吸血鬼の旦那様は私の血よりも唄がお好みのようです ~婚約破棄されましたが、優しい旦那様に溺愛されながら幸せの唄を紡ぎます~
72 幼い頃のある夜のことを思い出しました
お茶を共にしたアナスタシアとアーヴェントはそのまま、仲良く昼食をとる。ラストやメイ、他の使用達に加えてナイトもその場に同席していた。ナイトの作る料理はどれも美味しいが、その中でもサラダに使われていたトマトは頬が落ちそうなくらい甘かった。
「このトマトは菜園で採れたものよね、ナイト」
「は、はい。そのとおりです、アナスタシア様」
「とっても甘くて美味しいわ」
噛むほどに甘味が口の中に広がり、加えて新鮮で水水しい。思わずアナスタシアは笑みを零していた。アーヴェントが彼女の浮かべた表情を見て微笑む。
「アルガンの話では最近の菜園の野菜達は、とても実りがいいらしい。これもアナスタシアが菜園に来るのを野菜達が喜んでいるからだとも言っていたな」
庭師のアルガンは草木などの植物、野菜達の声が聞こえるというのが自慢だ。草木や花、野菜達に会いに来て欲しいという彼の要望でアナスタシアは定期的に庭園や菜園を訪れていた。時には唄をうたって聞かせるということも日課になっているほどだ。
「そんな……私はただ素敵な菜園を見て周っているだけです」
謙遜するようにアナスタシアがはにかむ。
「きっとアナスタシアの持つ素敵な魅力が野菜達にも伝わっているんだろう。お前はありとあらゆるモノの心を掴むほど美しい存在なのだからな」
(褒めすぎです、アーヴェント様……っ!)
アーヴェントは飾ることなく、自分の気持ちを素直にアナスタシアへ伝える。深紅の両の瞳も真っすぐに自分を見つめている。それが余計にアナスタシアの心をときめかせた。耳や頬が赤みがかり、俯き加減になる。
「もったいないお言葉です、アーヴェント様……」
「そんなことはないさ。皆、思っていることだ」
アーヴェントがラストやメイ達を見る。他の使用人達も笑顔を浮かべて頷いていた。そんな幸せな空間にいるアナスタシアに逃げ場はなく、更に顔を赤らめるのだった。
しばらくして二人は昼食を済ませた。後片付けもラストやメイ達がてきぱきと動いてくれる。ナイトも二人が完食してくれたことに喜びながら厨房へと戻っていった。
「それじゃ、俺は午後から商談だ。アナスタシアは好きに過ごしているといい。また夕食の時間に会おうか」
「はい。アーヴェント様、行ってらっしゃいませ」
玄関ホールでアナスタシアがアーヴェントを見送る。仕事の準備をしたゾルンもそこに合流し、二人は別館へと向かっていく。ラストは他の使用人達と話があるということでアナスタシアはメイと中庭を通り、庭園に足を運ぶことにした。
「いつ見ても、昔のミューズ家のお屋敷にあった庭園に似てますよねぇ」
「そうね。だから、此処にくると心が安らぐ気がするの」
わかります、と明るい笑みをメイが浮かべる。アナスタシアは庭園の中央にある噴水にゆっくりと歩いていく。
「メイとは子供の頃から一緒だから、よくミューズ家の庭園を見て周ったわね」
「はい。私もあの頃の庭園は大好きでしたからっ」
(お父様やお母様が大好きだった庭園……私も大好きだった。あの頃は本当によく庭園に足を運んでいたのを覚えているわ)
噴水の場所からアナスタシアは辺りを見渡す。完全にうりふたつ、とまではいかないが細部の雰囲気まで当時のミューズ家の庭園にそっくりなのだ。だからこそ、心が落ち着くのだろう。自然にアナスタシアは笑みを浮かべていた。メイも心を弾ませながらその様子を見守っていた。
「にゃ。そういえば……」
「どうかしたの、メイ?」
ふとメイが何かを思い出したようだ。こめかみのあたりに指をつんつん、と当てながら小さく唸った後に口を開いた。
「先ほど、旦那様のご両親のお話を聞いたじゃないですか。先代の公爵様が亡くなったのは六年前だと言ってましたよね」
「ええ、そうね」
「六年前ならまだミューズ家には庭園はありましたよね。ラスター様やルフレ様もご存命だったのですから」
アナスタシアは静かに頷く。メイは言葉を続ける。
「ちょうどその頃、アナ様は庭園で不思議な経験をなされたと私に教えてくださいましたよね? 覚えていらっしゃいますか?」
(六年前……庭園で……不思議な経験……)
メイの言葉を頭の中で復唱しながら、アナスタシアは過去の思い出の引き出しを一つずつ開けていく。すると忘れかけ、思い出の引き出しの奥にしまってあった記憶を思い出した。
(あ……そうだったわ)
「思い出した。夜の庭園で黒い何かを見たって話ね」
「そうです、そのお話ですっ」
メイが明るく両手を胸の前で合わせる。アナスタシアはもう一度庭園を見渡すと当時のことを語り出した。
「私がちょうど十歳の頃、お父様やお母様達に内緒で夜の庭園に足を運んだのよね」
「私にも内緒だったのはショックでしたよぉ」
「ふふ、ごめんなさいね。メイ」
二人は見つめ合うと思わず笑みが零れた。
「その時もこうして噴水に設けられた台座に腰を掛けながら綺麗な庭園を眺めていたわ」
そっとアナスタシアがミューズ家の庭園と同じように設けられた噴水の台座に腰を降ろす。すかさずメイが大きめのハンカチを広げる。ありがとう、とアナスタシアがお礼を口にしていた。
「とても月明かりが綺麗な夜だった。そんな時、少し離れた草陰に真っ黒な生き物の姿があったのよね」
ちょうど当時の庭園でその不思議な生き物を見た辺りをアナスタシアは見つめる。次第にその時の記憶が鮮明に思い出される。
◇◆◇
ちょうど月明かりが差さない草陰から黒い犬のような生き物が噴水の傍に腰かけるアナスタシアを見つめていたのだ。
「あなた、何処から来たの……?」
「……」
「こっちへ来たら? 怖くないよ」
草陰に落ちた暗闇で目はよく見えなかったが、その生き物がこちらをずっと見つめていたのはわかった。しばらく見つめ合った後、アナスタシアは思いついたように語り掛ける。
「そうだわ。新しく作った唄があるの。この素敵な庭園を考えて作った唄なの。聞いてくれるかしら?」
「……!」
その時、ぴくっと黒い生き物が身体を動かしてこちらに歩いてこようとしたがすぐに動きが止まる。やはり草陰からは出てこなかった。当時のアナスタシアはそのことは気にせずに新しく作った唄、『庭園』をたった一人の観客に聞いてもらったのだ。
【一片の風が吹く 此処は咲き誇る花の都 陽と月が揺れる水面に映し出され やがて朝と夜が出会う場所 淡く優しい想いよ 風にのって舞う花の如く 何時までも 何処までも 届きたまへ】
アナスタシアの唄をその不思議な生き物は黙って聞いているようだった。
「どうだったかしら……? あら?」
唄い終わったアナスタシアが草陰の方に青と赤の両の瞳を向けるとその不思議な生き物の姿はいつの間にか消え去っていた。それが当時の彼女に起こった不思議な出来事だったのだ。
◇◆◇
記憶にある草陰があった辺りをアナスタシアはじっと見つめていた。久しぶりにその話を聞いたメイは慌てた様子で尋ねる。
「怖くなかったんですか? 犬みたいに見えたってお話でしたけど、野犬ってこともありますし」
「ええ。ずっとこっちを見つめていたけれど、怖くはなかったわ。当時まだ私が幼かったからかもしれないけれど……」
(呼びかけたけれどその生き物は草木の影からは出てこなかったのよね……ずっとこっちを覗いていた。唄をうたい終わった頃にはもう姿はなかったけれど……)
「その後、私に見つかってラスター様やルフレ様に怒られてらっしゃいましたよね」
「不思議な生き物に会った話はメイと私だけの秘密だったけれどね」
当時のことを思い出しながらアナスタシアは再びはにかんでみせる。
「なんだか懐かしいわね……」
「そうですね。懐かしいですぅ」
「思い出させてくれてありがとう、メイ。お父様やお母様との素敵な思い出の一つだったわ」
「どういたしまして、です」
二人は再び庭園を見渡す。草木が綺麗に茂り、花々が優しく咲き乱れていた。ちょうど時間もいい頃合いになりメイがアナスタシアに声を掛ける。
「アナ様、そろそろお屋敷に戻りましょうか。お茶の準備をしますね」
「ありがとう。メイの淹れたお茶はいつでも美味しいものね」
「にゃ。アナ様、そんなに褒めないでくださいよぉ」
尻尾や耳が生えていたら思わず左右に動いていそうなメイがアナスタシアに手を差し出す。彼女はその手に引かれてゆっくりと立ち上がり、庭園を後にしたのだった。
「このトマトは菜園で採れたものよね、ナイト」
「は、はい。そのとおりです、アナスタシア様」
「とっても甘くて美味しいわ」
噛むほどに甘味が口の中に広がり、加えて新鮮で水水しい。思わずアナスタシアは笑みを零していた。アーヴェントが彼女の浮かべた表情を見て微笑む。
「アルガンの話では最近の菜園の野菜達は、とても実りがいいらしい。これもアナスタシアが菜園に来るのを野菜達が喜んでいるからだとも言っていたな」
庭師のアルガンは草木などの植物、野菜達の声が聞こえるというのが自慢だ。草木や花、野菜達に会いに来て欲しいという彼の要望でアナスタシアは定期的に庭園や菜園を訪れていた。時には唄をうたって聞かせるということも日課になっているほどだ。
「そんな……私はただ素敵な菜園を見て周っているだけです」
謙遜するようにアナスタシアがはにかむ。
「きっとアナスタシアの持つ素敵な魅力が野菜達にも伝わっているんだろう。お前はありとあらゆるモノの心を掴むほど美しい存在なのだからな」
(褒めすぎです、アーヴェント様……っ!)
アーヴェントは飾ることなく、自分の気持ちを素直にアナスタシアへ伝える。深紅の両の瞳も真っすぐに自分を見つめている。それが余計にアナスタシアの心をときめかせた。耳や頬が赤みがかり、俯き加減になる。
「もったいないお言葉です、アーヴェント様……」
「そんなことはないさ。皆、思っていることだ」
アーヴェントがラストやメイ達を見る。他の使用人達も笑顔を浮かべて頷いていた。そんな幸せな空間にいるアナスタシアに逃げ場はなく、更に顔を赤らめるのだった。
しばらくして二人は昼食を済ませた。後片付けもラストやメイ達がてきぱきと動いてくれる。ナイトも二人が完食してくれたことに喜びながら厨房へと戻っていった。
「それじゃ、俺は午後から商談だ。アナスタシアは好きに過ごしているといい。また夕食の時間に会おうか」
「はい。アーヴェント様、行ってらっしゃいませ」
玄関ホールでアナスタシアがアーヴェントを見送る。仕事の準備をしたゾルンもそこに合流し、二人は別館へと向かっていく。ラストは他の使用人達と話があるということでアナスタシアはメイと中庭を通り、庭園に足を運ぶことにした。
「いつ見ても、昔のミューズ家のお屋敷にあった庭園に似てますよねぇ」
「そうね。だから、此処にくると心が安らぐ気がするの」
わかります、と明るい笑みをメイが浮かべる。アナスタシアは庭園の中央にある噴水にゆっくりと歩いていく。
「メイとは子供の頃から一緒だから、よくミューズ家の庭園を見て周ったわね」
「はい。私もあの頃の庭園は大好きでしたからっ」
(お父様やお母様が大好きだった庭園……私も大好きだった。あの頃は本当によく庭園に足を運んでいたのを覚えているわ)
噴水の場所からアナスタシアは辺りを見渡す。完全にうりふたつ、とまではいかないが細部の雰囲気まで当時のミューズ家の庭園にそっくりなのだ。だからこそ、心が落ち着くのだろう。自然にアナスタシアは笑みを浮かべていた。メイも心を弾ませながらその様子を見守っていた。
「にゃ。そういえば……」
「どうかしたの、メイ?」
ふとメイが何かを思い出したようだ。こめかみのあたりに指をつんつん、と当てながら小さく唸った後に口を開いた。
「先ほど、旦那様のご両親のお話を聞いたじゃないですか。先代の公爵様が亡くなったのは六年前だと言ってましたよね」
「ええ、そうね」
「六年前ならまだミューズ家には庭園はありましたよね。ラスター様やルフレ様もご存命だったのですから」
アナスタシアは静かに頷く。メイは言葉を続ける。
「ちょうどその頃、アナ様は庭園で不思議な経験をなされたと私に教えてくださいましたよね? 覚えていらっしゃいますか?」
(六年前……庭園で……不思議な経験……)
メイの言葉を頭の中で復唱しながら、アナスタシアは過去の思い出の引き出しを一つずつ開けていく。すると忘れかけ、思い出の引き出しの奥にしまってあった記憶を思い出した。
(あ……そうだったわ)
「思い出した。夜の庭園で黒い何かを見たって話ね」
「そうです、そのお話ですっ」
メイが明るく両手を胸の前で合わせる。アナスタシアはもう一度庭園を見渡すと当時のことを語り出した。
「私がちょうど十歳の頃、お父様やお母様達に内緒で夜の庭園に足を運んだのよね」
「私にも内緒だったのはショックでしたよぉ」
「ふふ、ごめんなさいね。メイ」
二人は見つめ合うと思わず笑みが零れた。
「その時もこうして噴水に設けられた台座に腰を掛けながら綺麗な庭園を眺めていたわ」
そっとアナスタシアがミューズ家の庭園と同じように設けられた噴水の台座に腰を降ろす。すかさずメイが大きめのハンカチを広げる。ありがとう、とアナスタシアがお礼を口にしていた。
「とても月明かりが綺麗な夜だった。そんな時、少し離れた草陰に真っ黒な生き物の姿があったのよね」
ちょうど当時の庭園でその不思議な生き物を見た辺りをアナスタシアは見つめる。次第にその時の記憶が鮮明に思い出される。
◇◆◇
ちょうど月明かりが差さない草陰から黒い犬のような生き物が噴水の傍に腰かけるアナスタシアを見つめていたのだ。
「あなた、何処から来たの……?」
「……」
「こっちへ来たら? 怖くないよ」
草陰に落ちた暗闇で目はよく見えなかったが、その生き物がこちらをずっと見つめていたのはわかった。しばらく見つめ合った後、アナスタシアは思いついたように語り掛ける。
「そうだわ。新しく作った唄があるの。この素敵な庭園を考えて作った唄なの。聞いてくれるかしら?」
「……!」
その時、ぴくっと黒い生き物が身体を動かしてこちらに歩いてこようとしたがすぐに動きが止まる。やはり草陰からは出てこなかった。当時のアナスタシアはそのことは気にせずに新しく作った唄、『庭園』をたった一人の観客に聞いてもらったのだ。
【一片の風が吹く 此処は咲き誇る花の都 陽と月が揺れる水面に映し出され やがて朝と夜が出会う場所 淡く優しい想いよ 風にのって舞う花の如く 何時までも 何処までも 届きたまへ】
アナスタシアの唄をその不思議な生き物は黙って聞いているようだった。
「どうだったかしら……? あら?」
唄い終わったアナスタシアが草陰の方に青と赤の両の瞳を向けるとその不思議な生き物の姿はいつの間にか消え去っていた。それが当時の彼女に起こった不思議な出来事だったのだ。
◇◆◇
記憶にある草陰があった辺りをアナスタシアはじっと見つめていた。久しぶりにその話を聞いたメイは慌てた様子で尋ねる。
「怖くなかったんですか? 犬みたいに見えたってお話でしたけど、野犬ってこともありますし」
「ええ。ずっとこっちを見つめていたけれど、怖くはなかったわ。当時まだ私が幼かったからかもしれないけれど……」
(呼びかけたけれどその生き物は草木の影からは出てこなかったのよね……ずっとこっちを覗いていた。唄をうたい終わった頃にはもう姿はなかったけれど……)
「その後、私に見つかってラスター様やルフレ様に怒られてらっしゃいましたよね」
「不思議な生き物に会った話はメイと私だけの秘密だったけれどね」
当時のことを思い出しながらアナスタシアは再びはにかんでみせる。
「なんだか懐かしいわね……」
「そうですね。懐かしいですぅ」
「思い出させてくれてありがとう、メイ。お父様やお母様との素敵な思い出の一つだったわ」
「どういたしまして、です」
二人は再び庭園を見渡す。草木が綺麗に茂り、花々が優しく咲き乱れていた。ちょうど時間もいい頃合いになりメイがアナスタシアに声を掛ける。
「アナ様、そろそろお屋敷に戻りましょうか。お茶の準備をしますね」
「ありがとう。メイの淹れたお茶はいつでも美味しいものね」
「にゃ。アナ様、そんなに褒めないでくださいよぉ」
尻尾や耳が生えていたら思わず左右に動いていそうなメイがアナスタシアに手を差し出す。彼女はその手に引かれてゆっくりと立ち上がり、庭園を後にしたのだった。