新そよ風に乗って 〜憧憬〜
何故、此処に?
「嫌!」
咄嗟に、佐藤君を突き飛ばしていた。
しかし、金縛りにあったように足が地面から離れず、動けない。
全身が震えて力が入らず、膝がガクガクしてその1歩が踏み出せない。
直ぐにでも駆け寄って行って、抱きつきたい。
たった5mほどの距離なのに……その短い距離が途方もなく離れているように感じられる。
姿こそ近くに見えるそこには、最も会いたかった人。
高橋さんが、立っていた。
それなのに、私は……。
見ていたの?
佐藤君の胸で泣いていた私を、高橋さんは見ていたの?
「えーっ? 高橋さん。何で? どういうこと? も、もしかして、矢島さんと高橋さんって……えぇーっ?」
何か言っている佐藤君の声なんて、耳に入っていなかった。
5mの隔たりが、悲しくて、虚しくて……そして、あまりにも遠く感じられる。
ほんの数秒、見つめ合った気がするが、高橋さんは俯きながらフッと微笑むと、車に乗って私の前を走り去って行ってしまった。
「矢島さん?」
全身の震えが、止まらない。
高橋さん……。
「大丈夫?」
直感した。
ああ。もう……・きっと高橋さんは、戻ってこない。
あの優しい瞳も、あの艶やかな髪も、手も指も唇も。
あの広い大きな胸も、大好きだった高橋さんの香りも。
「うっ……うぅっ……いやぁぁぁ」
絶望の淵に追いやられ、佐藤君の存在など忘れてその場に泣き崩れてしまった。
「や、矢島さん」
その後、佐藤君と何を話したのか。何時、佐藤君が帰ったのか。何時、お風呂に入って寝たのかも覚えていない。
寝ているような、寝ていないような。ふわふわした気持ちのまま、辺りが明るくなってきた明け方。物音に気づいて目を開け、現実に引き戻されて思わず飛び起きてインターホンの画面を見たが、誰も映ってはいなかった。
「痛……」
飛び起きた拍子に何かを踏んで、慌てて見ると床に携帯が落ちている。何時もなら、充電器に差して寝るのに。携帯を手に持ったまま、寝てしまっていたのだろうか? 
さっきの物音は、携帯が床に落ちた音だったのかもしれない。
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