元ヒロインの新妻は元ヴィランの夫から逃げられない 〜あなたは征服欲と支配欲のために私と結婚しただけなの、ちゃんとわかってます。は? 愛してる⁉ 本気ですか⁉〜
第5話 ヴィランの誕生
昔から、他人が病気や怪我をしても可哀想だと感じたことがなかった。何故嘘をついてはいけないのかも、理解できなかった。
「天堂くんは本当にいい子だなぁ」
「龍一郎くんが好きなの」
「俺、天堂さんのためなら死ねます」
どんな賛辞も、奉仕も、当然のこととして受け取ってきた。
(人を傷つけてはいけません)
何故いけないんだ。人の心を傷つけても目には見えないし、暴力を振るっても逮捕されなければ問題ない。
(人には優しくしましょう)
いいだろう、自分に利益があるなら、優しいふりなどいくらでもできる。
(人を愛しなさい)
愛! 愛なんて、元は仏教用語で煩悩や貪欲って意味だ。俺は他人に執着するのも、されるのも、御免こうむる。
病気がちだった母親が早くに死んで、後妻からうとまれた俺は小学校から寄宿舎のある私立にいった。そして中学校、高校、大学と学歴を積み上げた。
家族との縁が薄かったぶん、同級生を手始めに、自分の能力を駆使して人脈を築いた。
大学に入って、同級生の伝手で知り合った芸能人から、ストーカーに悩む愚痴を聞かされた。犯人から送られてきたプレゼントから、相手のプロファイルをするのは容易だった。俺には犯罪者の気持ちが手に取るように理解できたから。相手が次にどんな行動に出るかも、簡単に予測できた。俺の仕掛けた罠にはまって、ストーカーは逮捕された。
その芸能人が宣伝してくれたおかげで、当時はまだ大学生だったが、ポツポツと『依頼』がくるようになった。俺は何人もの脅迫者やストーカーを罠にかけて証拠をつかみ、彼らを司法の手にゆだねた。
国家公務員として警察庁入りすることも考えた。けれども、少し調べただけでやめた。絶対的な上下関係に従うなんて、考えただけで虫酸が走る。
自分が犯罪者側に立つ人間なのはわかっていたが、社会的に成功するためには犯罪者とは程遠い地位を築く必要があった。いくつかの選択肢の中から、俺は警備会社を起ち上げることにした。そうして俺は勝ち組になった。
自宅の超高級マンションから、街のネオンを見下ろした。
マッカランを口に含む。シングルモルトウイスキーの、華やかで重厚な味わいが口腔に広がった。けれども喉を灼くアルコールの刺激すら平板に感じられて、俺はさらにバカラのロックグラスをあおった。
窓の外に広がる夜景は、真っ黒な布地の上にばら撒かれた、色とりどりに輝く砂粒のようだった。美しい夜景にすら、なんの感慨も湧かなかった。仕事が忙しすぎるせいだろうか。何もかもが砂をかむように味気なく、退屈だった。
他社と同様の一般的な警備業務部門の経営については、早くから部下に任せていた。そうはいっても代表取締役社長として新たなビジネス拡大を指示し、部下が権限を増大させすぎないよう目を光らせる必要がある。
日本の暴力団や海外マフィアに狙われた依頼人を警護する特殊警備業務については、自分で直々に指示を出していたが、襲撃をすべて阻止してきたせいか、最近は依頼人が我が社と契約した時点で手を引くようになってきた。逆恨みで俺を襲撃した組織を、ことごとく壊滅させたからかもしれない。
「退屈だ」
口に出すと、その気持ちはさらに強くなった。
刺激が欲しかった。何をすればこの退屈はまぎれるんだろう。賭博にも女にも飲酒にも飽きた。もっと面白い何かがないのだろうか。
(ある)
不意に頭の中に『声』が響いた。俺は部屋の中を素早く見回した。
(お前に参加の意志があるなら、歓迎しよう)
脳内に一気に情報が溢れた。
自分がヴィラン、闇と悪の代表として見込まれたこと。相手にするのは光と善の代表で、毎回課題が変わること。暴力行為はしてはならないこと。現実世界への影響は最小限にするため、ヴィランとしての特殊能力は召喚された仮想空間でしか振るえないこと。
「俺のメリットはなんだ」
(退屈ではなくなる)
「参加しよう」
即決だった。
利益があるかを聞いたものの、俺にとって報酬は特に必要なかった。金には困っていない。それよりもこの退屈をどうにかしたかった。
深く黒い闇が俺を飲み込む。そうして俺は俺の本質、『ヴィラン』へと変貌した。
気づいたときには、真っ白な光しかない世界に俺はいた。そこに不意に一人の人物が出現した。風変わりな仮面と衣装に隠されて年齢はわからないが、女性であることはわかった。彼女は周りを見回した。
(ようこそ、ヒロインとヴィランよ)
2種類の『声』が同時に頭の中に響いた。
(今回の課題は、『人の心を揺さぶる写真』を撮ってくること。期限は30日だ)
「待ってください、私、カメラなんて持ってません」
俺はその情報を注意深く記憶した。カメラを所持していないということは、カメラマンではない。また富裕層でもない。あるいはかなり若いのかもしれない。
俺も声を上げた。
「カメラの性能によって、写真の出来栄えに大きな差が出ると思われるが」
(二人ともこれで撮影せよ)
宙に浮いたカメラを、俺たちは手にとった。途端に眼の前が真っ白に輝き、気づいたときには俺は自宅に座っていた。
夢でない証拠に、手の中にはありふれた小型のデジタルカメラがあった。
「人の心を揺さぶる写真か……」
俺は呟き、目を閉じた。脳裏にさまざまな景勝地が浮かんだ。
ウユニ塩湖。九寨溝。イエローストーン……。
敵であるヒロインを打ちのめす写真を撮りたかった。相手の心を折る、絶対的な勝利にしか意味はなかった。そのためには手段を選ぶつもりはなかった。相手が若かろうが富裕でなかろうが関係ない。自分の経済的優位と権力をフルに行使することに躊躇いはなかった。
目を開いて微笑む。
目的地はすでに決まっていた。
30日後、同じ時間に俺は仮想空間に召喚された。
俺がデジタルカメラを虚空に差し出すと、カメラは宙に浮いた。そして一つだけ残しておいた画像データが映し出されて、白い世界を絶景に変えた。
新緑と、数多くの滝が織りなす白い水しぶき、そして青空を映し出した湖面のエメラルドグリーン。
まるで妖精郷のような、現実とは思えない幻想的な光景が広がる。
プリトヴィツェ湖群国立公園だ。
仕事の都合をつけ、クロアチアまでわざわざおもむいて撮影したこの写真に、俺は深い満足を覚えた。これに勝てる写真など、撮れるはずがなかった。
それなのに彼女は躊躇いもせず、自分のデジタルカメラを虚空に掲げた。
たくさんの猫が現れた。
真ん中に鎮座しているボス猫は、撮影者に笑いかけているように見えた。その周りに何匹もの猫がいた。白、黒、茶トラ、サビ、三毛。寝そべったり、ちょこんと座ったり、毛づくろいしたり、思い思いのポーズでゆったりとくつろいでいる。
暖かい陽の光、優しいそよ風が感じられる写真だった。
(ママ見て! にゃーにゃ!)
遠い遠い幼い頃の記憶が突然よみがえって、俺はたじろいだ。そうだ。俺もかつてこの猫たちの集会に出会ったことがある。あの時、猫たちは俺を見てそそくさと解散した。悲しかった。
この写真を撮るために、彼女は猫たちのもとに日参したのだろうか。そうして、仲間として受け入れられたのだろうか。猫たちに仲間として認められた彼女がうらやましかった。
(この勝負、勝者はヴィラン)
「そんな!」
ヒロインが声を上げる。俺は無言で頭を下げた。判定は俺の勝利だった。けれど、俺の心を揺さぶったのは彼女の撮影した写真だった。
「後学のために、彼女の撮影した写真のデータを現実世界に送ってもらえないだろうか」
俺の頼みに、しばらくしてから(是)という声が響く。そうして俺はまたしても白い光に飲み込まれ、気づくと現実世界に帰還していた。俺はスマホとパソコンを確認した。どちらにも猫集会の写真が保存されていて、俺はふうーっと深い吐息をついた。
「天堂くんは本当にいい子だなぁ」
「龍一郎くんが好きなの」
「俺、天堂さんのためなら死ねます」
どんな賛辞も、奉仕も、当然のこととして受け取ってきた。
(人を傷つけてはいけません)
何故いけないんだ。人の心を傷つけても目には見えないし、暴力を振るっても逮捕されなければ問題ない。
(人には優しくしましょう)
いいだろう、自分に利益があるなら、優しいふりなどいくらでもできる。
(人を愛しなさい)
愛! 愛なんて、元は仏教用語で煩悩や貪欲って意味だ。俺は他人に執着するのも、されるのも、御免こうむる。
病気がちだった母親が早くに死んで、後妻からうとまれた俺は小学校から寄宿舎のある私立にいった。そして中学校、高校、大学と学歴を積み上げた。
家族との縁が薄かったぶん、同級生を手始めに、自分の能力を駆使して人脈を築いた。
大学に入って、同級生の伝手で知り合った芸能人から、ストーカーに悩む愚痴を聞かされた。犯人から送られてきたプレゼントから、相手のプロファイルをするのは容易だった。俺には犯罪者の気持ちが手に取るように理解できたから。相手が次にどんな行動に出るかも、簡単に予測できた。俺の仕掛けた罠にはまって、ストーカーは逮捕された。
その芸能人が宣伝してくれたおかげで、当時はまだ大学生だったが、ポツポツと『依頼』がくるようになった。俺は何人もの脅迫者やストーカーを罠にかけて証拠をつかみ、彼らを司法の手にゆだねた。
国家公務員として警察庁入りすることも考えた。けれども、少し調べただけでやめた。絶対的な上下関係に従うなんて、考えただけで虫酸が走る。
自分が犯罪者側に立つ人間なのはわかっていたが、社会的に成功するためには犯罪者とは程遠い地位を築く必要があった。いくつかの選択肢の中から、俺は警備会社を起ち上げることにした。そうして俺は勝ち組になった。
自宅の超高級マンションから、街のネオンを見下ろした。
マッカランを口に含む。シングルモルトウイスキーの、華やかで重厚な味わいが口腔に広がった。けれども喉を灼くアルコールの刺激すら平板に感じられて、俺はさらにバカラのロックグラスをあおった。
窓の外に広がる夜景は、真っ黒な布地の上にばら撒かれた、色とりどりに輝く砂粒のようだった。美しい夜景にすら、なんの感慨も湧かなかった。仕事が忙しすぎるせいだろうか。何もかもが砂をかむように味気なく、退屈だった。
他社と同様の一般的な警備業務部門の経営については、早くから部下に任せていた。そうはいっても代表取締役社長として新たなビジネス拡大を指示し、部下が権限を増大させすぎないよう目を光らせる必要がある。
日本の暴力団や海外マフィアに狙われた依頼人を警護する特殊警備業務については、自分で直々に指示を出していたが、襲撃をすべて阻止してきたせいか、最近は依頼人が我が社と契約した時点で手を引くようになってきた。逆恨みで俺を襲撃した組織を、ことごとく壊滅させたからかもしれない。
「退屈だ」
口に出すと、その気持ちはさらに強くなった。
刺激が欲しかった。何をすればこの退屈はまぎれるんだろう。賭博にも女にも飲酒にも飽きた。もっと面白い何かがないのだろうか。
(ある)
不意に頭の中に『声』が響いた。俺は部屋の中を素早く見回した。
(お前に参加の意志があるなら、歓迎しよう)
脳内に一気に情報が溢れた。
自分がヴィラン、闇と悪の代表として見込まれたこと。相手にするのは光と善の代表で、毎回課題が変わること。暴力行為はしてはならないこと。現実世界への影響は最小限にするため、ヴィランとしての特殊能力は召喚された仮想空間でしか振るえないこと。
「俺のメリットはなんだ」
(退屈ではなくなる)
「参加しよう」
即決だった。
利益があるかを聞いたものの、俺にとって報酬は特に必要なかった。金には困っていない。それよりもこの退屈をどうにかしたかった。
深く黒い闇が俺を飲み込む。そうして俺は俺の本質、『ヴィラン』へと変貌した。
気づいたときには、真っ白な光しかない世界に俺はいた。そこに不意に一人の人物が出現した。風変わりな仮面と衣装に隠されて年齢はわからないが、女性であることはわかった。彼女は周りを見回した。
(ようこそ、ヒロインとヴィランよ)
2種類の『声』が同時に頭の中に響いた。
(今回の課題は、『人の心を揺さぶる写真』を撮ってくること。期限は30日だ)
「待ってください、私、カメラなんて持ってません」
俺はその情報を注意深く記憶した。カメラを所持していないということは、カメラマンではない。また富裕層でもない。あるいはかなり若いのかもしれない。
俺も声を上げた。
「カメラの性能によって、写真の出来栄えに大きな差が出ると思われるが」
(二人ともこれで撮影せよ)
宙に浮いたカメラを、俺たちは手にとった。途端に眼の前が真っ白に輝き、気づいたときには俺は自宅に座っていた。
夢でない証拠に、手の中にはありふれた小型のデジタルカメラがあった。
「人の心を揺さぶる写真か……」
俺は呟き、目を閉じた。脳裏にさまざまな景勝地が浮かんだ。
ウユニ塩湖。九寨溝。イエローストーン……。
敵であるヒロインを打ちのめす写真を撮りたかった。相手の心を折る、絶対的な勝利にしか意味はなかった。そのためには手段を選ぶつもりはなかった。相手が若かろうが富裕でなかろうが関係ない。自分の経済的優位と権力をフルに行使することに躊躇いはなかった。
目を開いて微笑む。
目的地はすでに決まっていた。
30日後、同じ時間に俺は仮想空間に召喚された。
俺がデジタルカメラを虚空に差し出すと、カメラは宙に浮いた。そして一つだけ残しておいた画像データが映し出されて、白い世界を絶景に変えた。
新緑と、数多くの滝が織りなす白い水しぶき、そして青空を映し出した湖面のエメラルドグリーン。
まるで妖精郷のような、現実とは思えない幻想的な光景が広がる。
プリトヴィツェ湖群国立公園だ。
仕事の都合をつけ、クロアチアまでわざわざおもむいて撮影したこの写真に、俺は深い満足を覚えた。これに勝てる写真など、撮れるはずがなかった。
それなのに彼女は躊躇いもせず、自分のデジタルカメラを虚空に掲げた。
たくさんの猫が現れた。
真ん中に鎮座しているボス猫は、撮影者に笑いかけているように見えた。その周りに何匹もの猫がいた。白、黒、茶トラ、サビ、三毛。寝そべったり、ちょこんと座ったり、毛づくろいしたり、思い思いのポーズでゆったりとくつろいでいる。
暖かい陽の光、優しいそよ風が感じられる写真だった。
(ママ見て! にゃーにゃ!)
遠い遠い幼い頃の記憶が突然よみがえって、俺はたじろいだ。そうだ。俺もかつてこの猫たちの集会に出会ったことがある。あの時、猫たちは俺を見てそそくさと解散した。悲しかった。
この写真を撮るために、彼女は猫たちのもとに日参したのだろうか。そうして、仲間として受け入れられたのだろうか。猫たちに仲間として認められた彼女がうらやましかった。
(この勝負、勝者はヴィラン)
「そんな!」
ヒロインが声を上げる。俺は無言で頭を下げた。判定は俺の勝利だった。けれど、俺の心を揺さぶったのは彼女の撮影した写真だった。
「後学のために、彼女の撮影した写真のデータを現実世界に送ってもらえないだろうか」
俺の頼みに、しばらくしてから(是)という声が響く。そうして俺はまたしても白い光に飲み込まれ、気づくと現実世界に帰還していた。俺はスマホとパソコンを確認した。どちらにも猫集会の写真が保存されていて、俺はふうーっと深い吐息をついた。