花散る雨、里に恋しなりゆく
壱.はるうらら
サクラサクラ
はらはら、と舞う桜は美しいと、人は言う。澄んだ青空の下、日だまりに包まれながら、名残惜しそうに散ってゆく儚い姿こそが、日本の春の情景だと、更に大人は言うだろう。
――咲くのは一瞬、終わるのも一瞬。吹雪いて一息ではなく、雨に打たれ続け……散り逝く。そんな刹那的な花が、今のサクラだ。
古都、京の春。雪解けが終わりを迎え、陽射しが強くなり、冷えきった空気が過ぎ去って暖まる頃。市内を囲む山々が、一斉に笑い出す。
瑞風でヒノキの花粉が舞い飛ぶと共に、淡い薄紅色の小さな雲が市内のあちこちに浮かび上がり、街、町、山が可憐な彩りに染まる。
歴史的な遺跡や神社、寺、社があり観光地とされる所、桜の名所と謳われる地は、毎年、観光客で賑わい、明るく活気づく……
どんな時世や世相が背景にあっても、今、日本に生きている大人が子供の頃から変わらない、変わらないと思っていた、芽吹きと始まりの季節……
あえて一つ、変化をあげるとしたら、ぽかぽかした陽気な空気の続く日々、『麗らかな春』と呼ばれる時間が、ほんの一時になった事だろう。
季節が間違って先にやって来たのかと錯覚する、暑い昼下がりが訪れ、空から水圧の強いシャワーのような雨が、何日も降り注ぐようになったのは、一体、何時からだったか……
そんな市内の北側に位置する、とある高校。その日の授業が全て終わった、どしゃ降りの放課後の事だった。
夕暮れというよりは薄灰色の曇天に染まり出した外を見ながら、慌てた様子で、一人の女子高生――楓が帰り支度をしていた。耳サイドの長い黒髪をヘアピンで留め、濃紺の制服ジャケットを羽織る。
「楓、今日は塾ないんやろ? ファミレス行こうや」
高二になってクラスが変わり、なんとなく集まった同じグループの一人が、そんな彼女に声をかけた。新しいグループの付き合いは大事……それは十分に認識しているが、タイミングが悪かった。
更に、学校近くのファミレスと聞いて、楓は動揺し、内心青ざめた。慌てて口元に微笑を作り、両手を合わせて必死に謝る。
「あ……ごめん。用事あって……」
「またあ? いつもどこ行っとるん? もう遅いやん」
「うちらもやけどな。部活無い日はファミレスかコンビニ」
「まあ、ええけど…… また明日なぁ」
喋り上手でも無い上、ノリも良くはない。そんな自分を誘ってもらえるのは、とてもありがたいと思っている。それでも、それ以上に重大な要件が、彼女にはあった。なるべく愛想よく、「ゴメン」と口にしながら手を振る。
教室を出た階段付近で、ハンドタオルを忘れたことに気づいた。急いで引き返す。外はどしゃ降りだ。今から行く場所に着く頃は、びしょ濡れになっているだろう。リュックや髪は出来れば拭きたい。
が、教室の近くまで来て、反射的に身体が硬直した。扉から微かに漏れる、嘲笑交じりの……会話。
「今日も来んとかないわ。なんなん?」
「悪い子やないけど…… うちらの事、避けてるんちゃう?」
「なんや変わっとるしね。付き合いにくいわ」
非難の集中豪雨だ。SNSで密かにそんなことを言われているのは、なんとなくわかっていたが、直接、言葉……『声』で聞いてしまったのは初めてだ。
居たたまれなくなり、そっと、後退りする。そのまま踵を返し、下駄箱に直行した。急いでイヤホンを耳にはめ入れ、楽曲アプリを起動する。
逃げるように校内を飛び出し、どしゃ降りの雨音の中に駆けた。
――なんでうちだけ、こんななんやろう……
出来るなら、このまま雨に打たれて、消えてしまいたかった。
市内の北寄りの区内にある、楓の地元。更に人里離れた場所に小さな社がある。その奥に隠れるように、一つの祠が佇んでいた。人気があまり無い地にあるそれは、貴船神社や伏見稲荷神社など、所謂観光地になる位の大きなものではない。
だが、昔からこの地を守る水神が祀られているという逸話がある。楓が向かっていたのは、そこだった。そこじゃないと、ダメなのだ。
昼間は汗ばんでも、夜はまだひんやりと肌寒い時期。黄昏が宵に変わるのは早い。祠に向かう道中、住宅街から離れた暗がりに、朱に透けた透明のビニール傘が映えていた。彼女の両耳はイヤホンをしたままだ。
夜に人通りの無い場所に、少女一人で赴くには、少々無防備だと咎められる状態だが、彼女にとっては欠かせない……常備薬と同じくらい必需品だった。
本来の活用目的である、音楽を聴く時もあれば、聴かない時もある。気晴らしや話しかけられるのを避ける為ではない。学校や教室では大抵外している。繁華街の中でも、だ。
普段付けるのは、公園や植物園、川沿いなどの静かな場所……草木や花が植えられているエリアだけ。とはいえ、街中の喧騒が好きという訳ではない。人混みが苦手なので、カフェや図書館ぐらいしか落ち着ける場所がなかった。
大抵の人間には安らぎと休息、癒しを与える目的で造られた空間が、彼女には苦痛だった。物心ついた頃からは、特に……
社に入り、短めの石段を駆け上がる。祠とソメイヨシノの大木が見えた瞬間、辺り一面に漂うように聞こえる、すすり泣くような音……
(イタイ……ツメタイ……ヤメテ……ヤメテ……)
頭上のくすんだ藍の空から、パタパタ、と傘に落ちる雨音に交じり、イヤホンからは落ち着かせる為の好きな楽曲が流れる。それでも、耳に入ってくる微かな音……いや、儚い悲鳴にも近い声。だが、この場には楓以外、誰もいない。
いつからか、何度聞いたかわからない。だが、未だに慣れず、毎回、心を締め付ける現象……
急いで祠の前に走り、佇むと直ぐに両手を組んだ。いつものように、心の中で、何度も繰り返し呟き、願う。
『――水神様。どうか……どうか、お願いします。雨の日を……量を、もっと少なくして下さい。また、桜が……あちこちで泣いてます。辛いです。助けて下さい』
彼女には、花の声が――聞こえる。