角砂糖が溶けるように
プロローグ
ももさくら
『雛人形をいつまでも飾っていると嫁に行けない』とよく言われているので、毎年三月十日頃には片付けている。もちろん、それは単なる迷信だとわかっているけれど、川瀬家ではそれを少なくともあと五年は信じることになっている。
「ほんとにお嫁に行けなかったらどうするの?」
と、母・光恵は言うけれど、一人っ子の麻奈美はまだ中学三年生だ。進学する高校も決まり、今日は卒業式を控えた中学生活最後の日曜日。二月下旬に出した雛人形が、母によって壇から箱に片付けられていく。光恵がこの家に嫁いだときにはあったというから、五十年は前のものだろう。
「心配しなくていいよー。まだ二十歳にもなってないんだよ」
「おばあちゃんとおじいちゃんは十八で結婚したの。私も二十三だったわ。麻奈美も来月から高校生なんだから、考えなさいね」
「まだ早すぎるよー。昔と今は違うよ」
「じゃ、売れ残ったクリスマスケーキにならないようにね」
「だーかーらー! 今頃からそんな話されてもわかんないよ。おじいちゃんとこ行ってくるね!」
「あっこらっ、麻奈美!」
雛人形を片付けている母をおいて、麻奈美は家を飛び出した。
桜はまだ満開ではないけれど、見た目はまあまあ綺麗。家のすぐ近くの公園には、ひと足早い花見をしている親子連れがいる。
(やっぱ春っていいな。ウキウキしてくる)
麻奈美はあと数日で中学を卒業し、四月からは高校生になる。
単に制服が可愛いから、という理由で学校を選んでしまって、レベルを知って愕然とした。家から通える区域の中ではトップクラスの、超難関校だった。
模擬試験では何度もE判定が出た。過去問に挑戦してみても、半分しか解けなかった。けれど、どうしてもそこに行きたいという気持ちが抑えきれず、猛勉強した。その結果、補欠ではあったけれど、合格することができた。あとは友達をつくって、留年しないように頑張るのみ。クラブ活動をする予定は、ない。麻奈美にはこれからやりたいことがあったし、特に気になるクラブもなかった。それに、土曜日の夕方に家庭教師に来てもらうことも決まっている。まずは勉強をちゃんとしないと、大変だ。
桜の公園を通り抜け、細い路地に入ってすぐのところにそれはあった。
「おじーちゃーん」
カランカラン……、と鳴るドアの鐘の音とともに、麻奈美は喫茶店『大夢 TIMES』に到着した。家具は落ち着いた栗色に統一されていて、BGMはジャズだったりクラシックだったり。ドアを入ってすぐ正面にカウンター席があり、奥に四人掛けのテーブルが三つ並んだ、小さな喫茶店だ。
大夢のカウンター席にはよく祖父の知り合いが数人いて、楽しそうに世間話や昔話をしている。麻奈美の祖父は、大夢のマスターだ。けれど、店内に姿はない。どこかに行っているのだろうか。
「やあ、麻奈美ちゃん。卒業式は済んだのかい?」
祖父の幼馴染の高木三郎は、コーヒーカップを置きながら麻奈美に聞いた。
「まだだよ。金曜日が予行で、土曜日が本番」
「あらあんた、昨日も平ちゃんに同じこと聞いてなかったかい?」
三郎の隣に座る原山チヨは三郎より年上で、川瀬家の隣に住んでいる。ちなみに平ちゃんというのは麻奈美の祖父で、平太郎という名前だ。
「そうだったか? 最近物忘れがひどくてなぁ」
三郎は頭をかきながら首を傾げ、何かブツブツと呟いてから「それじゃ、またな」と言って店を出て行った。彼は既に会社を定年退職し、今は農業をしているらしい。
「昔はもっとキリッとした人だったのにねぇ」
「人は誰でも歳とって壊れやすくなるんですよ。私だって最近、体のあちこちガタが来てね」
いつの間にかカウンターに立っていた平太郎は、チヨにそう言いながら麻奈美の前にオレンジジュースを出した。
「あーっ、私、今日はブラックにしようと思ってたのに!」
「ブラック? 麻奈美ちゃんにはまだ早いんじゃないか?」
「そうだ。カフェイン取りすぎは体に良くない。出せてもカフェオレだ」
「コーヒー売ってる人がそんなこと言うの?」
平太郎は昔からコーヒーが好きだった。仕事を定年退職する前から準備を始め、ようやく自分の店を構えるようになったのが二年前。自分の趣味で始めただけ、儲けようというのではなく、訪れる人々に美味しいと言ってもらえるようなコーヒーを出したい。何より味にこだわって、自家焙煎をしている。
「まぁ……麻奈美が頑張れば、出してやってもいいぞ」
「私はどうかと思うけどねぇ……。平ちゃん、ごちそうさま、また来るよ」
チヨは、よいしょ、と椅子から立ち上がり、読んでいた新聞をラックに戻してから店を出た。
「本当はオレンジジュースのほうが好きなんだけどね」
麻奈美は笑いながら、出されたオレンジジュースをストローで吸い上げる。コーヒーよりもジュースのほうが好きなうちは、まだまだ子供なのだろうか。四月からこの喫茶店を手伝うことになっているが、やっていけるのだろうか。
「くれぐれも、接客中に難しい顔はするなよ」
「うん……」
新しい生活の始まりに期待しながらも不安を抱え、麻奈美はため息をついた。平太郎の淹れるコーヒーの香りが、店内いっぱいに広がっていた。
「ほんとにお嫁に行けなかったらどうするの?」
と、母・光恵は言うけれど、一人っ子の麻奈美はまだ中学三年生だ。進学する高校も決まり、今日は卒業式を控えた中学生活最後の日曜日。二月下旬に出した雛人形が、母によって壇から箱に片付けられていく。光恵がこの家に嫁いだときにはあったというから、五十年は前のものだろう。
「心配しなくていいよー。まだ二十歳にもなってないんだよ」
「おばあちゃんとおじいちゃんは十八で結婚したの。私も二十三だったわ。麻奈美も来月から高校生なんだから、考えなさいね」
「まだ早すぎるよー。昔と今は違うよ」
「じゃ、売れ残ったクリスマスケーキにならないようにね」
「だーかーらー! 今頃からそんな話されてもわかんないよ。おじいちゃんとこ行ってくるね!」
「あっこらっ、麻奈美!」
雛人形を片付けている母をおいて、麻奈美は家を飛び出した。
桜はまだ満開ではないけれど、見た目はまあまあ綺麗。家のすぐ近くの公園には、ひと足早い花見をしている親子連れがいる。
(やっぱ春っていいな。ウキウキしてくる)
麻奈美はあと数日で中学を卒業し、四月からは高校生になる。
単に制服が可愛いから、という理由で学校を選んでしまって、レベルを知って愕然とした。家から通える区域の中ではトップクラスの、超難関校だった。
模擬試験では何度もE判定が出た。過去問に挑戦してみても、半分しか解けなかった。けれど、どうしてもそこに行きたいという気持ちが抑えきれず、猛勉強した。その結果、補欠ではあったけれど、合格することができた。あとは友達をつくって、留年しないように頑張るのみ。クラブ活動をする予定は、ない。麻奈美にはこれからやりたいことがあったし、特に気になるクラブもなかった。それに、土曜日の夕方に家庭教師に来てもらうことも決まっている。まずは勉強をちゃんとしないと、大変だ。
桜の公園を通り抜け、細い路地に入ってすぐのところにそれはあった。
「おじーちゃーん」
カランカラン……、と鳴るドアの鐘の音とともに、麻奈美は喫茶店『大夢 TIMES』に到着した。家具は落ち着いた栗色に統一されていて、BGMはジャズだったりクラシックだったり。ドアを入ってすぐ正面にカウンター席があり、奥に四人掛けのテーブルが三つ並んだ、小さな喫茶店だ。
大夢のカウンター席にはよく祖父の知り合いが数人いて、楽しそうに世間話や昔話をしている。麻奈美の祖父は、大夢のマスターだ。けれど、店内に姿はない。どこかに行っているのだろうか。
「やあ、麻奈美ちゃん。卒業式は済んだのかい?」
祖父の幼馴染の高木三郎は、コーヒーカップを置きながら麻奈美に聞いた。
「まだだよ。金曜日が予行で、土曜日が本番」
「あらあんた、昨日も平ちゃんに同じこと聞いてなかったかい?」
三郎の隣に座る原山チヨは三郎より年上で、川瀬家の隣に住んでいる。ちなみに平ちゃんというのは麻奈美の祖父で、平太郎という名前だ。
「そうだったか? 最近物忘れがひどくてなぁ」
三郎は頭をかきながら首を傾げ、何かブツブツと呟いてから「それじゃ、またな」と言って店を出て行った。彼は既に会社を定年退職し、今は農業をしているらしい。
「昔はもっとキリッとした人だったのにねぇ」
「人は誰でも歳とって壊れやすくなるんですよ。私だって最近、体のあちこちガタが来てね」
いつの間にかカウンターに立っていた平太郎は、チヨにそう言いながら麻奈美の前にオレンジジュースを出した。
「あーっ、私、今日はブラックにしようと思ってたのに!」
「ブラック? 麻奈美ちゃんにはまだ早いんじゃないか?」
「そうだ。カフェイン取りすぎは体に良くない。出せてもカフェオレだ」
「コーヒー売ってる人がそんなこと言うの?」
平太郎は昔からコーヒーが好きだった。仕事を定年退職する前から準備を始め、ようやく自分の店を構えるようになったのが二年前。自分の趣味で始めただけ、儲けようというのではなく、訪れる人々に美味しいと言ってもらえるようなコーヒーを出したい。何より味にこだわって、自家焙煎をしている。
「まぁ……麻奈美が頑張れば、出してやってもいいぞ」
「私はどうかと思うけどねぇ……。平ちゃん、ごちそうさま、また来るよ」
チヨは、よいしょ、と椅子から立ち上がり、読んでいた新聞をラックに戻してから店を出た。
「本当はオレンジジュースのほうが好きなんだけどね」
麻奈美は笑いながら、出されたオレンジジュースをストローで吸い上げる。コーヒーよりもジュースのほうが好きなうちは、まだまだ子供なのだろうか。四月からこの喫茶店を手伝うことになっているが、やっていけるのだろうか。
「くれぐれも、接客中に難しい顔はするなよ」
「うん……」
新しい生活の始まりに期待しながらも不安を抱え、麻奈美はため息をついた。平太郎の淹れるコーヒーの香りが、店内いっぱいに広がっていた。