吸血鬼の旦那様は私の血よりも唄がお好みのようです ~婚約破棄されましたが、優しい旦那様に溺愛されながら幸せの唄を紡ぎます~
97 お父様の想いを受け取りました
グリフから書類を受け取ったアナスタシアは驚きの表情を浮かべていた。その書類こそアーヴェント達が探していた最後の証拠であり、今は亡きアナスタシアの父親であるラスター公爵が生前に調べ上げたレイヴンが二国間で行っていた不正な取引やその関係者についてのリストだったのだ。
(お父様の筆跡。小さい頃見ただけだけれど、覚えがある……これは間違いなくお父様の書いたものだわ……でも、どうして?)
数枚の書類に目を通したアナスタシアはそれが間違いなく父親のものであることを確信する。同時にこの書類を何故グリフが持っていたのか、気になったアナスタシアはグリフに尋ねる。
「どうしてこれをグリフが持っているの……?」
「その書類はラスター公爵からワシが預かっていたモノじゃよ」
「お父様から……?」
(生前、グリフはお父様と会っていたということ……? いいえ、少なくてもミューズ家にグリフが来たことは一度もない。私と面識があったわけでもないわ)
アナスタシアは過去の記憶を辿るが、ミューズ家とグリフとの接点は見つからなかった。困惑した表情を浮かべるアナスタシアにグリフが声を掛けた。
「奥様はワシがこの屋敷に来たのはいつか旦那様から聞いたことはありますかな?」
「いつか、まではわからないけれど確か……ゾルン達七人の中では一番遅かったと聞いているわ」
グリフは静かに頷く。
「ワシがこのお屋敷に来て旦那様に仕えることになったのは今から五年前のことになるかの。ワシはその直前にラスター公爵と会ったことがあるのじゃよ」
「詳しく聞かせてもらえる……?」
「もちろん。奥様にはその権利がありますからな。貴方はワシと公爵の間で交わした『賭け』に勝ったのですからのぉ」
(賭け……そういえばさっきもグリフが口にしていた言葉だわ)
グリフは作業机の椅子に腰かけると昔を懐かしむように机の上に置かれたランプの灯りを見つめながら話始めた。
「ワシがラスター公爵と会ったのは、ちょうど彼が息を引き取る直前じゃった」
「!」
その言葉に驚いたアナスタシアは口に両手を添える。
(お父様が亡くなる直前に……?)
彼女の反応を見たグリフは当時のことを語り出した。
◇◆◇
グリフは『強欲』を司る精霊であり、『強い欲』を好む。そしてそれに惹かれる性質があるのだという。五年前のある日、グリフはこの世界でも珍しい『強い欲』を感じ現場に足を運んだ。
事故にあった馬車は深い谷に落ちていた。そして一人の紳士風の男性が横転した馬車に寄りかかるように倒れていたのだ。頭を強く打っているようで負傷しているのが見てとれる。その胸には目を閉じた夫人を抱いていた。
「これはまた一段と濃い『欲』じゃな……じゃが、この男のものではないか。大方、賊にでも襲われたといったところかの」
グリフが独り言のように呟くと、まだ男性には息があり声に気付き目を開いた。
「……賊の者……ではないか。通りがかったという所ですかな……」
「ほう。わかるものかね」
「貴方からは悪意を感じませんからな……」
男性は痛みで顔を歪ませた後、笑って見せる。
「これでも人を見る目だけは確かだと自負しています……」
ふむ、とグリフは手を顎の辺りに添えながら呟く。
「ワシはお前さんの身体や馬車にべったりと張り付いた『強い欲』に惹かれてきたのじゃよ」
「『強い欲』に……? 御仁、貴方は一体……」
精霊のグリフには目の前の男性の命が残りわずかなのがわかっていた。胸に抱いている夫人は既に命の灯は消えていた。それでも彼は優しく彼女の身体をその身に抱いていたのだ。
「ワシは『強欲』を司る精霊じゃからのぉ」
「……はは。まさか今際の際に精霊と会えるとは思いませんでしたな」
「こんな爺の言葉を信じますのか」
「言ったはずです……私の人を見る目は確かだと。まあ、精霊を見たことはこれが初めて……そして最後になるでしょうが……」
その男性も自分の命の灯が消えかけていることは自覚しているようだ。少し何かを考えた後、男性がグリフに言葉を掛ける。
「精霊の御仁。一つお願いがあるのですが……聞いてくれるでしょうか」
男性は極めて紳士的に、そして相手への礼節を忘れることなく言葉を口にする。グリフはそこが気にいったらしく話だけでも聞くことにした。
「いいじゃろう」
男性の名はラスター。リュミエール王国のミューズ家の当主であり、公爵の身分だという。胸に抱いて眠るのは妻のルフレだと紹介してくれた。
彼は外交官であり、国王の密命により両国間で行われている不正な取引の証拠を集めていたのだという。やっとその証拠を掴んだ矢先、賊と思われる者達に襲われここまで逃げてきたがこの有り様だという。恐らく賊には見知っている者の息がかかっているとも口にする。
「なるほど……余程『強欲』の持ち主に目をつけられたのじゃな」
「精霊とはそこまでわかるものなのですな……不出来な弟だと思っていましたが気づくのが遅れた兄である私の失態です……これはその報いなのかもしれません」
俯きながらラスターは苦笑いを浮かべていた。
「ですが……ここで御仁、貴方と会えたのは幸せなことだと思っております。恐らく、その幸運は私の愛する娘からおすそ分けされたものでしょうな……」
「ほう……?」
その言葉にグリフは興味を持ったようで、続くラスターの言葉にも耳を貸してくれた。
ラスター達には愛する一人娘がいるのだという。風邪で寝込んでしまっていて、碌に話が出来なかったのが心残りだと語る。唄が好きなその娘には他者を幸せにする力があるのかもしれない、とラスターは自慢げに口にする。
「まあ、偶然なのでしょうが……私もそして妻もその子が誰かを幸せにする力を持っていると信じていました。だからこそ、私は今際の際に御仁と出会えたのでしょう……」
「今際の際とは物騒なことを言いなさる……愛しているというその娘の顔を見に戻られてはいかがですかのぉ」
ラスターは柔らかい表情を浮かべながら首を横に振る。
「御仁もおわかりでしょう……私の命はもう長くない……だからこそ、御仁。貴方にお願いがあるのです」
「ほう。お願いとな?」
ラスターは静かに頷くと、近くにあった書類の束を差し出す。
「これは私が集めた不出来な弟が犯した罪の数々とそれに関係した両国の関係者のリストです……どうか、これを貴方に託したいのです」
ふむ、とグリフは顎の辺りに手を当てながら答えた。
「これをどうしてワシに託そうとなさるのかな?」
「きっと貴方の手に渡れば、この証拠はいつか意味を持つと……そう信じております」
「ほっほっほ。ワシが賊とやらに金を積まれたら渡してしまうかもしれませんぞ?」
グリフは高笑いをしてみせるが、ラスターはまっすぐな瞳で見つめていた。
「そんな方ならこうして話を聞いてくださらないでしょう。『強欲』を司る精霊だという貴方がこの書類にこびりついた『強い欲』が見えぬはずはない。それでもなお、私の話に耳を傾けてくださった……これはきっと運命なのです」
強い確信を持つようにラスターは答える。
「精霊に運命を語るとは……面白いお人じゃ。じゃが……確かにワシはこの先の未来でお前さんが愛しているという娘に会うことになるじゃろうな」
ラスターは少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに笑顔に変わる。グリフにはラスターやルフレの身に宿した微かな『加護』が見えていたのだ。そしてそれが『神の愛娘』のものだということも精霊という存在上、知り得ていた。
「そうですか……これもあの子の力なのですかな……」
ラスターの息は次第に荒れ始めていた。残り少ない力を振り絞り、書類をグリフに差し出す。グリフはゆっくりと近づくと、その書類を手にとった。
「じゃが、人の欲望には果てが無い……誰もその鎖からは逃れられんよ。お前さんの娘も所詮は人の子じゃて」
ラスターは静かに首を横に振る。呼吸を整えるとグリフの目を見つめながらこう答えた。
「そんなことはありません。人はその鎖を解き放つことが出来る。いや……いつかこの二つの国の間に深い絆が生まれた時……その鎖は無くなると私は信じているのです」
更にラスターは言葉を続ける。すでにその瞳には何も映っていない。
「私達の愛する娘の唄のように清らかな存在があるのだから……。きっとあの子ならその鎖を解き放つことが出来るでしょう……」
「お前さん達の娘がそれを成すと……?」
ラスターは一言呟いた。
「私は……いえ、私達はそう信じています」
既に何も映らなくなったラスターの瞳を見つめながらグリフが答える。
「……いいじゃろう。では『賭け』をするとしよう。この先の未来、ワシがお前さん達の信じているという娘に出会った時までこの書類は預かっておこう。そしてワシはその娘の『欲』を試す。その試練を経ても尚、娘が欲に捕らわれずに自らの気持ちを貫き通せたのならこの書類を渡すという『賭け』じゃ……どうかな、公爵」
ラスターは柔らかい表情を浮かべていた。
「やはり貴方にそれを預けて正解でしたな……その『賭け』に乗りましょう」
「じゃが、ワシは『強欲』。簡単には渡さんぞ?」
「……宜しくお頼み申します……」
そうしてラスターは妻であるルフレを胸に抱いたまま、息を引き取った。谷間の向こうから『欲』にまみれた者達が近づいてくる音が聞こえていた。片眼鏡の位置を直しながら、グリフは呟く。
「……『欲』に駆られん命などないのじゃよ」
そう呟くとグリフの姿はその場から消え去ったのだった。こうして不正の証拠は犯罪集団、強いてはレイヴンの手には渡らなかった。そして五年の歳月が過ぎたのだ。
◇◆◇
話を聞いていたアナスタシアの瞳には涙が浮かんでいた。
(お父様達は……私のことを最後まで想っていてくれていたのね……)
話終わったグリフは作業机から離れると再び、アナスタシアの傍に歩いてくる。深い溜め息を吐くと口を開いた。
「奥様も心当たりがありますでしょう……『旦那様達が把握せぬ、来客があったこと』を」
アナスタシアは以前に屋敷に訪れた男爵のことを思い出す。確かにアーヴェント達は男爵が訪ねてくることは知らなかったと言っていた。
「もしかして……あれはグリフが?」
「ええ。偽造した手紙を送ったのも全てワシじゃよ。じゃが奥様は『欲』にまみれた者を前にしても決してご自分の芯を曲げることはなかった……」
グリフは言葉を続ける。
「ならばと、次はワシが直接奥様に『ご自分が手にしている身分とそれが持つ財の魅力』を甘言を交えて誘ってみせた……じゃが、これも奥様は全ての財は自分と自分を支えてくれる他者のためだと言いなされた」
アナスタシアは以前、グリフの仕事を手伝った際に彼に言われた言葉を思い出していた。
(あの時の話はグリフからの誘惑だったのね……)
「そして、旦那様が奥様に見せずに暖炉で燃やしたご両親に関わる嫌疑の手紙もこびりついていた『欲』によって復元し奥様の目に入るようにしたのもワシじゃ。じゃが、お二人は思い合う心を強くしましたな」
(そういうことだったのね……)
「そして最後にワシは『奥様を不幸にした者達の処罰』を提案したが……奥様は決して首を縦に振ることはなかった。まさか……人である身でありながらその純粋な心を持ち続ける人間がいるとは……ワシもまだまだだということじゃな」
グリフは今までに起こった不可解な事件や自分の言葉、そして最後にアナスタシアに提案した全てのことは亡き公爵との『賭け』のための試練だったと語ったのだった。
「私……気づかなかったわ」
グリフは高笑いをしてみせる。
「ほっほっほ。普通に気づいているような賢しいお人なら、その時点で欲に身を任せておったじゃろうて」
「グリフ……」
「先程もいいましたが、公爵との『賭け』はワシの負けじゃ。その書類は奥様のモノですぞ」
アナスタシアはそっとその書類を両手で胸に抱く。涙が一粒、頬を伝う。
(この書類にはお父様の想いがこめられているのね……時を経て私はその想いを受け取ったんだわ)
「ありがとう、グリフ。お父様の最後を看取ってくれて……きっと天国のお父様もお母さまも感謝していると思うわ」
グリフは再びため息を吐きながら片眼鏡に手を添える。
「感謝するのは書類を持っていたことではなく、お父上達を看取ったことだとは。このグリフ、感服致しましたぞ。奥様も旦那様と同様にワシらがお仕えするに値するお方ですな」
グリフはその場に跪いてみせた。
「グリフ、頭を上げて。以前も言った通り、貴方も私の家族の一人なんだから」
青と赤の両の瞳にグリフの姿が映っていた。アナスタシアは満面の笑みを浮かべてみせてくれた。
「ほっほっほ。これは参りましたな……ではまた時折、仕事を手伝ってもらいましょうかな」
「ええ。いつでも声をかけてね、グリフ」
二人は微笑み合う。しばらくした後、グリフがアナスタシアに言葉を掛ける。
「ではそれを持って、旦那様の元へとお戻りなさい。これで最後の扉が開くはずじゃて」
「ありがとう、グリフ。それじゃ私はアーヴェント様の元に戻ります」
静かにグリフが頷く。アナスタシアは深い礼にカーテシーを添えるとグリフの部屋を後にした。その胸にはしっかりと亡きラスター公爵の『想い』が引き継がれていたのだった。
(お父様の筆跡。小さい頃見ただけだけれど、覚えがある……これは間違いなくお父様の書いたものだわ……でも、どうして?)
数枚の書類に目を通したアナスタシアはそれが間違いなく父親のものであることを確信する。同時にこの書類を何故グリフが持っていたのか、気になったアナスタシアはグリフに尋ねる。
「どうしてこれをグリフが持っているの……?」
「その書類はラスター公爵からワシが預かっていたモノじゃよ」
「お父様から……?」
(生前、グリフはお父様と会っていたということ……? いいえ、少なくてもミューズ家にグリフが来たことは一度もない。私と面識があったわけでもないわ)
アナスタシアは過去の記憶を辿るが、ミューズ家とグリフとの接点は見つからなかった。困惑した表情を浮かべるアナスタシアにグリフが声を掛けた。
「奥様はワシがこの屋敷に来たのはいつか旦那様から聞いたことはありますかな?」
「いつか、まではわからないけれど確か……ゾルン達七人の中では一番遅かったと聞いているわ」
グリフは静かに頷く。
「ワシがこのお屋敷に来て旦那様に仕えることになったのは今から五年前のことになるかの。ワシはその直前にラスター公爵と会ったことがあるのじゃよ」
「詳しく聞かせてもらえる……?」
「もちろん。奥様にはその権利がありますからな。貴方はワシと公爵の間で交わした『賭け』に勝ったのですからのぉ」
(賭け……そういえばさっきもグリフが口にしていた言葉だわ)
グリフは作業机の椅子に腰かけると昔を懐かしむように机の上に置かれたランプの灯りを見つめながら話始めた。
「ワシがラスター公爵と会ったのは、ちょうど彼が息を引き取る直前じゃった」
「!」
その言葉に驚いたアナスタシアは口に両手を添える。
(お父様が亡くなる直前に……?)
彼女の反応を見たグリフは当時のことを語り出した。
◇◆◇
グリフは『強欲』を司る精霊であり、『強い欲』を好む。そしてそれに惹かれる性質があるのだという。五年前のある日、グリフはこの世界でも珍しい『強い欲』を感じ現場に足を運んだ。
事故にあった馬車は深い谷に落ちていた。そして一人の紳士風の男性が横転した馬車に寄りかかるように倒れていたのだ。頭を強く打っているようで負傷しているのが見てとれる。その胸には目を閉じた夫人を抱いていた。
「これはまた一段と濃い『欲』じゃな……じゃが、この男のものではないか。大方、賊にでも襲われたといったところかの」
グリフが独り言のように呟くと、まだ男性には息があり声に気付き目を開いた。
「……賊の者……ではないか。通りがかったという所ですかな……」
「ほう。わかるものかね」
「貴方からは悪意を感じませんからな……」
男性は痛みで顔を歪ませた後、笑って見せる。
「これでも人を見る目だけは確かだと自負しています……」
ふむ、とグリフは手を顎の辺りに添えながら呟く。
「ワシはお前さんの身体や馬車にべったりと張り付いた『強い欲』に惹かれてきたのじゃよ」
「『強い欲』に……? 御仁、貴方は一体……」
精霊のグリフには目の前の男性の命が残りわずかなのがわかっていた。胸に抱いている夫人は既に命の灯は消えていた。それでも彼は優しく彼女の身体をその身に抱いていたのだ。
「ワシは『強欲』を司る精霊じゃからのぉ」
「……はは。まさか今際の際に精霊と会えるとは思いませんでしたな」
「こんな爺の言葉を信じますのか」
「言ったはずです……私の人を見る目は確かだと。まあ、精霊を見たことはこれが初めて……そして最後になるでしょうが……」
その男性も自分の命の灯が消えかけていることは自覚しているようだ。少し何かを考えた後、男性がグリフに言葉を掛ける。
「精霊の御仁。一つお願いがあるのですが……聞いてくれるでしょうか」
男性は極めて紳士的に、そして相手への礼節を忘れることなく言葉を口にする。グリフはそこが気にいったらしく話だけでも聞くことにした。
「いいじゃろう」
男性の名はラスター。リュミエール王国のミューズ家の当主であり、公爵の身分だという。胸に抱いて眠るのは妻のルフレだと紹介してくれた。
彼は外交官であり、国王の密命により両国間で行われている不正な取引の証拠を集めていたのだという。やっとその証拠を掴んだ矢先、賊と思われる者達に襲われここまで逃げてきたがこの有り様だという。恐らく賊には見知っている者の息がかかっているとも口にする。
「なるほど……余程『強欲』の持ち主に目をつけられたのじゃな」
「精霊とはそこまでわかるものなのですな……不出来な弟だと思っていましたが気づくのが遅れた兄である私の失態です……これはその報いなのかもしれません」
俯きながらラスターは苦笑いを浮かべていた。
「ですが……ここで御仁、貴方と会えたのは幸せなことだと思っております。恐らく、その幸運は私の愛する娘からおすそ分けされたものでしょうな……」
「ほう……?」
その言葉にグリフは興味を持ったようで、続くラスターの言葉にも耳を貸してくれた。
ラスター達には愛する一人娘がいるのだという。風邪で寝込んでしまっていて、碌に話が出来なかったのが心残りだと語る。唄が好きなその娘には他者を幸せにする力があるのかもしれない、とラスターは自慢げに口にする。
「まあ、偶然なのでしょうが……私もそして妻もその子が誰かを幸せにする力を持っていると信じていました。だからこそ、私は今際の際に御仁と出会えたのでしょう……」
「今際の際とは物騒なことを言いなさる……愛しているというその娘の顔を見に戻られてはいかがですかのぉ」
ラスターは柔らかい表情を浮かべながら首を横に振る。
「御仁もおわかりでしょう……私の命はもう長くない……だからこそ、御仁。貴方にお願いがあるのです」
「ほう。お願いとな?」
ラスターは静かに頷くと、近くにあった書類の束を差し出す。
「これは私が集めた不出来な弟が犯した罪の数々とそれに関係した両国の関係者のリストです……どうか、これを貴方に託したいのです」
ふむ、とグリフは顎の辺りに手を当てながら答えた。
「これをどうしてワシに託そうとなさるのかな?」
「きっと貴方の手に渡れば、この証拠はいつか意味を持つと……そう信じております」
「ほっほっほ。ワシが賊とやらに金を積まれたら渡してしまうかもしれませんぞ?」
グリフは高笑いをしてみせるが、ラスターはまっすぐな瞳で見つめていた。
「そんな方ならこうして話を聞いてくださらないでしょう。『強欲』を司る精霊だという貴方がこの書類にこびりついた『強い欲』が見えぬはずはない。それでもなお、私の話に耳を傾けてくださった……これはきっと運命なのです」
強い確信を持つようにラスターは答える。
「精霊に運命を語るとは……面白いお人じゃ。じゃが……確かにワシはこの先の未来でお前さんが愛しているという娘に会うことになるじゃろうな」
ラスターは少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに笑顔に変わる。グリフにはラスターやルフレの身に宿した微かな『加護』が見えていたのだ。そしてそれが『神の愛娘』のものだということも精霊という存在上、知り得ていた。
「そうですか……これもあの子の力なのですかな……」
ラスターの息は次第に荒れ始めていた。残り少ない力を振り絞り、書類をグリフに差し出す。グリフはゆっくりと近づくと、その書類を手にとった。
「じゃが、人の欲望には果てが無い……誰もその鎖からは逃れられんよ。お前さんの娘も所詮は人の子じゃて」
ラスターは静かに首を横に振る。呼吸を整えるとグリフの目を見つめながらこう答えた。
「そんなことはありません。人はその鎖を解き放つことが出来る。いや……いつかこの二つの国の間に深い絆が生まれた時……その鎖は無くなると私は信じているのです」
更にラスターは言葉を続ける。すでにその瞳には何も映っていない。
「私達の愛する娘の唄のように清らかな存在があるのだから……。きっとあの子ならその鎖を解き放つことが出来るでしょう……」
「お前さん達の娘がそれを成すと……?」
ラスターは一言呟いた。
「私は……いえ、私達はそう信じています」
既に何も映らなくなったラスターの瞳を見つめながらグリフが答える。
「……いいじゃろう。では『賭け』をするとしよう。この先の未来、ワシがお前さん達の信じているという娘に出会った時までこの書類は預かっておこう。そしてワシはその娘の『欲』を試す。その試練を経ても尚、娘が欲に捕らわれずに自らの気持ちを貫き通せたのならこの書類を渡すという『賭け』じゃ……どうかな、公爵」
ラスターは柔らかい表情を浮かべていた。
「やはり貴方にそれを預けて正解でしたな……その『賭け』に乗りましょう」
「じゃが、ワシは『強欲』。簡単には渡さんぞ?」
「……宜しくお頼み申します……」
そうしてラスターは妻であるルフレを胸に抱いたまま、息を引き取った。谷間の向こうから『欲』にまみれた者達が近づいてくる音が聞こえていた。片眼鏡の位置を直しながら、グリフは呟く。
「……『欲』に駆られん命などないのじゃよ」
そう呟くとグリフの姿はその場から消え去ったのだった。こうして不正の証拠は犯罪集団、強いてはレイヴンの手には渡らなかった。そして五年の歳月が過ぎたのだ。
◇◆◇
話を聞いていたアナスタシアの瞳には涙が浮かんでいた。
(お父様達は……私のことを最後まで想っていてくれていたのね……)
話終わったグリフは作業机から離れると再び、アナスタシアの傍に歩いてくる。深い溜め息を吐くと口を開いた。
「奥様も心当たりがありますでしょう……『旦那様達が把握せぬ、来客があったこと』を」
アナスタシアは以前に屋敷に訪れた男爵のことを思い出す。確かにアーヴェント達は男爵が訪ねてくることは知らなかったと言っていた。
「もしかして……あれはグリフが?」
「ええ。偽造した手紙を送ったのも全てワシじゃよ。じゃが奥様は『欲』にまみれた者を前にしても決してご自分の芯を曲げることはなかった……」
グリフは言葉を続ける。
「ならばと、次はワシが直接奥様に『ご自分が手にしている身分とそれが持つ財の魅力』を甘言を交えて誘ってみせた……じゃが、これも奥様は全ての財は自分と自分を支えてくれる他者のためだと言いなされた」
アナスタシアは以前、グリフの仕事を手伝った際に彼に言われた言葉を思い出していた。
(あの時の話はグリフからの誘惑だったのね……)
「そして、旦那様が奥様に見せずに暖炉で燃やしたご両親に関わる嫌疑の手紙もこびりついていた『欲』によって復元し奥様の目に入るようにしたのもワシじゃ。じゃが、お二人は思い合う心を強くしましたな」
(そういうことだったのね……)
「そして最後にワシは『奥様を不幸にした者達の処罰』を提案したが……奥様は決して首を縦に振ることはなかった。まさか……人である身でありながらその純粋な心を持ち続ける人間がいるとは……ワシもまだまだだということじゃな」
グリフは今までに起こった不可解な事件や自分の言葉、そして最後にアナスタシアに提案した全てのことは亡き公爵との『賭け』のための試練だったと語ったのだった。
「私……気づかなかったわ」
グリフは高笑いをしてみせる。
「ほっほっほ。普通に気づいているような賢しいお人なら、その時点で欲に身を任せておったじゃろうて」
「グリフ……」
「先程もいいましたが、公爵との『賭け』はワシの負けじゃ。その書類は奥様のモノですぞ」
アナスタシアはそっとその書類を両手で胸に抱く。涙が一粒、頬を伝う。
(この書類にはお父様の想いがこめられているのね……時を経て私はその想いを受け取ったんだわ)
「ありがとう、グリフ。お父様の最後を看取ってくれて……きっと天国のお父様もお母さまも感謝していると思うわ」
グリフは再びため息を吐きながら片眼鏡に手を添える。
「感謝するのは書類を持っていたことではなく、お父上達を看取ったことだとは。このグリフ、感服致しましたぞ。奥様も旦那様と同様にワシらがお仕えするに値するお方ですな」
グリフはその場に跪いてみせた。
「グリフ、頭を上げて。以前も言った通り、貴方も私の家族の一人なんだから」
青と赤の両の瞳にグリフの姿が映っていた。アナスタシアは満面の笑みを浮かべてみせてくれた。
「ほっほっほ。これは参りましたな……ではまた時折、仕事を手伝ってもらいましょうかな」
「ええ。いつでも声をかけてね、グリフ」
二人は微笑み合う。しばらくした後、グリフがアナスタシアに言葉を掛ける。
「ではそれを持って、旦那様の元へとお戻りなさい。これで最後の扉が開くはずじゃて」
「ありがとう、グリフ。それじゃ私はアーヴェント様の元に戻ります」
静かにグリフが頷く。アナスタシアは深い礼にカーテシーを添えるとグリフの部屋を後にした。その胸にはしっかりと亡きラスター公爵の『想い』が引き継がれていたのだった。