交際0日で夫婦になったら~蜃気楼を二人で見る日まで~
6 そして一年が始まる
透と麻美は二人で年末を過ごした。
こたつでみかんを食べながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。訪ねてくる人も少ないこの家はいつも静かだ。
麻美は結局宗太に会わず、実家に帰る約束もしなかった。宗太はそれを惜しみながら、待ってると告げて大晦日に帰って行った。
透はそれについて、以後何も触れなかった。それが麻美には少し不思議で、こたつの向こうの透をみつめる。
透は静かに見つめ返してくれる。麻美にはそれがありがたかった。
透と毎日を淡々と過ごしていると、自分の中にある傷は優しい膜に包まれて、わからなくなっていくような気がした。
元旦の早朝、麻美は肩を揺さぶられて瞼を開いた。
麻美さんと透が低い声で呼ぶ。
「今日なら見られるよ。行く?」
それが何のことかはすぐにわかったが、麻美はすぐに決められなかった。
麻美は窺うように透を見やる。麻美の惑いを察したのか、透は麻美の肩をそっと叩く。
「一度見てみるといいと思う」
透にしては珍しく、強く勧めた。
「……行く」
麻美は迷いながらうなずいて、支度を始めた。
外に出て二人で高台を目指す。空気は張りつめるように冷えて、白い息が朝の薄闇に溶けていく。
朝日が昇る前の痛いほどに澄んだ空気の中なのに、辺りは霧が立ち込めてよく見えなかった。
探るように透は手を伸ばして、麻美の手に触れる。
「僕のこと、少し話してもいい?」
麻美は、晴れない視界でも怖くはなかった。側に透がいる。安心させるために触れてくれたことに気づいて、麻美は微笑んだ。
「うん」
麻美がうなずくと、透は話し始める。
「僕は普通の、仲のいい家族の中にいた。喧嘩もして、仲直りもして」
透は霜の降りた土の道を踏みしめて足を進める。
「でも、麻美さんの年くらいに寂しさに捕まったんだ。どうしようもなく、自分は家族の中で一人なんだと思った。楼ヶ町を出て、外で働く場所を探した」
「私みたい」
「そうだね」
高台には何度か二人で上ったが、いつも透についていくのが精いっぱいだった。けれど今日の麻美はあまり疲れを感じない。透に引っ張られて、心も前に押し出されているようだった。
透は白い空気に息を吐き出して言う。
「思ったんだ。大人になると人は寂しさに捕まりやすくなるんじゃないかな。自立したいって思うと、自立できていない自分が嫌になる。一人になりたくなって、でも一人になれない自分にも気づく」
麻美を振り返って、透は目を伏せた。
「僕は外で働いている内に両親が亡くなって、本当に一人になってしまった」
麻美は息を呑んで、透は安心させるように首を横に振った。
「でも、それでも、外に出る時間は必要だったと今思ってる」
透はきっぱりと告げてから続ける。
「そうじゃなかったら僕は、居心地のいい家族の世界の中ですべてを終えて、誰ともかかわりを持とうとしなかっただろうから」
透は前に目を戻して息を吸う。
「家族の中にいても、いつかは一人になる。その前に一人だけで孤独の陸に上って外の世界を探してみるのも、何も悪いことじゃないと思えた」
麻美は側を歩く透の気配に、勇気づけられる気がした。
「だから麻美さんも、今の時間を大事にしてほしいと思う」
気づけば、高台を目指す人たちは少しずつ増えてきていた。透は少し考えて、途中で方向転換をする。
「こっちの方が静かに見られる」
そうして透が導いたのは、山の裏側から見下ろせる山間の休憩所だった。
始めは辺りがけむっていて、よく見えなかった。
そこに一筋の光が差し込む。朝日が昇る時間が来たようだ。
空気にぬくもりが混じる。徐々に白い空気が晴れていく。
そして浮かび上がった光景に、麻美は目を見開く。
「……浮いてる」
金色の朝日の中にたなびく霧の海、その中に楼ヶ町が浮いている。
周りの山々が手を伸ばして天高くに町を掲げたように、小さな工房や畑の建物が縦に長く伸びていた。
蜃気楼だ。
麻美は初めて見る光景にただ見惚れる。光の錯覚で起きる現象だと知っていても、楼ヶ町は天空に浮かぶ幻想の楼閣に見えた。
時間も忘れてみつめている内に、霧の海はどんどん晴れていく。
潮が引くように霧が流れると、楼ヶ町はちゃんと地面についていた。
「実際は浮いてはいないんだ」
当たり前のような透の言葉を聞いた途端、麻美は目の奥が熱くなった。
蜃気楼のことを言われたはずなのに、麻美の胸が共鳴する。
「うん……浮いてないって、私も知ってる」
目頭を押さえて声を押し殺す。
「本当は陸続きなの。自分だけが浮いてるわけじゃない」
どうにか泣くのを我慢しようと、麻美は目を逸らす。
透は麻美をみつめて、意を決したように手を伸ばした。
そっとその頬に触れて、麻美の瞳を覗き込む。
「僕が孤独から降りてこられたのは、どうしてだと思う?」
「わからない。訊いてもいい?」
顔も上げられないまま、麻美は震える声で問いかける。
麻美を抱き寄せて、透は目を閉じた。大きな手で麻美の頭をぽんと叩く。
「寂しいって、おもいきり泣いたんだ。何度も何度も」
透は麻美の髪を梳くように手を動かした。
麻美は堰を切ったように泣き始める。
透はわんわんと泣く麻美の頭を撫でた。
「それで気が済んだらちょっとだけ、下を見てほしい。そうしたら麻美さんを待ってる人がみつかるから」
うん、うん、と麻美はうなずく。
心に貯めた重みが、少しずつ解けていくようだった。白い空気に解放されて、自由に空へ飛んでいく。
泣くことも諦めていた自分が、昨日へ通り過ぎていく。
「ここの景色、家族にも見せてあげたい」
気づけばその言葉は麻美の中から生まれ落ちた。
「うん。いいと思う」
「……でも」
透はうなずく。
「私はこの街で、透さんと住んでいたい。いいかな」
麻美は蜃気楼を見たくてここに来た。けれどいつからか、見るのが怖いとも思っていた。もし見終わったら、自分はここを出て行かなければいけないように思えた。
だけどもう大丈夫だと思えた。麻美は、自分で居場所を決められる。
「うん。僕も麻美さんにいてほしい」
そして、その選択を認めてくれる人がここにいる。
初めて透に出会った時は、不思議な一体感があった。透と自分はどこかで溶け合っているような印象さえ持った。
今は違う思いを持っている。透と麻美は別々だ。だけどそのおかげで、麻美と透は二人でいられる。
それはとても稀有で、幸福なことだと思った。
数刻もそのまま立っていて、やがて麻美は口をへの字にした。
「ごめんなさい」
「うん?」
ぐす、としゃくりあげながら、麻美はつぶやく。
「透さん、うるさいのは嫌いでしょう?」
透は戸惑ったように頬を緩めて、首を横に振った。
「そんなことないよ。僕は話すのが苦手なだけ」
麻美はむずかゆそうにうつむく。透はそれを見て首を傾げた。
「どうしたの?」
「言っていいのかな」
決心したように、麻美は透に一歩近づく。
「にぎやかなものが欲しいのだけど……」
透の耳に口を寄せて、麻美は何か囁いた。
透はそれを聞いてちょっと赤面して、ついで頬をかいた。
「……うん。そうだね、僕も欲しい」
麻美は頬を綻ばせて、透の胸に額を当てた。
やがて空中楼閣は完全に地面に下りて、いつもの光景が戻ってくる。
のどかで静かな田舎町が朝日の中でひっそりと色づく。
そして、一年が始まる。
こたつでみかんを食べながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。訪ねてくる人も少ないこの家はいつも静かだ。
麻美は結局宗太に会わず、実家に帰る約束もしなかった。宗太はそれを惜しみながら、待ってると告げて大晦日に帰って行った。
透はそれについて、以後何も触れなかった。それが麻美には少し不思議で、こたつの向こうの透をみつめる。
透は静かに見つめ返してくれる。麻美にはそれがありがたかった。
透と毎日を淡々と過ごしていると、自分の中にある傷は優しい膜に包まれて、わからなくなっていくような気がした。
元旦の早朝、麻美は肩を揺さぶられて瞼を開いた。
麻美さんと透が低い声で呼ぶ。
「今日なら見られるよ。行く?」
それが何のことかはすぐにわかったが、麻美はすぐに決められなかった。
麻美は窺うように透を見やる。麻美の惑いを察したのか、透は麻美の肩をそっと叩く。
「一度見てみるといいと思う」
透にしては珍しく、強く勧めた。
「……行く」
麻美は迷いながらうなずいて、支度を始めた。
外に出て二人で高台を目指す。空気は張りつめるように冷えて、白い息が朝の薄闇に溶けていく。
朝日が昇る前の痛いほどに澄んだ空気の中なのに、辺りは霧が立ち込めてよく見えなかった。
探るように透は手を伸ばして、麻美の手に触れる。
「僕のこと、少し話してもいい?」
麻美は、晴れない視界でも怖くはなかった。側に透がいる。安心させるために触れてくれたことに気づいて、麻美は微笑んだ。
「うん」
麻美がうなずくと、透は話し始める。
「僕は普通の、仲のいい家族の中にいた。喧嘩もして、仲直りもして」
透は霜の降りた土の道を踏みしめて足を進める。
「でも、麻美さんの年くらいに寂しさに捕まったんだ。どうしようもなく、自分は家族の中で一人なんだと思った。楼ヶ町を出て、外で働く場所を探した」
「私みたい」
「そうだね」
高台には何度か二人で上ったが、いつも透についていくのが精いっぱいだった。けれど今日の麻美はあまり疲れを感じない。透に引っ張られて、心も前に押し出されているようだった。
透は白い空気に息を吐き出して言う。
「思ったんだ。大人になると人は寂しさに捕まりやすくなるんじゃないかな。自立したいって思うと、自立できていない自分が嫌になる。一人になりたくなって、でも一人になれない自分にも気づく」
麻美を振り返って、透は目を伏せた。
「僕は外で働いている内に両親が亡くなって、本当に一人になってしまった」
麻美は息を呑んで、透は安心させるように首を横に振った。
「でも、それでも、外に出る時間は必要だったと今思ってる」
透はきっぱりと告げてから続ける。
「そうじゃなかったら僕は、居心地のいい家族の世界の中ですべてを終えて、誰ともかかわりを持とうとしなかっただろうから」
透は前に目を戻して息を吸う。
「家族の中にいても、いつかは一人になる。その前に一人だけで孤独の陸に上って外の世界を探してみるのも、何も悪いことじゃないと思えた」
麻美は側を歩く透の気配に、勇気づけられる気がした。
「だから麻美さんも、今の時間を大事にしてほしいと思う」
気づけば、高台を目指す人たちは少しずつ増えてきていた。透は少し考えて、途中で方向転換をする。
「こっちの方が静かに見られる」
そうして透が導いたのは、山の裏側から見下ろせる山間の休憩所だった。
始めは辺りがけむっていて、よく見えなかった。
そこに一筋の光が差し込む。朝日が昇る時間が来たようだ。
空気にぬくもりが混じる。徐々に白い空気が晴れていく。
そして浮かび上がった光景に、麻美は目を見開く。
「……浮いてる」
金色の朝日の中にたなびく霧の海、その中に楼ヶ町が浮いている。
周りの山々が手を伸ばして天高くに町を掲げたように、小さな工房や畑の建物が縦に長く伸びていた。
蜃気楼だ。
麻美は初めて見る光景にただ見惚れる。光の錯覚で起きる現象だと知っていても、楼ヶ町は天空に浮かぶ幻想の楼閣に見えた。
時間も忘れてみつめている内に、霧の海はどんどん晴れていく。
潮が引くように霧が流れると、楼ヶ町はちゃんと地面についていた。
「実際は浮いてはいないんだ」
当たり前のような透の言葉を聞いた途端、麻美は目の奥が熱くなった。
蜃気楼のことを言われたはずなのに、麻美の胸が共鳴する。
「うん……浮いてないって、私も知ってる」
目頭を押さえて声を押し殺す。
「本当は陸続きなの。自分だけが浮いてるわけじゃない」
どうにか泣くのを我慢しようと、麻美は目を逸らす。
透は麻美をみつめて、意を決したように手を伸ばした。
そっとその頬に触れて、麻美の瞳を覗き込む。
「僕が孤独から降りてこられたのは、どうしてだと思う?」
「わからない。訊いてもいい?」
顔も上げられないまま、麻美は震える声で問いかける。
麻美を抱き寄せて、透は目を閉じた。大きな手で麻美の頭をぽんと叩く。
「寂しいって、おもいきり泣いたんだ。何度も何度も」
透は麻美の髪を梳くように手を動かした。
麻美は堰を切ったように泣き始める。
透はわんわんと泣く麻美の頭を撫でた。
「それで気が済んだらちょっとだけ、下を見てほしい。そうしたら麻美さんを待ってる人がみつかるから」
うん、うん、と麻美はうなずく。
心に貯めた重みが、少しずつ解けていくようだった。白い空気に解放されて、自由に空へ飛んでいく。
泣くことも諦めていた自分が、昨日へ通り過ぎていく。
「ここの景色、家族にも見せてあげたい」
気づけばその言葉は麻美の中から生まれ落ちた。
「うん。いいと思う」
「……でも」
透はうなずく。
「私はこの街で、透さんと住んでいたい。いいかな」
麻美は蜃気楼を見たくてここに来た。けれどいつからか、見るのが怖いとも思っていた。もし見終わったら、自分はここを出て行かなければいけないように思えた。
だけどもう大丈夫だと思えた。麻美は、自分で居場所を決められる。
「うん。僕も麻美さんにいてほしい」
そして、その選択を認めてくれる人がここにいる。
初めて透に出会った時は、不思議な一体感があった。透と自分はどこかで溶け合っているような印象さえ持った。
今は違う思いを持っている。透と麻美は別々だ。だけどそのおかげで、麻美と透は二人でいられる。
それはとても稀有で、幸福なことだと思った。
数刻もそのまま立っていて、やがて麻美は口をへの字にした。
「ごめんなさい」
「うん?」
ぐす、としゃくりあげながら、麻美はつぶやく。
「透さん、うるさいのは嫌いでしょう?」
透は戸惑ったように頬を緩めて、首を横に振った。
「そんなことないよ。僕は話すのが苦手なだけ」
麻美はむずかゆそうにうつむく。透はそれを見て首を傾げた。
「どうしたの?」
「言っていいのかな」
決心したように、麻美は透に一歩近づく。
「にぎやかなものが欲しいのだけど……」
透の耳に口を寄せて、麻美は何か囁いた。
透はそれを聞いてちょっと赤面して、ついで頬をかいた。
「……うん。そうだね、僕も欲しい」
麻美は頬を綻ばせて、透の胸に額を当てた。
やがて空中楼閣は完全に地面に下りて、いつもの光景が戻ってくる。
のどかで静かな田舎町が朝日の中でひっそりと色づく。
そして、一年が始まる。