二羽、枝の上で遊んでいる。
「よく知ってるね、透さん」
「家の庭によく来てたから」
そんな話をしている内に、二羽の鳥たちは飛び立っていく。
秋の木立は色使いも鮮やかで、生き物の声もにぎやかだ。良い季節柄が手伝って、普段より人通りも多い。
麻美は何度か高台に行ったことがあるが、今日は一番の人出だった。余所の町から来ている人もいるのだろう。
木々の合間から光が差し込む。午後の明るい陽射しは川面を照らし出して淡く輝かせていた。
一時間ほどで高台に辿りついて、二人は山の斜面を彩る紅葉を見下ろす。
水色の空の下、緑の下地に紅葉の赤とイチョウの黄色がよく映える。澄んだ空気を吸い込んで、麻美と透はしばらくそこに立っていた。
「麻美ちゃん。そちらは旦那さん?」
呼ばれて振り向くと、麻美の職場の院長がいた。麻美のグループホームは病院が建てたもので、壮年の女性院長が経営している。
「はい。夫の透です。麻美がお世話になっております」
透が会釈をすると、院長は微笑む。
「こちらこそ。麻美ちゃんはしっかりした子で助かってるの」
院長は老人会の集まりで来ているようだった。岩を椅子代わりにして何人かが休憩をしている。
「おう、そっちは透の坊主じゃないかね」
一人が立ち上がって、ストックをつきながら歩み寄ってくる。柔和に頬を綻ばせてからかい口調で言う。
「工場の息子から聞いてるよ。愛妻弁当を持ってくるようになったとね。いい奥さんをもらったね」
透の表情は変わらなかったが、目をむずかゆそうに逸らす。麻美は最近気づいたが、それが透の照れた顔らしい。
透と麻美はお茶を分けてもらって、お年寄りたちと話をしていた。登ってくる最中に見た鳥のこと、紅葉の種類、遠くに見える山のことなどを、景色を眺めながら言葉を交わす。
「麻美さんはもう蜃気楼は見たかね?」
老人会のメンバーが帰り支度を始めた時、その内の一人が何気なく問いかけた。
「いえ、まだ」
「見たくなったら透の坊に言うといいよ。いつも真っ先にみつけてきたもんだからね」
彼らが帰って行った後、透と麻美も山を下り始めた。
踏みしめるのがもったいないような、まだ綺麗な落ち葉の散らばる遊歩道を歩く。
「麻美さんはお年寄り相手だとよく話すんだね」
「うん。職業柄というのもあるけど、お年寄りと話すのは好きなの。漂う空気がゆっくりだから、ずっと話していられる」
舞い落ちた枯葉が、麻美の頬を掠める。
ふっと心が緩んで、次の瞬間麻美は言葉を続けていた。
「でも一度、どうにもお年寄りの前で言葉が出なくなったことがある」
麻美は長い髪に絡まった枯葉を手に取る。
「今朝そのことを夢に見たの。久しぶりに会った私のおばあちゃんが私を見て、「どちらさんかね」って訊いてきた」
麻美がそう言うと、透の視線が気づかわしげに変わった。麻美はそれに気づいて振り向く。
「ううん。家族は悲しんだけど、私はどんな感情を返していいのかわからなかっただけ」
「どうして?」
「おばあちゃんは笑ってたの」
木々に囲まれた遊歩道の風を受けると、胸の内から透き通っていくような気がする。
「戦争とか、育児とか、夫との死別とか、いろんな苦労をしてきた人だから。そういうことを忘れてまっさらな自分に戻っていくのは、何も悪いことじゃないような気がしたの。だから私も笑った」
風に煽られて葉が落ちていく様は、子どもが遊んでいるようにも見えた。葉がこすれ合う音は笑い声に聞こえて、風がやむとその遊びも終わる。
「でも言葉は出なかったんだね」
麻美は透の言葉にうなずく。
空を仰いで、麻美は宙に言葉を浮かべる。
「そのときはわからなかったけど、夢を見てやっと気づけた。私はおばあちゃんに忘れられてしまって、寂しかったんだって」
麻美は目線を落とす。手に乗せたままだった枯葉を、ひらりと手放す。
「寂しがりなんだ、私」
首を横に振る麻美を、透は黙って見やる。
「行こう、透さん」
麻美がそう告げて、二人はまた歩き始めた。
翌週の夜勤の日、麻美はいつものように事務室で仕事をしていた。
一人きりの事務室で、パソコンのタイプの音だけが響く。それは楼ヶ町に来てからもう数か月続けてきたことで、何の感情もなく手が動いてくれる。
夜勤は毎週のことだから、疲れて眠くなることもある。それでも仕事だと思えば我慢もできるし、自分なりに対策もいくつか持っている。
だけど七時が過ぎる頃になると、お腹が空くような心許なさに襲われた。
先ほど夕食を食べたばかりで空腹のはずがない。それなのに一瞬掠めた感情は確かに空腹感に似た何かの感情だった。
外では秋の夜長を飾るように鈴虫の合奏が響いている。透き通るような音色に耳を傾けていると、麻美の瞼は重くなってきた。
そんな時、インターホンが鳴る。
慌てて立ち上がって玄関に向かう。ろくに相手も確かめないまま、麻美は扉を開いた。
宵闇の中に、見慣れた大柄な男性が立っていた。
「ごめん。寄っただけなんだ」
どうしたのと問おうとした麻美に、透は眉を寄せて告げる。
透は作業着姿で、仕事から直接来たようだった。けれど透が麻美の仕事中に訪ねてきたことはなく、麻美はどう言葉をかけていいのかわからない。
「用事はないんだけど、来てしまって」
透も目を逸らしてうつむく。
二人の間に沈黙が下りる。それはよくあることだったが、麻美は何か話さなければいけないと思った。
けれどどう言葉にしていいのか考えつかなくて、麻美はその場に立ち竦む。
ふいに透が身じろぎをする。麻美がその表情を仰ぎ見ると、透は苦い顔をしていた。
「寂しがりっていうなら、きっと僕もそうなんだと思う。だからかな」
いつもより不機嫌そうなしかめ面なのに、麻美はそこに普段の透を見ていた。透のことがもっとわかりそうで、麻美は食い入るようにみつめる。
「仕事中にごめん。それだけ。じゃ」
透は揺れる瞳でそう言って、踵を返そうとする。
「透さん」
麻美はとっさにその腕を掴んだ。透は驚いたように目を見開く。
麻美はぎこちなく笑ってうなずく。
「ありがとう。来てくれて」
透のしかめ面が、氷解するように緩んだ。
透と正面から向き合って、麻美は透の両手を取る。
「さっきまで、寂しかった。でももう大丈夫。透さんは?」
手の先から伝わるぬくもりに、麻美は微笑む。
透もうなずき返して、ふわりと笑った。
「……僕も大丈夫」
それは照れくさそうな、初めて見る顔いっぱいの笑顔だった。
それから透は帰って行って、麻美は一人に戻った。
他に誰もいない事務室も、静けさも、鈴虫の合奏も変わりない。でも一人ではない気がして、麻美はほっと安堵した。
朝早くに帰宅すると、透はまだ眠っていた。
麻美は透の隣にもぐりこんで目を閉じる。
いつも一緒にいられるわけじゃない。だけど、一日の最後は隣で眠る。
それが宝物のような時間に思えて、麻美は眠りに落ちて行った。
麻美はそのひとを見て驚く。そのひとは麻美の知っている姿ではなかった。頑なにスカートばかり穿いていた彼女の格好は地味なズボン姿に、いつもきちんと黒に染めていた髪は真っ白になっていた。
顔はよく見えないが、息遣いで彼女が笑った気配がする。
「どちらさんだったかね?」
そう優しく問われて、麻美は泣いているように笑い返した。
麻美は夜勤の間にうたたねをしていたらしかった。目を覚まして慌てたが、辺りは静まり返っていてうたたねの前と変わりはなかった。
麻美の勤めるグループホームは、平日は終日お年寄りを預かって世話をして、休日は日中だけ預かる。今のところ寝たきりのお年寄りはいないが、足が弱ったり記憶が曖昧だったりするので気は抜けない。
麻美がこの仕事に就いたのは、お年寄りが好きだからという理由と、どこでも仕事ができるからという現実的な理由がある。
実際に仕事を始めて、外から見たらわからなかった苦労も知ることになったが、自分はこれでいいと思えた。
時間になったので建物内の見回りをして、麻美はまた机に戻る。
事務仕事は、あまりはかどらなかった。窓の外に広がる畑を見やって、麻美は頬杖をつく。
闇の中、鈴虫の音が合奏のように響いていた。
日曜日の午後、麻美と透は高台を目指して川沿いに歩いていた。
さやさやと清流が鳴る。歩いているのは二人だけではない。壮年の夫婦や老人会の団体が、川沿いの遊歩道を登って行く。
木々が色づいている様を見上げていた透が、つと木立の上を指差した。
「ヒヨドリがいる」
目じりが赤い灰色の鳥が二羽、枝の上で遊んでいる。
「よく知ってるね、透さん」
「家の庭によく来てたから」
そんな話をしている内に、二羽の鳥たちは飛び立っていく。
秋の木立は色使いも鮮やかで、生き物の声もにぎやかだ。良い季節柄が手伝って、普段より人通りも多い。
麻美は何度か高台に行ったことがあるが、今日は一番の人出だった。余所の町から来ている人もいるのだろう。
木々の合間から光が差し込む。午後の明るい陽射しは川面を照らし出して淡く輝かせていた。
一時間ほどで高台に辿りついて、二人は山の斜面を彩る紅葉を見下ろす。
水色の空の下、緑の下地に紅葉の赤とイチョウの黄色がよく映える。澄んだ空気を吸い込んで、麻美と透はしばらくそこに立っていた。
「麻美ちゃん。そちらは旦那さん?」
呼ばれて振り向くと、麻美の職場の院長がいた。麻美のグループホームは病院が建てたもので、壮年の女性院長が経営している。
「はい。夫の透です。麻美がお世話になっております」
透が会釈をすると、院長は微笑む。
「こちらこそ。麻美ちゃんはしっかりした子で助かってるの」
院長は老人会の集まりで来ているようだった。岩を椅子代わりにして何人かが休憩をしている。
「おう、そっちは透の坊主じゃないかね」
一人が立ち上がって、ストックをつきながら歩み寄ってくる。柔和に頬を綻ばせてからかい口調で言う。
「工場の息子から聞いてるよ。愛妻弁当を持ってくるようになったとね。いい奥さんをもらったね」
透の表情は変わらなかったが、目をむずかゆそうに逸らす。麻美は最近気づいたが、それが透の照れた顔らしい。
透と麻美はお茶を分けてもらって、お年寄りたちと話をしていた。登ってくる最中に見た鳥のこと、紅葉の種類、遠くに見える山のことなどを、景色を眺めながら言葉を交わす。
「麻美さんはもう蜃気楼は見たかね?」
老人会のメンバーが帰り支度を始めた時、その内の一人が何気なく問いかけた。
「いえ、まだ」
「見たくなったら透の坊に言うといいよ。いつも真っ先にみつけてきたもんだからね」
彼らが帰って行った後、透と麻美も山を下り始めた。
踏みしめるのがもったいないような、まだ綺麗な落ち葉の散らばる遊歩道を歩く。
「麻美さんはお年寄り相手だとよく話すんだね」
「うん。職業柄というのもあるけど、お年寄りと話すのは好きなの。漂う空気がゆっくりだから、ずっと話していられる」
舞い落ちた枯葉が、麻美の頬を掠める。
ふっと心が緩んで、次の瞬間麻美は言葉を続けていた。
「でも一度、どうにもお年寄りの前で言葉が出なくなったことがある」
麻美は長い髪に絡まった枯葉を手に取る。
「今朝そのことを夢に見たの。久しぶりに会った私のおばあちゃんが私を見て、「どちらさんかね」って訊いてきた」
麻美がそう言うと、透の視線が気づかわしげに変わった。麻美はそれに気づいて振り向く。
「ううん。家族は悲しんだけど、私はどんな感情を返していいのかわからなかっただけ」
「どうして?」
「おばあちゃんは笑ってたの」
木々に囲まれた遊歩道の風を受けると、胸の内から透き通っていくような気がする。
「戦争とか、育児とか、夫との死別とか、いろんな苦労をしてきた人だから。そういうことを忘れてまっさらな自分に戻っていくのは、何も悪いことじゃないような気がしたの。だから私も笑った」
風に煽られて葉が落ちていく様は、子どもが遊んでいるようにも見えた。葉がこすれ合う音は笑い声に聞こえて、風がやむとその遊びも終わる。
「でも言葉は出なかったんだね」
麻美は透の言葉にうなずく。
空を仰いで、麻美は宙に言葉を浮かべる。
「そのときはわからなかったけど、夢を見てやっと気づけた。私はおばあちゃんに忘れられてしまって、寂しかったんだって」
麻美は目線を落とす。手に乗せたままだった枯葉を、ひらりと手放す。
「寂しがりなんだ、私」
首を横に振る麻美を、透は黙って見やる。
「行こう、透さん」
麻美がそう告げて、二人はまた歩き始めた。
翌週の夜勤の日、麻美はいつものように事務室で仕事をしていた。
一人きりの事務室で、パソコンのタイプの音だけが響く。それは楼ヶ町に来てからもう数か月続けてきたことで、何の感情もなく手が動いてくれる。
夜勤は毎週のことだから、疲れて眠くなることもある。それでも仕事だと思えば我慢もできるし、自分なりに対策もいくつか持っている。
だけど七時が過ぎる頃になると、お腹が空くような心許なさに襲われた。
先ほど夕食を食べたばかりで空腹のはずがない。それなのに一瞬掠めた感情は確かに空腹感に似た何かの感情だった。
外では秋の夜長を飾るように鈴虫の合奏が響いている。透き通るような音色に耳を傾けていると、麻美の瞼は重くなってきた。
そんな時、インターホンが鳴る。
慌てて立ち上がって玄関に向かう。ろくに相手も確かめないまま、麻美は扉を開いた。
宵闇の中に、見慣れた大柄な男性が立っていた。
「ごめん。寄っただけなんだ」
どうしたのと問おうとした麻美に、透は眉を寄せて告げる。
透は作業着姿で、仕事から直接来たようだった。けれど透が麻美の仕事中に訪ねてきたことはなく、麻美はどう言葉をかけていいのかわからない。
「用事はないんだけど、来てしまって」
透も目を逸らしてうつむく。
二人の間に沈黙が下りる。それはよくあることだったが、麻美は何か話さなければいけないと思った。
けれどどう言葉にしていいのか考えつかなくて、麻美はその場に立ち竦む。
ふいに透が身じろぎをする。麻美がその表情を仰ぎ見ると、透は苦い顔をしていた。
「寂しがりっていうなら、きっと僕もそうなんだと思う。だからかな」
いつもより不機嫌そうなしかめ面なのに、麻美はそこに普段の透を見ていた。透のことがもっとわかりそうで、麻美は食い入るようにみつめる。
「仕事中にごめん。それだけ。じゃ」
透は揺れる瞳でそう言って、踵を返そうとする。
「透さん」
麻美はとっさにその腕を掴んだ。透は驚いたように目を見開く。
麻美はぎこちなく笑ってうなずく。
「ありがとう。来てくれて」
透のしかめ面が、氷解するように緩んだ。
透と正面から向き合って、麻美は透の両手を取る。
「さっきまで、寂しかった。でももう大丈夫。透さんは?」
手の先から伝わるぬくもりに、麻美は微笑む。
透もうなずき返して、ふわりと笑った。
「……僕も大丈夫」
それは照れくさそうな、初めて見る顔いっぱいの笑顔だった。
それから透は帰って行って、麻美は一人に戻った。
他に誰もいない事務室も、静けさも、鈴虫の合奏も変わりない。でも一人ではない気がして、麻美はほっと安堵した。
朝早くに帰宅すると、透はまだ眠っていた。
麻美は透の隣にもぐりこんで目を閉じる。
いつも一緒にいられるわけじゃない。だけど、一日の最後は隣で眠る。
それが宝物のような時間に思えて、麻美は眠りに落ちて行った。