元ヒロインの新妻は元ヴィランの夫から逃げられない 〜あなたは征服欲と支配欲のために私と結婚しただけなの、ちゃんとわかってます。は? 愛してる⁉ 本気ですか⁉〜

第6話 ヴィランの初恋

 初めての召喚から帰還してからというもの、彼女のことが頭にこびりついて離れなかった。次の召喚が待ち遠しかった。激務で精神がすり減らされたときは、猫集会の写真を見て慰められた。
 次は彼女はどんなことをするんだろう。仕事よりもそちらのほうが気になって仕方なかった。
 だから仮想空間に召喚されて、またしても彼女に会えたときには嬉しくて楽しくて仕方なかった。
 彼女の歌った子守唄も、彼女の描いた愛らしいイラストも、冷たく凍てついた俺の心を温め、感動させた。いつしか俺は経済的優位だの権力だのを捨てて、彼女に認められたい一心で対決にのぞむようになった。
 彼女がまだ若いことはうすうす感じていたから、料理を作るという課題では若い女性が好きそうなイタリアンか洋食にするつもりだろうと踏んで、自分は強火で一気に炒める中国料理にした。けれど彼女が作ったのは、ありきたりの家庭料理だった。
 白ご飯に豆腐とわかめの味噌汁。鶏の唐揚げ。ほうれん草の胡麻和え。かぼちゃの煮物。一口食べた瞬間、またしても圧倒的な何かに打ちのめされて俺は息を止めた。
(唐揚げ、美味しいねぇ)
 口の中に広がる幸せの味。食卓に満ちる笑い声。温かくて優しい記憶が、心の奥底からマグマのように噴き上がった。体が震えた。勝敗なんかどうでもよかった。早く現実世界に帰還したかった。

 ようやく現実世界に帰還しても、体の震えはとまらなかった。
 彼女が怖かった。なのに会いたかった。仮想空間でじゃない。現実世界で出会って、話をして、そして……。
 愕然とした。会って話をするだけじゃ足りなかった。俺に微笑みかけてほしかった。名前を呼んでもらいたかった。手をつなぎたかった。キスをしたかった。それから……抱き合いたかった。

 自分はマザコンだったんだろうか。でも彼女はどう考えても年下だ。俺は自分の気持が知りたくて、実父や継母に気付かれないように実母の写真を手に入れた。けれど、母の写真を見ても何も感じなかった。
 休日、俺は早朝に起きて車に乗り、十年以上ぶりに母親の墓参りに行った。まともな感情の持ち合わせなどない俺は、墓石を前にしても、やはり何も感じなかった。買ってきた花を手向けて、手を合わせて冥福を祈るふりをした。本当は死後の世界も生まれ変わりも信じていないのに。
 墓参のあとは市街地の駐車場に車をとめて、久しぶりに街の雑踏の中を歩いた。
 今の自分の状態が、一般的にはなんと呼ばれるものかはわかっていたけれど、認めたくなかった。
 恋に落ちたなんて!
 今まで誰にも恋をしたことなんかなかった。しかも容姿も、名前も、年齢も知らない、実際には会ったこともない相手だ。そんな相手に恋をするなんて、ありえなかった。そうだ、こんなのは気の迷いだ。召喚に応じるのはもうやめよう。そうすれば会うこともないし、会わなければ忘れてしまえる。
 ……駄目だった。いくら理性が言い聞かせようとしても、俺の本能と感情が彼女に会いたいと叫んでいた。
 俺は何かに引っ張られるように顔を上げ、そうして彼女を見つけた。

 交差点の向こうで、彼女も俺を見ていた。
『チャンスの女神には前髪しかない』
 今を逃せば二度と会えない。俺は信号が変わった途端、我慢できずに大股に歩み寄った。彼女は逃げなかった。俺は彼女の前に立ち、その顔を見下ろした。
 ヒロインとして何度も俺と勝敗を競った相手は、まだ少女だった。10歳ぐらいは年下だろうと思っていたけれど、それ以上の若さにぞっとした。
(まさか未成年じゃないだろうな)
 やめておけ、手を出すな、あとあと大変なことになる。そんな理性の囁きを無視して俺は手を差し出した。彼女はハッと息をのんで俺を見上げた。その顔には驚きはあったが恐怖はなかった。彼女は俺が差し出した手を、しっかりと握った。
「二人きりになれる場所に行かないか? 嫌だと言われても逃さないが」
 俺の言葉に、彼女は無言で頷いた。

 ラブホテルに連れ込んでも、彼女は抵抗しなかった。
 けれど立ちすくんでいる様子から、大きくて豪華なベッドや部屋から丸見えのガラス張りのバスルームに気圧されていることはよくわかった。俺はあえて離れた場所から声をかけた。
「ソファに座りなさい。何を飲む? コーヒーか紅茶でも淹れようか。それともソフトドリンクがいいか?」
「えっと、コーヒーをお願いします」
 俺はコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを淹れ、砂糖やミルクとともにソファの前のローテーブルに置いた。砂糖とミルクを多めに入れて、ゆっくりと熱いコーヒーを口にする彼女は可愛かった。お互いにゆっくりとコーヒーを啜ってから、俺は穏やかに自己紹介した。
「はじめまして。とはいっても、仮想空間で何回も会っているから初めてという気がしないな。俺の名前は天堂龍一郎、34歳、今年の誕生日で35歳になる」
「はじめまして、天堂さん。私は春野みどりです。少し前に18歳になりました。高校3年生です」
 高校生! 俺と対等に勝負していた彼女がまだ高校生ということに衝撃を隠せなかった。せめて大学生だと思っていた。
「16歳も年下とは思わなかった。……正直に言おう、俺はそういうつもりで君をここに連れ込んだ。若い女性に飢えてるわけじゃないんだ、君が年上でも構わなかった」
「うん、それはわかる。あなた、若い女性に目の色を変えるおじさんには見えないよ。むしろあなたのほうが女の人に追いかけられてそう」
「そう言ってもらえるのは光栄の至りだね」
 俺は頷いた。実際のところ、有名企業のオーナー社長である俺に擦り寄ってくる若い女性には、事欠かなかった。彼女はじっと俺を見つめて尋ねた。
「あなた、奥さんや決まった恋人はいるの?」
「いない」
 即座に断言した。左手も差し出して、指輪がないことを確認させた。
「俺の本質はヴィランだ、恋愛や結婚向きじゃない。俺はヒロインである君と、セックスしてみたくてここに連れてきた。君にそんなつもりがないならそう言ってほしい」
 彼女はしばらく黙り込み、やがて微笑んだ。
「私もそのつもりであなたについてきたよ」
 一瞬、言葉が出なくなった。光と善の代表である彼女は、こんな刹那的な関係には嫌悪感があるはずなのに。俺は探るように尋ねた。
「本当に怖くないのか。君は男と寝るのは初めてだろう」
 彼女のことはろくに知らないけれど、これまでの様子を見ていれば処女なのは明らかだ。彼女は困った顔をした。
「天堂さんに暴力を振るわれるとは思ってないけど、どれぐらい痛いかは気になる。歯医者さんで親知らずを抜かれたとき、『痛かったら手を上げてください』って言ってたくせに、痛くて手を上げてもやめてくれなかったの。ひどいと思わない⁉」
 親知らず! 俺は我慢できずに声を上げて笑った。まさか処女喪失の痛みを、親知らずを抜く痛みと比べられるとは思わなかった。
「もう、笑わないで。笑い事じゃないぐらい痛かったんだから!」
「すまない。……大丈夫だ、歯医者さんよりはずっと痛くないようにするよ。もし痛かったら手を上げてください」
 ふざけてそういうと、彼女も声を上げて笑った。
「わかった、天堂さんのこと信じてるから」
 信じる。ヴィランの俺を。
 まっすぐに向けられた信頼に息ができなくなった。これが良心の痛みというものなのだろうか。
 俺はコーヒーカップをソーサーに置き、彼女の手からもコーヒーカップを取り上げて、ソーサーに置いた。彼女が目を見開く。俺は彼女の隣に移動して、視線で意図を伝えてから唇を重ねた。
 彼女の唇は温かくて柔らかかった。触れ合うだけのキスを繰り返し、ゆっくりと彼女をソファに横たえる。
「鼻で息をして」
「ん……」
 彼女の唇が開いた。温かく濡れた口腔に舌を滑り込ませる。彼女のファーストキスは、甘いミルクコーヒーの味がした。

 パキン!

 何かが壊れる感覚に、俺はキスをやめた。彼女も驚きに目を見開いていた。俺はゆっくりと言った。
「どうやらこのまま続けたら、俺も君も召喚に応じられなくなりそうだ」
「私たち、現実世界で出会ったことで、もしかして中和されてる……?」
 ああ、なるほど、きっとそうだ。俺は彼女と出会って、生まれて初めて良心の疼きを知った。彼女は俺と出会って、生まれて初めて体だけの関係を持とうとしている。俺と彼女は入り混じって、純粋な悪と善ではなくなろうとしているのか。
「どうする?」
「……私は。初めての相手はあなたがいい」
 その言葉に、凶暴な感情が引きずり出された。初めてだけでは足りなかった。2回目も3回目も自分でなければ嫌だった。それでも足りない、彼女の生涯で最初で最後の男になりたかった。これは支配欲なんだろうか。それとも征服欲なんだろうか。
 自分で自分の気持ちがわからなかった。

 ピシッ、ピシッ、ピシッ!

 俺の内側から何かがひび割れる音が響く。俺は笑顔を作った。
「2回目も俺がいいと言ってもらえるよう、善処しよう。痛かったら手を上げるんだよ」
「はい。天堂さん」
 彼女がくすぐったそうに笑う。俺は胸の奥に渦巻く感情を持て余しつつ、少女に再び唇を重ねた。
< 7 / 10 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop