月と太陽
緑の紙に書く手が震える
東京の仕事から帰って来て仙台の自宅にて数日が経った。
子どもたちを寝かしつけた後、裕樹はリビングで市役所からもらって来た緑色の離婚届に必要事項を記入し始めた。
結婚して早くも10年。
JR社員として働いて辞めて、すぐに花鈴と渡米し、16歳となった2年後に花鈴と結婚したのは30歳になった頃だった。
その後、日本に帰って来て洸が生まれて、3年後に深月が生まれた。
そして、今はその深月も2歳になろうとしている。
裕樹は40歳になっていた。
親戚や身内がそばにいない状態で子育てを二人三脚でやってきた。
仕事も子育てに配慮された勤務ができていた。
時にはベビーシッターさんや事務所の社長夫人に預けて、仕事をしたこともあった。
後半はマンチカンの優子さんに子どもたちを見てもらうことが多かった。
花鈴は子どものままで、日本を離れて未熟な状態のまま結婚という形をとった。
子どもを産んだのも18歳。
そこそこの稼ぎも、あって、環境も整ってはいたが、心はまだ成長途中だったのかもしれない。
恋愛そのものも数をこなして来た訳じゃない。
裕樹はこれまで、学生から社会人までに何人かの女性と交際してきたが、花鈴にとっては真剣に付き合ったのは裕樹しかいない。
他の男性を見たことがない。
我慢して来たことがこの年齢で出て来たかもしれないと、悔やんでも悔やみきれなかった。
自分の何がいけなかったのか。
争いというのは、どちらか片方に責任がある訳じゃない。
少なくともお互いに何かしらの欠ける部分が存在していた。
今の時代は、子どもはかすがいとは言えないほどの欲に溢れている。
食欲、睡眠欲、ゲーム欲。
恋愛に限らず、欲で満たされるものはたくさんある。
一般常識で、子育ては基本といっても、理性を制御することを出来ない人もいる。
人とのつながりの密接さが掠れていることが原因かはわからない。
多少の罪は許されるだろうと考える者もこの世の中は存在するのだ。
裕樹は、離婚届に判を押してクリアファイルに入れた。
まさか、自分がこんな状況に陥るなんて、想像もできなかった。
子どもたちの親権は、裕樹が請け負うことになる。
裕樹は将来のことを見据えて、あることを考えていた。
それは誰にも言えない。
いや、言わないでおこうと心に決めた。
ーーー
さとしは、大きな荷物をドサっと寝室の隣にあるクローゼットのある部屋に置いた。
あとで、整理整頓しようと慌てて置いたら大きな音になった。
「わ? 何事?」
ガサゴソとクローゼットのある部屋から音が聞こえて、目が覚めた紗栄。
「悪い。起こしちゃったか? 今帰ってきたところで、今荷物片付けてたところ…。」
バックから、使わなかった衣服や道具を取り出し片付けた。
来ていたスーツを脱いでハンガーにかける。
ため息をついてネクタイを外した。
「なんだ、さとしか。泥棒かと思うじゃん。びっくりした。」
「まさか。ここまで泥棒来ないだろ? 何も盗まれるもの無いし…体調どう? 戻ったのか?」
ベッドに腰掛け、体を起こした紗栄の額を確かめた。
「熱はないみたいだな。俺、いなくても…看病してくれる人いたみたいで…。」
ぶつぶつと機嫌悪そうに立ち上がって、ワイシャツを脱いで着替えを続けた。
「ああ~、それはねぇ。遼平くんだねぇ。私はサボって、上で寝てるって嘘ついたのは誰かしら? 全く、私が仕事サボってるって変なこと言わないでよ。」
「やだよ。紗栄が具合悪いんだって言ったら、遼平が目の色変えるだろきっと…。でも、結局、紗栄のこと世話してたみたいだから意味なかったけどな。ありがたいとは思うけども…なんか複雑。」
頬を膨らませて、子どものように拗ねた。
やきもちを妬いているんだと少し嬉しかった。
頬を赤らめた。
「へへへ…。」
「何で笑ってるんだよ?俺は怒ってるんだぞ。」
「ううん。何でも無い。」
はにかんで首を横に振った。
さとしは私服に着替えて、ベッドに座る紗栄の真正面に行き、頬を両手で挟んでみた。
タコのような顔になる。
「なんで1人で笑ってるんだよ~。」
にらめっこのようなやり取りが続いて、額同士くっつけた。
「もう、吐き気ないの?」
「うん。だいぶ落ち着いたよ。吐き気止め処方されたし、点滴も食欲なかったら来ていいですよって先生に言われたから。どうしても食べられない時に行こうかなって。」
「ねえ、今日、だめ?」
女の子のようにさとしはねだる。
「うーん…どうしようかな。」
人差し指を顎につけて考える。
「良いでしょう? 俺、我慢して来たんだよ。言い寄られた人、みんな丁重に断ってきたんだよ。褒めてほしいけどなぁ…。」
「言い寄られたの?へぇ…既婚者なのにモテモテだねぇ、さとしくん。」
雲行きが怪しくなった雰囲気で紗栄は機嫌を損ねる。
「あ、いや、待った。今の話はなし! 何でもないから、いや、何かはあるけど、はぁ…紗栄のこと上げたつもりなのに、墓穴掘ったわ。」
頭を掻き上げて、ゴシゴシこする。
横から頬に軽くキスをした。
「今日はこれくらいね。」
そう言ってガバッと倒れて来たが、カウンターのパンチを浴びせた紗栄。
扉の方まで飛ぶさとし。
さすがに、紗栄がパンチするとは思っていなかったため、防御もできなかった。
「少しは察してよ!調子が悪いんだから。」
「強くなったね、紗栄。」
頬を抑えながらさとしは言う。
「おかげさまで!」
パンチした右手が赤くなっていた。
紗栄はまたベッドに横になり、ふとんを顔までかけた。
「ごめん…。」
そう言うと、やりすぎて後悔し、トボトボと肩を落として、下のキッチンに向かった。
妊娠中のホルモンバランスが崩れている紗栄には気をつけようと、改めて胸に誓った。
夫婦になると、安心感からか、恋人の時のようなあははうふふの時間は少なくなっている気がする。
あんなにときめていたのに、結婚してから生活感が見えすぎて、欠点ばかりが目についてしまう。
さとしも身なりはカッコいいと外では称賛されているが、帰ってくれば普通の人間であり、普通の男。
靴下の脱ぎっぱなしは当たり前。
洗濯、掃除も同じで嫁がやるだろうと思い込む始末。
最近になって具合悪くしたら、ようやく手伝うようになってくれた。
さすがに一人暮らしの時は全て自分でやっていたのだから家事全般はできるだろうとたかを括っていた。
紗栄の存在があって、その家事をすると言うことを疎かになってきていた。
女は結局、母親のように男をお世話してあげなくてはいけない生き物なんだろうなとため息をつきながら、諦め半分でまたベッドで眠りついた。
夜中までムカムカの気持ち悪さが続いていて、ほとんど眠れていなかったためだ。
今日は定休日で仕事も必ずしもしなきゃいけないものはさとしが全部やるだろうと仕事を全部丸投げした。
久しぶりにカフェのキッチンに行くと、いつも以上にピカピカと綺麗に片付いていた。きっと、遼平が何も文句言われないように配慮して丁寧に片付けたんだろうと予測した。
(ま、そんなに綺麗に磨いても、俺の気持ちは変わらないからな!)
電話のすぐ横にあった名前が書いてあるタイムカードの谷口遼平の札にパチンとデコピンをした。軽い八つ当たりだった。
その瞬間、
遼平はくしゃみをしていた。
「ん?風邪かな?」
鼻を擦った。
大学の講義を真面目に受けている時だった。
ちょうど、その講義が終わったところだった。
「大丈夫か?」
隣にいた友人の大友晴翔(おおともはると)が声をかけた。
「おう、平気平気。」
「遼平も大変だな。バイト…社員並みに働いてるじゃん。そのまま就職するの?」
「んー。まあ、ご縁があればかな。晴翔こそ、内定決まったのかよ。」
「まあ、何社か受けて、今のところ3社くらいから声かかってるんだけどさ…決めかねてるんだわ。」
「おーおー。モテモテですな。今の時代贅沢だぞ。何十社も受けて、お祈りメールされたってやつ、多いのに、お前は、3社も受かるって…。すごいな。」
「何言ってるの。受けてるところも大手とかじゃない人気が薄いところで、誰でも来いってところに応募してるからそりゃ、内定通るわけよ。でも、入ってみたらブラック企業でしたとかなったら嫌だろ?ここは慎重に下調べしないとな、会社も。」
「…なるほど。そう言うことか。そりゃ、誰でも受かるところならってことだな。でも難しいよな。会社一つに絞るって人生かかってるし、長く勤めるなんてやってみないとわからないしな。」
「サークルの先輩とか聞くとさ、何年か勤めたら、辞めて別なところ行くのが多いらしいよ。転職するんだろうな。まあ、いろんな会社あるからそれは選んでいけば良いんだろうけど、在校生にとってはやる気が失せるよな。すぐ辞めるんだぞとか言われるとさ。」
「確かにな。まぁ、お前なら何とかなるっしょ。頑張れ。俺は、バイト先に居られるならそのまま働くし、店長に相談するかな…。」
「俺は良いけど。そんな、簡単に決めて良いのかよ。バイトだろ?」
「俺はとりあえず、親元から離れて仕事できたらどこだっていいって思ってこっち来たからさ。働くなら大学出てから決めろってうるさいから、ここに決めてきたわけで…ある程度、教員免許とか他にもいろいろ取ったし。別に親から咎められることはない。今のところがダメだったら、他にやれることは、たくさんあるしさ。可能性は無限大よ、晴翔くん。」
荷物を片付け、部屋を出て、移動する2人。廊下で話を続ける。
「お前ってすごいな。見てるところが違うのな。羨ましいよ。俺は、何も目的なく生きてるからさ、仕事決めるのもただ何となくだし、教員免許、俺も取ったけど、やる気失ったわ。なんか、無理そう。普通の会社でいいとか思ったし。」
「それでいいって思ったらいいんじゃないの? 決めるのは自分だし、嫌になったら変えたらいいじゃん。好きなことしろよ。あまり、重く捉えるな、まだ若いんだから、な。」
「そうだな。そうするわ。…そういや、お前、くるみと付き合ってるんじゃなかったのか?」
食堂について、椅子にバックを置いた。少し離れたところにくるみとサークルの先輩が座って談笑しているのを目撃した。
「あぁ、そうだけど。」
「お昼っていつも一緒に食べてなかったっけ?」
「あぁ。」
遼平は。少しイライラしているようだった。晴翔は、向かい側の席にバックを置いた。遼平は、バックを持ち直して、くるみのそばにずかずかと寄った。
「くるみ、今日、どうした?」
「え? あぁ。遼ちゃん。今、サークルの勇気先輩と話盛り上がってたんだ。甥っ子ちゃんとレゴランド行って来たって
言われて…。」
遼平は、急に嫉妬心をむき出しに、無理やりくるみを立ち上がらせて、腕をつかんで、食堂から離れて廊下まで連れて行った。
「遼ちゃん、痛い。離して!!」
「あ。ごめん。」
我に返った遼平は、ぱっと手を離した。振り払って、着ていたカーディガンが乱れた。くるみはそっと元に戻す。遼平は、窓ガラスの方に体を向けて、話し出す。
「なんで、勇気先輩といるのかなって思って…。約束してた訳じゃないけど、ちょっと…。」
「ちょっと…何?」
くるみは両腕を後ろに組み、ニヤニヤと後ろから遼平をのぞく。
「く、悔しかったから・・・。」
「へぇ…。よく言うよねぇ。遼ちゃんだって。女の人と私以外でしてるのに?」
「は? 何の話?」
くるみは窓ガラスに触れて、言う。後ろ向きのまま。
「私、見ちゃったんだよね。コンビニで紗栄さんと一緒にいるところ。」
「え、あ。あのコンビニいたの?」
「ねぇ、どうして、私との約束してたのに紗栄さんと一緒にいるの? その日、バイトで遅くなるから無理って言ってたよね。しかも、紗栄さんとどうして一緒にいられるの? 変じゃない? 連絡先あの時交換してないのに…知り合いだったの?」
遼平は、腰の横に拳を握りしめて話し出す。
くるみにバレたく無かった。
紗栄とさとしのお店でバイトをしていることを知られたく無かった。
ここで言わなきゃいけないかと悔しくなった。
あのコンビニに寄らなければ、もしかたらバレなかったかもしれない。
でも、どこで見られていたか検討がつかない。
普段、車で移動することはない。
隠すつもりはなかったが、わかっていたら、声をかけて欲しかったのに、くるみはあの時、そばに来なかった。
くるみ自身も隠したいことがあったから、行動を起こさなかった。
「なんだ。わかっていたなら、声かけてくれれば良いのに、別にやましいことないし…。」
声がうわずった。
くるみは詰め寄った。
「やましいとかって…大ファンなんでしょう? 一緒にいてそんな気持ちないって嘘じゃない。楽しそうに過ごしてたみたいだし、絶対、知り合いとかの関係じゃないよね?」
「なんで、そこまでわかるくらい見たんなら、話しかけて来てよ。くるみは、俺の彼女じゃないのかよ? それとも、話しかけられない状況だったの?」
「…う、はぐらかさないで!」
「……バイト先の店長の奥さんだから。」
「え? 誰が?」
「紗栄さんが、バイト先の店長の奥さん。大越さとしさんの奥さん。そこまで言わなきゃわからない?」
「え、あ、嘘。さとし様の奥さん?ん? そうなの?いやだ、遼ちゃん、スコフィッシュフォールドでしょ? あそこで働いてたの?もう、早く言ってよ。絶対行くから。ネットニュースで特集してた。そういや、旦那さんってさとし様?? てか、2人って結婚してたの? そんな話、公表してなかったんじゃ…」
くるみのテンションが爆あがりしていた。大越さとしの大ファンだと前から聞いていたから、絶対に明かしたく無かったのにこのテンション。やっぱり言わなきゃ良かったかなと後悔した。
ご機嫌がすぐに良くなったくるみは、自然と、遼平の腕を組み、ニコニコになった。
「ねぇ、次、バイトいつ? 行ってもいいでしょう。友達と一緒に行くから。さとし様に会えるならそれだけでいいわ。」
「はぁ…。明日の夜。」
さとしに気持ちがシフトしたようで、かなりがっかりした遼平は軽く返事をする。晴翔の近くに座ると、横にくるみが座った。
くるみは、勇気先輩をそっちのけにした。
先輩は1人で寂しいそうにご飯を食べていた。
「くるみちゃん、遼平、何かやらかしたの?」
「あ、あのね!」
慌ててくるみの口を塞いだ。
小声で遼平は言う。
「さとしさんと働いてることは誰にも言うな。公表したら騒がれるから言うなって。俺が大学来れなくなるだろ!晴翔にも言ってないの!」
もごもごしながら、大きく頷いた。
「どうした?痴話喧嘩か? 仲良いな。」
晴翔は、しょうゆラーメンをズルズル啜って食べていた。
遼平は持ってきたお弁当2個をバックからテーブルに広げた。
くるみの分をいつも作ってあげていた。
レシピの勉強もなるため、お弁当をまめに作っていた。
「美味しそう。今日も食べていいの?」
差し出したお弁当を手前に引く。
「どうしようかな。」
「ごめんなさいー。気をつけます。」
「よろしい。はいどうぞ。」
今日のお弁当のメニューはアスパラのベーコン巻きとブロッコリーのマヨネーズつき。
俵のようになったごま塩おにぎり。
可愛い花形にんじんがあった。
ミニトマトも添えてあり、端っこには小さなハンバーグ。
上には国旗がついていた。
「あと、これ、たくさん作ってた。」
もう一つのタッパを出すと、みんなでシェアできるたくさんのからあげが入っていた。
レタスを敷いて、ミニトマトが散らばっていて、カラフルだった。
「この国旗、バイト先で余っているって店長がくれたんだよ。今、小さい子供が間違って刺しちゃうかもしれないからお店では使えないんだってさ。」
「美味しそう。いただきます。」
「俺もいつも悪いな。いただきます。」
「どうぞどうぞ。賞味期限ギリギリのお店の余った食材分けてもらったりしてるからさ。なんせ、1人暮らしってことも言ってるから、よくしてもらってる訳よ。」
2人とも、もぐもぐ食べながら。
「そうされてしまうと、やめにくいな。遼平がそこのバイトやめたくない理由もわかる気がするな。俺は牛丼屋のバイトだから誰でもいいって思われるしな。本当、羨ましいわ。このからあげ、うまいよ!」
「サンキュー、俺も食べようっと。」
「うん。美味しいよ。遼ちゃんのお弁当、お金出してもいいくらい。」
「え、んじゃ、お金ちょうだい。」
右手を差し出すが、くるみにパシッと叩かれた。
「やーだよ。」
「冗談だけどな。」
遼平は立ち上がり、サークルの先輩の勇気のところに近寄った。
「さっきはすいません。話の途中でくるみ連れ出して…お詫びにこのからあげ、どうぞ。」
タッパの蓋に乗せて、差し出した。
「…別に。気にしてないよ。遼平、くるみちゃん、しっかり見ておいた方いいぞ。お前ら付き合ってるんだろ。なんか、知らない男の人と腕組んで商店街歩いてるって見たって言うやつ、サークルの何人か言っているから…からあげはいただこうかな。」
「あぁー…そうなんすか。ご忠告ありがとうございます。」
つまようじで刺さったからあげを摘むと勇気は食器の乗ったトレイを持って立ち去った。
遼平は、頭をぽりぽりとかいた。
くるみも隠したいことがあるんじゃないかとため息をついた。
自分自身も隠したかったことを言ってしまったが、くるみをとがめることはやめておこうと思った。
遼平は、これ以上、もめることは煩わしかった。平和なまま過ごしていきたいと思っていた。
2人がいる席に戻り、弁当をそそくさと平らげた。