Einsatz─あの日のメロディーを君に─
第2話 あの日の出来事
Harmonieとえいこんの合同練習は、特に問題なく終わった。美咲はピアノを弾くことになって、多少は間違えてしまったけれど。気にするほど引っ掛かることもなく、要練習、ということで井庭も篠山も笑っていた。えいこんにはプロのピアニストがついているけれど、彼女は本業が忙しくなっているので美咲が代役に呼ばれることが増えた。
「大丈夫大丈夫、まだ半年あるんやし」
練習のあと美咲が凹んでいると篠山は笑った。
「でも五曲も、何曲か繋がってるからノンストップやし……」
「頑張りましょう。山口君にギター弾いてもらうわけにもいかんし」
「ああ……あの曲やったら、私もごまかせるのに」
「確かに今回のは難しいわ。誰が決めたんやろねぇ。決めるメンバーに美咲ちゃんにも入ってもらわなあかんねぇ。──あっ、美歌ちゃん!」
朋之が美歌を連れて美咲を呼びに来た。それに先に気づいたのは篠山だった。
「美歌ちゃん、四月から小学生でしょ? 私もそこへ転勤になったの」
「え? 先生、美歌の担任?」
「いやいや、それはまだ分かれへんけど」
美歌が入学する小学校に、篠山は転勤が決まっているらしい。美歌は何度か練習についてきているので、篠山とも仲良くなっていた。
「みかの、せんせえになるん?」
「担任かどうかは分かれへんけど。よろしくね」
「うん! あ、せんせえ、パパとママって、すきどうしやったん?」
「えっ、美歌……、急になに聞いてんの」
美咲は慌て、朋之も困っていた。
美歌に聞かれた篠山は、どう答えて良いのか迷ったようで、しばらく美咲と朋之を交互に見ていた。篠山は教え子のことをだいたい覚えていて、美咲と朋之のことも例外ではなかった。そのことは、美歌にも少しだけ話してある。
「あなたたち……別にあれやなぁ、仲良いっていうことはなかったよなぁ? 有志合唱には来てくれてたけど……美咲ちゃんも別の人の噂があったしねぇ」
「別の人の噂? ……三年ときの?」
「そう。あれ結構、話題になってたのよ」
それが何なのか美咲は正確に理解していた。朋之に話したことはないけれど、何となくは記憶にあるらしい。
「美歌ちゃん、ママとパパはねぇ、中学生のときは別に仲良くなかったの。美歌ちゃんが生まれるちょっと前からやと思うわ」
篠山の言葉は正解だった。
美咲は中学時代は朋之と話すことはほとんどなかったし、卒業してからも違う高校へ進学した。三十歳を過ぎて同窓会に参加してようやく、彼と接することが増えた。
「でもまぁ、黙ってただけで、そうやったんやろ? じゃなかったら、結婚してないと思うけど」
篠山は笑い、美咲と朋之は返す言葉がなかった。美咲が離婚して再婚するまでのことは篠山も知っている。生まれたばかりの美歌を連れて、朋之と三人でえいこんに顔を出していた。
「先生、実は、あの人の噂……続きがあるんです」
「え? まさか付き合ってたの?」
「それはないんですけど……高校三年のときと、成人式のあとに……」
「告白されたん?」
「それもないです。また時間あるときに言います」
朋之と美歌を待たせているので、美咲は最後までは話さなかった。篠山は聞きたそうにしていたけれど、いま教えるのはやめた。
近くの喫茶店で昼ご飯を食べてから、美歌の制服の採寸をしに行った。まだまだ成長が早い時期なので、少し大きめにする。美歌が入学するのは市内では一番新しい学校で、制服も他の小学校と比べると可愛らしいデザインだ。
夜、美歌が眠ってから、美咲は改めて楽譜を見ていた。スマホアプリでキーボードを出して、音を確認する。
「もう休んだら? 疲れたやろ?」
「そうやけど……ほんまに誰が決めたんやろ」
「──ごめん、俺」
「えっ、そうなん?」
「一人ちゃうけどな。美咲やったら弾けるって信じてたから」
そんなことを言われると、怒れなくなってしまう。言いたかった言葉は声にはせずに、心の中に戻した。
「美咲いつも、難しいって言いながら仕上げてくれてるやん。あのときも──二年の合唱コンクールの自由曲、ほぼミスなかったけど難しかったやろ? 先生も褒めてたし」
「またそうやって持ち上げようとする……」
美咲と朋之は結婚してから、喧嘩したことはない。すれ違いもほとんどなく、だいたい朋之が美咲の機嫌が良くなることを言うことが多い。それはもしかすると、美咲よりも朋之のほうが再婚を強く望んでいたからなのかもしれない。
「昼間、篠山先生が言ってたのって、美咲が全く気づいてなかった、ってやつやろ?」
「……それ、噂で聞いたん?」
「いや? 何年か前にヒロ君から聞いた。美咲は俺が好きやったから気づいてなかったんやろう、って言ってた」
ヒロ君というのは大倉裕人という同級生で、いまは美容室を二店舗経営している。二店舗目は彼の実家の近くなので、美咲と朋之もHair Make HIROにお世話になっている。
「あのとき……大倉君にも仕掛けられたからな……」
「ヒロ君なにしたん?」
「自習のときやったかなぁ、みんなほとんど遊んでたんやけど……なんかの罰ゲームで〝鯉って何だろうね〟って言いに来た」
「鯉?」
「そう。発音が鯉やった」
当時から美咲は朋之が好きだったし、二番目に気になっていたのは裕人だった。裕人が好きかと聞かれると悩んでしまっていたけれど、彼の発言は意味がわからなかった。
「そのあと大倉君が帰っていったグループに、噂の人がいたのは覚えてる」
「ふぅん。それで──その後、何があったん?」
「聞くん? まぁ、別に良いけど……何も起こってないし……」
高校三年のとき、駅で見かけた。
成人式のあと、連絡をとった。──そして、二度ほど会った。
「待って、何もなかったんよな?」
美咲は確かに彼と会ったけれど、その後のことは何も記憶にない。だから本当に何も起こっていないし、既に彼の連絡先は失くなってしまっている。二度目の同窓会のときに遠くに見た気がするけれど、誰も彼の話は振ってこなかった。
「俺とヒロ君くらいやろ? 美咲が気になってた男って」
「たぶん? あ、あと高井……」
「高井? あいつは無いやろ?」
「ないない。ないけど……何やろな……」
「大丈夫大丈夫、まだ半年あるんやし」
練習のあと美咲が凹んでいると篠山は笑った。
「でも五曲も、何曲か繋がってるからノンストップやし……」
「頑張りましょう。山口君にギター弾いてもらうわけにもいかんし」
「ああ……あの曲やったら、私もごまかせるのに」
「確かに今回のは難しいわ。誰が決めたんやろねぇ。決めるメンバーに美咲ちゃんにも入ってもらわなあかんねぇ。──あっ、美歌ちゃん!」
朋之が美歌を連れて美咲を呼びに来た。それに先に気づいたのは篠山だった。
「美歌ちゃん、四月から小学生でしょ? 私もそこへ転勤になったの」
「え? 先生、美歌の担任?」
「いやいや、それはまだ分かれへんけど」
美歌が入学する小学校に、篠山は転勤が決まっているらしい。美歌は何度か練習についてきているので、篠山とも仲良くなっていた。
「みかの、せんせえになるん?」
「担任かどうかは分かれへんけど。よろしくね」
「うん! あ、せんせえ、パパとママって、すきどうしやったん?」
「えっ、美歌……、急になに聞いてんの」
美咲は慌て、朋之も困っていた。
美歌に聞かれた篠山は、どう答えて良いのか迷ったようで、しばらく美咲と朋之を交互に見ていた。篠山は教え子のことをだいたい覚えていて、美咲と朋之のことも例外ではなかった。そのことは、美歌にも少しだけ話してある。
「あなたたち……別にあれやなぁ、仲良いっていうことはなかったよなぁ? 有志合唱には来てくれてたけど……美咲ちゃんも別の人の噂があったしねぇ」
「別の人の噂? ……三年ときの?」
「そう。あれ結構、話題になってたのよ」
それが何なのか美咲は正確に理解していた。朋之に話したことはないけれど、何となくは記憶にあるらしい。
「美歌ちゃん、ママとパパはねぇ、中学生のときは別に仲良くなかったの。美歌ちゃんが生まれるちょっと前からやと思うわ」
篠山の言葉は正解だった。
美咲は中学時代は朋之と話すことはほとんどなかったし、卒業してからも違う高校へ進学した。三十歳を過ぎて同窓会に参加してようやく、彼と接することが増えた。
「でもまぁ、黙ってただけで、そうやったんやろ? じゃなかったら、結婚してないと思うけど」
篠山は笑い、美咲と朋之は返す言葉がなかった。美咲が離婚して再婚するまでのことは篠山も知っている。生まれたばかりの美歌を連れて、朋之と三人でえいこんに顔を出していた。
「先生、実は、あの人の噂……続きがあるんです」
「え? まさか付き合ってたの?」
「それはないんですけど……高校三年のときと、成人式のあとに……」
「告白されたん?」
「それもないです。また時間あるときに言います」
朋之と美歌を待たせているので、美咲は最後までは話さなかった。篠山は聞きたそうにしていたけれど、いま教えるのはやめた。
近くの喫茶店で昼ご飯を食べてから、美歌の制服の採寸をしに行った。まだまだ成長が早い時期なので、少し大きめにする。美歌が入学するのは市内では一番新しい学校で、制服も他の小学校と比べると可愛らしいデザインだ。
夜、美歌が眠ってから、美咲は改めて楽譜を見ていた。スマホアプリでキーボードを出して、音を確認する。
「もう休んだら? 疲れたやろ?」
「そうやけど……ほんまに誰が決めたんやろ」
「──ごめん、俺」
「えっ、そうなん?」
「一人ちゃうけどな。美咲やったら弾けるって信じてたから」
そんなことを言われると、怒れなくなってしまう。言いたかった言葉は声にはせずに、心の中に戻した。
「美咲いつも、難しいって言いながら仕上げてくれてるやん。あのときも──二年の合唱コンクールの自由曲、ほぼミスなかったけど難しかったやろ? 先生も褒めてたし」
「またそうやって持ち上げようとする……」
美咲と朋之は結婚してから、喧嘩したことはない。すれ違いもほとんどなく、だいたい朋之が美咲の機嫌が良くなることを言うことが多い。それはもしかすると、美咲よりも朋之のほうが再婚を強く望んでいたからなのかもしれない。
「昼間、篠山先生が言ってたのって、美咲が全く気づいてなかった、ってやつやろ?」
「……それ、噂で聞いたん?」
「いや? 何年か前にヒロ君から聞いた。美咲は俺が好きやったから気づいてなかったんやろう、って言ってた」
ヒロ君というのは大倉裕人という同級生で、いまは美容室を二店舗経営している。二店舗目は彼の実家の近くなので、美咲と朋之もHair Make HIROにお世話になっている。
「あのとき……大倉君にも仕掛けられたからな……」
「ヒロ君なにしたん?」
「自習のときやったかなぁ、みんなほとんど遊んでたんやけど……なんかの罰ゲームで〝鯉って何だろうね〟って言いに来た」
「鯉?」
「そう。発音が鯉やった」
当時から美咲は朋之が好きだったし、二番目に気になっていたのは裕人だった。裕人が好きかと聞かれると悩んでしまっていたけれど、彼の発言は意味がわからなかった。
「そのあと大倉君が帰っていったグループに、噂の人がいたのは覚えてる」
「ふぅん。それで──その後、何があったん?」
「聞くん? まぁ、別に良いけど……何も起こってないし……」
高校三年のとき、駅で見かけた。
成人式のあと、連絡をとった。──そして、二度ほど会った。
「待って、何もなかったんよな?」
美咲は確かに彼と会ったけれど、その後のことは何も記憶にない。だから本当に何も起こっていないし、既に彼の連絡先は失くなってしまっている。二度目の同窓会のときに遠くに見た気がするけれど、誰も彼の話は振ってこなかった。
「俺とヒロ君くらいやろ? 美咲が気になってた男って」
「たぶん? あ、あと高井……」
「高井? あいつは無いやろ?」
「ないない。ないけど……何やろな……」