角砂糖が溶けるように

3-8 優しい味

 芝原は麻奈美に「都合のつく時間だけで良い」と言っていたが、麻奈美は毎日、店を開けた。平日はもちろん学校が終わってから、休みの日は、朝から開けた。
 どういうわけか、店にいるほうが宿題も勉強も捗る、と麻奈美は言っていた。家庭教師で浅岡が来る時だけは仕方なく家で勉強したが、それ以外の時間はずっと大夢で過ごした。芝原は勉強場所を提供してもらえるのでありがたく、麻奈美に感謝していた。

 平太郎の足も快方に向かい、もうしばらくしたら退院できるだろうと病院で聞いた。
 そうすれば、平太郎と二人きりの時間がまた増えるのだろうか。
 麻奈美と過ごす時間は──。

 ふと、勉強している手を止めて、芝原は顔をあげた。
(特に変わらないか。ちょっとは、減るのかな)
 そんなことを考えながら、平太郎の淹れるコーヒーの香りを思い出していた。他のどの喫茶店とも違う、特別な印象だった。

 平太郎が入院してからもうどれくらいになるだろうか。
 その間ずっとコーヒーは飲んでいなかった。というより、缶コーヒーを買ったり、他の店へ行く気にはならなかった。三郎やチヨといつか語ったように、芝原にとっては平太郎の淹れるコーヒーが一番だった。

「どうしたんですか?」
 声のした方を見ると、麻奈美がカウンターから顔を覗かせていた。さっきまでは席の方で宿題をしていた気がするが……。
「休憩しませんか?」
 麻奈美はお盆にカップを二つ乗せて持っていた。一つはこないだ見たキャラクターのもので、もう一つは、芝原にとって想い出のある模様だった。
 芝原の座る指定席まで来ると、麻奈美はそれをテーブルに置いた。
「味はわからないですけど……」
「これ、麻奈美ちゃんが?」
「はい」

 麻奈美が運んだのは、いつも平太郎が出しているコーヒーだった。滅多にコーヒーを飲まない麻奈美には味はわからないかもしれないが、香りは確かに平太郎のものと同じだった。
「だからかぁ……なんとなくこれを思い出してて……」
「におい、おかしくないですか?」
「ううん。全然──久々に、飲んでみようかな」
 いただきます、と言ってからコーヒーを飲む芝原を、麻奈美は黙って見つめていた。味にはほとんど詳しくないので、あまり自信はなかった。

 一口飲んでから、芝原はカップをテーブルに置いた。
 何を言われるのか怖くて、麻奈美は緊張していた。
「いつの間に淹れられるようになったの?」
「夏休みです。ここに泊まったときに、教えてもらいました」
「へぇ。知らなかったな。本当に、同じ香りがする。でも、味は違うなぁ」
 思わず麻奈美はため息をついた。
「やっぱり、まだまだですよね」
「いや、そうじゃなくて──美味しいよ、本当に。でも、何かが違う」
 芝原はコーヒーをもう一口飲んだ。
「マスターが淹れるのを飲んでるだけじゃわからなかったけど、麻奈美ちゃんが淹れたのと比べて……わかった」
「どう、違いますか?」
「どっちかというと、マスターに出せない味かもしれない」
「え?」
「なんだろう。優しい味がする」

 言いながら芝原は麻奈美が淹れたコーヒーをじっと見ていた。自分が見られているようで照れくさくなって、麻奈美は自分のジュースを飲んだ。
「あ、今の、マスターには内緒だよ。麻奈美ちゃんに越えられたって思ったら絶対、ショック受けるだろうから」
「は、はい……あ、の、芝原さん」
「なに?」
 いつもより芝原が柔らかい表情をしているのは気のせいだろうか。
 もともと綺麗な顔をしているのが、さらに輝いて見えた。
「すごい、笑顔ですけど」
「ははは。いや、まさかコーヒー飲めるとは思ってなかったから、嬉しくて、つい。ここを開けてもらってるだけでもじゅうぶんなのに。ありがとう」
「いえ……それより、あの、今度の休みの日も、来てくれますか?」
「次の日曜日? うん、特に予定はないから、そのつもりだけど」
「お母さんが、お昼ごはんご馳走する、って張り切ってるんです……」
「──えっ、僕に?」

 光恵が平太郎を見舞ったときのことはその日のうちに麻奈美に伝えられた。
 そして、もしかすると平太郎が退院しているかもしれないので、「四人でお昼を食べましょう。もちろん、私とおじいちゃんは食べたらすぐに出て行くわ」と言っていた。
「嬉しいけど、申し訳ないよ」
「おじいちゃんの言った通りですね。張り切ってるのはお母さんですけど、提案したのはおじいちゃんなんです。でも、絶対最初は断るだろう、って」
 芝原は平太郎を見舞ったときのことを思い出した。
 店の鍵を預けられそうになったのを、慌てて断った。
「どうしてもダメなら良い──」
「断るのも申し訳ない。マスターの退院祝いだと思って、来るよ」
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