月と太陽
ターニングポイント
ジュマンジの事務所に朝日が振り翳された。事務員の卯野は、仕事の処理をできずに今日も徹夜で過ごした。
ソファに毛布をかけて仮眠をとっていた。いびきをかいて寝ていると不意にどんと床に落ちた。独身25歳の男。
天然パーマの茶色の頭をゴシゴシとかいて、デスクに置いておいたメガネをとった。
顎にあった無精髭を右手でぽりぽりとかいた。
マグカップをとり、寝起きのドリップコーヒーを飲もうとした。お湯が沸いてないことに気づき、慌てて、電気ケトルに水を入れて、スイッチを入れた。
大きなあくびをした。
バン!
ドアが開く音がした。
「おはようございます。」
さとしが大きな荷物を廊下に置いて、事務所に慌ただしく入ってきた。
時刻は午前7時。
事務所の出勤時間は9時半。
卯野はメガネを掛け直した。
「おはようございます。さとしさん! 今日、えらい早いですね。まだ、出勤時間じゃ無いっっすよ。社長もいないし。」
「んじゃ、聞くけど。なんで、出勤時間じゃ無いのにお前はいるんだよ…。」
呆れてため息をつく。
卯野はドリップコーヒーを生ごみ入れに入れて、ズズッとコーヒーを飲んだ。
「いやぁ。また仕事でやらかしたので、その処理が終わらなくて徹夜しました。僕のミスなので、仕方ないっす。」
コーヒーの湯気でメガネが曇っている。
「お前なぁ。ミスしすぎなんだよ。デスクも散らかっているし、処理も間違えるよ。これじゃ。」
もう何も言えなくなったさとしだった。
「…まぁ、いいや。とりあえず、社長に相談してから徹夜するか考えろな。あと、社長のデスクに2つの封筒置いておくから。よろしくな。」
「はぁ、僕、そこまで手が回らないと思うので、社長のデスクに置いておけば見てくれると思いますよ。今日は午前中に事務所来るって言ってましたから。」
さとしは社長宛の少し大きめな茶封筒2通を静かに置いた。
さとしは社長のデスクにお辞儀した。卯野は誰もいないデスクにお辞儀をするなんて随分丁寧だなと思った。
数時間後に意味がわかる。
「宇野、仕事は丁寧にな。」
さとしは、肩をぽんと叩いてその場を後にした。
廊下に置いた荷物を、まとめて持ちあげた。
エレベーターに開くボタンを押して乗って待っていた紗栄が声をかける。
「ねぇ、わざわざ荷物そこに、持っていく意味ある?」
「うん。確かに無かったかも。例のアレ、社長のデスクに置いてきた。高速バスって何時だっけ。」
「えっと、池袋から8時頃出発するよ。」
「よし、間に合うな。よし行くか。」
いつもと違う行動を取ることに抵抗を感じているのか、順番通りに動けなくなっている。
社長のデスクに置いたのは、2人分の退職届。
断られるのが分かっていたため、いない間に置いてきて、即日で辞めようと史上かつてない常識的なやり方でないものだった。
小学校から高校、大学と優等生でやってきた2人。
何だかこんなやり方をするのは悪いことをしてるみたいでドキドキしていた。
それに伴って、紗栄とさとしの仕事のオファーメールや電話はひっきりなしに来ていた。
今から稼ぎ時で、存在するだけでお金になるはずの2人を、勝手に辞めて勝手にいなくなるのだ。
温厚な小笠原社長でさえも怒り狂うのは目に見えていた。
紗栄とさとしは、携帯番号も機種を変えて、変更し、繋がらないようにした。
今ある生活の完全なるリセットをかけたかった。
ただ、人から言われて稼ぐのは辞めて、本当に心からやりたい仕事で生きていくためだった。
ソーシャルメディアやテレビ、新聞では2人は行方不明だと取り出さされた。
これから本当に稼ぎ時なのに、なぜいなくなったのかの憶測が専門家と呼ばれる人たちで討論している。
今からの仕事を、引き受けたら受け取れるギャラの話だとかと犯罪者にでもなったんじゃないかと言うくらいポスターまで作成された。
有名になるとこんなにも追いかけられるのかと思うとやるせない気持ちでいっぱいになった。
誰とも通信手段を断って、新たな人生をスタートさせると誓って退職願を書いた。その思いは、計り知れない力があったであろう。
紗栄は、いつもかけない伊達めがねをして、さとしはメガネを外してコンタクトに変えて、帽子やマスクをして変装した。
このご時世、マスクをしてても疑われないし、寒さのあってニット帽も不自然ではない。
人口が少ないであろう高速バスに乗って、地元の仙台に帰ろうとしていた。
案の定、新幹線より思っていたより乗る人は少ない。
平日の昼間ということもあって、快適に過ごすことができそうだった。
まるで学生の修学旅行のように2人は楽しんでいた。
コンビニで買った珍しいグミやポテチを食べた。
景色もちょうど晴れていたため、スカイツリーがよく見えた。
当分、東京の土地に足を踏み入れるのはできないだろうと、じっと多摩川とともに辺りを眺めた。
ゆったりとした時間が流れているが、ジュマンジの事務所はてんてこ舞いだった。
小笠原社長と社長夫人が事務所を訪れると、ずっと電話はなり続け、訪問者が数多く来ていた。
テレビやラジオの取材スタッフだった。
事務の宇野の他に、あさみや龍二もたまたま事務所に来ていたため、電話対応に追われていた。
FAXも音がピーピー鳴りながらどんどん紙に印字されていく。
何故か社長よりも早くメディアの方が情を知っていた。社長デスクを見ると、大越さとしと雪村紗栄の名前が書かれた茶封筒が置かれていた。
「ん?なんだ。これは。」
慌ただしい事務所に疑問を浮かべながら、茶封筒を開けると中からさらに白い封筒が入っており、退職届と書いてある。
どちらも同じ文字列に小笠原社長はぶっと笑いが止まらなかった。
字体はそれぞれ違うが、書いている中身は全て同じ。
一身上の都合で退職させて頂きますとのことだった。
茶封筒には、退職届の他に手紙も添えられていた。窓際に体を動かし、3つ折りになっていた手紙を開く。
小笠原社長 様
前略
このたびは突然の退職、本当に申し訳ございません。
今まで仕事をさせていただきまして、ありがとうございました。
このご恩は一生忘れません。
この、突然の失踪騒動は売名行為と言っていただいても構いません。
私が自ら、テレビやラジオに情報を流しました。
来月、発売されるSAE写真集や月刊雑誌の売り上げを少しでも、伸ばせるよう全国放送の情報番組で取り上げてもらえるようあえてこのような機会を設けました。
大変ご迷惑をおかけします。
これが、必ずしも売り上げに貢献できるかはやってみないと分かりませんが、小笠原社長の次のアーティスト育成にお力になれればという思いです。
本や雑誌の売り上げは全て事務所の資金として寄付いたします。
大変お世話になりました。
もう、会うことはないかもしれませんが、ご縁がありましたら、またよろしくお願いします。
小笠原社長のご健闘とご多幸をお祈り申し上げます。
早々
大越さとし
立つ鳥後を濁さすということだなと感心したところで、小笠原社長は鳴り響く、全ての電話線を抜いた。
そして、会社用スマホの電源を落とす。
「今日は仕事休み! みんな帰っていいぞ。」
目を丸くして驚いた。
スタッフ全員は両手をあげて喜んだ。 何があったかは皆、あえて聞かなかった。
テレビの報道で何となく気づいていた。
早々に荷物を持って、皆、帰っていく。
外で待っている記者たちは、全てスルー。
何を聞かれても無視し続けた。
稼ぎかしらのSAEがいなくなって寂しさを感じた社長は家に帰ってベッドで寝込んだ。
どうやら、思いいれが強かったらしい。
怒りはしないが、涙が止まらなかった。
特に、大越さとしは顔も体も芸能界で必ず成功しそうな人だったのにとおんおん泣いた。
社長夫人は背中をヨシヨシと撫でてあげた。
ダイヤの原石を磨き損ねたことが悔しかったようだ。
仕事どころではなかったようだった。
***
「え?それ、どういうこと?」
『ですから、紗栄さん、行方不明になったみたいで。社長は何もいってないんですが、テレビやメディアでそう報道しているんです。失踪したみたいな…真相はわからないんですけど、聞いてますか?』
事務の卯野は花鈴の旦那の裕樹に電話していた。
しばらく、育児に専念するため、仙台で活動していた宮島夫妻はその電話を聞いて驚きを隠せない。
花鈴が電話をすると、さとしと紗栄の電話はどちらも電波の届かないところにいるか電源が入ってないとアナウンスされている。
「悪い。全然、聞いてないんだよね。知らなかったんだけど、仕事はどうなるの?」
『とりあえず、今日はみんな休みにするって社長は言ってました。』
「後で、決めるってことか。こっちでも全国放送で確かにSAEのことが報道されているから、てっきり売名行為かなと感じてたけど、本当に失踪してる感じなのね。」
『あと、状況が分かり次第、連絡します。』
「あぁ、分かった。連絡ありがとうな。卯野くんは、しっかり休んでおくんだぞ。」
『はい、ありがとうございます。それでは、失礼します。』
電話を終えると、裕樹はイスに腰掛けて、ため息をついた。
まさかの出来事に信じられなかった。
せっかく、同じ仕事を教えたさとしが消えて、紗栄も同時にいなくなる。
(同時にいなくなるってことは元サヤに戻ったってことなのか?駆け落ち?)
首をかしげて考える。
花鈴は複雑な顔をする裕樹を頬杖をついて見つめる。
洸も横で同じように見た。
「ねぇ、おかあさん。おとうさん、何してるの?」
「多分ね、考え事しているんだと思うよ。」
「ふーん。大丈夫かな?」
洸は真似をして首をかしげる。
裕樹はひらめいていう。
「なあ、花鈴。ねぇちゃんは花鈴の真似をしているのかもしれないな。」
「は? 私の?」
「だってさ。俺らみたいじゃんか。突然、いなくなるの。しかも2人で。」
「んんー。そっか、2人でいなくなったのか。え? じゃぁ、元サヤに戻ったってこと? だってあんなにさとし嫌がっていたのに?」
報道テレビを見ながら、話す。
洸はレゴのおもちゃで遊び始めた。
「仕事を一緒にして変わったんじゃないの? さとしくんは諦めてなかったみたいだけど…な?洸、さとしおじちゃん、紗栄おばちゃん好きって言っていたんだろう?」
さとしにもらったレゴで遊ぶ洸は縦に何度も首を振る。
「そうだよ。このレゴブロックの代わりに紗栄おばちゃんちょうだい言われたもん。」
「え?? さとし、そんなこと言ってるの? ありえない洸にそんなこというなんて。え?でも待って、洸、紗栄おばちゃん好きなの?」
近くに駆け寄り、花鈴はまじまじときく。
「うん。僕、紗栄おばちゃんと結婚するってさっくんに言ったもん。」
「ほうほう。結婚するのか、紗栄おばちゃんと。そしたら、さっくんなんて言ったの?」
「紗栄おばちゃんは僕に任せたって言われた。」
(子供相手だと思って急に路線変更したな、さとし。)
買い物やエステに行っている間にそんなことが起きてるとは思わなかった。
「ってことは最近の話だし、気持ちは変わってないってことだよね。紗栄姉の話は聞いてない?」
「確か、紗栄ちゃん。最近彼氏できたとかコソッと教えてくれたけど…でも違うのかもしれないな。」
「え?姉ちゃんまさかの二股かけてた? 嘘ー罪な女だわ。」
「そんなこと言って、花鈴だって。過去にあったんでしょ?」
「私はモテたけど、二股はかけない一途です。しっかり断る派です。裕樹と一緒にいるときだって誰もいないでしょう!姉ちゃん、優柔不断だからね。てか、洸の前で何の話してるの?」
「大丈夫だよ。ほら。」
洸はテレビを大音量で歌いながら、ダンスし始まっている。
こちらの会話はなんとやら。
「そっか。ならいいんだけどさ。」
ほっとした。
「まぁ、あたたかく見守っていきましょう。俺らと同じってことは、何かを考えているはずだから。紗栄ちゃんもかなり稼いでいただろうからお金には困ってはいないはずだし、何とかなるでしょう。さとしくんの仕事の入れ方は半端ないくらいの量だったからね。社長がそういう方針だったのもあるけどさ。SAEの売りに焦りがあったのかもね。花鈴ほど、売れてないから。」
「仕事の経験と実績の違いでしょう。私は、アメリカで仕事の実績があるから、世界通用するけど、SAEは私のオプションみたいなところになっていたから、申し訳ないけどさ。姉ちゃんも私といることで差を感じていたかもしれないよね。」
腕を組んで裕樹は考えた。
納得する部分あるなっと思った。
「確かにな。でも、紗栄ちゃん、モデル業はいいけどテレビは好きじゃないって言ってたし、この業界に疲れてきたのかもしれないね。まぁ、1番は2人が健康で幸せなら、俺は何も言わないさ。去るもの追わず、来るもの拒まずでいくよ。」
どこで何をしているかは気にはなったが、自分たちの生活を最優先に気持ちを切り替えようと心に決めた。