吸血鬼の旦那様は私の血よりも唄がお好みのようです ~婚約破棄されましたが、優しい旦那様に溺愛されながら幸せの唄を紡ぎます~
74 私は、この幸せな時が続くことを願っています
アーヴェントとゾルン達、使用人の七人が仕事場である別邸で一同に会していた同じ頃。アナスタシアは屋敷にある自分の寝室で侍女のメイと共にテーブルに腰かけ、編み物や刺繍をしていた。今はお互いハンカチに刺繍を施していた所だ。
「とっても綺麗な模様ですね、アナ様。旦那様、喜ぶと思いますよ」
「褒めてくれてありがとう、メイ」
アナスタシアはアーヴェントに渡すためのハンカチに綺麗な柄の刺繍を入れていく。元々、小さい頃から母親のルフレに教わっていた彼女は手先も器用だった。庭園を意識した花の模様を少しずつ完成させていく。
(メイの言う通り、アーヴェント様が喜んでくださると嬉しいわ。これを渡す時には緊張してしまいそうだけれど……)
クスっと笑みを浮かべながらアナスタシアは作業を続ける。続いて対面の椅子に座っていたメイが声をあげる。彼女もハンカチに施した刺繍を自信たっぷりな態度で見せてくれた。
「見てください、アナ様! 可愛い猫さんの刺繍にしてみましたっ」
メイのハンカチは先日助けてもらったリチャードに渡す予定のものだ。そこには猫と言われれば確かにそうも見える、くらいの猫の刺繍が施されていた。メイは侍女として色々な仕事をこなしてくれる。もちろん刺繍も得意だ。だが、絵柄のセンスはいまいちだったのだ。
「メイ、とっても可愛いわね。リチャードも喜んでくれると思うわ」
「そうですかぁ。アナ様にそう言って貰えると自信が出ちゃいますね!」
寝室に笑い声が木霊する。以前のミューズ家ではありえない光景だ。アナスタシアは柔らかい表情でその幸せを噛みしめていた。
(こうやってメイが再び、私の侍女として隣にいてくれて一緒に作業をして笑い合うことが出来るのも全てはアーヴェント様のおかげ……本当に感謝してもしきれないわ)
「アナ様、どうかなさいましたか?」
手を止めて物思いに老けるアナスタシアをメイが気遣う。アナスタシアは静かに首を左右に振る仕草をする。
「メイと一緒にいられるのもアーヴェント様のおかげだと思うと……幸せだなって」
俯き加減でアナスタシアは頬や耳のあたりを赤らめていた。そんな初心な仕草を見てメイは内心ときめいていた。思わず撫でまわしたくなる衝動を抑えていた。
「そうですねぇ。ミューズ家で旦那様のお噂を聞いた時は内心怖かったですけど、実際に会ってそのお優しい人柄に接してみると……とても『吸血鬼』として恐れられているなんて思いませんよね」
「そうね。私も最初はメイと同じように考えていたわ。でも、迎えにきたゾルンやフェオルもとても優しかった。そしてこの屋敷でアーヴェント様を初めて見たときから……あの方の持つ人柄が伝わってくるようで安心したのを覚えているわ」
お互い刺繍の手を進めつつ、当時のアーヴェントに対する印象の違いについて話していた。あっ、と思い出したようにメイがアナスタシアに訪ねる。
「そういえば、アナ様がミューズ家からこちらに迎えられた時に思ったんです。確か王命では『ミューズ家の娘をオースティン家に嫁がせる』っていう内容でしたよね?」
「ええ、そうね」
「私、その時オースティン家はフレデリカ様の方だと勘違いしていたらどうしようって内心不安だったのですよ」
刺繍の手を止めて、メイははらはらした様子で言葉を口にしていた。それは迎えにきた時のゾルン達に対して、アナスタシアが心配していた内容と同じものだった。その時のことが鮮明に思い起こされる。
(そうよね。メイも私と同じことを考えてくれていたのね……あの時オースティン家、ひいてはアーヴェント様がフレデリカのことをご所望だったらどうしようかと私も焦っていたものね)
不意にアナスタシアはその時に思ったことについて、思い返す。
―私どもがお迎えに上がったのは間違いなく、アナスタシア様。貴方様です。私どもの主人が縁談の相手に望んでおりますのも貴方様で間違いありません―
当時、迎えに来てくれたゾルンが馬車の車内で語りかけてくれた言葉だ。
(あの時は婚約破棄されたこともゾルン達は既に知っていたのよね。婚約破棄された次の日だったのに……当時はオースティン家の耳が早いことに驚いた記憶がある……)
落ち着いた今、当時のことを考えるとアナスタシアの中にうっすらとある疑問が浮かんできていた。
(……どうしてアーヴェント様達はミューズ家に私がいることを知っていたのかしら……いえ、それは今のオースティン家の事業柄の情報網があれば不可能ではないというのはわかるわ……)
ドクン、とアナスタシアの心臓が一際大きく鼓動する。その時、何か言葉に出来ない不安感が彼女を襲っていた。
(……元々今回の婚約破棄はハンス殿下と叔父様、そしてフレデリカ達が画策したものだということは私でもわかるわ。でもそれは叔父様達の都合……アーヴェント様達がリュミエール王国からの王命として婚約の話を聞いた時には相手がフレデリカか私になるかは……その時点ではわかるはずがないわ……)
再び、ドクン―と心臓の鼓動が大きく感じられた。纏わりはじめた不安が更に考えを加速させる。アナスタシアは俯きながら最大の疑問を脳裏に浮かべる。
(じゃあ、どうしてアーヴェント様達はミューズ家から送られてくる令嬢が私だと知ることが出来たの……? それはつまり、事前に婚約破棄のことを知っていなければ不可能なのではなくて……?)
そこまで至った時、右手の人差し指にツンと痛みが走った。アナスタシアがゆっくりと我に返り痛みが走った指に目をむけるとよそ見をしていたことから刺繍で使っていた針を誤って刺してしまっていたのだ。
「痛っ……!」
遅れて痛みを感じたアナスタシアが声を漏らす。その声を聞いたメイがそれに気づいた。アナスタシアの針でついた傷口からは赤い血がゆっくりと溢れ、指を伝っていく。
「ああ! 大変ですぅ! 今、傷薬をお持ちしますねっ」
「このくらい平気よ、メイ」
「いえいえ! ちゃんと手当をしないといけません!」
メイは大急ぎで薬箱を取りに寝室を後にする。その間もアナスタシアの不安は大きくなっていた。
(私ったら……アーヴェント様達を疑うようなことを考えてしまっていたわ……こんなによくして頂いているのに……)
少量の滴る血をアナスタシアは見つめていた。いつもその深紅の瞳で優しい言葉を掛けてくれるアーヴェントの顔が浮かぶ。だが、不安はそれを簡単に覆い隠してしまう。
(でも……庭園のことだってそう……初めて会うはずのアーヴェント様のお屋敷にかつてのミューズ家と同じ庭園があるのだって変よね……)
溜まった血の粒が一滴、テーブルの上に落ちる。
(もしかして……アーヴェント様達は私に何か隠しているんじゃ……)
その時、寝室の扉が勢いよく開く。薬箱を持ったメイが部屋の中に猫のように飛び込んできたのだ。アナスタシアはそっと胸の奥に今脳裏に浮かんだ不安をしまい込む。
「お待たせいたしました、アナ様! ああ、血が垂れているじゃないですか! 今すぐ手当をさせて頂きますねっ!」
「ありがとう、メイ」
普段の表情に戻ったアナスタシアの元にメイがかけよると、傷口に手当を施してくれた。手際よく介抱してくれるメイをみてアナスタシアは自分が考えてしまった不安は杞憂なのだと言い聞かせていた。
(私は今こんなに幸せなのに、何を変なことを考えてしまっているのかしら……)
しまい込んだ不安が気持ちの棚から微かに顔を見せる。それが見えなくなるくらい棚の引き出しを強く押し込む。
(アーヴェント様もゾルンやラスト達、メイも私のことをいつも考えてくれている……私は今のこの幸せがずっと続いていくことを願ってしまう……欲張りかしら……ううん。そんなことないわよね。それが私の……『我がまま』なのだから……)
「出来ました! アナ様、痛くないですか?」
パアッと明るい笑顔でメイがアナスタシアの顔を覗き込む。それがとても嬉しくてアナスタシアも柔らかい笑顔を浮かべるのだった。
「ええ。本当にありがとう、メイ」
「いえいえ、メイはアナ様の侍女ですからっ」
胸を張りながらメイがアナスタシアの青と赤の瞳を覗き込む。その瞳にはもう不安の影は映りこんではいなかった。
「とっても綺麗な模様ですね、アナ様。旦那様、喜ぶと思いますよ」
「褒めてくれてありがとう、メイ」
アナスタシアはアーヴェントに渡すためのハンカチに綺麗な柄の刺繍を入れていく。元々、小さい頃から母親のルフレに教わっていた彼女は手先も器用だった。庭園を意識した花の模様を少しずつ完成させていく。
(メイの言う通り、アーヴェント様が喜んでくださると嬉しいわ。これを渡す時には緊張してしまいそうだけれど……)
クスっと笑みを浮かべながらアナスタシアは作業を続ける。続いて対面の椅子に座っていたメイが声をあげる。彼女もハンカチに施した刺繍を自信たっぷりな態度で見せてくれた。
「見てください、アナ様! 可愛い猫さんの刺繍にしてみましたっ」
メイのハンカチは先日助けてもらったリチャードに渡す予定のものだ。そこには猫と言われれば確かにそうも見える、くらいの猫の刺繍が施されていた。メイは侍女として色々な仕事をこなしてくれる。もちろん刺繍も得意だ。だが、絵柄のセンスはいまいちだったのだ。
「メイ、とっても可愛いわね。リチャードも喜んでくれると思うわ」
「そうですかぁ。アナ様にそう言って貰えると自信が出ちゃいますね!」
寝室に笑い声が木霊する。以前のミューズ家ではありえない光景だ。アナスタシアは柔らかい表情でその幸せを噛みしめていた。
(こうやってメイが再び、私の侍女として隣にいてくれて一緒に作業をして笑い合うことが出来るのも全てはアーヴェント様のおかげ……本当に感謝してもしきれないわ)
「アナ様、どうかなさいましたか?」
手を止めて物思いに老けるアナスタシアをメイが気遣う。アナスタシアは静かに首を左右に振る仕草をする。
「メイと一緒にいられるのもアーヴェント様のおかげだと思うと……幸せだなって」
俯き加減でアナスタシアは頬や耳のあたりを赤らめていた。そんな初心な仕草を見てメイは内心ときめいていた。思わず撫でまわしたくなる衝動を抑えていた。
「そうですねぇ。ミューズ家で旦那様のお噂を聞いた時は内心怖かったですけど、実際に会ってそのお優しい人柄に接してみると……とても『吸血鬼』として恐れられているなんて思いませんよね」
「そうね。私も最初はメイと同じように考えていたわ。でも、迎えにきたゾルンやフェオルもとても優しかった。そしてこの屋敷でアーヴェント様を初めて見たときから……あの方の持つ人柄が伝わってくるようで安心したのを覚えているわ」
お互い刺繍の手を進めつつ、当時のアーヴェントに対する印象の違いについて話していた。あっ、と思い出したようにメイがアナスタシアに訪ねる。
「そういえば、アナ様がミューズ家からこちらに迎えられた時に思ったんです。確か王命では『ミューズ家の娘をオースティン家に嫁がせる』っていう内容でしたよね?」
「ええ、そうね」
「私、その時オースティン家はフレデリカ様の方だと勘違いしていたらどうしようって内心不安だったのですよ」
刺繍の手を止めて、メイははらはらした様子で言葉を口にしていた。それは迎えにきた時のゾルン達に対して、アナスタシアが心配していた内容と同じものだった。その時のことが鮮明に思い起こされる。
(そうよね。メイも私と同じことを考えてくれていたのね……あの時オースティン家、ひいてはアーヴェント様がフレデリカのことをご所望だったらどうしようかと私も焦っていたものね)
不意にアナスタシアはその時に思ったことについて、思い返す。
―私どもがお迎えに上がったのは間違いなく、アナスタシア様。貴方様です。私どもの主人が縁談の相手に望んでおりますのも貴方様で間違いありません―
当時、迎えに来てくれたゾルンが馬車の車内で語りかけてくれた言葉だ。
(あの時は婚約破棄されたこともゾルン達は既に知っていたのよね。婚約破棄された次の日だったのに……当時はオースティン家の耳が早いことに驚いた記憶がある……)
落ち着いた今、当時のことを考えるとアナスタシアの中にうっすらとある疑問が浮かんできていた。
(……どうしてアーヴェント様達はミューズ家に私がいることを知っていたのかしら……いえ、それは今のオースティン家の事業柄の情報網があれば不可能ではないというのはわかるわ……)
ドクン、とアナスタシアの心臓が一際大きく鼓動する。その時、何か言葉に出来ない不安感が彼女を襲っていた。
(……元々今回の婚約破棄はハンス殿下と叔父様、そしてフレデリカ達が画策したものだということは私でもわかるわ。でもそれは叔父様達の都合……アーヴェント様達がリュミエール王国からの王命として婚約の話を聞いた時には相手がフレデリカか私になるかは……その時点ではわかるはずがないわ……)
再び、ドクン―と心臓の鼓動が大きく感じられた。纏わりはじめた不安が更に考えを加速させる。アナスタシアは俯きながら最大の疑問を脳裏に浮かべる。
(じゃあ、どうしてアーヴェント様達はミューズ家から送られてくる令嬢が私だと知ることが出来たの……? それはつまり、事前に婚約破棄のことを知っていなければ不可能なのではなくて……?)
そこまで至った時、右手の人差し指にツンと痛みが走った。アナスタシアがゆっくりと我に返り痛みが走った指に目をむけるとよそ見をしていたことから刺繍で使っていた針を誤って刺してしまっていたのだ。
「痛っ……!」
遅れて痛みを感じたアナスタシアが声を漏らす。その声を聞いたメイがそれに気づいた。アナスタシアの針でついた傷口からは赤い血がゆっくりと溢れ、指を伝っていく。
「ああ! 大変ですぅ! 今、傷薬をお持ちしますねっ」
「このくらい平気よ、メイ」
「いえいえ! ちゃんと手当をしないといけません!」
メイは大急ぎで薬箱を取りに寝室を後にする。その間もアナスタシアの不安は大きくなっていた。
(私ったら……アーヴェント様達を疑うようなことを考えてしまっていたわ……こんなによくして頂いているのに……)
少量の滴る血をアナスタシアは見つめていた。いつもその深紅の瞳で優しい言葉を掛けてくれるアーヴェントの顔が浮かぶ。だが、不安はそれを簡単に覆い隠してしまう。
(でも……庭園のことだってそう……初めて会うはずのアーヴェント様のお屋敷にかつてのミューズ家と同じ庭園があるのだって変よね……)
溜まった血の粒が一滴、テーブルの上に落ちる。
(もしかして……アーヴェント様達は私に何か隠しているんじゃ……)
その時、寝室の扉が勢いよく開く。薬箱を持ったメイが部屋の中に猫のように飛び込んできたのだ。アナスタシアはそっと胸の奥に今脳裏に浮かんだ不安をしまい込む。
「お待たせいたしました、アナ様! ああ、血が垂れているじゃないですか! 今すぐ手当をさせて頂きますねっ!」
「ありがとう、メイ」
普段の表情に戻ったアナスタシアの元にメイがかけよると、傷口に手当を施してくれた。手際よく介抱してくれるメイをみてアナスタシアは自分が考えてしまった不安は杞憂なのだと言い聞かせていた。
(私は今こんなに幸せなのに、何を変なことを考えてしまっているのかしら……)
しまい込んだ不安が気持ちの棚から微かに顔を見せる。それが見えなくなるくらい棚の引き出しを強く押し込む。
(アーヴェント様もゾルンやラスト達、メイも私のことをいつも考えてくれている……私は今のこの幸せがずっと続いていくことを願ってしまう……欲張りかしら……ううん。そんなことないわよね。それが私の……『我がまま』なのだから……)
「出来ました! アナ様、痛くないですか?」
パアッと明るい笑顔でメイがアナスタシアの顔を覗き込む。それがとても嬉しくてアナスタシアも柔らかい笑顔を浮かべるのだった。
「ええ。本当にありがとう、メイ」
「いえいえ、メイはアナ様の侍女ですからっ」
胸を張りながらメイがアナスタシアの青と赤の瞳を覗き込む。その瞳にはもう不安の影は映りこんではいなかった。