ベテラン転生者エリザベス、完璧な令嬢になりました。今度こそ思い通りの人生になる…はず？
弾む馬車、飛び散る泥水、令嬢たちは悔しがります。
弾む馬車など見たことのない通行人が、思わず目と口をまん丸にして棒立ちになる。
が、そのすぐあとに、ばっちゃーん、と派手に水しぶきがあがった。
「きゃっ！」
「わーっ！」
その泥水は、徒歩で移動していた何の罪もない一家や、屋根なし馬車に乗っていた紳士淑女を直撃した。
「ぶわっ、こりゃ酷い」
「何だよ、あの馬車！、」
そんな中でもさらに不幸なことに、泥水を頭からかぶってしまった数人の女性がいた。悲鳴と怒声があがるのも当然のことで……。
「な、なんなのよっ！ 誰よっ」
「いやー！ これ、仕立てたばかりのドレスなのにー！」
綺麗に結った髪や鳥の羽飾りから泥水が滴り落ちる様は、憐れでありつつもどこか滑稽である。思わず、泥を免れた人々が不幸でお気の毒なレディたちを凝視する。
「み、見てないで拭うのを手伝いなさいっ！」
「えーん、冷たーい……」
その声に応じたわけではないだろうが、どこからともなく現れた黒い服に白い手袋の男たちが、彼女たちの前に整然と並び、すかさず札束やコインを握らせた。
「申し訳ございません」
「な、なによ、これ！」
「我が主からのお詫びです」
「お詫び？」
主ってだれかしら、と、レディの一人が白いハンカチで泥を拭いながら首を傾げる。と、彼女たちの連れの男性が、居並ぶ男たちの手袋に縫い付けられた紋章をそっと指し示した。
「あっ……」
「これは……」
ユニコーンを二本のバラが囲む紋章を知らぬ者はない。
ユニコーンが使えるのは、この国ができた時に王を支えた勇者や賢者たちを祖としている古い貴族『二十四貴族』のみ。そこにバラがそえられているのはフォントレー家のみ。
しかもこの一家は古い貴族、つまり名家であるのだが数代に一人、跳ねっ返り令嬢や型破り御曹司が誕生し、そのたびに爵位が上がったり下がったりする珍しい家である。
「ああ……そうよね、イシュタルなら平気でやるわよね、このくらい。というか、こんな無茶な走らせ方をするのは、イシュタルだけだわ」
と、レモンイエローのドレスの令嬢がため息をつけば、ピンクのタイトなドレスを着こなした令嬢が肩をぐっと持ち上げて黒服の男に詰め寄った。
「お、お金を払えばいいってものじゃないわよ！ いらないわ。ドレスが台無し、せっかくのチャンスがふいになったのよ。お金で解決できるものじゃないわ」
「いえ、お納めください」
やんわりと押し戻される札束、それを突っぱねるレディたちの目も据わっている。
無理もない。
結婚適齢期の彼女たちにとって社交界は結婚相手探しの戦場である。そこを撤退せざるを得ないのだ。ハイと素直に言えるわけがない。
「申し訳ございません」
男たちは、慇懃無礼を絵に描いたように頭を下げる。が、令嬢たちの気分がそれで収まるはずはなく。
「まったくもう！ せっかく三か月に一度の、国王陛下主催の大舞踏会なのに……がっかりだわ」
ため息交じりに指先で摘まみ上げられたレモンイエローのドレスは、裾から胸元から、見事に泥が跳ねあがっていっそ芸術的な模様を描いている。
「今夜のために、ドレスもティアラも新調して、タイトなドレスのシルエットにあわせて痩せたのに、これじゃ参加できないじゃない！」
露骨に不快感をあらわす令嬢の迫力たるや。黒服の男たちはまた一斉に頭を下げた。
しかし複数人いるのに、頭を下げるタイミングも角度も、びしっと揃っている。誰かが合図を出すわけでも指示の笛を鳴らすわけでもないので、さすがに令嬢一行が引きつった顔になった。
「なんだこいつら……。精鋭ぞろいの王立騎士団でもここまで揃わないだろ……」
「こ、怖いな……」
「フォントレー家って、どこまでも完璧を求める家柄なのか？」
「そんな話は聞いたことないがなぁ……」
彼らの脳裏に浮かぶのは「完璧令嬢」と渾名されているレディの立ち姿である。あのレディが彼らをここまで完璧に訓練したのだとしても驚きはしない。
兎にも角にも、黒服の男たちはレディの剣幕にひるんだ様子もなく、びしっと並んでいる。
そしてその中の一人が、あろうことか一歩前に出た。ひぁ、とレディの一行が、思わず後退り。
「お嬢さまがたのドレスはとても素敵です。拝見したところ、お二人ともマダム・ムーンライトのオーダーメイドと存じます」
「え、ええ、そうよ」
「とてもこれでは足りないとは思いますが、新しいドレスの足しに……」
ぐいっと札束を押し付けて、一同揃って頭を下げる。レディたちは、重みを増した札束を見たあと目を丸くした。
ドレスが新調できてお釣りがくる額だ。だが、新しいドレスが買えたとしても、舞踏会参加の機会を失うのは辛い。
なにせ、諸外国の遊学から帰ってきた王子殿下とその学友たちが社交界に復帰していると、もっぱらの噂だ。彼らと親しくなるチャンスが減ってしまうのだから、彼女たちが落胆するのも無理はない。
だが、ふ、と、レモンイエローのレディが唇を緩めた。
「残念だけど……今宵の舞踏会は、諦めましょう、レディ・ロレッタ」
え！？ と、ロレッタと呼ばれたレディが大きな瞳に涙を浮かべて友人を見た。
「どうしてよ、リリアン！ わたしたち、今夜のためにどれだけ……」
詰め寄る友人の肩を、リリアンはレースの手袋をつけたままの手でそっと撫でる。
「考えてもみてよ、ロレッタ。国中の紳士淑女が集う会よ。そこへ、泥だらけのこんなドレスで駆けつけてごらんなさいよ。どれだけ結婚相手探しに必死なのかと笑われてしまうわ」
「それは……そうだけど……」
「ロレッタ、あなたは本当に綺麗だし、流行のタイトドレスが似合うように体を絞った大変な努力家よ。そしてマナーも完璧なレディだわ。今日のためにとても頑張った、だからこそ、今宵の舞踏会にでたい。その気持ちも、わかるわ。でもね、見たでしょう？ あの馬車」
「ええ……」
忌々し気に、一同は、馬車が走り去った方角を見た。あの彼女が参加するなら今宵の主役は間違いなく彼女、その他令嬢は文字通り「その他の人」になる。
眩い街灯が、王宮へと続いている。舞踏会の参加者と思われる人々の列はまだ続いている。この道をまっすぐ行けば会場はすぐそこ、歩いて行ける距離なのだ。
「行こうか。あちらにドレスショップがあるはずだから新しいのを……」
「あら、あなたたち……舞踏会に行っていいのよ？ お目当てのレディがいるのではなくて？」
連れの男たちは顔を見合わせて朗らかに笑った。
「構わないさ。王子殿下が参加なさる会なんて俺たちは霞んでしまうからな」
派手な人物が参加すると、普通の男女は何かと苦労するのである。
「さ、行こう」
俯くロレッタとリリアンを、それぞれのパートナーたちが促してその場から立ち去る。
その背中に向かって、黒服の男たちが深々と頭を下げた。
が、そのすぐあとに、ばっちゃーん、と派手に水しぶきがあがった。
「きゃっ！」
「わーっ！」
その泥水は、徒歩で移動していた何の罪もない一家や、屋根なし馬車に乗っていた紳士淑女を直撃した。
「ぶわっ、こりゃ酷い」
「何だよ、あの馬車！、」
そんな中でもさらに不幸なことに、泥水を頭からかぶってしまった数人の女性がいた。悲鳴と怒声があがるのも当然のことで……。
「な、なんなのよっ！ 誰よっ」
「いやー！ これ、仕立てたばかりのドレスなのにー！」
綺麗に結った髪や鳥の羽飾りから泥水が滴り落ちる様は、憐れでありつつもどこか滑稽である。思わず、泥を免れた人々が不幸でお気の毒なレディたちを凝視する。
「み、見てないで拭うのを手伝いなさいっ！」
「えーん、冷たーい……」
その声に応じたわけではないだろうが、どこからともなく現れた黒い服に白い手袋の男たちが、彼女たちの前に整然と並び、すかさず札束やコインを握らせた。
「申し訳ございません」
「な、なによ、これ！」
「我が主からのお詫びです」
「お詫び？」
主ってだれかしら、と、レディの一人が白いハンカチで泥を拭いながら首を傾げる。と、彼女たちの連れの男性が、居並ぶ男たちの手袋に縫い付けられた紋章をそっと指し示した。
「あっ……」
「これは……」
ユニコーンを二本のバラが囲む紋章を知らぬ者はない。
ユニコーンが使えるのは、この国ができた時に王を支えた勇者や賢者たちを祖としている古い貴族『二十四貴族』のみ。そこにバラがそえられているのはフォントレー家のみ。
しかもこの一家は古い貴族、つまり名家であるのだが数代に一人、跳ねっ返り令嬢や型破り御曹司が誕生し、そのたびに爵位が上がったり下がったりする珍しい家である。
「ああ……そうよね、イシュタルなら平気でやるわよね、このくらい。というか、こんな無茶な走らせ方をするのは、イシュタルだけだわ」
と、レモンイエローのドレスの令嬢がため息をつけば、ピンクのタイトなドレスを着こなした令嬢が肩をぐっと持ち上げて黒服の男に詰め寄った。
「お、お金を払えばいいってものじゃないわよ！ いらないわ。ドレスが台無し、せっかくのチャンスがふいになったのよ。お金で解決できるものじゃないわ」
「いえ、お納めください」
やんわりと押し戻される札束、それを突っぱねるレディたちの目も据わっている。
無理もない。
結婚適齢期の彼女たちにとって社交界は結婚相手探しの戦場である。そこを撤退せざるを得ないのだ。ハイと素直に言えるわけがない。
「申し訳ございません」
男たちは、慇懃無礼を絵に描いたように頭を下げる。が、令嬢たちの気分がそれで収まるはずはなく。
「まったくもう！ せっかく三か月に一度の、国王陛下主催の大舞踏会なのに……がっかりだわ」
ため息交じりに指先で摘まみ上げられたレモンイエローのドレスは、裾から胸元から、見事に泥が跳ねあがっていっそ芸術的な模様を描いている。
「今夜のために、ドレスもティアラも新調して、タイトなドレスのシルエットにあわせて痩せたのに、これじゃ参加できないじゃない！」
露骨に不快感をあらわす令嬢の迫力たるや。黒服の男たちはまた一斉に頭を下げた。
しかし複数人いるのに、頭を下げるタイミングも角度も、びしっと揃っている。誰かが合図を出すわけでも指示の笛を鳴らすわけでもないので、さすがに令嬢一行が引きつった顔になった。
「なんだこいつら……。精鋭ぞろいの王立騎士団でもここまで揃わないだろ……」
「こ、怖いな……」
「フォントレー家って、どこまでも完璧を求める家柄なのか？」
「そんな話は聞いたことないがなぁ……」
彼らの脳裏に浮かぶのは「完璧令嬢」と渾名されているレディの立ち姿である。あのレディが彼らをここまで完璧に訓練したのだとしても驚きはしない。
兎にも角にも、黒服の男たちはレディの剣幕にひるんだ様子もなく、びしっと並んでいる。
そしてその中の一人が、あろうことか一歩前に出た。ひぁ、とレディの一行が、思わず後退り。
「お嬢さまがたのドレスはとても素敵です。拝見したところ、お二人ともマダム・ムーンライトのオーダーメイドと存じます」
「え、ええ、そうよ」
「とてもこれでは足りないとは思いますが、新しいドレスの足しに……」
ぐいっと札束を押し付けて、一同揃って頭を下げる。レディたちは、重みを増した札束を見たあと目を丸くした。
ドレスが新調できてお釣りがくる額だ。だが、新しいドレスが買えたとしても、舞踏会参加の機会を失うのは辛い。
なにせ、諸外国の遊学から帰ってきた王子殿下とその学友たちが社交界に復帰していると、もっぱらの噂だ。彼らと親しくなるチャンスが減ってしまうのだから、彼女たちが落胆するのも無理はない。
だが、ふ、と、レモンイエローのレディが唇を緩めた。
「残念だけど……今宵の舞踏会は、諦めましょう、レディ・ロレッタ」
え！？ と、ロレッタと呼ばれたレディが大きな瞳に涙を浮かべて友人を見た。
「どうしてよ、リリアン！ わたしたち、今夜のためにどれだけ……」
詰め寄る友人の肩を、リリアンはレースの手袋をつけたままの手でそっと撫でる。
「考えてもみてよ、ロレッタ。国中の紳士淑女が集う会よ。そこへ、泥だらけのこんなドレスで駆けつけてごらんなさいよ。どれだけ結婚相手探しに必死なのかと笑われてしまうわ」
「それは……そうだけど……」
「ロレッタ、あなたは本当に綺麗だし、流行のタイトドレスが似合うように体を絞った大変な努力家よ。そしてマナーも完璧なレディだわ。今日のためにとても頑張った、だからこそ、今宵の舞踏会にでたい。その気持ちも、わかるわ。でもね、見たでしょう？ あの馬車」
「ええ……」
忌々し気に、一同は、馬車が走り去った方角を見た。あの彼女が参加するなら今宵の主役は間違いなく彼女、その他令嬢は文字通り「その他の人」になる。
眩い街灯が、王宮へと続いている。舞踏会の参加者と思われる人々の列はまだ続いている。この道をまっすぐ行けば会場はすぐそこ、歩いて行ける距離なのだ。
「行こうか。あちらにドレスショップがあるはずだから新しいのを……」
「あら、あなたたち……舞踏会に行っていいのよ？ お目当てのレディがいるのではなくて？」
連れの男たちは顔を見合わせて朗らかに笑った。
「構わないさ。王子殿下が参加なさる会なんて俺たちは霞んでしまうからな」
派手な人物が参加すると、普通の男女は何かと苦労するのである。
「さ、行こう」
俯くロレッタとリリアンを、それぞれのパートナーたちが促してその場から立ち去る。
その背中に向かって、黒服の男たちが深々と頭を下げた。
