角砂糖が溶けるように
2-7 大学見学
長いようで短い夏休みも終わり、星城学園は二学期を迎えた。宿題を早めに終わらせていた麻奈美は朝礼までの時間をいつものように友人たちと過ごしていた。もちろんクラスには、ギリギリまで宿題に追われていたという生徒もいた。
千秋と芳恵はそれぞれの恋人と遊びに出掛けたと言っていた。芳恵はともかく千秋は学校が違うので、普段はなかなか会えていない。星城学園もそこそこレベルが高いが、恋人のほうはもうワンランク上の高校に通っていると聞いたことがある。
「麻奈美ちゃんは、例の大学生とどうなったの?」
そういう芳恵の質問には、良い返事はできなかった。
「何も変わってないよ。忙しそうにしてるし……第一、私のことどう思ってるか」
夏休みの間も、芝原は毎日やって来た。指定席でコーヒーを飲みながら、ときには何か食べながら、いつも勉強をしていた。
出会った頃に比べると最近はよく話すようになったし、何より芝原から話しかけてくることが多かった。けれどそれは、学校のことだったり、仕事のことだったり、麻奈美個人への質問はほとんどなかった。
もちろん、遊びに誘われたことも一度もない。
「なぁ麻奈美、そいつどこの高校だよ」
聞いてきたのは修二だった。
彼も夏休みの宿題を早くに仕上げた側なので、朝はのんびりしていた。
「聞いてどうするの? 今は大学生だよ」
「大学って学部でレベル違うからな。高校聞いたほうがわかりやすい」
「聞いてもなんの得にもならないよ」
麻奈美は修二には冷たかった。芝原のことを聞かれているからなのか、無意識にいつもより冷たく言い放った。
もちろん友人たちには、その冷たさは伝わっていた。修二は項垂れ、千秋と芳恵はそんな修二を見た。
「またふられたね」
麻奈美と修二の間で、芳恵が呟いた。
少ししてから、千秋が「そだね」と言った。
「まぁ……高校くらいなら教えても良いけど」
という麻奈美の言葉に、三人は向き直った。
「高校か、大学か、どっちかだね。両方は言えない」
「どうして?」
「だって、片方だけなら山ほどいるけど、二つともわかると調べようと思えば調べられるでしょ。修二ならやりかねない」
「いくら俺でもそこまでしねぇよ」
修二は反論した。麻奈美も言いすぎたと思っているのか、少し笑っていた。
「で、どっちが知りたい?」
再び麻奈美が聞くと、珍しく他の三人は一緒に相談を始めた。
今は大学生なのだから大学を聞きたい、とか。
でも修二の言う通り学部でレベルが違うから高校、とか。
大学の前に立ってれば会えるかも、とか。
高校のほうがイメージしやすい、とか。
相談をしているうちにチャイムが鳴ったので、それは放課後まで持ち越された。クラスの用事を済ませながら、三人は時間をみては相談していた。麻奈美がそろそろ帰宅しようとしているとき、ようやく意見がまとまった。
代表で修二が質問したので、麻奈美は「先輩だよ。高校は星城」と答えた。
「ええっ?」
「何かおかしい?」
大学生の卒業高校が星城だと知ったとき、修二はかなり驚いた。千秋と芳恵も少しは驚いていたが、麻奈美が予想していた程度だ。現役高校生と卒業生が知り合って、何も不思議ではない。
「いや、何も。そうか先輩か……」
何度も一人で繰り返して言いながら、修二は教室を出ていった。
「あいつどうかしたの? 元気ないけど」
「さぁ……何も聞いてないよ」
麻奈美はそれ以上は修二のことを気にせずに、友人たちと教室を出た。今日はクラブ活動のない日なので、全員が一斉に帰宅する。
と思っていたのは、どうやら麻奈美だけらしい。
「今日は大学見学だよ。生徒手帳にも書いてるし」
そう言いながら、芳恵は生徒手帳の九月のページを開いた。確かに、九月一日は、一年生対象の大学見学の予定が組まれていた。強制的ではないが、毎年ほぼ全員が参加しているらしい、と芳恵は続けた。
「大学って……星城の?」
「そうだよ。どうかしたの?」
「ううん、何も……時間はどれくらいかかるの?」
友人たちにいろいろ質問しながら、麻奈美は内心ドキドキしていた。
星城大学には芝原が在籍しているのだ。
もし、出会ってしまったら?
もし、名前を呼ばれてしまったら?
もし、友人たちに気づかれてしまったら?
特に問題になることではないが、麻奈美は足が進まなかった。けれど、逃げ出すことができないままに、確実に星城大学は近付いていた。
「あら、麻奈美? どうしたのこんなところで」
声のしたほうを見ると、光恵が手を振っていた。買い物帰りだろうか、片方の手に紙袋を提げている。
「ええと──」
「そちらはお友達?」
麻奈美が答えるより早く、光恵は友人たちに話しかけていた。簡単な挨拶を済ませ、先ほどの光恵の質問にも千秋が答えてしまっていた。
「そういえば書いてあったわねぇ」
「でも、おじいちゃんに言ってないから」
「母さんが言っといてあげるわ。それじゃね」
どうして母なのだろう、と麻奈美は思った。もしここに平太郎が来ていたら、芝原とのことを考えて逃がしてくれた、かもしれないのに。それとも敢えて、麻奈美を大学へ行かせただろうか。
「おーい麻奈美、おせーよ」
大学の正門前に到着すると、なぜか修二が待っていた。その隣にはもちろん光輔もいて、芳恵は彼を見つけて駆け寄った。
「なんで待ってるの?」
麻奈美が聞くと、
「何事もイメージするのが大切だからな!」
修二はニカッと笑った。
どうせまた二人で大学生活を送ろうと企んでいるんだろう。けれど、麻奈美は星城大学に進学するつもりは、今のところない。
「一時半から説明があって、そのあと自由見学だってさ」
説明会場になる大教室の席は、すでに半分近く埋まっていた。前の席は床が斜めになっていて、後方は段になっている。最後列から前のホワイトボードは見えないので、教室中央の天井からモニターがいくつかぶら下がっていた。
「大学ってすごいねー……」
「しかも星城、綺麗すぎるよ」
そんな声があちこちから聞こえ、麻奈美も例にもれなかった。大学の教室は高校までとは違う、というのは聞いたことがあるが、実際見たのは初めてだ。しかもそれが、お金持ちが多く通う星城だけあって設備はほぼ最新のものが揃っているので、驚きも一入だ。
やがて説明会は始まり、内容は学部・学科・サークルの紹介だった。
(英語は好きだけどなぁ、そういう仕事は……音楽とか心理学が楽しそうかな。そういえば芝原さんは、世界史をやってるって言ってたっけ……)
「──くない? ね、麻奈美ちゃん」
「ん? どうしたの」
配布資料を読むのに夢中になっていて、麻奈美は誰の話も聞いていなかった。まだ教壇では誰かが学科の紹介をしている。麻奈美に話しかけた千秋は、もう一度、麻奈美に同意を求めた。
「あの人、かっこ良くない?」
千秋は教壇に立つ中年の男性──ではなく、教室の隅で補助をしている男の人を指した。後ろを向いているので顔は見えないが、なんとなく想像はできる。彼は、話をしている男性にあわせてモニターに資料を映しながら、何度か教壇と窓際を往復していた。
「どう思う?」
「どうって……まぁ……うん……」
「だよね! 先生かな? 大学生かな」
おそらく教室にいる多くの女子生徒が彼を見つめていたが、麻奈美だけは意味が違っていたに違いない。補助をしているのは、芝原だったのだ。
千秋と芳恵はそれぞれの恋人と遊びに出掛けたと言っていた。芳恵はともかく千秋は学校が違うので、普段はなかなか会えていない。星城学園もそこそこレベルが高いが、恋人のほうはもうワンランク上の高校に通っていると聞いたことがある。
「麻奈美ちゃんは、例の大学生とどうなったの?」
そういう芳恵の質問には、良い返事はできなかった。
「何も変わってないよ。忙しそうにしてるし……第一、私のことどう思ってるか」
夏休みの間も、芝原は毎日やって来た。指定席でコーヒーを飲みながら、ときには何か食べながら、いつも勉強をしていた。
出会った頃に比べると最近はよく話すようになったし、何より芝原から話しかけてくることが多かった。けれどそれは、学校のことだったり、仕事のことだったり、麻奈美個人への質問はほとんどなかった。
もちろん、遊びに誘われたことも一度もない。
「なぁ麻奈美、そいつどこの高校だよ」
聞いてきたのは修二だった。
彼も夏休みの宿題を早くに仕上げた側なので、朝はのんびりしていた。
「聞いてどうするの? 今は大学生だよ」
「大学って学部でレベル違うからな。高校聞いたほうがわかりやすい」
「聞いてもなんの得にもならないよ」
麻奈美は修二には冷たかった。芝原のことを聞かれているからなのか、無意識にいつもより冷たく言い放った。
もちろん友人たちには、その冷たさは伝わっていた。修二は項垂れ、千秋と芳恵はそんな修二を見た。
「またふられたね」
麻奈美と修二の間で、芳恵が呟いた。
少ししてから、千秋が「そだね」と言った。
「まぁ……高校くらいなら教えても良いけど」
という麻奈美の言葉に、三人は向き直った。
「高校か、大学か、どっちかだね。両方は言えない」
「どうして?」
「だって、片方だけなら山ほどいるけど、二つともわかると調べようと思えば調べられるでしょ。修二ならやりかねない」
「いくら俺でもそこまでしねぇよ」
修二は反論した。麻奈美も言いすぎたと思っているのか、少し笑っていた。
「で、どっちが知りたい?」
再び麻奈美が聞くと、珍しく他の三人は一緒に相談を始めた。
今は大学生なのだから大学を聞きたい、とか。
でも修二の言う通り学部でレベルが違うから高校、とか。
大学の前に立ってれば会えるかも、とか。
高校のほうがイメージしやすい、とか。
相談をしているうちにチャイムが鳴ったので、それは放課後まで持ち越された。クラスの用事を済ませながら、三人は時間をみては相談していた。麻奈美がそろそろ帰宅しようとしているとき、ようやく意見がまとまった。
代表で修二が質問したので、麻奈美は「先輩だよ。高校は星城」と答えた。
「ええっ?」
「何かおかしい?」
大学生の卒業高校が星城だと知ったとき、修二はかなり驚いた。千秋と芳恵も少しは驚いていたが、麻奈美が予想していた程度だ。現役高校生と卒業生が知り合って、何も不思議ではない。
「いや、何も。そうか先輩か……」
何度も一人で繰り返して言いながら、修二は教室を出ていった。
「あいつどうかしたの? 元気ないけど」
「さぁ……何も聞いてないよ」
麻奈美はそれ以上は修二のことを気にせずに、友人たちと教室を出た。今日はクラブ活動のない日なので、全員が一斉に帰宅する。
と思っていたのは、どうやら麻奈美だけらしい。
「今日は大学見学だよ。生徒手帳にも書いてるし」
そう言いながら、芳恵は生徒手帳の九月のページを開いた。確かに、九月一日は、一年生対象の大学見学の予定が組まれていた。強制的ではないが、毎年ほぼ全員が参加しているらしい、と芳恵は続けた。
「大学って……星城の?」
「そうだよ。どうかしたの?」
「ううん、何も……時間はどれくらいかかるの?」
友人たちにいろいろ質問しながら、麻奈美は内心ドキドキしていた。
星城大学には芝原が在籍しているのだ。
もし、出会ってしまったら?
もし、名前を呼ばれてしまったら?
もし、友人たちに気づかれてしまったら?
特に問題になることではないが、麻奈美は足が進まなかった。けれど、逃げ出すことができないままに、確実に星城大学は近付いていた。
「あら、麻奈美? どうしたのこんなところで」
声のしたほうを見ると、光恵が手を振っていた。買い物帰りだろうか、片方の手に紙袋を提げている。
「ええと──」
「そちらはお友達?」
麻奈美が答えるより早く、光恵は友人たちに話しかけていた。簡単な挨拶を済ませ、先ほどの光恵の質問にも千秋が答えてしまっていた。
「そういえば書いてあったわねぇ」
「でも、おじいちゃんに言ってないから」
「母さんが言っといてあげるわ。それじゃね」
どうして母なのだろう、と麻奈美は思った。もしここに平太郎が来ていたら、芝原とのことを考えて逃がしてくれた、かもしれないのに。それとも敢えて、麻奈美を大学へ行かせただろうか。
「おーい麻奈美、おせーよ」
大学の正門前に到着すると、なぜか修二が待っていた。その隣にはもちろん光輔もいて、芳恵は彼を見つけて駆け寄った。
「なんで待ってるの?」
麻奈美が聞くと、
「何事もイメージするのが大切だからな!」
修二はニカッと笑った。
どうせまた二人で大学生活を送ろうと企んでいるんだろう。けれど、麻奈美は星城大学に進学するつもりは、今のところない。
「一時半から説明があって、そのあと自由見学だってさ」
説明会場になる大教室の席は、すでに半分近く埋まっていた。前の席は床が斜めになっていて、後方は段になっている。最後列から前のホワイトボードは見えないので、教室中央の天井からモニターがいくつかぶら下がっていた。
「大学ってすごいねー……」
「しかも星城、綺麗すぎるよ」
そんな声があちこちから聞こえ、麻奈美も例にもれなかった。大学の教室は高校までとは違う、というのは聞いたことがあるが、実際見たのは初めてだ。しかもそれが、お金持ちが多く通う星城だけあって設備はほぼ最新のものが揃っているので、驚きも一入だ。
やがて説明会は始まり、内容は学部・学科・サークルの紹介だった。
(英語は好きだけどなぁ、そういう仕事は……音楽とか心理学が楽しそうかな。そういえば芝原さんは、世界史をやってるって言ってたっけ……)
「──くない? ね、麻奈美ちゃん」
「ん? どうしたの」
配布資料を読むのに夢中になっていて、麻奈美は誰の話も聞いていなかった。まだ教壇では誰かが学科の紹介をしている。麻奈美に話しかけた千秋は、もう一度、麻奈美に同意を求めた。
「あの人、かっこ良くない?」
千秋は教壇に立つ中年の男性──ではなく、教室の隅で補助をしている男の人を指した。後ろを向いているので顔は見えないが、なんとなく想像はできる。彼は、話をしている男性にあわせてモニターに資料を映しながら、何度か教壇と窓際を往復していた。
「どう思う?」
「どうって……まぁ……うん……」
「だよね! 先生かな? 大学生かな」
おそらく教室にいる多くの女子生徒が彼を見つめていたが、麻奈美だけは意味が違っていたに違いない。補助をしているのは、芝原だったのだ。