元ヒロインの新妻は元ヴィランの夫から逃げられない 〜あなたは征服欲と支配欲のために私と結婚しただけなの、ちゃんとわかってます。は? 愛してる⁉ 本気ですか⁉〜
第8話 ヴィランの結婚
かつて俺は『結婚は人生の墓場』という言葉を信じていた。近寄ってくる女はたくさんいたが、彼女たちの目的は俺の金だった。俺もそんなことはわかっていたし、対価に見合う快楽を与えてくれるだけでよかった。けれどみどりとその両親は違っていた。俺の資産や年収を知っても目の色を変えなかった。
彼女が金目当てで俺と結婚したわけじゃないのはわかっていたけれど、合コンに拉致された彼女を迎えに行った夜まで、まさか彼女が俺を愛してくれているとは思わなかった。
「これは?」
ソファに座って夜景を見下ろしながらマッカランを口に運んでいた俺は、彼女が持ってきたものを見て尋ねた。
「真鯛のカルパッチョだよ」
「いや、そういう意味じゃない」
献立を聞きたいわけじゃなかった。彼女がハッとした。
「もしかしてアレルギーがあった⁉ ごめん、聞いとけばよかったね」
「アレルギーはない。知ってると思っていたが、俺は酒を飲むときには何も食べないんだ」
「知ってるけど、そういうの駄目だよ。度数の高いお酒を飲むときには、なにか食べて。ほんとは水割りで飲んでほしい」
長期熟成させたマッカランを水割りにしろと言うのか。俺は唸った。値段を知らないから仕方がないが、とんでもないことを言う。俺が返事をせずにいると、彼女は俺の隣りに座り、うつむいたまま言った。
「ほんとはね、お酒を控えて一緒に朝ご飯を食べてほしい。わがまま言ってるのはわかってるんだ。けど、もっと健康的な生活をしてほしいなって」
なんとも言えない感情がふくれあがった。胸が苦しすぎて、俺はストレートのシングルモルトウイスキーをあおった。
「ヴィランの俺に、健康に気を使えというのか」
「そうだよ。いいでしょ、新しいライフスタイルの提案ってやつ」
何が新しいライフスタイルの提案だ、馬鹿げてる。俺は笑い飛ばしたかったけれど笑えなかった。
みどりは俺がどんなことをしてきたか知らない。俺の命を狙ってきたヒットマンから刃物を奪って殺し、その遺体を薬剤で溶かして処理したことなんて知らない。そんなことをしても平然としていられる俺に、健康的な生活をしろというのか。
「なんのために」
「だって。少しでも長く一緒にいたいから」
俺は隣に座る妻を見た。彼女の真っ直ぐな眼差しは、俺だけを見ていた。罪を、悪を知らない目が俺を断罪する。俺は何も言えずに、料理に手を伸ばした。新鮮な真鯛にオリーブオイルソースとスプラウト、ケイパーがかけられている。俺はゆっくりと味わった。
(美味い)
悲しくないのに鼻の奥が痛くなった。なぜか懐かしい味がする。子どものときにカルパッチョなんか食べたはずがないのに、どうしてだろう。ああそうか、ヒロインとヴィランとして対峙したときに食べた料理と同じだ。愛情と幸福の味がするからか。
「美味しい」
パアッと彼女の顔に喜びが広がった。
「お口にあってよかった!」
「もし。みどりが作ってくれるなら」
「え?」
「一緒に、朝食を食べてもいい」
その言葉は勝手に口から出ていた。しまったと思ってあわてて「大学があるだろうから無理しなくていい」と言おうとしたけれど、その前にみどりが「明日の朝から作る!」と言って抱きついてきた。柔らかく温かい体から、俺を誘う蠱惑的な香りが漂う。
「みどり」
かすれた声で囁くと、彼女は顔を赤くして「違うの、そういうつもりじゃ」と言って離れようとした。もちろん俺は離さなかった。耳元に「じゃあどういうつもりなんだ」と流し込んで、弾力のある乳房を手のひらに包み込んで優しくこねる。彼女の頬が赤くなり、体温が急上昇するのがわかった。可愛い。離したくない。
「龍一郎さん」
彼女の瞳が潤むのに俺はつけこんだ。何度も唇を重ねて、妻の体をとろかしていく。すっかり上気して腰砕けになり、立つこともできなくなった彼女を、俺は寝室に拉致した。
変化する。変質する。絶対に変わることはないと思っていた俺の本質が、変わっていく。
自分は一生変わらない、変われないと思っていたのにみどりは俺を変えていく。他人の痛みなんて今でもわからないけれど、みどりが苦しんだり、傷つくことには耐えられない。
仕事は楽しい。俺と同じ種類の、目的のためには手段を選ばない汚い悪党から、依頼人を守りきったときの達成感と満足感は最高だ。だから以前はいくらでも夜遅くまで働いていたが、今は違う。少しでも長くみどりの傍にいたくて、できるだけ早く仕事を切り上げている。こんなふうになるなんて、自分で自分が信じられない。
仕事中にスマホが鳴動した。みどりからの連絡だ。「帰りは少し遅くなる」というメッセージに眉を寄せた。いつも大学の講義のあとはまっすぐ帰宅するのに、珍しい。なんとなく嫌な予感がして、俺は仕事を切り上げて早退した。
講義の終了後、みどりのスマホに仕込んだGPSは大学構内から移動した。広くてにぎやかなカフェで動かなくなる。俺は他の集団に紛れて入店し、気づかれないようにみどりに背を向けて座った。スマホのカメラを自撮りモードにして起動し、妻の相手を確認する。みどりの前に座っているのは、4月早々の合コンでやたら俺に絡んできた女子大生だった。
「なんの用ですか」
ひんやりした声音は、みどりじゃないようだった。
「ええ〜、わかってるんでしょー、天堂さん。ねえ、いい男紹介してよ」
「男友達いないんで、紹介なんて無理です」
「男友達はいなくても、パパは何人も咥えこんできたでしょ」
吐き気がしそうな言葉にも、みどりは動じなかった。
「何を言ってるかわからない。私、龍一郎さんとしかお付き合いしたことないよ」
「笑えるー、そんな嘘で旦那さん落としたんだ。処女のふりとか、よっくやるよねー。ありえないっしょ」
聞いているだけで腹が立った。けれどみどりはあくまで冷静だった。
「講義の内容で聞きたいことがあるって言われたから来たんだよ。用件がそれだけなら帰るね」
「ええぇ、いいのぉ。私、あなたのご主人とラインしてるんだよねえ。どうしてもって言うなら、トーク見せてあげてもいいけどぉ。同じ学科のコで天堂さんと付き合いたいって物好きがいるんだ〜、そいつとデートしてくれるなら見せてあげても」
「その必要はない、岡本亜里沙さん」
我慢できなくて、俺は割って入った。俺が岡本亜里沙と呼んだ女はギョッとしていたが、すぐにふてぶてしい表情になった。
「こんにちは、天堂さん。私、岡本夏美ですけど、誰かとお間違いじゃないですか~」
「夏美は本名、パパ活やホストクラブでは亜里沙って名乗ってる。違うか?」
俺が妻の大学の友人たちとラインしているのは、情報収集のためだ。アドレス交換した相手のことは、とっくに調べ上げていた。もちろんトーク画面はみどりにも見せている。相手は顔色を青ざめさせたが、俺は手加減しなかった。
「ホストにつぎ込んで、金銭的に困ってることもわかってる。でもそれは自業自得だ、妻に付きまとわないでくれ」
「なによ、いい年して若い女に手ぇ出してるキモいおっさんには言われたくない!」
思わず怯んだ。自分でも若いみどりとは釣り合わないことは自覚していた。けれど、それに反論したのは俺じゃなかった。
「は? 誰がキモいおっさんだって? いい加減にしなよ、龍一郎さんがすっごいイケメンだから羨ましいんでしょ。でもダメ、この人は私の夫だから。絶対にあんたなんかに渡さない」
みどりとは思えない峻烈な口調に、俺は目を見開いた。相手も驚いて言葉を失っていた。みどりはさらに続けた。
「龍一郎さん。おそらく彼女、売春斡旋してる。私とデートさせようとしていた同じ学科の男子学生も共犯のはず。ねえ、そいつに女の子とデートさせて、クスリ入りのお酒を飲ませて暴行して、ハメ撮り写真をたてに風俗店に紹介するというのが手口なんでしょう?」
みるみる青ざめる彼女を見れば、真実だとわかった。乱暴にバッグを掴むと会計もせずに足早に逃げていく。
「龍一郎さん。警察に顔が利くって言ってたよね。連絡取ってもらってもいい?」
「ああ、だが彼女を見逃していいのか。このまま帰すと証拠隠滅されるぞ」
「……無理だよ」
その声音に、俺ははっとした。彼女は薄く笑っていた。
「だって彼女、ヒロインだった私を本気で怒らせたんだもん。あとは自滅していくだけ。ほら、慌ててバッグを引っ掴んで行ったから、スマホが席に落ちてる。警察に届けなきゃ」
みどりが俺を見上げて微笑む。ゾクリとした。俺は17歳も年下の妻に圧倒された。
自宅に帰宅できたのは、思ったよりさらに遅い時間だった。
警察がスマホの持ち主を特定するために開いた画面から、証拠はざくざく出てきた。どうしてスマホにロックが掛かっていなかったのかはわからない。……いや、ほんとはわかる。ヒーロー、ヒロイン、ヴィラン、ヴィラネスの特殊能力は現実世界では振るえないが、『偶然』というかたちでなら発揮できる。
懇意にしている刑事にあとを任せて警察署を出たあと、俺たちは何も言わなかった。家に着いて明かりをつけたとき、みどりはぽつりと言った。
「私のこと嫌いになった?」
その声に込められた不安に、俺はみどりを見つめた。彼女は今にも泣きそうな、笑い出しそうな顔をしていた。
「あなたが好きになったのは、無邪気で可愛いばっかりの私なんでしょう? でもね、あなたと結婚して私はどんどん変わってしまったの」
今にも泣き出しそうに顔をゆがめる。
「物語と現実を混同するような、ちょっとバカで憎めない私のままでいたかったのに、ダメなんだ。私からあなたを奪おうとしたり、あなたを傷つけたり、あなたを侮辱する人は許せない。おかしいよね、こんなの。ヒロインの考え方じゃない」
そうだ、ヒロインの振る舞いじゃない。まるでヴィラネスみたいじゃないか。そこまで考えて、俺は自分自身の変化に思い至ってハッとした。そうか。変わっていったのは俺だけじゃなかったのか。
「みどりはヒロインとしての特殊能力を無くしたんじゃなかったのか」
「ふふ。ヒーローやヒロインが一番力を発揮するのはどんなときか覚えてる? 愛するものを守るときだよ」
愛するもの。俺は目を閉じてその甘い蜜のような言葉を味わった。17歳も年上の汚いヴィランの俺を守るために、同級生と戦ってくれたみどりが、世界の何よりも尊い存在に思えた。
「離婚、したくなった?」
目を開いた。俺を圧倒した彼女が、怯えた表情を向けている。胸の奥からあふれる熱い感情が抑えきれなくて、俺はみどりを抱きしめた。
「馬鹿なことを。言っただろう、君と結婚できて幸せになれたのは、圧倒的に俺のほうだと。君がどんなに変わっても構わない、俺も一緒に変わっていくから」
か細い体が震えた。声を殺して泣く彼女が愛おしすぎてたまらなかった。俺は彼女が落ち着くまで髪を撫で続けた。
彼女が金目当てで俺と結婚したわけじゃないのはわかっていたけれど、合コンに拉致された彼女を迎えに行った夜まで、まさか彼女が俺を愛してくれているとは思わなかった。
「これは?」
ソファに座って夜景を見下ろしながらマッカランを口に運んでいた俺は、彼女が持ってきたものを見て尋ねた。
「真鯛のカルパッチョだよ」
「いや、そういう意味じゃない」
献立を聞きたいわけじゃなかった。彼女がハッとした。
「もしかしてアレルギーがあった⁉ ごめん、聞いとけばよかったね」
「アレルギーはない。知ってると思っていたが、俺は酒を飲むときには何も食べないんだ」
「知ってるけど、そういうの駄目だよ。度数の高いお酒を飲むときには、なにか食べて。ほんとは水割りで飲んでほしい」
長期熟成させたマッカランを水割りにしろと言うのか。俺は唸った。値段を知らないから仕方がないが、とんでもないことを言う。俺が返事をせずにいると、彼女は俺の隣りに座り、うつむいたまま言った。
「ほんとはね、お酒を控えて一緒に朝ご飯を食べてほしい。わがまま言ってるのはわかってるんだ。けど、もっと健康的な生活をしてほしいなって」
なんとも言えない感情がふくれあがった。胸が苦しすぎて、俺はストレートのシングルモルトウイスキーをあおった。
「ヴィランの俺に、健康に気を使えというのか」
「そうだよ。いいでしょ、新しいライフスタイルの提案ってやつ」
何が新しいライフスタイルの提案だ、馬鹿げてる。俺は笑い飛ばしたかったけれど笑えなかった。
みどりは俺がどんなことをしてきたか知らない。俺の命を狙ってきたヒットマンから刃物を奪って殺し、その遺体を薬剤で溶かして処理したことなんて知らない。そんなことをしても平然としていられる俺に、健康的な生活をしろというのか。
「なんのために」
「だって。少しでも長く一緒にいたいから」
俺は隣に座る妻を見た。彼女の真っ直ぐな眼差しは、俺だけを見ていた。罪を、悪を知らない目が俺を断罪する。俺は何も言えずに、料理に手を伸ばした。新鮮な真鯛にオリーブオイルソースとスプラウト、ケイパーがかけられている。俺はゆっくりと味わった。
(美味い)
悲しくないのに鼻の奥が痛くなった。なぜか懐かしい味がする。子どものときにカルパッチョなんか食べたはずがないのに、どうしてだろう。ああそうか、ヒロインとヴィランとして対峙したときに食べた料理と同じだ。愛情と幸福の味がするからか。
「美味しい」
パアッと彼女の顔に喜びが広がった。
「お口にあってよかった!」
「もし。みどりが作ってくれるなら」
「え?」
「一緒に、朝食を食べてもいい」
その言葉は勝手に口から出ていた。しまったと思ってあわてて「大学があるだろうから無理しなくていい」と言おうとしたけれど、その前にみどりが「明日の朝から作る!」と言って抱きついてきた。柔らかく温かい体から、俺を誘う蠱惑的な香りが漂う。
「みどり」
かすれた声で囁くと、彼女は顔を赤くして「違うの、そういうつもりじゃ」と言って離れようとした。もちろん俺は離さなかった。耳元に「じゃあどういうつもりなんだ」と流し込んで、弾力のある乳房を手のひらに包み込んで優しくこねる。彼女の頬が赤くなり、体温が急上昇するのがわかった。可愛い。離したくない。
「龍一郎さん」
彼女の瞳が潤むのに俺はつけこんだ。何度も唇を重ねて、妻の体をとろかしていく。すっかり上気して腰砕けになり、立つこともできなくなった彼女を、俺は寝室に拉致した。
変化する。変質する。絶対に変わることはないと思っていた俺の本質が、変わっていく。
自分は一生変わらない、変われないと思っていたのにみどりは俺を変えていく。他人の痛みなんて今でもわからないけれど、みどりが苦しんだり、傷つくことには耐えられない。
仕事は楽しい。俺と同じ種類の、目的のためには手段を選ばない汚い悪党から、依頼人を守りきったときの達成感と満足感は最高だ。だから以前はいくらでも夜遅くまで働いていたが、今は違う。少しでも長くみどりの傍にいたくて、できるだけ早く仕事を切り上げている。こんなふうになるなんて、自分で自分が信じられない。
仕事中にスマホが鳴動した。みどりからの連絡だ。「帰りは少し遅くなる」というメッセージに眉を寄せた。いつも大学の講義のあとはまっすぐ帰宅するのに、珍しい。なんとなく嫌な予感がして、俺は仕事を切り上げて早退した。
講義の終了後、みどりのスマホに仕込んだGPSは大学構内から移動した。広くてにぎやかなカフェで動かなくなる。俺は他の集団に紛れて入店し、気づかれないようにみどりに背を向けて座った。スマホのカメラを自撮りモードにして起動し、妻の相手を確認する。みどりの前に座っているのは、4月早々の合コンでやたら俺に絡んできた女子大生だった。
「なんの用ですか」
ひんやりした声音は、みどりじゃないようだった。
「ええ〜、わかってるんでしょー、天堂さん。ねえ、いい男紹介してよ」
「男友達いないんで、紹介なんて無理です」
「男友達はいなくても、パパは何人も咥えこんできたでしょ」
吐き気がしそうな言葉にも、みどりは動じなかった。
「何を言ってるかわからない。私、龍一郎さんとしかお付き合いしたことないよ」
「笑えるー、そんな嘘で旦那さん落としたんだ。処女のふりとか、よっくやるよねー。ありえないっしょ」
聞いているだけで腹が立った。けれどみどりはあくまで冷静だった。
「講義の内容で聞きたいことがあるって言われたから来たんだよ。用件がそれだけなら帰るね」
「ええぇ、いいのぉ。私、あなたのご主人とラインしてるんだよねえ。どうしてもって言うなら、トーク見せてあげてもいいけどぉ。同じ学科のコで天堂さんと付き合いたいって物好きがいるんだ〜、そいつとデートしてくれるなら見せてあげても」
「その必要はない、岡本亜里沙さん」
我慢できなくて、俺は割って入った。俺が岡本亜里沙と呼んだ女はギョッとしていたが、すぐにふてぶてしい表情になった。
「こんにちは、天堂さん。私、岡本夏美ですけど、誰かとお間違いじゃないですか~」
「夏美は本名、パパ活やホストクラブでは亜里沙って名乗ってる。違うか?」
俺が妻の大学の友人たちとラインしているのは、情報収集のためだ。アドレス交換した相手のことは、とっくに調べ上げていた。もちろんトーク画面はみどりにも見せている。相手は顔色を青ざめさせたが、俺は手加減しなかった。
「ホストにつぎ込んで、金銭的に困ってることもわかってる。でもそれは自業自得だ、妻に付きまとわないでくれ」
「なによ、いい年して若い女に手ぇ出してるキモいおっさんには言われたくない!」
思わず怯んだ。自分でも若いみどりとは釣り合わないことは自覚していた。けれど、それに反論したのは俺じゃなかった。
「は? 誰がキモいおっさんだって? いい加減にしなよ、龍一郎さんがすっごいイケメンだから羨ましいんでしょ。でもダメ、この人は私の夫だから。絶対にあんたなんかに渡さない」
みどりとは思えない峻烈な口調に、俺は目を見開いた。相手も驚いて言葉を失っていた。みどりはさらに続けた。
「龍一郎さん。おそらく彼女、売春斡旋してる。私とデートさせようとしていた同じ学科の男子学生も共犯のはず。ねえ、そいつに女の子とデートさせて、クスリ入りのお酒を飲ませて暴行して、ハメ撮り写真をたてに風俗店に紹介するというのが手口なんでしょう?」
みるみる青ざめる彼女を見れば、真実だとわかった。乱暴にバッグを掴むと会計もせずに足早に逃げていく。
「龍一郎さん。警察に顔が利くって言ってたよね。連絡取ってもらってもいい?」
「ああ、だが彼女を見逃していいのか。このまま帰すと証拠隠滅されるぞ」
「……無理だよ」
その声音に、俺ははっとした。彼女は薄く笑っていた。
「だって彼女、ヒロインだった私を本気で怒らせたんだもん。あとは自滅していくだけ。ほら、慌ててバッグを引っ掴んで行ったから、スマホが席に落ちてる。警察に届けなきゃ」
みどりが俺を見上げて微笑む。ゾクリとした。俺は17歳も年下の妻に圧倒された。
自宅に帰宅できたのは、思ったよりさらに遅い時間だった。
警察がスマホの持ち主を特定するために開いた画面から、証拠はざくざく出てきた。どうしてスマホにロックが掛かっていなかったのかはわからない。……いや、ほんとはわかる。ヒーロー、ヒロイン、ヴィラン、ヴィラネスの特殊能力は現実世界では振るえないが、『偶然』というかたちでなら発揮できる。
懇意にしている刑事にあとを任せて警察署を出たあと、俺たちは何も言わなかった。家に着いて明かりをつけたとき、みどりはぽつりと言った。
「私のこと嫌いになった?」
その声に込められた不安に、俺はみどりを見つめた。彼女は今にも泣きそうな、笑い出しそうな顔をしていた。
「あなたが好きになったのは、無邪気で可愛いばっかりの私なんでしょう? でもね、あなたと結婚して私はどんどん変わってしまったの」
今にも泣き出しそうに顔をゆがめる。
「物語と現実を混同するような、ちょっとバカで憎めない私のままでいたかったのに、ダメなんだ。私からあなたを奪おうとしたり、あなたを傷つけたり、あなたを侮辱する人は許せない。おかしいよね、こんなの。ヒロインの考え方じゃない」
そうだ、ヒロインの振る舞いじゃない。まるでヴィラネスみたいじゃないか。そこまで考えて、俺は自分自身の変化に思い至ってハッとした。そうか。変わっていったのは俺だけじゃなかったのか。
「みどりはヒロインとしての特殊能力を無くしたんじゃなかったのか」
「ふふ。ヒーローやヒロインが一番力を発揮するのはどんなときか覚えてる? 愛するものを守るときだよ」
愛するもの。俺は目を閉じてその甘い蜜のような言葉を味わった。17歳も年上の汚いヴィランの俺を守るために、同級生と戦ってくれたみどりが、世界の何よりも尊い存在に思えた。
「離婚、したくなった?」
目を開いた。俺を圧倒した彼女が、怯えた表情を向けている。胸の奥からあふれる熱い感情が抑えきれなくて、俺はみどりを抱きしめた。
「馬鹿なことを。言っただろう、君と結婚できて幸せになれたのは、圧倒的に俺のほうだと。君がどんなに変わっても構わない、俺も一緒に変わっていくから」
か細い体が震えた。声を殺して泣く彼女が愛おしすぎてたまらなかった。俺は彼女が落ち着くまで髪を撫で続けた。