吸血鬼の旦那様は私の血よりも唄がお好みのようです ~婚約破棄されましたが、優しい旦那様に溺愛されながら幸せの唄を紡ぎます~
26 金庫番のお爺様とお話をします
部屋の主である老年の男性は軽くため息を吐く。だが、先程から続けている何らかの作業の手は止める様子はない。
「えっと……」
開いていた扉の隙間から、部屋の中を覗いていたアナスタシアは反応に困っていた。顔と肩だけが相手に見えている状態だ。しかも部屋は暗い。もしかしたら声だけしか自分を判別する方法はないのではないかとアナスタシアは考えていた。すると作業の音は変わらず聞こえているが、老年の男性が声を掛けてきた。
「覗くほど興味をお持ちだったのなら、そのまま入ってくればいいじゃろう。居留守を使っていたのがバレてしまったのなら、多少話くらいはして帰ってもらわんとこっちのバツも悪いままじゃしな」
(追い返されると思っていたけれど……入っていいといってくれているのね)
「失礼します」
「先に失礼をしたのはこちらじゃ。気にしなくていい。部屋はこれ以上明るくは出来んから足元にはせいぜい気をつけてくだされ。こっちにテーブルと椅子がある。そこに座ればいいじゃろう」
淡々と相手がアナスタシアに言葉を掛ける。普通の人なら鼻につくような言い方に聞こえるだろうが、緊張もしているアナスタシアには逆に部屋の中へ誘導してもらえたことがありがたかった。相手の言う通り、部屋の中ほどに二人掛けの椅子とテーブルがあり、その片方の椅子にアナスタシアは礼をして腰かけた。相手はその様子を片眼鏡越しに一度だけ見た。
(えっと……お仕事中なのかしら? もしそうなら間の悪い時に訪ねてきてしまったことになる……謝った方がいいわよね)
「あの……」
「謝ろうとしておるなら、別に構わんよ。ワシは旦那様が相手でも作業の手を止めて話すことは滅多にないからのう。旦那様もそれでいいと言ってくれておる。じゃから、奥様も気にせんでくだされ」
(えっ……今、奥様って……)
「あの、私のことをご存じなのですか?」
「仕事でたまに依頼人のご令嬢がこの別邸に足を踏み入れることもないわけではない。じゃが、二階まであがり尚且つこの部屋まで行きつく者はおらんよ。となれば、この部屋の存在をしっているご令嬢は奥様一人だけということになる。部屋に覗かせた時、ランプの灯りが瞳に反射したのを見た。それぞれ別の色に見えたということは両の目の色が違うということじゃから奥様でまず間違いはない。あと敬語も不要じゃよ。他の連中もそうじゃろ?」
流れるような言葉が続く。しかもその内容は的を得ていた。確かに顔を覗かせはしたが、相手がこちらを見たのは一瞬だったはずだ。しかも瞳が灯りに反射した色でオッドアイにも気づくとは話を聞いていたアナスタシアは驚くことしか出来なかった。
(すごい……このお爺様のお話はとても筋が通っているわ)
「ああ、つい屁理屈ばかり口から出てしまって自分の紹介がまだじゃったな。これは旦那様に怒られてしまうかのぉ。ワシの役割はもう説明ずみじゃろうから、名前だけでいいかな。グリフじゃ。宜しく、奥様」
「宜しく、グリフ。でも私、まだ奥様じゃ……」
「ミューズ家との婚約の証書には既にサインがされておる。あの証書を作ったのはワシじゃから内容も知っとる。控えにされたサインも確認した。サインされた控えがこちら側に帰ってきたということで婚約は既に効力を発揮しとる。なら、未来の奥様になるお方を奥様と呼んだとしても何も不思議なことではありますまい」
「た、確かにそうね。グリフの言う通りだわ」
(ゾルンが叔父様にサインを求めていたあの婚約の証書はグリフが作ってくれたものだったのね……)
「まあ、相手が最後まで読んだかは……別の話じゃがな」
フフン、とグリフは作業の手を動かしながら鼻で笑って見せる。更にアナスタシアに向かって声を掛けてきた。
「知りたがりの奥様のことは他の連中や使用人達の噂で知っておるよ。此処に来たということはワシに会いたかったということじゃろ? なら聞きたいこともあるはずじゃ。仕事の手は止めんが、聞きたいことがあればある程度はお答えしますぞ? まあ、ワシの話し方で機嫌を損ねたのなら別ですがのぉ」
「そんなことないわ。グリフの言っていることは筋が通っているし、私が聞きづらいことも先に話してくれているのがわかるもの。きっとグリフはいいお爺様なのだと私は思うわ」
ほう―と片眼鏡を直しながらグリフが止めないと言っていた作業の手を止めて、アナスタシアの顔を覗き込むように見る。
「なるほど……奥様は聞いていた以上に面白いお方のようじゃな」
そう言うと再び視線を目の前の机に向けて止めていた作業の手を動かす。
(何でも聞いていいなら、聞いてみようかしら……)
「グリフはお屋敷とお仕事、二つの金庫番をしているのよね?」
「厳密には屋敷の金庫番を任せられていて、仕事の方は金勘定などの経理関係をしております。旦那様や他の者はどうも計算が苦手らしいのでのお」
「そうなのね。答えてくれてありがとう。グリフが商談の場に出ることはないのかしら?」
「ほっほっほ、こんな屁理屈ばかり口から出てくる偏屈な爺では商談の相手の印象を悪くするだけじゃて。好々爺ならまだよかったかもしれんがのぉ」
「そんなことないわ、グリフの話ははっきりとしていてわかりやすいもの」
再び、顎をあげながらグリフが笑って見せる。余程、アナスタシアの言っていることが面白いのだろう。
「それにワシは裏方の方が性にあっておるんじゃよ。なんせ金勘定が大好きなんじゃから」
「確かにお金周りはお家の仕事の中でも大事な役割だものね」
「……今のは嫌味じゃったんじゃが、奥様には効果は薄そうじゃな」
さらっとグリフが呟く。作業の音も相まってアナスタシアには聞きとれなかったようだ。
「え? 今何かいったかしら?」
「ほっほっほ。年寄りの独り言じゃよ、お気になさらんでくだされ」
それから今作業をしているのは融資したお金の計算だということを説明される。数も多く、主にしている仕事は経理と一部の仕事に関わる証書作りだという。ミューズ家とオースティン家の婚約の証書を作ったのも仕事の延長だからしたのだとはっきりと答えてくれた。グリフの話にアナスタシアは興味深々の様子だ。
「それよりも奥様、こんな所で油を売っていてよろしいのですかな? 旦那様にはここに来ると言ってきたわけではありますまいて」
(あ……!)
「そうだったわっ……私、化粧室に行くと言って談話室を出てきたのだった。どうしましょう……怒られてしまうかもしれないわ……」
「奥様、これをお持ちくだされ」
グリフが作業の手を止め、机からすっと立ち上がるとアナスタシアの前まで歩いてくる。差し出された左手には一通の書類が握られていた。それをアナスタシアが右手で受け取る。
「これは……?」
「最近行った商談の資料じゃよ。計算が終わったから旦那様に見てほしくての。使用人を使うのも面倒じゃし、どうせ旦那様の所に戻るんじゃったら奥様に直接手渡してもらったほうが手間もかからんということじゃよ」
(もしかして……私が怒られないように配慮してくれたのかしら……)
「あの、グリフ……」
「お礼なら結構じゃよ、奥様。この老いぼれが色々と気を巡らしているなんて思ったのでしたら思い違いですじゃ。さあ、旦那様の元にお帰りなされ」
「ありがとう、グリフ」
「ほっほっほ、まさかお礼を言われるとは思いもしませんでしたなぁ」
少し駆け足で部屋を後にしようとしたアナスタシアが振り返る。言いたい言葉がまだあったのだ。
「あの……」
「部屋の扉が開いている時であれば、いつでも来て構わんよ。お茶も出さんし気のきいた話も出来んが……奥様がそれでもいいのであればの話じゃがのぉ」
その言葉を聞いたアナスタシアの表情がぱあっと明るくなる。
「ありがとう、グリフ。また来るわね」
そう言ってアナスタシアは部屋を後にする。廊下を駆け足で歩いていき、階段を下がる音がグリフの部屋まで聞こえて来ていた。
「本当に変わったお人だのぉ。これは面白くなってきたわい」
「えっと……」
開いていた扉の隙間から、部屋の中を覗いていたアナスタシアは反応に困っていた。顔と肩だけが相手に見えている状態だ。しかも部屋は暗い。もしかしたら声だけしか自分を判別する方法はないのではないかとアナスタシアは考えていた。すると作業の音は変わらず聞こえているが、老年の男性が声を掛けてきた。
「覗くほど興味をお持ちだったのなら、そのまま入ってくればいいじゃろう。居留守を使っていたのがバレてしまったのなら、多少話くらいはして帰ってもらわんとこっちのバツも悪いままじゃしな」
(追い返されると思っていたけれど……入っていいといってくれているのね)
「失礼します」
「先に失礼をしたのはこちらじゃ。気にしなくていい。部屋はこれ以上明るくは出来んから足元にはせいぜい気をつけてくだされ。こっちにテーブルと椅子がある。そこに座ればいいじゃろう」
淡々と相手がアナスタシアに言葉を掛ける。普通の人なら鼻につくような言い方に聞こえるだろうが、緊張もしているアナスタシアには逆に部屋の中へ誘導してもらえたことがありがたかった。相手の言う通り、部屋の中ほどに二人掛けの椅子とテーブルがあり、その片方の椅子にアナスタシアは礼をして腰かけた。相手はその様子を片眼鏡越しに一度だけ見た。
(えっと……お仕事中なのかしら? もしそうなら間の悪い時に訪ねてきてしまったことになる……謝った方がいいわよね)
「あの……」
「謝ろうとしておるなら、別に構わんよ。ワシは旦那様が相手でも作業の手を止めて話すことは滅多にないからのう。旦那様もそれでいいと言ってくれておる。じゃから、奥様も気にせんでくだされ」
(えっ……今、奥様って……)
「あの、私のことをご存じなのですか?」
「仕事でたまに依頼人のご令嬢がこの別邸に足を踏み入れることもないわけではない。じゃが、二階まであがり尚且つこの部屋まで行きつく者はおらんよ。となれば、この部屋の存在をしっているご令嬢は奥様一人だけということになる。部屋に覗かせた時、ランプの灯りが瞳に反射したのを見た。それぞれ別の色に見えたということは両の目の色が違うということじゃから奥様でまず間違いはない。あと敬語も不要じゃよ。他の連中もそうじゃろ?」
流れるような言葉が続く。しかもその内容は的を得ていた。確かに顔を覗かせはしたが、相手がこちらを見たのは一瞬だったはずだ。しかも瞳が灯りに反射した色でオッドアイにも気づくとは話を聞いていたアナスタシアは驚くことしか出来なかった。
(すごい……このお爺様のお話はとても筋が通っているわ)
「ああ、つい屁理屈ばかり口から出てしまって自分の紹介がまだじゃったな。これは旦那様に怒られてしまうかのぉ。ワシの役割はもう説明ずみじゃろうから、名前だけでいいかな。グリフじゃ。宜しく、奥様」
「宜しく、グリフ。でも私、まだ奥様じゃ……」
「ミューズ家との婚約の証書には既にサインがされておる。あの証書を作ったのはワシじゃから内容も知っとる。控えにされたサインも確認した。サインされた控えがこちら側に帰ってきたということで婚約は既に効力を発揮しとる。なら、未来の奥様になるお方を奥様と呼んだとしても何も不思議なことではありますまい」
「た、確かにそうね。グリフの言う通りだわ」
(ゾルンが叔父様にサインを求めていたあの婚約の証書はグリフが作ってくれたものだったのね……)
「まあ、相手が最後まで読んだかは……別の話じゃがな」
フフン、とグリフは作業の手を動かしながら鼻で笑って見せる。更にアナスタシアに向かって声を掛けてきた。
「知りたがりの奥様のことは他の連中や使用人達の噂で知っておるよ。此処に来たということはワシに会いたかったということじゃろ? なら聞きたいこともあるはずじゃ。仕事の手は止めんが、聞きたいことがあればある程度はお答えしますぞ? まあ、ワシの話し方で機嫌を損ねたのなら別ですがのぉ」
「そんなことないわ。グリフの言っていることは筋が通っているし、私が聞きづらいことも先に話してくれているのがわかるもの。きっとグリフはいいお爺様なのだと私は思うわ」
ほう―と片眼鏡を直しながらグリフが止めないと言っていた作業の手を止めて、アナスタシアの顔を覗き込むように見る。
「なるほど……奥様は聞いていた以上に面白いお方のようじゃな」
そう言うと再び視線を目の前の机に向けて止めていた作業の手を動かす。
(何でも聞いていいなら、聞いてみようかしら……)
「グリフはお屋敷とお仕事、二つの金庫番をしているのよね?」
「厳密には屋敷の金庫番を任せられていて、仕事の方は金勘定などの経理関係をしております。旦那様や他の者はどうも計算が苦手らしいのでのお」
「そうなのね。答えてくれてありがとう。グリフが商談の場に出ることはないのかしら?」
「ほっほっほ、こんな屁理屈ばかり口から出てくる偏屈な爺では商談の相手の印象を悪くするだけじゃて。好々爺ならまだよかったかもしれんがのぉ」
「そんなことないわ、グリフの話ははっきりとしていてわかりやすいもの」
再び、顎をあげながらグリフが笑って見せる。余程、アナスタシアの言っていることが面白いのだろう。
「それにワシは裏方の方が性にあっておるんじゃよ。なんせ金勘定が大好きなんじゃから」
「確かにお金周りはお家の仕事の中でも大事な役割だものね」
「……今のは嫌味じゃったんじゃが、奥様には効果は薄そうじゃな」
さらっとグリフが呟く。作業の音も相まってアナスタシアには聞きとれなかったようだ。
「え? 今何かいったかしら?」
「ほっほっほ。年寄りの独り言じゃよ、お気になさらんでくだされ」
それから今作業をしているのは融資したお金の計算だということを説明される。数も多く、主にしている仕事は経理と一部の仕事に関わる証書作りだという。ミューズ家とオースティン家の婚約の証書を作ったのも仕事の延長だからしたのだとはっきりと答えてくれた。グリフの話にアナスタシアは興味深々の様子だ。
「それよりも奥様、こんな所で油を売っていてよろしいのですかな? 旦那様にはここに来ると言ってきたわけではありますまいて」
(あ……!)
「そうだったわっ……私、化粧室に行くと言って談話室を出てきたのだった。どうしましょう……怒られてしまうかもしれないわ……」
「奥様、これをお持ちくだされ」
グリフが作業の手を止め、机からすっと立ち上がるとアナスタシアの前まで歩いてくる。差し出された左手には一通の書類が握られていた。それをアナスタシアが右手で受け取る。
「これは……?」
「最近行った商談の資料じゃよ。計算が終わったから旦那様に見てほしくての。使用人を使うのも面倒じゃし、どうせ旦那様の所に戻るんじゃったら奥様に直接手渡してもらったほうが手間もかからんということじゃよ」
(もしかして……私が怒られないように配慮してくれたのかしら……)
「あの、グリフ……」
「お礼なら結構じゃよ、奥様。この老いぼれが色々と気を巡らしているなんて思ったのでしたら思い違いですじゃ。さあ、旦那様の元にお帰りなされ」
「ありがとう、グリフ」
「ほっほっほ、まさかお礼を言われるとは思いもしませんでしたなぁ」
少し駆け足で部屋を後にしようとしたアナスタシアが振り返る。言いたい言葉がまだあったのだ。
「あの……」
「部屋の扉が開いている時であれば、いつでも来て構わんよ。お茶も出さんし気のきいた話も出来んが……奥様がそれでもいいのであればの話じゃがのぉ」
その言葉を聞いたアナスタシアの表情がぱあっと明るくなる。
「ありがとう、グリフ。また来るわね」
そう言ってアナスタシアは部屋を後にする。廊下を駆け足で歩いていき、階段を下がる音がグリフの部屋まで聞こえて来ていた。
「本当に変わったお人だのぉ。これは面白くなってきたわい」