角砂糖が溶けるように

3-2 待ち合わせ

 帰宅した麻奈美は、しばらく制服のまま自室のベッドに腰掛けていた。両親は外出していたので、家には麻奈美以外に誰もいない。

 時刻は午後四時半。
 いつもなら、授業を終えて友人たちと分かれ、大夢で働いている時間だった。
 三郎やチヨに世間話をしながら、もちろん芝原にも例のセットを運んでいるだろう。
「どうしよっかなぁ」
 平太郎から預かった大夢の裏口の鍵。
 もちろん、学校の宿題は家でもできる。
 もちろん、友達と遊ぶこともできる。
 けれど麻奈美にとって大夢に行くことは日課だったので、それがなくなるのは寂しくもある。
「でもなぁ……お客さん来ないし……」
 それもそれで、寂しいとしか言いようがない。

 そんなことを考えているうちに麻奈美はうとうとし始め、やがてそのまま眠ってしまった。だから、家の電話が鳴っていることにも気付かなかった。留守電の機能はついていない電話なので、後から確認もできていない。
 もしそれができていたら、麻奈美は少し元気が出たかもしれないけれど。
 麻奈美はその可能性をまったく考えていなかったし、かけたほうも、麻奈美に留守だったのかと確認はしなかった。

「電気は消して寝なさい!」
 という光恵の声で麻奈美は目を覚ました。
 しかも制服のままだとか、だらしないとか、光恵はしばらく怒っていた。
「もう高校生なんだからね。しっかりしなさいよ」
 光恵は持っていた荷物を片づけ、お父さんは何時に帰ってくるのだろうとか、晩ご飯は何にしようかとか、独り言を言いながらキッチンへ向かった。

 その頃ようやく麻奈美の意識は正常になった。
(──そうだ!)
 麻奈美は急いで着替えを済ませ、カラーペンをいくつか持って階段を下りた。確かリビングの収納に画用紙があったはずだ。
「あら、麻奈美、何してるの?」
 エプロンをつけて冷蔵庫の中を覗いていた光恵が麻奈美に気づいた。晩ご飯はまだ決まっていないようで、そのまま物色を続けている。
「お店の貼り紙。おじいちゃんが戻るまで貼っとかないと」
「……おじいちゃん、どうかしたの?」

 外出していた光恵には平太郎の怪我は伝わっていなかったらしい。居場所さえ分かれば電話をかけられたし、もっと携帯電話が普及していればボタン一つで連絡出来たのだが。ポケットベルなら流行っているけど、光恵は持っていなかった。
 大夢で脚立から落ちたのを芝原が病院に連絡した、麻奈美に連絡が入って学校は早退した、と言うと、光恵は「芝原さんて、良い人ね」と言っていた。

『都合によりしばらく休みます。いつになるかはわかりませんが必ず戻ります』
 という内容の掲示物を完成させてから、麻奈美はチヨの家へ行った。
「前からあちこち悪いって言ってたからねぇ。ほんとに頑固だよ、平ちゃんも」
「ですよね。でももう、これからは誰かに頼む、って言ってました」
「そりゃそうだよ。まぁ、片足で良かった」

 高木さんに連絡をお願いします、と言って麻奈美は帰ろうとしていた。光恵が晩ご飯のメニューを決めたのかはわからないが、麻奈美は空腹だった。お腹が鳴るのを聞かれまいと急いで出ようとしていると、チヨが言った。
「麻奈美ちゃんも寂しくなるね、しばらく会えないんじゃ」
「……会えない? 誰にですか?」
 首をかしげると、チヨは笑った。
「ほれ、あのいつも勉強してる学生さん。どこで勉強するんだろうねぇ」
「ああ、芝原さんですか……大学とか図書館じゃないですか?」
「ふぅん……麻奈美ちゃん、呼んであげないのかい?」
「え? うちにですか?」

 なぜ、という顔で聞き返すと、チヨも同じような顔をした。
「彼氏じゃないのかい?」
「ち、違いますよ! ただのお客さんです」
「えー本当に? 仲良さそうだから、てっきりそうかと思ったよ」
 確かに芝原とは仲良くしている──ように見えるかもしれないけれど。

 彼は大夢の客でしかなく、プライベートの話をしたことはない。それに以前、ずっと気になっている人がいると聞いてから、あまり話をしていない。
 相変わらず大夢に通っているのはきっと、平太郎への謝意と勉強のためだろう。
(芝原さんが気になってるのは、絶対素敵な人だよ……私みたいな子供なんか相手にしないんだろうなぁ)

 チヨとの話をなんとか切り上げ、麻奈美は急いで帰宅した。塀をはさんで隣ではあるが、陽もすっかり暮れて辺りは真っ暗だ。
「ただいま……あれ、お帰り、お父さん」
 父親は麻奈美に「ただいま」と言ったが、なぜか機嫌が悪かった。キッチンにいる光恵に近付きそっと尋ねてみると、「気にしなくていいわよ、妬いてるだけだから」と言った。

「どういうこと?」
「さっき電話が鳴って、お父さんが取ったのよ──芝原さんから麻奈美に」
「芝原さん? 何の用事?」
「明日の放課後、図書館で待ってるって」
「ふーん……何だろう」
「ねぇ、麻奈美──」
「ただのお客さんだよ、さっきもチヨさんに聞かれたけど」

 聞こうとしていたことに麻奈美が正確に答えたのか、光恵はしばらく瞬きをしなかった。父親は背中を向けてテレビを見ていたので、表情はわからない。
 手を洗ってからキッチンに戻ると、麻奈美はテーブルにランチョンマットを並べた。晩ご飯は冷蔵庫に残っていたおかずでの有り合わせだった。
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