二人でお酒を飲みたいね。
 「まだ昼だな。」 俺はそう思って久しぶりにあのラーメン屋に行ってみた。
思えば、最近はずっと弁当だったんだ。 兎にも角にも事務仕事が多くて、、、。
 「いらっしゃいませ。」 あの女はまだ働いていた。
カウンターのいつもの席に座ってメニュー表を見る。 「いつもの塩ラーメンにするか。」
水を飲みながら厨房を覗いていると親父さんが俺のほうを振り向いた。 「久しぶりだねえ。」
「そうですねえ。 何か月ぶりだろう?」 「去年はあの事件以来、大変だったな。」
「そうなんです。 事件が立て続けに起きちゃって、、、。」 「あんたも刺されたんだって?」
「びっくりしましたよ。 まあ死ななかっただけいいかと、、、。」 「あの人はどうしたんだ?」
「それが、、、。」 「辞めちゃったのか?」
「そう。 辞めたんです。 何が有ったかは知りませんが、、、。」
 その話を聞いていたあの女が渋い顔をした。 気にはなったが時間も迫っていたから見なかったことにして俺は店を出た。

 会社に戻ってくると初枝が廊下の掃除をしている。 「奥さんみたいだねえ。」
「あらあら、高木さん 羨ましいの?」 「羨ましいねえ。」
「奥さんが居るのに?」 「え? 高木さんって奥さん居たんですか?」
「そうなのよ。 別れた奥さんが戻ってきてくれたのよね。 高木さん。」 「あ、ああ。」
「なあんだ。 奥さん居たのか。 チャンスだと思ったのになあ。」 新人の若い社員が残念そうに俺を見ている。
「まあまあ、柏崎さん チャンスはまだまだこれからよ。」 「そうかなあ?」
「だって、、、、売れ残ってる河井っておじさんが居るもの。」 「えーーーーーー? あの人は嫌だあ。」
「ショボーーーーーーーン。」 「あらあら、聞いて他の?」
「聞いて他の?じゃないよ 初枝さん。」 「ごめんねえ。 こんなおじさんで。」
「いいですいいです。 ごめんなさい。」 恵理子は頭を下げるとさっさと事務室へ逃げ込んでしまった。
 「高木さんって意外と人気有るんだなあ。」 「何だよ、以外って。」
「だってさあ、あんな若い子にも追い掛けられるなんて羨ましいわ。」 「河井君だって居るんじゃないのか?」
「ぜーーんぜん居ません。」 「追い掛けて振られまくってるんだもんねえ。」
「いいもーーーん。 柳田さんにキスしちゃうんだもん。」 「わわわわわ、やめてよ 真昼間から。」
今日も社内は賑やかである。 以前のような重たい空気は無くなってしまったようだ。
「さてさて、高木君 そろそろ会議の時間だが、、、。」 「忘れてた。 すぐ行きます。」
そうそう、経営会議なんて俺には関係ないと思っていたからすっぽかそうとしたんだけど、そこを沼井に捕まってしまったんだ。
 それで今後の経営をどうするかという話し合いを延々3時間も費やしてしてしまった。
結局のところ、その日では答えが出なかったから来月まで持ち越されることになったんだが、、、。
 「来月だとお中元商戦も重なるからのんびり会議なんてやってられません。」という切実な意見が出てきて、、、。
これには総務部長の栄田も頭を痛めている。 「宴会のほうがよっぽどに楽だなあ。」
いつになく弱気でボソッと呟くものだから思わず俺は笑ってしまった。
「高木君は相談室だからいいよなあ。 悩まなくていいんだもん。」 「そうでもないよ。 投げ付けられる問題は重たい物ばかりだ。」
「へえ、そんなに重たい物ばかり来るの?」 「数は少ないけどさ、、、。 暇だから聞いてるとどんどん引き込まれていくんだよ。」
「うーん、それもどうかなあ。 件数は少ないのに中身は重たいわけでしょう? 明日辺り飲みにでも行きますか?」
「やつが居るから無理だよ。」 「じゃあ、家で飲みますか。 ねえ。」
「いやいや、それも、、、。」 「いいじゃないっすか。 俺も河井も知ってるわけだから。」
「まあ、考えとくよ。」 そう言って俺は社を出た。

 夕日がいつになく眩しく感じる。 雨でも近いのかな?
ブラブラと歩いてみる。 何処からか尚子が走り寄ってきそうな気がする。
家へ向かうバスに乗る。 窓から見える風景もそのままである。
何個目かのバス停で降りると家への道を歩いていく。 梅雨入りが近いのか?
 チラッと見える田んぼにも水が打たれていて田植えも済んでいてまるで水鏡のようだ。
もうすぐ蛙の大合唱が聞こえてくる季節である。 昔はそこいらが全て田んぼだった。
昭和の再開発ラッシュですっかり変ってしまったな。

 玄関のドアを開ける。 「ただいま。」
奥からは返事が返ってこない。 「どうしたんだろう?」
寝室を覗いてみる。 そこにも康子の姿は見えなかった。
「おかしいな。」 居間に入ってみると留守電が光っていた。
再生ボタンを押してみると、、、。
 「こちらは救急救命センターです。 勝田康子さんのお知り合いの方でしょうか?
康子さんが緊急入院されましたので連絡をください。 お待ちしています。」
 切羽詰まった男の声である。 俺は只ならぬ予感がしてプッシュボタンを押した。
 電話を受けたのは鳥谷という医師である。 「どうしたんですか?」
「お宅の玄関先で倒れている所を発見されて救急搬送されたんです。 現状をお話ししますので来ていただけますか?」
(これはただ事じゃないな。) そう思った俺はタクシーを呼んだ。
 病室に入ってみると康子は倒れた時の服装のままでベッドに寝かされていた。
「あまりにも痛みがひどいので麻酔で眠らせてあります。 今後は緩和ケアが必要でしょう。」 「原因は何ですか?」
「子宮癌です。 本人にはまだ軽い状態だと話しておいたんですが、、、。」 そこで彼はカルテを取り出した。
 「実はかなり進行していまして、手術は出来ません。」 「ということは、、、?」
「おそらく余命3か月というところでしょうか。」 「余命3か月?」
「そうです。 今後は病院で経過を見守ることになります。」 「康子、、、。」
 眠らされている康子の手を握ってみる。 もちろん、反応することは無い。
「では、何か有りましたらいつでもナースコールで呼んでください。」 医師は静かに病室を出て行った。
 静かな病室で、康子の寝息だけが聞こえている。 あんなに元気そうだったのに、、、。
俺は椅子に腰を下ろすと窓から外を見詰めた。 宵闇が辺りを包んでいる。
時々、救急搬送の救急車が出入りしている。 廊下には人影も無い。
 尚子が死んでまだ時間がそれほど経っていない。 そんな時に今度は康子が、、、。
 「私ね、子宮癌なのよ。」 そう言っていた康子の顔は確かに疲れ切っていた。
「早く捕まえなさいよね。」 初枝が言っていた言葉が脳裏を掠めては消えていく。
(俺は最後の最後までお前を幸せには出来なかった。 それどころかこんな体にしてしまった。)
もっと早く決断できなかったのか? 何を迷っていたのだろう?
再会したあの日に捕まえることだって出来たはずなのに、、、。 今では後悔するしかない。
 康子は眠り続けている。 いや、眠らされ続けている。
まだまだ、この先もやりたいことがたくさん有っただろうに、、、。 「取り合えず、麻酔で眠らせてあります。 目が覚めても意識がはっきりしているかどうかは微妙ですが、、、。」
医者はそう言っていた。 末期の癌なのだと。
その激痛はどれほどなのか、俺には分からない。 苦しさも尋常ではないことだけは分かっているが、、、。
(出来ることならばこの命を捧げてしまいたい。 苦しめた分だけ幸せにしたい。) 俺は初めて何かの宗教に縋りたい思いに駆られるのだった。
 人はどうして生まれてくるのだろう? そしてどうしてこれほどに苦しむのだろう?
この苦しみを永遠に背負っていかなければならないのか? それは何のためなのか?
もしも、この世に仏が居るのであればその意味をぜひ聞いてみたいものだ。
 深夜の病室、康子の寝息だけがこの世の物音のように微かに聞こえている部屋。
そのベッドの脇でいったい俺は何をしているのか? 康子は目覚めるのだろうか?
疑問ばかりが脳裏を掠めていく。 いつか、朝になっていた。
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