角砂糖が溶けるように
2-5 大人の珈琲論
それからしばらく、麻奈美は芝原には近付かずに他の客の対応をしていた。昼の間は外を歩く気がしないせいか、店内で涼んでいる客が多い。注文されるメニューも、ホットコーヒーよりアイスコーヒー、ケーキよりかき氷。調理はほとんど平太郎がしているので、麻奈美は片付けやレジをしている。
正午を少しまわった頃、
カランカラン……コロン……
「こんにちは」
「いらっしゃ──チヨさん! 高木さん!」
久しぶりに、チヨと三郎が来店した。今までは病院のないときはほとんど毎日いたのだが、最近は暑さのせいで外に出れないと聞いていた。
大夢が休暇を終えたと聞いて、良い機会なので来てくれたらしい。
麻奈美が大夢で働くことを星城学園は認めていた。事前に平太郎が話をしていて、麻奈美は『アルバイト』ではなく『手伝い』をしているだけなのだ。
「家の手伝いでお金なんかもらえないよ」
と麻奈美は言うが、友人たちにこの話をするともちろん驚いていた。
「本当に助かってるよ。そんなに余裕がないからね」
チヨと三郎に飲み物を運びながら、平太郎が言った。チヨにはアイスコーヒー、三郎にはミックスジュースだ。
「試験前にも来ようとするから心配だよ」
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。今回も良かったし」
少し照れながら、麻奈美は客が帰った席の片づけをしていた。お盆にグラスを乗せてからテーブルを拭く。ガラス容器に入った角砂糖が減っていたので、カウンターに持っていって補充した。
「麻奈美ちゃんは恋人はいるのかい?」
突然聞いたのは、三郎だった。
「えっ、それは……」
「麻奈美ちゃんに恋人がいたら、平ちゃんが黙ってないよ」
三郎の横で、チヨが笑った。
「ねぇ平ちゃん、そうだよねぇ」
「まぁ、そうだな」
食器を洗っている平太郎の顔は、なんとなく引きつっているように見えた。スポンジを握っている右手に妙に力が入っている。
「わしがもう五十年遅く生まれてたらなぁ」
「あんたには無理だよ。麻奈美ちゃんには、そうだねぇ……」
どんな男が麻奈美に合うのか、という話をチヨと三郎は始めてしまった。
元気な人、真面目な人、学歴の高い人、超お金持ち。
ああでもないこうでもないと、麻奈美や平太郎の意見は一切きかずにチヨと三郎は勝手に話を進めている。どこまで話が進むのかと心配していたとき、ようやくチヨが麻奈美の理想を聞いてくれた。けれど、麻奈美は「まだわかりません」としか答えなかった。
麻奈美の理想に近い人が、視界の隅にいるからだ。
一時は大夢の雰囲気とは合わないと思った人。近付きがたい雰囲気を持っていた人。なぜか、麻奈美のことを知っていた人。平太郎の教え子だった人。
家庭教師の浅岡が試験前に大夢に来ていなかったら、麻奈美と芝原の関係は今も変わっていなかったかもしれない。成績が上がったのはもちろんだが、芝原のこともあって、浅岡と出会ったことに麻奈美は感謝していた。
(そういえば、先生は『一年以内に分かる』って言ってたけど……)
まだ麻奈美がつかんでいない、芝原の過去。
人の過去はあまり気にしたことがないが、芝原に自分が関わっている様子なのでどうしても頭から離れない。
(おじいちゃん、私の何を話したんだろう)
チヨと三郎の話に耳を傾けながら、他の客の対応をしながら、麻奈美の頭は芝原と平太郎の関係でいっぱいだった。
(ただの生徒と担任じゃ、なかったのかな)
「麻奈美ちゃん」
「は、はい」
不意に芝原に呼ばれた。
「コーヒーお代りもらえるかな」
「はーい」
芝原からコーヒーカップを受け取って、麻奈美はカウンターへ戻った。
そして平太郎に近付いてから、気になったことを聞いてみた。浅岡が「芝原が自分のことを一年以内に教えてくれる、もしくは麻奈美が気づく」と言っていたこと。
けれど平太郎は、やはり何も答えてくれなかった。
(そんなに隠して、なんか、変だよ……)
「麻奈美、難しい顔はするなと言ったはずだよ」
「だってー何も教えてくれないんだもん」
ぷぅ、と麻奈美は頬を膨らませた。
「先生の言うことを信じてたら間違いはないよ。ほら、冷める前に運んで」
今はほとんどの客が冷たい飲み物を頼んでいるが、芝原はいつもホットコーヒーだった。勉強をしに来る日はたいていお代りしている。普段の勉強では砂糖とミルクを両方入れるが、試験前などになるといつもブラックだ。
「ブラックって、苦くないですか」
芝原が少し息抜きをしているとき、麻奈美は尋ねた。
もともとあまりコーヒーが好きではないので、ブラックは飲んだことがない。中学を卒業する前に飲もうとしたことがあるが、平太郎に止められた。
「多少は苦いけど……マスターの淹れるのは飲みやすいよ」
「そうそう、変な後味もしないんだよ」
カウンター席から、三郎が話に加わった。
「私は缶コーヒーの、あの妙なアルミの味が嫌でねぇ、コーヒー自体も嫌いになったことがあるんだ。でも、平ちゃんの淹れるのを飲んで、また好きになったんだよ」
「他の店とは何かが違うんですよね」
「そうそう」
いつの間にか、チヨも一緒になって、大人はコーヒーの話を始めていた。麻奈美にはよくわからない世界の話なので、客の帰ったテーブルを片づけた。平太郎はただ話を聞いているだけで参加はしていないが、顔だけは嬉しそうだ。
コーヒーってそんなに美味しいのかな、と思いながら、麻奈美は大人のコーヒー論に耳を傾けていた。
正午を少しまわった頃、
カランカラン……コロン……
「こんにちは」
「いらっしゃ──チヨさん! 高木さん!」
久しぶりに、チヨと三郎が来店した。今までは病院のないときはほとんど毎日いたのだが、最近は暑さのせいで外に出れないと聞いていた。
大夢が休暇を終えたと聞いて、良い機会なので来てくれたらしい。
麻奈美が大夢で働くことを星城学園は認めていた。事前に平太郎が話をしていて、麻奈美は『アルバイト』ではなく『手伝い』をしているだけなのだ。
「家の手伝いでお金なんかもらえないよ」
と麻奈美は言うが、友人たちにこの話をするともちろん驚いていた。
「本当に助かってるよ。そんなに余裕がないからね」
チヨと三郎に飲み物を運びながら、平太郎が言った。チヨにはアイスコーヒー、三郎にはミックスジュースだ。
「試験前にも来ようとするから心配だよ」
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。今回も良かったし」
少し照れながら、麻奈美は客が帰った席の片づけをしていた。お盆にグラスを乗せてからテーブルを拭く。ガラス容器に入った角砂糖が減っていたので、カウンターに持っていって補充した。
「麻奈美ちゃんは恋人はいるのかい?」
突然聞いたのは、三郎だった。
「えっ、それは……」
「麻奈美ちゃんに恋人がいたら、平ちゃんが黙ってないよ」
三郎の横で、チヨが笑った。
「ねぇ平ちゃん、そうだよねぇ」
「まぁ、そうだな」
食器を洗っている平太郎の顔は、なんとなく引きつっているように見えた。スポンジを握っている右手に妙に力が入っている。
「わしがもう五十年遅く生まれてたらなぁ」
「あんたには無理だよ。麻奈美ちゃんには、そうだねぇ……」
どんな男が麻奈美に合うのか、という話をチヨと三郎は始めてしまった。
元気な人、真面目な人、学歴の高い人、超お金持ち。
ああでもないこうでもないと、麻奈美や平太郎の意見は一切きかずにチヨと三郎は勝手に話を進めている。どこまで話が進むのかと心配していたとき、ようやくチヨが麻奈美の理想を聞いてくれた。けれど、麻奈美は「まだわかりません」としか答えなかった。
麻奈美の理想に近い人が、視界の隅にいるからだ。
一時は大夢の雰囲気とは合わないと思った人。近付きがたい雰囲気を持っていた人。なぜか、麻奈美のことを知っていた人。平太郎の教え子だった人。
家庭教師の浅岡が試験前に大夢に来ていなかったら、麻奈美と芝原の関係は今も変わっていなかったかもしれない。成績が上がったのはもちろんだが、芝原のこともあって、浅岡と出会ったことに麻奈美は感謝していた。
(そういえば、先生は『一年以内に分かる』って言ってたけど……)
まだ麻奈美がつかんでいない、芝原の過去。
人の過去はあまり気にしたことがないが、芝原に自分が関わっている様子なのでどうしても頭から離れない。
(おじいちゃん、私の何を話したんだろう)
チヨと三郎の話に耳を傾けながら、他の客の対応をしながら、麻奈美の頭は芝原と平太郎の関係でいっぱいだった。
(ただの生徒と担任じゃ、なかったのかな)
「麻奈美ちゃん」
「は、はい」
不意に芝原に呼ばれた。
「コーヒーお代りもらえるかな」
「はーい」
芝原からコーヒーカップを受け取って、麻奈美はカウンターへ戻った。
そして平太郎に近付いてから、気になったことを聞いてみた。浅岡が「芝原が自分のことを一年以内に教えてくれる、もしくは麻奈美が気づく」と言っていたこと。
けれど平太郎は、やはり何も答えてくれなかった。
(そんなに隠して、なんか、変だよ……)
「麻奈美、難しい顔はするなと言ったはずだよ」
「だってー何も教えてくれないんだもん」
ぷぅ、と麻奈美は頬を膨らませた。
「先生の言うことを信じてたら間違いはないよ。ほら、冷める前に運んで」
今はほとんどの客が冷たい飲み物を頼んでいるが、芝原はいつもホットコーヒーだった。勉強をしに来る日はたいていお代りしている。普段の勉強では砂糖とミルクを両方入れるが、試験前などになるといつもブラックだ。
「ブラックって、苦くないですか」
芝原が少し息抜きをしているとき、麻奈美は尋ねた。
もともとあまりコーヒーが好きではないので、ブラックは飲んだことがない。中学を卒業する前に飲もうとしたことがあるが、平太郎に止められた。
「多少は苦いけど……マスターの淹れるのは飲みやすいよ」
「そうそう、変な後味もしないんだよ」
カウンター席から、三郎が話に加わった。
「私は缶コーヒーの、あの妙なアルミの味が嫌でねぇ、コーヒー自体も嫌いになったことがあるんだ。でも、平ちゃんの淹れるのを飲んで、また好きになったんだよ」
「他の店とは何かが違うんですよね」
「そうそう」
いつの間にか、チヨも一緒になって、大人はコーヒーの話を始めていた。麻奈美にはよくわからない世界の話なので、客の帰ったテーブルを片づけた。平太郎はただ話を聞いているだけで参加はしていないが、顔だけは嬉しそうだ。
コーヒーってそんなに美味しいのかな、と思いながら、麻奈美は大人のコーヒー論に耳を傾けていた。