『執愛婚』~クリーミー系ワンコな部下がアブナイ男に豹変しました
ぼそっと呟かれた言葉。
何故、あの店に行ったのか。
何故、一人で行ったのか。
何故、キャンセルしなかったのか。
何故、食事の誘いを断ったのか。
それらが『まだ、忘れられないんですか?』という言葉に集約されている。
「もう、彼のことは何とも思ってないよ」
「嘘だ」
「本当よ」
「じゃあ、何で……」
レストランを出て、初めて視線が合った。
真剣な眼差しなのに、とても切なく感じるほどに。
「あのレストラン、予約半年待ちって言われるほど有名でね。特別に用意して貰ったメニューだったから、キャンセルできなくて」
「……俺を誘えばよかったのに」
「それは八神くんに対して、失礼でしょ」
「……」
彼との記憶をリセットするいい機会なのに、八神くんの気持ちを利用するなんて私にはできない。
五つも年下の部下に気を遣わせてしまった。
情けない。
残りのカクテルを飲み干して…。
「すみません、私にもギムレットを」
もうあの頃の気持ちには整理をつけている。
強いて言うなら、この先の人生に向き合う自信が少し足りないだけ。
誰かに寄り添って生きる決断をした自分が、誰にも寄り掛からずに生きて行くと決めた心構えが心細いだけ。
ただそれだけ。
「お待たせ致しました」
目の前に置かれたグラスに手を伸ばした、その時。
一瞬早かった八神くんの手が、グラスを奪い取った。
「俺、先輩が結婚を取り止めてくれて、正直嬉しかったです」
「え?」
「まだ、俺にもチャンスがあるんだって…」
「……」
「今ならまだ、隣りの席、空いてますよね?」
「……酔ってるの?」
「酔ってませんよ」
「ふざけてるの?」
「ふざけてませんよ」
「じゃあ、何?……揶揄ってんの?」
「揶揄ってなんていませんよ」
真っすぐ見つめて来る彼の瞳は、真剣な中にも熱が籠っている。
職場で見せる愛らしい表情とはかけ離れている男の顔をしていて、一瞬ドキッとしてしまった。