僕のヤバい彼女
「ねぇ、今度どこ行く?」
少し冷えた風の吹く土曜の午後、おしゃれなカフェテラスで僕の彼女が笑いながら言う。
きれいなネイルを施した長く細い指で、テーブルに広げた雑誌のあるページを指す。
「ここね、最近できたらしくて気になってるんだぁ」
丸い大きな瞳をキラキラさせて、うるうるの唇を突き出して僕を見る。
「ねぇ、聞いてるのー?」
「あぁ、ごめん。どこ?」
「こーこ」
指をトントンされた場所を見ると、高級そうなフレンチのお店。一人二万からのコースで予約必須。クリスマスにはすぐ埋まりそうな店に、彼女はなんでもない休みの日に行きたいと言う。
「きみが好きそうなお店だね」
「でしょ? いいお肉使ってるみたいだし」
にっこり笑う彼女と対照的に、大学生一人暮らしの僕は次になにを節約しようかと頭を巡らせる。
そんな僕の心配を察したのか、彼女は頬を膨らませる。
「まーたお金の心配してるの? そんなの気にしなくていいって言ってるのにぃ」
「でも、いつも払ってもらってばかりだし。たまには僕だって」
「大丈夫、大丈夫」
会話が聞こえていただろう彼女の後ろにいる二人組の女性が、こちらを見てヒソヒソ話している。
きれいな栗色に染めた背中まである髪はゆるやかに巻かれていて、最新だろうかわいい装いの彼女に対して、僕はプチプラの柄もないシンプルな恰好。プチプラという言葉も彼女から教えてもらったほどに服装には無頓着な僕が、かわいい女の子と一緒にいて、付き合っているらしいというのが大層不思議でならないだろう。
そんなの、僕が一番不思議でならないんだけどな。
僕と彼女は同じ大学で、映画のサークルで出会った。彼女のことは入学当時から知っていた。めちゃくちゃかわいい子がいると、だれもが噂していたからだ。毎日いろんな男に話しかけられても、彼女は誰一人見向きもしなかったらしい。
僕は元々友人も少なく、映画を観ることが唯一の趣味だったこともあって入ってみようと思ったのだが、入ってみたら観る人だけでなく撮りたい人もいて、見栄えのいい彼女を役者にと誘ったらしかった。
ゴールデンウイークに行われた新人歓迎会も、ほぼ彼女のためのものだった。男性陣は彼女に群がり、それに嫉妬した女性陣はなんらかの同盟を組んだように見えた。
大きなカラオケ部屋で一晩過ごしたのだが、起きたら彼女だけいなくなっていた。そして誰もそのことに言及しなかった。男性陣は僕も含めてひどく疲れていて、女性陣に飲みすぎ騒ぎすぎだと怒られながら帰路についた。
そして休み明けの大学で、彼女は突如僕の前に現れた。
「ねぇ、今度デートしようよぉ」
そのときの衝撃は今でも忘れない。
僕は学食で一人、遅めの昼食をとっていた。混んでいなかったとはいえ、誰もいないわけではない。ざわつく周りの目を気にしながら、僕はかろうじて冷静に答えた。
「えっと……誰かとお間違えでは?」
「どうしてー? あたし、きみと話してるんだけどぉ」
彼女は僕の正面に座って肩肘をついた。まっすぐこちらを見ている。間違いなく、僕を見たんだ。
「ごちそうさまでした」
手を合わせてつぶやくと、僕は立ち上がって彼女を見た。彼女は僕の食べ終わったお皿を見ていた。
「きれいに食べるねぇ」
嬉しそうに言う彼女に、僕は小さく答えた。
「僕ときみは釣り合わないよ」
お盆を持って立ち去る僕に、いつものふわふわした話し方でなく彼女は言った。
「そんなことないよ」
そしてそれからきっちり一週間、彼女は決まって学食で僕の前に現れては同じ言葉を繰り返すのだった。
「デートしようよぉ」
「ねーえ、ちょっとぉ」
彼女に顔の前で手をひらひらさせられて我に返る。
「なにぼけーっとしてるの?」
「ごめんごめん」
「なに考えてたのー? またお金のことー?」
彼女は少し不服そうに続ける。
「気にしなくていいのにぃ。うちお金持ちだしー」
確かに、初めて彼女を家まで送った日はひっくり返りそうになった。まさか彼女があの有名な化粧品メーカー社長の一人娘で、コンシェルジュのいるマンションに住んでいるなんて。それも、一人暮らしする娘のために親が買ったなんて。
僕は苦笑いしながら答えた。
「いや、なんで僕がきみと付き合えてるのかなって」
彼女はふふっと笑いながら言う。
「なぁに、また誰かになにか言われた?」
「いや、もうほとんどないけど」
「そう? ならいいけど」
彼女が僕の前に現れてから一週間、噂を聞きつけた人たちで学食にだんだんと人が集まりだした。あまりにしつこいのと好奇の目にさらされることが嫌で、仕方なく彼女に一日付き合ったが、それ以来彼女は学食以外でもなにかと僕にかまうようになっていた。
そうなるともちろん、悪意をぶつけてくるやつもいるわけで。
「おまえか? あの子と付き合ってるってのは」
「なんでおまえが?」
似たようなことを言って絡んでくるやつが増えた。彼らは決まって僕の全身を舐め回すように見ては、自分の方が上だと鼻で笑うのだ。そんなの、僕だってわかってる。
さすがに手を出したりなんてことはなかったけれど、すれ違いざまだったりわざと聞こえるようにだったり、心が削られるようなことがたくさんあった。
「付き合ってないよ」
そう答えるのが精一杯だったのだけど、それで納得してくれる相手だったら面と向かって文句は言わない。
ある日、あまりにしつこいやつらに絡まれてるとき、彼女が現れた。
「なにやってるのー?」
彼らは彼女の姿を見た途端、気持ち悪いくらい態度を変えた。
「あ、ねぇ、こいつなんかじゃなくて俺らと遊ぼうよ」
「絶対こいつより楽しいことも知ってるからさ」
彼らの影に隠れて小さくなっている僕を一瞥して、彼女は大きくため息をついた。
「ほら、こんな情けないやつなんてほっといてさ」
「さ、行こう」
彼らが彼女の肩に手を回そうとしたのをひらりとかわし、彼女は僕の前までやってきた。
そして、僕にだけ聞こえる声で言った。
「早く言って。なんとかするから」
なんとかって言われても、彼女だけ残すわけにも、と考えを巡らせていると、彼女は僕に背を向けて彼らに話しかける。
「ちょっと話そうよー」
「お、やったぁ」
「邪魔者はさっさと引っ込めー」
彼女は背中に回した手で追い払う動作をする。
「ありがと」
彼女にだけ聞こえるようにと小さな声で言い、僕はその場を後にした。
それから次の日彼女の姿を見るまで、僕は気が気でなかった。
「大丈夫?」
お昼も食べずに彼女がくることを待っていた僕は、彼女の声が背中から聞こえてきて勢いよく振り返る。
「ちょ……っと、ほんとに大丈夫ー?」
彼女が苦笑いしながら僕の正面に座る。
「青い顔してる」
僕に手を伸ばす彼女を遮って、頭を下げる。
「昨日はごめん、置いてって」
彼女は驚いて手を止め、僕に触れることなくゆっくり戻していく。
「気にしなくていいのに」
「大丈夫だった? 変なことされてない? なに話したの?」
矢継ぎ早に質問する僕に、彼女はなぜだか笑い始める。
「大丈夫、話はついたし、なにもされてないよ。大丈夫」
「……よかった」
右手を額に当てて安堵する僕を、彼女はじっと見つめる。
「心配してくれたんだね。ありがとう」
「いや、僕の方こそ……」
「ごはん、食べないの?」
言われて、ぐぅと小さくおなかが鳴る。
「おなか減ってるじゃない」
彼女が楽しそうに笑い、つられて僕も少し頬が緩む。
「待ってて、買ってくる」
立ち上がりかけた僕に、彼女が言った。
「じゃ、あたしにも同じものお願い」
彼女の言葉に僕はうなずいて、二人で同じものを静かに食べた。周りに人はいるはずなのに、それが気にならないくらい静かだった。
「ごちそうさまでした」
食べ終わって手を合わせる僕に、彼女も倣う。
「ごちそうさまでしたっ」
手を合わせたまま視線が絡まり、同じタイミングでふふっと笑う。
「付き合っちゃおうか、あたしたち」
彼女の言葉に驚きはしたけど、あまりに自然で嬉しくて、僕は思わずうなずいてしまった。こうして僕に初めての彼女ができたんだ。
そして彼らも、あれ以来一度も僕のところにはきていない。というより、僕のことなんて最初から知らなかったかのように視線を向けることもなくなった。
一度彼女に聞いたことがあるけれど、彼女は笑ってこう言った。
「わかってくれたんだよ、よかったね」
なにはともあれ、彼女が守ってくれたことに変わりはないのだから、これから彼女を一層大事にしようと決めた。
「そういえば、ごはんちゃんと食べてるー?」
ココアを一口飲んで、彼女は少し首を傾げる。
「やー、ちょっと今月厳しくて」
「そうだよねぇ、ちょっとやつれて見えるもん」
彼女の顔がずいっと近づく。どきっとして少し視線を外す。
「そう、かな」
家賃は親が払ってくれていて、生活費は少しの仕送りとバイト代で賄っている。
「またごはん作りに行こうか?」
「いや、いいよ、いつもいつも」
「気にしないで、料理好きだし。きみには健康でいてもらわないと困るしね」
彼女はいつも僕の生活のことまで気にかけてくれる。
「そうと決まれば、スーパー寄ってきみの家行こうよ」
僕の返事も聞かず、彼女は僕の手を取って席を立った。
家に寄る途中にある小さなスーパーで、彼女はこれでもかとたくさん食材を買い込み、僕の家でたくさんのおかずを作ってくれた。
「よし、食べよ」
ほかほかのごはんを食べるのはいつぶりだろう。僕は料理が得意ではないし、あまり贅沢もできないから、いつも野菜を適当に炒めて終わる。
彼女は料理がすごくうまい。和洋中なんでもいけるし、消費期限ギリギリの残った野菜も無駄にはしない。
いつも、彼女には助けてもらってばかりだ。
「おいしい?」
彼女は首を傾げながら聞いてくる。その仕草がとてもかわいい。
「うん、めちゃくちゃ」
ごはんとお肉を頬張る僕の姿を、彼女はいつも嬉しそうに見つめる。彼女はそんなにたくさん食べないけれど、腹の減ってる僕のためにとたくさん作ってくれる。
これが幸せか、と何度嚙み締めたことだろう。いつまでも続くわけがないと疑いながら、数ヶ月が経ってしまった。
「ごちそうさまでしたっ」
最後の一粒まで残さず食べきって、パンっと手を合わせる。
「きみはほんと、いつもきれいに食べるねぇ」
食べ終わったお皿を流しに持っていきながら僕は答える。
「なんかさ、一人暮らしするようになって、余計大事に食べるようになったかも」
「いいことだね」
彼女のお皿も流しに持っていき、皿洗いは僕の仕事。彼女も僕の隣にきて、タッパーに入れて冷ましていたおかずを冷蔵庫に入れていく。
「また付箋貼っとくからね。ちゃんと食べてね」
律儀にいつまでに食べるようにとメモを残してくれる。
「ほんとにありがとう。いつも助かるよ」
「いえいえ」
「ごめんね、いつもしてくれてばっかりで」
「ん?」
小さな冷蔵庫にぎっしりとおかずを詰め込んで、かがんだまま彼女は顔を上げる。
「いや……」
言い淀んだ僕に小さく笑い、彼女は明るく言った。
「気にしないで。ちゃんとお礼はしてもらうから」
「お礼?」
「そのうちね」
「そのうちか」
なんだか楽しそうな彼女にそれ以上突っ込まず、洗い物を進める。
「ねぇ、映画観ようよ。きみの最近のおすすめ」
「時間、大丈夫なの?」
「平気。帰るときはタクシー使うし」
彼女は急に調味料を置いている棚の奥からなにかを取り出した。
「じゃんっ。こんなときのために、置いといたんだぁ」
目の前に突き出されたのは僕の好きなスナック菓子。時々僕の家で一緒に映画を観るときの必需品。
僕は基本塩コショウしか使わないし、彼女の持ってきた調味料はたくさんありすぎて、ここしばらくは扉を開けることすらしていなかった。時々彼女がなくなった調味料を足しているのは知っていたけど、まさかお菓子を隠していたとは。
「そんなところに置いてたの? 気づかなかった」
「きみが一人で食べちゃわないようにね」
「なるほど。じゃ、早く済ませるね」
「ゆっくりでいいよぉ」
彼女は小さなテーブルの上を素早く片付けて、すぐにでも映画を観れるように飲み物やお菓子をセッティングしていく。
少し部屋を暗くして映画を観るのが僕のこだわり。彼女はいつも僕の肩に頭を預けて、時々ココアをすすりながら静かに観る。二人の足元にかかっている大きなブランケットは彼女が買ってきたもの。彼女がいないときはよくそれにくるまって寝ている。かすかに彼女のにおいがして落ち着くから。
ゆっくり彼女の方を見ると、長いまつげが影を落として彼女をいつもより妖艶に見せている。本当に、この子が僕の彼女なんだ。これも、もう何度思ったことか。付き合って数ヶ月も経つのに、いまだにキスのひとつもしてはいない。彼女も何も言わない。数少ない友人には遅すぎると怒られたけれど、一度許してしまうともう我慢が利かなくなることはわかっている。僕なりに、大事にしたかった。
視線を感じたのか、彼女がふと顔を上げ、目が合う。小さく微笑むと、彼女はまた画面の方へ顔を戻した。
よし、決めた。クリスマスは僕ががんばろう。
「……ねぇ」
映画の最中に話しかけることはめったにない僕が言葉を発したことに、彼女は驚いて体を起こした。
「どうしたの?」
「クリスマス、僕があのお店を予約するよ」
「えっ?」
「バイト増やすから、会える時間が減っちゃうと思うけど」
「雑誌のフレンチ?」
「うん。クリスマスだし、付き合って半年にもなる頃だし」
彼女は少し黙って僕を見つめた。僕の気持ちを理解したのか、にっこりと笑う。
「うん、わかった。楽しみにしてる」
いつの間にか強く握りしめていた手の上に彼女が手をのせる。
「ありがとう。じゃあ、その日、ごはんの後でうちにこない?」
「えっ」
エントランスまでは何度も行ったことがあるけれど、部屋には一度も上がったことはなかった。
「半年経つわけだし、いいかなって」
部屋が暗くてよかったと、今ほど思ったことはない。僕のだんまりを、彼女は肯定と受け取ったようだ。
「おそろいのパジャマ、買っとくね」
これでもう、年末は餓死したってかまわない。
お店にはすぐに予約の電話を入れた。僕が日雇いのバイトを増やしたことを知って友人はなにかを悟ったのか、黙って肩をたたかれた。
ほぼ毎週のように会ってお茶していたのがなくなっても、彼女はなんの不満もこぼさなかった。むしろ、僕の体の心配ばかりしていた。
「ね、ちゃんと寝てる? 食べてる?」
僕は朝ギリギリまで眠るようになり、時々講義を休んでしまうこともあったけれど、今だけなんだと開き直ってバイトに勤しんだ。
「これ、食べてね」
そう言って彼女は何度もおかずを渡してくれた。学食ですら減らしていた僕に、お弁当も作ってきてくれた。どれもお肉たっぷりでボリューム満点。おかげで食に困ることはなかったどころか、むしろ力が出てがんばることができた。
ある夜、久々に僕の家で一緒にごはんを食べているとき、彼女が心配そうに聞いてきた。
「そういえばさ、フレンチのお店、ドレスコードだよね?」
「えっ」
驚いた僕に、彼女はやっぱりっていう顔をした。
「服、ないでしょ。今まではカジュアルなお店だったから」
そこまで考えていなかった。ただでさえコースのお金と彼女へのプレゼント代でいっぱいいっぱいなのに、大学の入学式で着たスーツくらいしかない。
「大丈夫、任せて」
本当に任せていいのだろうか。でも、僕にはどうすることもできない。
彼女は数日後、大きな紙袋を抱えてうちまでやってきた。その袋に書かれているのは僕でも知ってるブランド名だった。
「これ、きみの分ね。サイズも大丈夫だと思うよ」
うきうきで紙袋を差し出してくる彼女に、僕は少し困惑した。
「えっ、買ってきてくれたの?」
「あ、ごめん。どのブランドがいいとかあった?」
「いや、そういうわけじゃないけど……これ、いくら?」
恐る恐る中を覗くが、店側の配慮なのか彼女が言ったのか、値札は見当たらない。
「早いけど、あたしからのクリスマスプレゼントってことで、受け取ってくれる?」
「でも、高いよね……」
「いいの! っていうか、張り切りすぎて勝手に買っちゃってごめんね」
「正直、すごく助かるけど……」
僕がクリスマスにかける金額よりだいぶ高い気がする。なんだか本末転倒な気がしてきた。
「あのね、いつもはスタッフにある程度見立ててもらったりするんだけど、今回は二人ともあたしが全部選んだんだよ!」
彼女はとても嬉しそうに話している。いつもよりテンションも高い気がする。こんな彼女は初めて見る。
「きみのを最初に選んでね、その隣に立つことを考えてあたしのは選んだの!」
ものすごく楽しみにしてくれていることを今は喜ぼう。マナーとか、いろいろ勉強しなきゃ。
「そうなんだ、ありがとう」
いつもより子どもみたいに笑う彼女を、絶対楽しませたい。
こうして訪れたクリスマス当日、彼女が買ってくれたブラウンスーツに身を包み、彼女を迎えに行って店へと向かった。名前を告げるとコートを預かってくれ、席まで案内される。
彼女はそっと僕の腕に自分の腕を絡めて、小さく言った。
「あたしセンスいいね。似合ってる」
「そう、かな?」
ちょっと照れくさい。こんなちゃんとした格好をするのは初めてだし、鏡を何度見ても服に着せられてる感があるけれど、ちゃんと髪をセットしてみると心も背筋もしゃんとする気がする。
彼女は長い髪をまとめていて、シンプルなレモンイエローのワンピースを着ている。いつもと違って少し大人っぽくてどきどきする。
「きみも、きれいだよ」
普段なら恥ずかしい言葉も、この格好とお店の雰囲気とで言ってしまった。
彼女より小さな声だったけれど、ちゃんと伝わったようだ。絡めた腕をぎゅっとされた。
通されたのは半個室で、周りの視線も会話も気にしなくてよさそう。せっかくの高層階なのに外の景色が見られないのが残念だけど、仕方がない。
「わぁ、おいしそう」
前菜からおしゃれな料理が運ばれてくる。料理名を言われても、なにが使われているのかさえわからない。
彼女は慣れた手つきでフォークとナイフを握り、きれいに口まで運ぶ。一応マナーなんかは調べてきたけれど、実際目の前にするとどうも焦ってしまう。音を立ててしまったり、ナイフを落としそうになるたび、彼女は小さく笑って手本を見せてくれる。僕はそのマネをするのに精一杯で、料理の味がほとんどわからない。そんな僕を見かねてか、彼女は言う。
「ここの席、周りの目を気にしなくていいから、好きに食べたら? せっかくなんだから、ちゃんと味わおうよ」
確かにそうだ。それに、もう一生こんなお店で食べることなんてないかもしれないし……自分のお金では。
少し肩の力が抜けて、やっと味がわかり始めてきた。うまい、としか言えないけれど。
「次はお肉かな」
口直しであろうシャーベットが下げられ、彼女はわくわくした顔で言う。メインのお肉のときが一番、彼女のテンションが高くなる。
「すっごくおいしい」
「ほんとだ、こんなおいしいお肉初めて食べた」
ようやくほころんだ顔の僕を見て、彼女も少しほっとしたように微笑んだ。
「ねぇ、きみに質問、いい?」
上品に口元を拭う彼女は、とても同い年には見えない。住む世界が元々違いすぎるから仕方ないのだろうけど、時々彼女がとても大人に見えるときがある。
「なに?」
「きみは、今までの彼女にもこんなに優しいの?」
「僕、は」
少し声が上ずって、慌てて水を一口飲む。
「僕は、きみが初めての彼女だよ」
彼女は目を丸くした。
「そうなの? あたしってば、ラッキーね」
思わぬ言葉に、次は僕が目を丸くした。
「ラッキー?」
「きみの良さは、あたししか知らないってことでしょう? ラッキーじゃない」
僕の心がふっと軽くなる。こんな彼女に何度救われたことか。
「きみは……たくさん彼氏いたんだろうね」
ずっと気になってたことを、この流れで聞いてみる。口に入れたお肉をゆっくり飲み込んで、彼女は答えた。
「うーん、たくさん? 三人ってたくさんなのかなぁ?」
「三人だけ?」
思った以上に少なくて逆にびっくりだ。
「そうよー。中学で二人、高校で一人、かな」
「でも中学でもう彼氏いたんだね」
言って僕はお肉を頬張る。幸せな肉汁が口にあふれる。
「最初の人は二ヶ月くらいだったけどね。だから付き合ったっていえるか微妙かも」
「そうなんだ」
「先輩だったんだけど、卒業するときに告白されてね、あたしも気になってたしいいよってなったんだけど」
ごくん、と肉を飲み込む。
「ほら、向こうは高校生じゃない? 中高一貫とはいえ、なかなか会えなくて」
「……なるほど」
「だからね、それからは同級生としか付き合わないって決めたの」
「そうなんだ」
「好きなときに会えなきゃ、意味ないもの」
「じゃ、次は同級生?」
彼女は水を一口飲み、うなずいた。
「でもそれも高校が別になって終わったけどね」
「え、中高一貫でしょ?」
「それがさぁ、ご両親が海外で事業するっていうのでついてったのよ」
「あぁ、海外はさすがに」
「でしょ? やっと見つけたと思ったのに」
「見つけたって?」
「ん-? 運命の人、みたいな」
彼女はお肉を口に頬張る。続けて僕も最後のお肉を口に入れる。
それにしても運命の人なんて、彼女にしてはかわいらしいことを言うんだな。
「みんな、僕みたいに地味なの?」
「なぁに、それ。卑下しないでよ」
彼女によく言われていた、僕の悪い癖が出てしまった。
「ごめん、つい」
「先輩は、もう顔も忘れた」
僕を安心させるためなのか、それとも。
「でもその次の人はバスケ部のエースだったかな」
「すごいね」
「人気あったねぇ、体力もあったし」
なんとなく、彼女の隣にいて違和感はなさそう。
「高校の人は、一番長く続いたけど、運動部ではなかったかな。地味でもない、普通の人」
「僕みたいな?」
彼女は苦笑しながら答えた。
「その癖はどうしたらなくなるんだろうねぇ」
さっとウェイターが空になったお皿を下げにきた。
「ごめん。まだ自信持てなくて」
「でもその自信も、明日の朝にはつくかもね?」
彼女が意味ありげに笑って、思わず視線をそらす。
タイミングよくデザートが運ばれてきて、彼女はすぐさま口に運ぶ。
「わ、めっちゃおいしい」
そのあとの会話はよく覚えていない。
「う、わぁ……」
開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。彼女の家は異次元だった。広さも、きれいさも、インテリアも、なにもかも僕の想像してた以上だった。
「一人暮らし、だよね?」
一応、確認してみる。
「そうだよ?」
あっけらかんという彼女はコートを脱いで、僕をソファへと座らせ、いそいそとキッチンへ向かう。
このソファ、何人座れるんだよ。僕が寝転がっても三人は余裕だな。テレビも見たことないくらいでっかいし、シャンデリアまである。
落ち着かなくて、思わず近くにあったクッションを抱きしめる。
「どうぞ。寒かったでしょ」
ガラスのテーブルにコースターを置き、その上にかわいいマグを置いてくれた。湯気がたっている。
「ありがと」
こうなったらこのマグだっていくらするかわからない。慎重に両手で包むように持ち、そうっと口をつける。
「おいしっ」
「ほんと? よかったぁ」
彼女もコースターをテーブルに置き、マグを手に僕の隣に座る。
「ごめんね、コーヒー飲めないから、ココアしかあったかいのがないの」
それでもそのココアも、なんだか上品な味がする。
「大丈夫、ココア好きだし」
「よかった」
彼女がココアに息を吹きかけて口をつける。少しの沈黙。広いから余計、静けさが反響してる気がする。
「あ、ごめん。コート預かるね」
彼女がさっと立ち上がり、両手をこちらに向ける。僕も立ち上がり、ポケットのものをその手に乗せる。
「これ、プレゼント」
「えっ」
小さな箱を手に乗せられ、困惑する彼女。
「たいしたものじゃないんだけど。フレンチでお金なくなっちゃったし」
「嘘……ありがと」
小さな箱を大事そうに胸に抱えて、彼女はにっこりと笑う。
「開けてもいい?」
「うん」
丁寧に包装紙をはがし、ふたを開けた彼女はしばらくの間固まった。
気に入らなかったかな、と心配するほどの間、彼女は箱の中にくぎ付けだった。
「これ、は」
「うん、ピアス」
「これって、十字架……だよね」
「うん。これ見たとき、ぴんときたんだ。きみに似合いそうって」
そしてまた、少しの沈黙。
「ごめん、趣味じゃなかったかな」
耐えられなくて尋ねると、彼女は首を思い切り横に振った。
「違うの。すごいなぁ、って」
心なしか、彼女の目が潤んでいるように見える。
「気に入ってもらえた、のかな」
「うん! ありがとう」
ほっと胸をなでおろし、コートを脱ぐ。
「ね、つけてきてもいい?」
「今?」
「うん、つけたい」
「それは、もちろん」
「ちょっと待っててね」
彼女はバタバタとリビングを出ていく。気に入ってもらえたのなら、よかった。
僕は脱いだコートをまるめて抱え込み、ソファに座った。さっきから自分の心臓の音がうるさい。
「見て見てー」
ものの数分で彼女は戻ってきた。無意味に顔を左右に振ってはピアスを揺らす。
「かわいい。似合ってる」
「嬉しい! ありがとう」
彼女は横からがばっと抱きついてきた。思ってもない行動に心臓が止まりそうになる。ここまで彼女と密着したことはなかった。
体を離して少し早口で彼女は言う。
「今日、ほんっとに楽しかった。がんばってくれてありがとうね」
今日一の笑顔で言われて、僕も嬉しさがあふれる。
「いや、こちらこそ。けっきょく服は買ってもらっちゃったし、意味ない気がするけど」
「そんなことないよ! その気持ちがすっごく嬉しかったの!」
いつもよりハイテンションの彼女に、少し押され気味になる。
彼女は少し照れたようにもじもじしながら、独り言のようにつぶやく。
「ほんとはおそろいのパジャマ着て、ベッドでって思ってたんだけどぉ」
そういうと彼女は僕の正面に立って、抱え込んでいた僕のコートを奪い取るとバサッと床へ投げた。
そして、ゆっくりと顔を近づける。その彼女の目は、なぜか赤く光って見えた。
「もう、我慢できなぁい」
ごくっと唾を飲み込み、僕はぎゅっと目をつむった。
「いただきまぁす」
「……え?」
彼女の思わぬ言葉に目を開けると、視界の中に彼女はいなかった。
次の瞬間、首元に痛みが走る。そしてすっと血の気が引くのがわかった。
「おいしーい」
視界が少しぼやける中で、彼女の影がゆらりと現れた。
「……あ、の」
かすかにきらりとなにかが光る。さっきあげたピアスだとわかるまでの少しの間に、彼女の声が耳に届いた。
「今までで一番おいしいの、なんでだろう? 運動もしてないし、不規則な生活なのに」
彼女はなにを、言ってるんだろう。
「吸いつくしちゃわないように、気をつけなきゃ」
ぐるぐるする頭の中で、僕はようやくひとつの可能性を見つけた。
もしかして、きみは、
「……ヴァン、パイ……ア」
僕のつぶやきに、彼女が反応して赤い目を見開いたのがわかった。
「そっか……でも、いいよ……」
薄れていく意識の中で、僕は懸命に彼女の方へ手を伸ばした。
「いいよ……吸って、いいよ」
伸ばした手を引き寄せられ、僕は彼女の胸の中にいた。いつも彼女から漂ってきた甘いにおいが強く香ったから、そうなんだと思う。
「……好きだよ」
かすれるような声で、彼女が言った。僕もだよ、って答えられたのかはよくわからない。
そしてまた、痛みを感じて僕は意識を失った。
少し冷えた風の吹く土曜の午後、おしゃれなカフェテラスで僕の彼女が笑いながら言う。
きれいなネイルを施した長く細い指で、テーブルに広げた雑誌のあるページを指す。
「ここね、最近できたらしくて気になってるんだぁ」
丸い大きな瞳をキラキラさせて、うるうるの唇を突き出して僕を見る。
「ねぇ、聞いてるのー?」
「あぁ、ごめん。どこ?」
「こーこ」
指をトントンされた場所を見ると、高級そうなフレンチのお店。一人二万からのコースで予約必須。クリスマスにはすぐ埋まりそうな店に、彼女はなんでもない休みの日に行きたいと言う。
「きみが好きそうなお店だね」
「でしょ? いいお肉使ってるみたいだし」
にっこり笑う彼女と対照的に、大学生一人暮らしの僕は次になにを節約しようかと頭を巡らせる。
そんな僕の心配を察したのか、彼女は頬を膨らませる。
「まーたお金の心配してるの? そんなの気にしなくていいって言ってるのにぃ」
「でも、いつも払ってもらってばかりだし。たまには僕だって」
「大丈夫、大丈夫」
会話が聞こえていただろう彼女の後ろにいる二人組の女性が、こちらを見てヒソヒソ話している。
きれいな栗色に染めた背中まである髪はゆるやかに巻かれていて、最新だろうかわいい装いの彼女に対して、僕はプチプラの柄もないシンプルな恰好。プチプラという言葉も彼女から教えてもらったほどに服装には無頓着な僕が、かわいい女の子と一緒にいて、付き合っているらしいというのが大層不思議でならないだろう。
そんなの、僕が一番不思議でならないんだけどな。
僕と彼女は同じ大学で、映画のサークルで出会った。彼女のことは入学当時から知っていた。めちゃくちゃかわいい子がいると、だれもが噂していたからだ。毎日いろんな男に話しかけられても、彼女は誰一人見向きもしなかったらしい。
僕は元々友人も少なく、映画を観ることが唯一の趣味だったこともあって入ってみようと思ったのだが、入ってみたら観る人だけでなく撮りたい人もいて、見栄えのいい彼女を役者にと誘ったらしかった。
ゴールデンウイークに行われた新人歓迎会も、ほぼ彼女のためのものだった。男性陣は彼女に群がり、それに嫉妬した女性陣はなんらかの同盟を組んだように見えた。
大きなカラオケ部屋で一晩過ごしたのだが、起きたら彼女だけいなくなっていた。そして誰もそのことに言及しなかった。男性陣は僕も含めてひどく疲れていて、女性陣に飲みすぎ騒ぎすぎだと怒られながら帰路についた。
そして休み明けの大学で、彼女は突如僕の前に現れた。
「ねぇ、今度デートしようよぉ」
そのときの衝撃は今でも忘れない。
僕は学食で一人、遅めの昼食をとっていた。混んでいなかったとはいえ、誰もいないわけではない。ざわつく周りの目を気にしながら、僕はかろうじて冷静に答えた。
「えっと……誰かとお間違えでは?」
「どうしてー? あたし、きみと話してるんだけどぉ」
彼女は僕の正面に座って肩肘をついた。まっすぐこちらを見ている。間違いなく、僕を見たんだ。
「ごちそうさまでした」
手を合わせてつぶやくと、僕は立ち上がって彼女を見た。彼女は僕の食べ終わったお皿を見ていた。
「きれいに食べるねぇ」
嬉しそうに言う彼女に、僕は小さく答えた。
「僕ときみは釣り合わないよ」
お盆を持って立ち去る僕に、いつものふわふわした話し方でなく彼女は言った。
「そんなことないよ」
そしてそれからきっちり一週間、彼女は決まって学食で僕の前に現れては同じ言葉を繰り返すのだった。
「デートしようよぉ」
「ねーえ、ちょっとぉ」
彼女に顔の前で手をひらひらさせられて我に返る。
「なにぼけーっとしてるの?」
「ごめんごめん」
「なに考えてたのー? またお金のことー?」
彼女は少し不服そうに続ける。
「気にしなくていいのにぃ。うちお金持ちだしー」
確かに、初めて彼女を家まで送った日はひっくり返りそうになった。まさか彼女があの有名な化粧品メーカー社長の一人娘で、コンシェルジュのいるマンションに住んでいるなんて。それも、一人暮らしする娘のために親が買ったなんて。
僕は苦笑いしながら答えた。
「いや、なんで僕がきみと付き合えてるのかなって」
彼女はふふっと笑いながら言う。
「なぁに、また誰かになにか言われた?」
「いや、もうほとんどないけど」
「そう? ならいいけど」
彼女が僕の前に現れてから一週間、噂を聞きつけた人たちで学食にだんだんと人が集まりだした。あまりにしつこいのと好奇の目にさらされることが嫌で、仕方なく彼女に一日付き合ったが、それ以来彼女は学食以外でもなにかと僕にかまうようになっていた。
そうなるともちろん、悪意をぶつけてくるやつもいるわけで。
「おまえか? あの子と付き合ってるってのは」
「なんでおまえが?」
似たようなことを言って絡んでくるやつが増えた。彼らは決まって僕の全身を舐め回すように見ては、自分の方が上だと鼻で笑うのだ。そんなの、僕だってわかってる。
さすがに手を出したりなんてことはなかったけれど、すれ違いざまだったりわざと聞こえるようにだったり、心が削られるようなことがたくさんあった。
「付き合ってないよ」
そう答えるのが精一杯だったのだけど、それで納得してくれる相手だったら面と向かって文句は言わない。
ある日、あまりにしつこいやつらに絡まれてるとき、彼女が現れた。
「なにやってるのー?」
彼らは彼女の姿を見た途端、気持ち悪いくらい態度を変えた。
「あ、ねぇ、こいつなんかじゃなくて俺らと遊ぼうよ」
「絶対こいつより楽しいことも知ってるからさ」
彼らの影に隠れて小さくなっている僕を一瞥して、彼女は大きくため息をついた。
「ほら、こんな情けないやつなんてほっといてさ」
「さ、行こう」
彼らが彼女の肩に手を回そうとしたのをひらりとかわし、彼女は僕の前までやってきた。
そして、僕にだけ聞こえる声で言った。
「早く言って。なんとかするから」
なんとかって言われても、彼女だけ残すわけにも、と考えを巡らせていると、彼女は僕に背を向けて彼らに話しかける。
「ちょっと話そうよー」
「お、やったぁ」
「邪魔者はさっさと引っ込めー」
彼女は背中に回した手で追い払う動作をする。
「ありがと」
彼女にだけ聞こえるようにと小さな声で言い、僕はその場を後にした。
それから次の日彼女の姿を見るまで、僕は気が気でなかった。
「大丈夫?」
お昼も食べずに彼女がくることを待っていた僕は、彼女の声が背中から聞こえてきて勢いよく振り返る。
「ちょ……っと、ほんとに大丈夫ー?」
彼女が苦笑いしながら僕の正面に座る。
「青い顔してる」
僕に手を伸ばす彼女を遮って、頭を下げる。
「昨日はごめん、置いてって」
彼女は驚いて手を止め、僕に触れることなくゆっくり戻していく。
「気にしなくていいのに」
「大丈夫だった? 変なことされてない? なに話したの?」
矢継ぎ早に質問する僕に、彼女はなぜだか笑い始める。
「大丈夫、話はついたし、なにもされてないよ。大丈夫」
「……よかった」
右手を額に当てて安堵する僕を、彼女はじっと見つめる。
「心配してくれたんだね。ありがとう」
「いや、僕の方こそ……」
「ごはん、食べないの?」
言われて、ぐぅと小さくおなかが鳴る。
「おなか減ってるじゃない」
彼女が楽しそうに笑い、つられて僕も少し頬が緩む。
「待ってて、買ってくる」
立ち上がりかけた僕に、彼女が言った。
「じゃ、あたしにも同じものお願い」
彼女の言葉に僕はうなずいて、二人で同じものを静かに食べた。周りに人はいるはずなのに、それが気にならないくらい静かだった。
「ごちそうさまでした」
食べ終わって手を合わせる僕に、彼女も倣う。
「ごちそうさまでしたっ」
手を合わせたまま視線が絡まり、同じタイミングでふふっと笑う。
「付き合っちゃおうか、あたしたち」
彼女の言葉に驚きはしたけど、あまりに自然で嬉しくて、僕は思わずうなずいてしまった。こうして僕に初めての彼女ができたんだ。
そして彼らも、あれ以来一度も僕のところにはきていない。というより、僕のことなんて最初から知らなかったかのように視線を向けることもなくなった。
一度彼女に聞いたことがあるけれど、彼女は笑ってこう言った。
「わかってくれたんだよ、よかったね」
なにはともあれ、彼女が守ってくれたことに変わりはないのだから、これから彼女を一層大事にしようと決めた。
「そういえば、ごはんちゃんと食べてるー?」
ココアを一口飲んで、彼女は少し首を傾げる。
「やー、ちょっと今月厳しくて」
「そうだよねぇ、ちょっとやつれて見えるもん」
彼女の顔がずいっと近づく。どきっとして少し視線を外す。
「そう、かな」
家賃は親が払ってくれていて、生活費は少しの仕送りとバイト代で賄っている。
「またごはん作りに行こうか?」
「いや、いいよ、いつもいつも」
「気にしないで、料理好きだし。きみには健康でいてもらわないと困るしね」
彼女はいつも僕の生活のことまで気にかけてくれる。
「そうと決まれば、スーパー寄ってきみの家行こうよ」
僕の返事も聞かず、彼女は僕の手を取って席を立った。
家に寄る途中にある小さなスーパーで、彼女はこれでもかとたくさん食材を買い込み、僕の家でたくさんのおかずを作ってくれた。
「よし、食べよ」
ほかほかのごはんを食べるのはいつぶりだろう。僕は料理が得意ではないし、あまり贅沢もできないから、いつも野菜を適当に炒めて終わる。
彼女は料理がすごくうまい。和洋中なんでもいけるし、消費期限ギリギリの残った野菜も無駄にはしない。
いつも、彼女には助けてもらってばかりだ。
「おいしい?」
彼女は首を傾げながら聞いてくる。その仕草がとてもかわいい。
「うん、めちゃくちゃ」
ごはんとお肉を頬張る僕の姿を、彼女はいつも嬉しそうに見つめる。彼女はそんなにたくさん食べないけれど、腹の減ってる僕のためにとたくさん作ってくれる。
これが幸せか、と何度嚙み締めたことだろう。いつまでも続くわけがないと疑いながら、数ヶ月が経ってしまった。
「ごちそうさまでしたっ」
最後の一粒まで残さず食べきって、パンっと手を合わせる。
「きみはほんと、いつもきれいに食べるねぇ」
食べ終わったお皿を流しに持っていきながら僕は答える。
「なんかさ、一人暮らしするようになって、余計大事に食べるようになったかも」
「いいことだね」
彼女のお皿も流しに持っていき、皿洗いは僕の仕事。彼女も僕の隣にきて、タッパーに入れて冷ましていたおかずを冷蔵庫に入れていく。
「また付箋貼っとくからね。ちゃんと食べてね」
律儀にいつまでに食べるようにとメモを残してくれる。
「ほんとにありがとう。いつも助かるよ」
「いえいえ」
「ごめんね、いつもしてくれてばっかりで」
「ん?」
小さな冷蔵庫にぎっしりとおかずを詰め込んで、かがんだまま彼女は顔を上げる。
「いや……」
言い淀んだ僕に小さく笑い、彼女は明るく言った。
「気にしないで。ちゃんとお礼はしてもらうから」
「お礼?」
「そのうちね」
「そのうちか」
なんだか楽しそうな彼女にそれ以上突っ込まず、洗い物を進める。
「ねぇ、映画観ようよ。きみの最近のおすすめ」
「時間、大丈夫なの?」
「平気。帰るときはタクシー使うし」
彼女は急に調味料を置いている棚の奥からなにかを取り出した。
「じゃんっ。こんなときのために、置いといたんだぁ」
目の前に突き出されたのは僕の好きなスナック菓子。時々僕の家で一緒に映画を観るときの必需品。
僕は基本塩コショウしか使わないし、彼女の持ってきた調味料はたくさんありすぎて、ここしばらくは扉を開けることすらしていなかった。時々彼女がなくなった調味料を足しているのは知っていたけど、まさかお菓子を隠していたとは。
「そんなところに置いてたの? 気づかなかった」
「きみが一人で食べちゃわないようにね」
「なるほど。じゃ、早く済ませるね」
「ゆっくりでいいよぉ」
彼女は小さなテーブルの上を素早く片付けて、すぐにでも映画を観れるように飲み物やお菓子をセッティングしていく。
少し部屋を暗くして映画を観るのが僕のこだわり。彼女はいつも僕の肩に頭を預けて、時々ココアをすすりながら静かに観る。二人の足元にかかっている大きなブランケットは彼女が買ってきたもの。彼女がいないときはよくそれにくるまって寝ている。かすかに彼女のにおいがして落ち着くから。
ゆっくり彼女の方を見ると、長いまつげが影を落として彼女をいつもより妖艶に見せている。本当に、この子が僕の彼女なんだ。これも、もう何度思ったことか。付き合って数ヶ月も経つのに、いまだにキスのひとつもしてはいない。彼女も何も言わない。数少ない友人には遅すぎると怒られたけれど、一度許してしまうともう我慢が利かなくなることはわかっている。僕なりに、大事にしたかった。
視線を感じたのか、彼女がふと顔を上げ、目が合う。小さく微笑むと、彼女はまた画面の方へ顔を戻した。
よし、決めた。クリスマスは僕ががんばろう。
「……ねぇ」
映画の最中に話しかけることはめったにない僕が言葉を発したことに、彼女は驚いて体を起こした。
「どうしたの?」
「クリスマス、僕があのお店を予約するよ」
「えっ?」
「バイト増やすから、会える時間が減っちゃうと思うけど」
「雑誌のフレンチ?」
「うん。クリスマスだし、付き合って半年にもなる頃だし」
彼女は少し黙って僕を見つめた。僕の気持ちを理解したのか、にっこりと笑う。
「うん、わかった。楽しみにしてる」
いつの間にか強く握りしめていた手の上に彼女が手をのせる。
「ありがとう。じゃあ、その日、ごはんの後でうちにこない?」
「えっ」
エントランスまでは何度も行ったことがあるけれど、部屋には一度も上がったことはなかった。
「半年経つわけだし、いいかなって」
部屋が暗くてよかったと、今ほど思ったことはない。僕のだんまりを、彼女は肯定と受け取ったようだ。
「おそろいのパジャマ、買っとくね」
これでもう、年末は餓死したってかまわない。
お店にはすぐに予約の電話を入れた。僕が日雇いのバイトを増やしたことを知って友人はなにかを悟ったのか、黙って肩をたたかれた。
ほぼ毎週のように会ってお茶していたのがなくなっても、彼女はなんの不満もこぼさなかった。むしろ、僕の体の心配ばかりしていた。
「ね、ちゃんと寝てる? 食べてる?」
僕は朝ギリギリまで眠るようになり、時々講義を休んでしまうこともあったけれど、今だけなんだと開き直ってバイトに勤しんだ。
「これ、食べてね」
そう言って彼女は何度もおかずを渡してくれた。学食ですら減らしていた僕に、お弁当も作ってきてくれた。どれもお肉たっぷりでボリューム満点。おかげで食に困ることはなかったどころか、むしろ力が出てがんばることができた。
ある夜、久々に僕の家で一緒にごはんを食べているとき、彼女が心配そうに聞いてきた。
「そういえばさ、フレンチのお店、ドレスコードだよね?」
「えっ」
驚いた僕に、彼女はやっぱりっていう顔をした。
「服、ないでしょ。今まではカジュアルなお店だったから」
そこまで考えていなかった。ただでさえコースのお金と彼女へのプレゼント代でいっぱいいっぱいなのに、大学の入学式で着たスーツくらいしかない。
「大丈夫、任せて」
本当に任せていいのだろうか。でも、僕にはどうすることもできない。
彼女は数日後、大きな紙袋を抱えてうちまでやってきた。その袋に書かれているのは僕でも知ってるブランド名だった。
「これ、きみの分ね。サイズも大丈夫だと思うよ」
うきうきで紙袋を差し出してくる彼女に、僕は少し困惑した。
「えっ、買ってきてくれたの?」
「あ、ごめん。どのブランドがいいとかあった?」
「いや、そういうわけじゃないけど……これ、いくら?」
恐る恐る中を覗くが、店側の配慮なのか彼女が言ったのか、値札は見当たらない。
「早いけど、あたしからのクリスマスプレゼントってことで、受け取ってくれる?」
「でも、高いよね……」
「いいの! っていうか、張り切りすぎて勝手に買っちゃってごめんね」
「正直、すごく助かるけど……」
僕がクリスマスにかける金額よりだいぶ高い気がする。なんだか本末転倒な気がしてきた。
「あのね、いつもはスタッフにある程度見立ててもらったりするんだけど、今回は二人ともあたしが全部選んだんだよ!」
彼女はとても嬉しそうに話している。いつもよりテンションも高い気がする。こんな彼女は初めて見る。
「きみのを最初に選んでね、その隣に立つことを考えてあたしのは選んだの!」
ものすごく楽しみにしてくれていることを今は喜ぼう。マナーとか、いろいろ勉強しなきゃ。
「そうなんだ、ありがとう」
いつもより子どもみたいに笑う彼女を、絶対楽しませたい。
こうして訪れたクリスマス当日、彼女が買ってくれたブラウンスーツに身を包み、彼女を迎えに行って店へと向かった。名前を告げるとコートを預かってくれ、席まで案内される。
彼女はそっと僕の腕に自分の腕を絡めて、小さく言った。
「あたしセンスいいね。似合ってる」
「そう、かな?」
ちょっと照れくさい。こんなちゃんとした格好をするのは初めてだし、鏡を何度見ても服に着せられてる感があるけれど、ちゃんと髪をセットしてみると心も背筋もしゃんとする気がする。
彼女は長い髪をまとめていて、シンプルなレモンイエローのワンピースを着ている。いつもと違って少し大人っぽくてどきどきする。
「きみも、きれいだよ」
普段なら恥ずかしい言葉も、この格好とお店の雰囲気とで言ってしまった。
彼女より小さな声だったけれど、ちゃんと伝わったようだ。絡めた腕をぎゅっとされた。
通されたのは半個室で、周りの視線も会話も気にしなくてよさそう。せっかくの高層階なのに外の景色が見られないのが残念だけど、仕方がない。
「わぁ、おいしそう」
前菜からおしゃれな料理が運ばれてくる。料理名を言われても、なにが使われているのかさえわからない。
彼女は慣れた手つきでフォークとナイフを握り、きれいに口まで運ぶ。一応マナーなんかは調べてきたけれど、実際目の前にするとどうも焦ってしまう。音を立ててしまったり、ナイフを落としそうになるたび、彼女は小さく笑って手本を見せてくれる。僕はそのマネをするのに精一杯で、料理の味がほとんどわからない。そんな僕を見かねてか、彼女は言う。
「ここの席、周りの目を気にしなくていいから、好きに食べたら? せっかくなんだから、ちゃんと味わおうよ」
確かにそうだ。それに、もう一生こんなお店で食べることなんてないかもしれないし……自分のお金では。
少し肩の力が抜けて、やっと味がわかり始めてきた。うまい、としか言えないけれど。
「次はお肉かな」
口直しであろうシャーベットが下げられ、彼女はわくわくした顔で言う。メインのお肉のときが一番、彼女のテンションが高くなる。
「すっごくおいしい」
「ほんとだ、こんなおいしいお肉初めて食べた」
ようやくほころんだ顔の僕を見て、彼女も少しほっとしたように微笑んだ。
「ねぇ、きみに質問、いい?」
上品に口元を拭う彼女は、とても同い年には見えない。住む世界が元々違いすぎるから仕方ないのだろうけど、時々彼女がとても大人に見えるときがある。
「なに?」
「きみは、今までの彼女にもこんなに優しいの?」
「僕、は」
少し声が上ずって、慌てて水を一口飲む。
「僕は、きみが初めての彼女だよ」
彼女は目を丸くした。
「そうなの? あたしってば、ラッキーね」
思わぬ言葉に、次は僕が目を丸くした。
「ラッキー?」
「きみの良さは、あたししか知らないってことでしょう? ラッキーじゃない」
僕の心がふっと軽くなる。こんな彼女に何度救われたことか。
「きみは……たくさん彼氏いたんだろうね」
ずっと気になってたことを、この流れで聞いてみる。口に入れたお肉をゆっくり飲み込んで、彼女は答えた。
「うーん、たくさん? 三人ってたくさんなのかなぁ?」
「三人だけ?」
思った以上に少なくて逆にびっくりだ。
「そうよー。中学で二人、高校で一人、かな」
「でも中学でもう彼氏いたんだね」
言って僕はお肉を頬張る。幸せな肉汁が口にあふれる。
「最初の人は二ヶ月くらいだったけどね。だから付き合ったっていえるか微妙かも」
「そうなんだ」
「先輩だったんだけど、卒業するときに告白されてね、あたしも気になってたしいいよってなったんだけど」
ごくん、と肉を飲み込む。
「ほら、向こうは高校生じゃない? 中高一貫とはいえ、なかなか会えなくて」
「……なるほど」
「だからね、それからは同級生としか付き合わないって決めたの」
「そうなんだ」
「好きなときに会えなきゃ、意味ないもの」
「じゃ、次は同級生?」
彼女は水を一口飲み、うなずいた。
「でもそれも高校が別になって終わったけどね」
「え、中高一貫でしょ?」
「それがさぁ、ご両親が海外で事業するっていうのでついてったのよ」
「あぁ、海外はさすがに」
「でしょ? やっと見つけたと思ったのに」
「見つけたって?」
「ん-? 運命の人、みたいな」
彼女はお肉を口に頬張る。続けて僕も最後のお肉を口に入れる。
それにしても運命の人なんて、彼女にしてはかわいらしいことを言うんだな。
「みんな、僕みたいに地味なの?」
「なぁに、それ。卑下しないでよ」
彼女によく言われていた、僕の悪い癖が出てしまった。
「ごめん、つい」
「先輩は、もう顔も忘れた」
僕を安心させるためなのか、それとも。
「でもその次の人はバスケ部のエースだったかな」
「すごいね」
「人気あったねぇ、体力もあったし」
なんとなく、彼女の隣にいて違和感はなさそう。
「高校の人は、一番長く続いたけど、運動部ではなかったかな。地味でもない、普通の人」
「僕みたいな?」
彼女は苦笑しながら答えた。
「その癖はどうしたらなくなるんだろうねぇ」
さっとウェイターが空になったお皿を下げにきた。
「ごめん。まだ自信持てなくて」
「でもその自信も、明日の朝にはつくかもね?」
彼女が意味ありげに笑って、思わず視線をそらす。
タイミングよくデザートが運ばれてきて、彼女はすぐさま口に運ぶ。
「わ、めっちゃおいしい」
そのあとの会話はよく覚えていない。
「う、わぁ……」
開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。彼女の家は異次元だった。広さも、きれいさも、インテリアも、なにもかも僕の想像してた以上だった。
「一人暮らし、だよね?」
一応、確認してみる。
「そうだよ?」
あっけらかんという彼女はコートを脱いで、僕をソファへと座らせ、いそいそとキッチンへ向かう。
このソファ、何人座れるんだよ。僕が寝転がっても三人は余裕だな。テレビも見たことないくらいでっかいし、シャンデリアまである。
落ち着かなくて、思わず近くにあったクッションを抱きしめる。
「どうぞ。寒かったでしょ」
ガラスのテーブルにコースターを置き、その上にかわいいマグを置いてくれた。湯気がたっている。
「ありがと」
こうなったらこのマグだっていくらするかわからない。慎重に両手で包むように持ち、そうっと口をつける。
「おいしっ」
「ほんと? よかったぁ」
彼女もコースターをテーブルに置き、マグを手に僕の隣に座る。
「ごめんね、コーヒー飲めないから、ココアしかあったかいのがないの」
それでもそのココアも、なんだか上品な味がする。
「大丈夫、ココア好きだし」
「よかった」
彼女がココアに息を吹きかけて口をつける。少しの沈黙。広いから余計、静けさが反響してる気がする。
「あ、ごめん。コート預かるね」
彼女がさっと立ち上がり、両手をこちらに向ける。僕も立ち上がり、ポケットのものをその手に乗せる。
「これ、プレゼント」
「えっ」
小さな箱を手に乗せられ、困惑する彼女。
「たいしたものじゃないんだけど。フレンチでお金なくなっちゃったし」
「嘘……ありがと」
小さな箱を大事そうに胸に抱えて、彼女はにっこりと笑う。
「開けてもいい?」
「うん」
丁寧に包装紙をはがし、ふたを開けた彼女はしばらくの間固まった。
気に入らなかったかな、と心配するほどの間、彼女は箱の中にくぎ付けだった。
「これ、は」
「うん、ピアス」
「これって、十字架……だよね」
「うん。これ見たとき、ぴんときたんだ。きみに似合いそうって」
そしてまた、少しの沈黙。
「ごめん、趣味じゃなかったかな」
耐えられなくて尋ねると、彼女は首を思い切り横に振った。
「違うの。すごいなぁ、って」
心なしか、彼女の目が潤んでいるように見える。
「気に入ってもらえた、のかな」
「うん! ありがとう」
ほっと胸をなでおろし、コートを脱ぐ。
「ね、つけてきてもいい?」
「今?」
「うん、つけたい」
「それは、もちろん」
「ちょっと待っててね」
彼女はバタバタとリビングを出ていく。気に入ってもらえたのなら、よかった。
僕は脱いだコートをまるめて抱え込み、ソファに座った。さっきから自分の心臓の音がうるさい。
「見て見てー」
ものの数分で彼女は戻ってきた。無意味に顔を左右に振ってはピアスを揺らす。
「かわいい。似合ってる」
「嬉しい! ありがとう」
彼女は横からがばっと抱きついてきた。思ってもない行動に心臓が止まりそうになる。ここまで彼女と密着したことはなかった。
体を離して少し早口で彼女は言う。
「今日、ほんっとに楽しかった。がんばってくれてありがとうね」
今日一の笑顔で言われて、僕も嬉しさがあふれる。
「いや、こちらこそ。けっきょく服は買ってもらっちゃったし、意味ない気がするけど」
「そんなことないよ! その気持ちがすっごく嬉しかったの!」
いつもよりハイテンションの彼女に、少し押され気味になる。
彼女は少し照れたようにもじもじしながら、独り言のようにつぶやく。
「ほんとはおそろいのパジャマ着て、ベッドでって思ってたんだけどぉ」
そういうと彼女は僕の正面に立って、抱え込んでいた僕のコートを奪い取るとバサッと床へ投げた。
そして、ゆっくりと顔を近づける。その彼女の目は、なぜか赤く光って見えた。
「もう、我慢できなぁい」
ごくっと唾を飲み込み、僕はぎゅっと目をつむった。
「いただきまぁす」
「……え?」
彼女の思わぬ言葉に目を開けると、視界の中に彼女はいなかった。
次の瞬間、首元に痛みが走る。そしてすっと血の気が引くのがわかった。
「おいしーい」
視界が少しぼやける中で、彼女の影がゆらりと現れた。
「……あ、の」
かすかにきらりとなにかが光る。さっきあげたピアスだとわかるまでの少しの間に、彼女の声が耳に届いた。
「今までで一番おいしいの、なんでだろう? 運動もしてないし、不規則な生活なのに」
彼女はなにを、言ってるんだろう。
「吸いつくしちゃわないように、気をつけなきゃ」
ぐるぐるする頭の中で、僕はようやくひとつの可能性を見つけた。
もしかして、きみは、
「……ヴァン、パイ……ア」
僕のつぶやきに、彼女が反応して赤い目を見開いたのがわかった。
「そっか……でも、いいよ……」
薄れていく意識の中で、僕は懸命に彼女の方へ手を伸ばした。
「いいよ……吸って、いいよ」
伸ばした手を引き寄せられ、僕は彼女の胸の中にいた。いつも彼女から漂ってきた甘いにおいが強く香ったから、そうなんだと思う。
「……好きだよ」
かすれるような声で、彼女が言った。僕もだよ、って答えられたのかはよくわからない。
そしてまた、痛みを感じて僕は意識を失った。