新そよ風に乗って 〜憧憬〜
「高橋さん。お腹、空きませんか? 食事して、帰りませんか?」
「ん? ああ、そうだな。でも、中原。金曜日だが、いいのか?」
「はい。決算月は先が見えないので、最近は土曜日に」
「なるほどな」
エレベーターを待ちながらそんな会話を2人はしていたが、会話には入らずにエレベーターの階数を指す表示を黙って見上げていた。
「矢島さんも、一緒に行くよね?」
「えっ?」
中原さん。 
いきなり、何を……。
「こ、困りま……」
「何処、行きますか?」
私の返事など無視して、中原さんは高橋さんと何処に行くか相談してしまっている。
どうしよう。
食事に行くなんて、困るんだけど……。
そうこうしてるうちに、2階に着いてしまった。
「それじゃ、鍵返してきます。このまま、表通りで待ってますから」
「あぁ、分かった」
中原さんは、そう言って降りて行ってしまった。
私も、降りなくちゃ。
「あの、すみません。私、用事がありますので、此処で失礼します。お疲れ様でした」
高橋さんの目を見られないまま、エレベーターを降りてお辞儀をした。
「そうか。お疲れ様」
高橋さんが閉のボタンを押して、エレベーターのドアが閉まり始めた。
このエレベーターのドアを挟んで、高橋さんが居る。直ぐ傍に高橋さんが居るのに、ドアは閉まってしまう。
まるで、人が心を閉ざしていくような光景と何か似ているように感じられて、そのままエレベーターのドアが閉まって行くのをジッと見つめていた。
あと、5cm……。
このドアのように心を閉ざさなければならないのは、私なのかな。それとも、心を閉ざしてしまうのは……。
エッ……。
閉まると思っていたエレベーターのドアが、突然開いた。
うわっ。
エレベーターの中から高橋さんがいきなり私の右手首を引っ張ると、引っ張られた拍子に履いていたヒールの音が鳴り響き、そのままエレベーターの中へと引き込まれてしまった。
「た、高橋さん」
高橋さんを見上げると、後ろでエレベーターのドアの閉まる音が聞こえて慌てて後ろを振り返ったが、既にエレベーターは動き出してしまった。
「あ、あの……」
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