没落令嬢のおかしな運命~餌付けしたら溺愛されるなんて聞いてません!~
――嗚呼、私は何をしているんだろう。ここで酷い目に遭っている場合じゃないのに。
早く帰らないとエンゲージケーキの完成が間に合わない。明日の婚約式に間に合わなければパティスリーの名に傷がついてしまう。それに午後には王妃殿下のバザーに出す野菜のお菓子の監修だってある。
どちらも今後の人生を大きく左右する依頼だから必ず成功させたい。なのに私はここで浮浪者に暴行され掛かっていて……きっと明日はどちらも出席できそうにない。
足はどんなに頑張っても力が入らないし、口の中は干上がっていて一言も大声を上げられない。
このままでは悪い意味で明日の朝刊の一面を独占することになるだろう。
私は自分自身を守れなかったどころかパティスリーも、そこで働くラナやネル君、そして侯爵家も守ることができないみたいだ。
――守らなくちゃいけないものがたくさんあるのに。心は怒りや悲しみで渦巻いているのに。私の身体は恐怖に支配されて言うことを聞かない。
浮浪者は愉しそうにナイフで私の頬を撫でてくる。冷たい金属が頬に触れる度に私の身体は震え上がった。
「そんなにガタガタ震えてると顔に傷をつけちまうぞ。まあ、まずは俺の腕で二度と外へ出歩けない顔にしてやるんだけどよ」
宣言通り、頬にぴったりとナイフが当てられる。
「……っ」
やめてと首を振りたいけれど、動けば頬にナイフが食い込んで肌が切れてしまうのでそれすらも叶わない。
もう私にできることは何もない。
未だ渦巻いている感情の中に諦観が生まれ、絶望の底へと落ちていく――。