彼に潜む影
愛佳に面会の許可が下りたのは、事故に遭った彼が目覚めてから三日後のことだった。
「基治さん」
病院の個室のドアを開けると、ベッドに腰掛けてぼんやりと窓の外を見ていた基治がおもむろに振り返る。
「あぁ、水城か……」
愛佳のことを視界にとらえた基治は、その顔に少しも歓喜の色を見せることなく低く呟いた。白い壁の個室に、まるで他人を呼ぶみたいに響いた基治の声。それに妙な違和感を覚えた愛佳の眉間が僅かに寄った。
「基治さん?」
大手持株会社である東郷グループの代表取締役を務めている東郷 基治。
今、目の前で病院のベッドに座っている彼は、愛佳の上司でもあり、恋人でもあった。
もう三年ほど基治の秘書を務めている愛佳のことを、彼が「水城」と名字で呼ぶことは決して珍しくない。けれど基治が愛佳のことを「水城」と呼ぶのは、職場で他人の目があるときだけだ。
一年前に基治からの告白を受けて恋人関係になって以降、彼はふたりきりのときに愛佳のことを「水城」と呼ばなくなった。
ふたりきりのときの基治は、鼓膜をくすぐるような甘く優しい声で愛佳のことを名前で呼んでくれるのだ。とても大切そうに、愛おしそうに。
もしかして、事故の後遺症が……。ふと過った嫌な予感に、愛佳の顔から血の気が引いていく。
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