角砂糖が溶けるように
4-6 鳴りやまない電話
翌朝、麻奈美の心はいつも以上に晴れやかだった。
芝原が昔のことを話してくれたおかげで謎は全て無くなったし、何より彼との距離が急に近くなった気がしていた。昔どんな人だったとしても、芝原は麻奈美に親切にしてくれてきたし、平太郎も浅岡も、変な眼では見ていなかった。芝原との関係は今まで通りに──もちろん学校ではそれを隠して楽しくしていこう、そう考えながら登校した。
けれど、靴を履き替えて教室に向かう途中、おかしな感じがした。いつもなら賑やかな廊下や教室が、なぜかどこも静まり返っていた。
「何かあったの……? 私が早いの?」
自分の教室にたどり着くと、千秋の姿があった。
彼女のほかには、数人しかいない。
「おはよう、麻奈美ちゃん。芳恵ちゃん、休みだって」
「ふぅん……他のみんなは? 修二も、いつも走り回ってるのに」
何気なく聞いた麻奈美に返された千秋の返事は。
「──親たちが、子供を学校に行かせたがってないんだって」
「え? どういうこと?」
「あの教育実習生に、会わせたくない、って」
「それ……芝原、先生?」
「うん。芳恵ちゃんも、片平君も、みんなそうみたいだよ」
登校して五分で気分は暗転した。
もちろん、芝原のことを嫌いになることはないけれど、昔のことを気にする人の多さに言葉が出なかった。
「それで……授業、あるの?」
「さあ……」
突然、ガラッ、と音がして、担任の教師が姿を見せた。
「今日は、臨時休校にする。全員、速やかに帰宅するように。明日のことは連絡網を出すから、必ず家にいるように」
それだけ言って、担任はそのまま教室を出て行ってしまった。
けれど、帰れと言われて急に帰れないのは麻奈美だけだったのだろうか。千秋は荷物を持って立ちあがっていたし、他のクラスメイトはもう教室にはいない。
「帰ろうよ、麻奈美ちゃん」
「──ごめん、先に帰ってて。用事思い出した」
「時間あるし、待つよ」
「うん……ありがとう……ごめんね、すぐ戻るね」
千秋とは下駄箱前で待ち合わせ、麻奈美は職員室に向かった。今日は芝原は来ているのか、来ていればどうしているのか、それを確認したかった。
「あいつなら、校長室にいる」
職員室に到着すると、担任は麻奈美を奥の相談室へ呼んだ。
「それは……どうなるんですか」
最悪の事態を麻奈美は予想した。芝原は教育実習を続けることは出来ないのか──。
「さあな。校長が決めることだから──難しいだろうな。実際、朝から電話が鳴りっぱなしだ。卒業生にも、あいつを知ってる奴らはたくさんいる」
「でも、今の芝原さ、先生は……」
「だから、俺たちは悩んでる。当時から勤めてる先生もまだ残ってて、別人みたいだって喜んでた。出来るなら、教師にしてやりたい」
「だったら──」
「でも、世間ではまだ、あいつの努力は認められていない。家だって、近所ではみんな避けている。あいつは出たと言っていたが、簡単には切れないだろう」
担任はそこまで言うと立ちあがった。
「とにかく、今日は帰りなさい」
「あの──」
言いたいことはたくさんあった。
けれど、何も言葉に出なかった。麻奈美が知っている今の芝原は教師みんなが認めていたし、無事に実習を終わらせて教師になって欲しい、という気持ちも同じだった。
「芝原先生に、伝えてもらえますか」
「なんだ?」
「いつもと──いつもと違うのを用意して待ってます、って、伝えてください」
「いつもと違う? わかった。伝えておく」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
「ああ……」
相談室を出ると、職員室では半分くらいの先生が電話で話していた。聞いたわけではないが、みんな必死なので聞こえた。ほとんどが芝原のことへの対応だった。
(私、どうすれば良いんだろう……)
肩を落として通路を抜け、麻奈美は職員室のドアを開けた。
ガラッ──
「あれ、千秋ちゃん……」
下駄箱前で待ち合わせていた千秋が、なぜか廊下で待っていた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「ううん。いいよ。下駄箱って、ちょっと寂しくって、麻奈美ちゃんが職員室に入るの見えたから……」
「あ──ごめん、そんなところで待ってって、寂しいよね」
「うん。でも、私も良いって言ったし、気にしないで」
と言っているが、千秋の様子はいつもと違っていた。麻奈美をじっと見て、心配そうな顔をしていた。
「どうしたの? 千秋ちゃん、何かあったの?」
「あったのは、麻奈美ちゃんじゃないの?」
「え……?」
なぜ、という顔をする麻奈美の腕を千秋はぎゅっと握った。
「さっき、聞いちゃった。通りかかった先生たちが──芝原先生を最後に受け持ったのが、麻奈美ちゃんのお祖父さんだって、話してた」
麻奈美は何も言えなかった。千秋の目にはうっすら光るものがあふれていた。
「例の大学生……麻奈美ちゃんが気になってるのって、芝原先生?」
「──そうだよ。うちの、お店の常連さんだったの。でも、昔のことは……実習に来ることも、全然知らなかった。今も、そのことで話してて……校長室にいるんだって」
「それじゃ、余計に辛いよね。私も、昔のこと気にしないわけじゃないけど、良い先生になるって思ったから……」
千秋は麻奈美の腕を離し、来た道を引き返した。
校内に残っている生徒は、もう他にいないらしい。
「ねぇ、千秋ちゃん、このことは」
「言わないよ、誰にも。私は麻奈美ちゃんの味方だから。そのかわり」
上履きから通学靴に履き替え、千秋は麻奈美に詰め寄った。
「芝原先生をゲットするんだよ?」
「え、ちょっと、それは──」
「約束だよー!」
千秋は外へ走りだし、麻奈美も後を追った。
笑いながら下校する二人の姿を、二階の窓から芝原が見つめていた。
芝原が昔のことを話してくれたおかげで謎は全て無くなったし、何より彼との距離が急に近くなった気がしていた。昔どんな人だったとしても、芝原は麻奈美に親切にしてくれてきたし、平太郎も浅岡も、変な眼では見ていなかった。芝原との関係は今まで通りに──もちろん学校ではそれを隠して楽しくしていこう、そう考えながら登校した。
けれど、靴を履き替えて教室に向かう途中、おかしな感じがした。いつもなら賑やかな廊下や教室が、なぜかどこも静まり返っていた。
「何かあったの……? 私が早いの?」
自分の教室にたどり着くと、千秋の姿があった。
彼女のほかには、数人しかいない。
「おはよう、麻奈美ちゃん。芳恵ちゃん、休みだって」
「ふぅん……他のみんなは? 修二も、いつも走り回ってるのに」
何気なく聞いた麻奈美に返された千秋の返事は。
「──親たちが、子供を学校に行かせたがってないんだって」
「え? どういうこと?」
「あの教育実習生に、会わせたくない、って」
「それ……芝原、先生?」
「うん。芳恵ちゃんも、片平君も、みんなそうみたいだよ」
登校して五分で気分は暗転した。
もちろん、芝原のことを嫌いになることはないけれど、昔のことを気にする人の多さに言葉が出なかった。
「それで……授業、あるの?」
「さあ……」
突然、ガラッ、と音がして、担任の教師が姿を見せた。
「今日は、臨時休校にする。全員、速やかに帰宅するように。明日のことは連絡網を出すから、必ず家にいるように」
それだけ言って、担任はそのまま教室を出て行ってしまった。
けれど、帰れと言われて急に帰れないのは麻奈美だけだったのだろうか。千秋は荷物を持って立ちあがっていたし、他のクラスメイトはもう教室にはいない。
「帰ろうよ、麻奈美ちゃん」
「──ごめん、先に帰ってて。用事思い出した」
「時間あるし、待つよ」
「うん……ありがとう……ごめんね、すぐ戻るね」
千秋とは下駄箱前で待ち合わせ、麻奈美は職員室に向かった。今日は芝原は来ているのか、来ていればどうしているのか、それを確認したかった。
「あいつなら、校長室にいる」
職員室に到着すると、担任は麻奈美を奥の相談室へ呼んだ。
「それは……どうなるんですか」
最悪の事態を麻奈美は予想した。芝原は教育実習を続けることは出来ないのか──。
「さあな。校長が決めることだから──難しいだろうな。実際、朝から電話が鳴りっぱなしだ。卒業生にも、あいつを知ってる奴らはたくさんいる」
「でも、今の芝原さ、先生は……」
「だから、俺たちは悩んでる。当時から勤めてる先生もまだ残ってて、別人みたいだって喜んでた。出来るなら、教師にしてやりたい」
「だったら──」
「でも、世間ではまだ、あいつの努力は認められていない。家だって、近所ではみんな避けている。あいつは出たと言っていたが、簡単には切れないだろう」
担任はそこまで言うと立ちあがった。
「とにかく、今日は帰りなさい」
「あの──」
言いたいことはたくさんあった。
けれど、何も言葉に出なかった。麻奈美が知っている今の芝原は教師みんなが認めていたし、無事に実習を終わらせて教師になって欲しい、という気持ちも同じだった。
「芝原先生に、伝えてもらえますか」
「なんだ?」
「いつもと──いつもと違うのを用意して待ってます、って、伝えてください」
「いつもと違う? わかった。伝えておく」
「ありがとうございます。それじゃ、失礼します」
「ああ……」
相談室を出ると、職員室では半分くらいの先生が電話で話していた。聞いたわけではないが、みんな必死なので聞こえた。ほとんどが芝原のことへの対応だった。
(私、どうすれば良いんだろう……)
肩を落として通路を抜け、麻奈美は職員室のドアを開けた。
ガラッ──
「あれ、千秋ちゃん……」
下駄箱前で待ち合わせていた千秋が、なぜか廊下で待っていた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「ううん。いいよ。下駄箱って、ちょっと寂しくって、麻奈美ちゃんが職員室に入るの見えたから……」
「あ──ごめん、そんなところで待ってって、寂しいよね」
「うん。でも、私も良いって言ったし、気にしないで」
と言っているが、千秋の様子はいつもと違っていた。麻奈美をじっと見て、心配そうな顔をしていた。
「どうしたの? 千秋ちゃん、何かあったの?」
「あったのは、麻奈美ちゃんじゃないの?」
「え……?」
なぜ、という顔をする麻奈美の腕を千秋はぎゅっと握った。
「さっき、聞いちゃった。通りかかった先生たちが──芝原先生を最後に受け持ったのが、麻奈美ちゃんのお祖父さんだって、話してた」
麻奈美は何も言えなかった。千秋の目にはうっすら光るものがあふれていた。
「例の大学生……麻奈美ちゃんが気になってるのって、芝原先生?」
「──そうだよ。うちの、お店の常連さんだったの。でも、昔のことは……実習に来ることも、全然知らなかった。今も、そのことで話してて……校長室にいるんだって」
「それじゃ、余計に辛いよね。私も、昔のこと気にしないわけじゃないけど、良い先生になるって思ったから……」
千秋は麻奈美の腕を離し、来た道を引き返した。
校内に残っている生徒は、もう他にいないらしい。
「ねぇ、千秋ちゃん、このことは」
「言わないよ、誰にも。私は麻奈美ちゃんの味方だから。そのかわり」
上履きから通学靴に履き替え、千秋は麻奈美に詰め寄った。
「芝原先生をゲットするんだよ?」
「え、ちょっと、それは──」
「約束だよー!」
千秋は外へ走りだし、麻奈美も後を追った。
笑いながら下校する二人の姿を、二階の窓から芝原が見つめていた。