花散る雨、里に恋しなりゆく
終.はなちるさとで
永久に
「……また、話しても、ええの?」
――……いや、もう声はかけられない。そもそも今回は、本当に特例だ
「……そ、か」
こうなるかもしれないと、どこかで覚悟はしていたが、どうしようもない名残惜しさ、寂しさが沸き上がり、ちりちり、と胸の奥を痛ませる。
――そんな顔をするな。姿は見えないだろうが、私はいつもこの辺りに居る
「……桜の事はもう願わへんけど……話しかけてもええかな? 返事はいらんから……」
――なら、聞いた証として、帰る時に軽く霧雨を降らす。花に影響の無い程度にするから安心しろ
また思いがけない彼の配慮に、楓は歓喜した。
「あ、ありがとう……ほんまに、ありがとう…… サク……水神様……!!」
――サクヤでいい
まだ短い春の夜は、いつの間にか更けていた。黄昏が宵闇に少しずつ染まっていくにつれ、ひやり、とした、物悲しく切ない雰囲気が忍び寄り、辺りに漂い始める。
――もう遅い。早く帰れ。女一人の夜道は危ない
「……はい」
以前と同じ、帰宅を促す彼の言葉。けれど、その口調は違っていた。柔らかな優しさが滲み出ている。それは嬉しい反面、切ない変化でもある事を、楓は予感していた。
もう二度と得られないのに、どうしようもなく恋しい、残酷なぬくもり……
――……じゃあ、な。がんばれ、楓
その言葉を最後に、彼の声は本当に聞こえなくなった。しん、と静かないつもの宵の空と、見慣れた風景だけが残る。春の夜のほんの僅かな、朧気で不思議な一時……
彼と二度と話す事は出来ない。時が経つにつれ、祖母の時と同じように、あの心地よく響く声もいつか朧気になり、自分の記憶から薄れてしまうのだろう。――いや、地上の生物でない彼の『声』は、録音する事も映像にも遺しておく事すら、出来ない。
だけど、この出逢いだけは、一生、忘れない…… 春の雨が降る度に、きっと思い出す……その記憶だけは、消えない……
そんな確信めいた想いを抱きながら、何度も祠を振り返り、気を奮い起たせてから、楓は帰路についた。
――…………
(行ったのか。あの娘は)
――はい
楓の姿が見えなくなってから暫く経ち、ぼんやりとしているサクヤに、天上の者……水神族の長が声をかけた。
(あのような人間が、現代にもいるとは驚いたな。先祖や前世は何か知らぬが……)
――ですね。私も驚きました
(……全く。少しの霧雨とはいえ、勝手に雨を降らす契約なぞしおって。厳罰は免れんぞ)
――存じています。覚悟の上です。どうぞ罰して下さい
(お主、まさか、始めからそのつもりで……)
――水神界の規約を破った者は厳罰……格下か、人間に堕ちるのでしょう? どうぞ人間に堕として下さい
(…………!! 永久の生と、神という名誉を棄て、わざわざ、人間に?)
――はい。お願いします
(百年の寿命もない、ちっぽけで哀れな生物だぞ。相も変わらず欲に狂い、自ら厄を生み出し争い、滑稽さに気づかず、恐れる。天災に怯える反面、自然に敬意は払わない者は、いつになっても存在する)
辛辣だが、紛れもない事実に言い返せず、サクヤは黙った。
(しかも、この地球は、これからも荒れるぞ。地も空も海も、怒り狂っている。そんな場所に何故、わざわざ飛び込む? 何が、お前をそこまでさせる?)
何度も考え、打ち消しても甦るのは、あの人一倍優しく、寂しげな少女の姿……
――そうですね。私も自分でもよくわかりません。ただ……その荒れた地に、あの娘がこれからも生きていくのなら、なるべく苦しまないよう、彼女の傍にいて助けたい。彼女が笑っていられるようにしてやりたい……それだけです
呆気にとられた長の気配がしたが、構わずサクヤは続けた。楓という人間と、数日話していて思ったのだ。『生きてる』というのは、どんなものなのだろうと。
――何百年も存在して、色んなものを見てきました。何も考えず、何も感じず、何の変化もないまま、ただ己の役目を惰性的に繰り返し、それに何の疑問も持たなかった……
――むしろ、それで良かったんです。地上の人間を見ていて、尚更思いました。心なんて持ったらろくな目に遭わない。自らも愚かになる。改善している部分もありますが、性懲りなく同じような歴史を繰り返し、振り回される人間達の事も、どうでも良かった
(ならば、何故……)
――同時に、知らずにいたのです。自分が守ってきた地に生きる命……草木や土の匂い、感触、陽の暖かさ、花の香り、そして水の尊さ
全て、楓が嬉しそうに語り、教えてくれた事だ。絶句したのか、お上の返事はなかった。一時後、さあっ、と風が舞う。
(そんな『心』を完全に持ってしまったなら、もう、お前は天上の者ではない。相応しい場所に往くがよい)
――……これが『心』ですか。人間の『感情』など愚かでしかないと考えてましたが…… こんなに気持ちの良いものもあるなら、そんなに悪くないですね
(守神は代わりを派遣するが…… あの寂れた祠を司りたがる者など、いるかわからんぞ)
――人間にして頂いたあかつきには、せめてもの詫びとして…… 私があの祠を維持し、司ります。そんな生業を希望致します
(……お主は、愚かなのか聡いのかわからんな。昔から変わった奴だったが……)
苦笑混じりの返答だが、サクヤは覚悟と誇りに満ちた想いでいた。謎の万能感、とでも言えばそうなのだろう。何の根拠も保証も無い、理屈抜きの、無鉄砲な感情。客観的に見れば、至極愚かな行為だ。何て馬鹿な奴なんだと、嗤われても仕方ないのだと思う。
だが、彼女の傍にいられるなら、少しでも助けになれるのならば……怖くはなかった。そんな今なら、何でもできる気がする。多種多様な生き方をする人間を、長い年月をかけて自分は見てきた。なら、そんな命の在り方もあって良いだろうと思うのだ。
もしかしたら、ある日突然、どうしようもなく辛い別れが来るかもしれない。そうでなくとも『最期』は、地上に生きる命には、いつか必ず訪れる。だが、その時、彼女と共に思い切り泣いて、少しだけ微笑えるなら、自分は『生きた』のだと、その時初めて思える気がした。
そんなエンディングを迎える為、これから地上に闘いに行くのかもしれない……と、サクヤは思った。