忘れられないドロップス
「渚ーっ!」 

今にも泣き出しそうな大きな声が聞こえてきて振り返れば、秋介が渚にガバッと抱きついた。

「わっ、ちょっと秋介っ!何?会社は?ついでにどこ触ってんのよっ」

渚が秋介の頭をはたく。

「痛っ……もうさ、今日ベビーに会えるかもしれないって思ったら居ても立っても居られなくてさ。ごめん……有給とった」

渚が秋介の足を踏んづける。 

「痛ってーっ!」

「ばか!もうっ!陣痛もこないうちから誰がわざわざ有給使って帰って来いなんていったのよっ」

「……だって今日、予定日からすると最後の定期健診だろ?やっぱ身重の渚と俺と渚の愛の結晶が心配すぎてさー。転んだり、誰かに襲われたり、誘拐されたり……こんな世の中、何があるかわかんないだろ?いや、この世の誰もが俺の渚とベビーを狙ってる気がして仕事とかマジ無理!俺が車で送るから!」

秋介は悲壮な顔をしながら、渚に有給を取った正当性を選挙の街頭演説並に訴えかけている。そして蹴られたところが痛かったのか、さりげなく遥からドロップスを一粒貰って口に入れた。

「もう……秋介の被害妄想も甚だしいわね。誰が狙うってのよ……はぁ……そもそも出産に向けて散歩しなきゃなのに……」

「頼むからさー渚ー、この俺に連れていかせてくれよ。こき使ってくれよ」

「やば、姉貴の前でだけドMだな」

遥が白い目で秋介を見ながらボソリと呟いた。

「はあぁぁぁ……困ったわね」

渚の盛大なため息を気にも留めずに秋介が渚を懇願の瞳で見つめている。

「ほんっとしょうがないな。今日は散歩がてら歩いて行こうと思ってたけど、コイツ連れて産婦人科行ってくるか……」

「姉貴、ついでに帰り道、ガキみてぇなソイツも小児科で診てもらった方がいいんじゃね」

遥が首に手を当てて呆れたように目を細めた。

「だな、遥に賛成」  

渚がすぐに頷くと秋介を睨みつけた。

「渚ー、そう言うなよー」

私は可笑しくて声を上げて笑った。こんな風にまた遥と暮らせることも、こうやって渚と秋介の幸せそうな姿を見れることも嬉しくて堪らない。

「じゃあ遥、有桜ちゃんまたね」

「あ、渚さん気をつけて行ってきてくださいね」

「ありがと。ほらっ、秋介きて!」

「渚ー。ありがとー愛してるー」 

「うるさいっ」

渚が秋介の首根っこを捕まえると引き摺るように扉からでていった。途端に部屋の中はしんとなる。遥が腰に手を当てて大きなため息を吐き出した。
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