角砂糖が溶けるように
4-7 同級生だったら
いつもなら夕方六時には閉めてしまうお店のドアを、平太郎はまだ閉めていなかった。時刻は午後七時になろうとしているが、まだ『営業中』の札をつけている。
営業時間を変更したわけではなく、客の来店を待っていた。
必ず来るはずの常連がひとり、まだ顔を見せていなかった。
「麻奈美、もう今日は帰りなさい。明日も学校、あるんだろう」
「うん……でも、私が待ってるって言ったから……待つ」
学校で担任が言っていた通り、夕方、連絡網が回ってきた。麻奈美は店の手伝いをしていたので実家で母が対応した。特に大した連絡はなく、明日は全員出席するように、という一言だけだった。
「なんでみんなわからないのかな」
カウンターにうつ伏せになり、麻奈美は呟いた。
今の芝原は何も悪くない。
どう見ても、そんな風には見えない。
親たちは過去にとらわれ過ぎている──。
「仕方ない、あいつの頑張りを、誰が知ってる?」
「そうだけど……」
「ちょっと休んでるよ。来たら、まぁ、淹れてやれ」
平太郎はエプロンを外し、奥の住居へ入って行った。
バタン、と音がしてドアが閉まり、麻奈美は店内でひとりになった。窓の外はすっかり暗くなり、見えるのは軒先に付けられた灯りが照らす範囲だけだった。
(今日は、来ないのかな……)
けれど麻奈美は担任に伝言をお願いした。
芝原に、いつもと違うものを──平太郎ではない、麻奈美が淹れたコーヒーを用意して待っていると、伝わっていると信じていた。
(勉強しようかな。でも、眠くなってきた……)
「ねぇ、おじいちゃん」
住居部分へのドアを開け、麻奈美は顔を覗かせた。
「コーヒーって、眠気覚ましになるんだよね?」
「ああ。飲めるのか?」
「わからないけど……眠いんだもん」
「眠いなら帰れば良いのに。好きにしなさい」
「はーい」
ドアを静かに閉めてから、麻奈美はコーヒーを淹れ始めた。
(ちょっとだけにしよう)
やがて店内に香ばしい匂いが広がって、麻奈美はそれをカップに入れた。もともと好きではないので味はわからないが、匂いだけは気に入っている。
「んっ……、にがっ!」
一口飲もうとして、苦さに思わず顔を歪めた。ミルクを入れていないのを思い出して、慌てて入れた。それでも麻奈美には苦く感じ、全部を飲むことは出来なかった。
(やっぱ、ダメだー。私、まだまだ子供だなぁ)
眠気と戦いながら、麻奈美は店内で教科書を広げていた。今日は授業がなかったので昨日の復習をするつもりだった。
(眠いなぁ……暗いからかな? でも、これでも電気全部つけてるし……)
カタ、と音がして、麻奈美の手からペンが落ちた。それに気付くことはなく、麻奈美はそのまま眠ってしまった。
カタン──サー……
「ん……?」
目の前に誰かの手が見えて、背後に気配を感じた。寝ぼけながら顔を上げると、隣でコトン、と足音がした。
「起こしちゃった?」
「──? あっ、ごめんなさい!」
眠っている麻奈美に、芝原が上着を掛けてくれていた。
声は確かに彼本人だったが、表情はものすごくどんよりとしていた。
「どうしたんですか、そんな顔で……もしかして──」
「ううん、大丈夫。考えすぎて、疲れただけだから」
「そうですか? あ──ちょっと、待っててください」
麻奈美は椅子から立ち上がり、食器棚を開けようとして振り返った拍子にふらついてしまった。どれだけ眠っていたのだろうか、腕にも本の型がついていた。
「良いよ、今日はもう……こんな時間だし」
改めて時計を見ると、八時半を回っていた。
(私、そんなに寝てたんだ……危ない……)
「麻奈美ちゃん、コーヒー飲めるようになった?」
「え?」
芝原はカウンターに置いた麻奈美のカップを見ていた。飲もうとしても苦くて飲めなくて、そのままにしていた。
「いえ……眠気覚ましに淹れてみたけど、苦くて……」
「もらっていい? これ」
「──そんな、飲みかけの、しかもミルクいっぱい入れたから味が……、新しいの淹れます!」
それに、麻奈美が飲んでいたということは──。
「良いんだ、何でも」
小さく「いただきます」と言って、芝原はそれを飲んだ。幸い、麻奈美とは反対側で──けれど、彼はそんなことを気にしている風には見えなかった。いつも大夢で見せる顔とも、実習中の姿勢とも、どれとも同じではなかった。
飲み終わってからカップを置き、そのままカウンターに両手をついた。
「僕、やっぱりダメなのかな……」
力なく崩れそうになる芝原に麻奈美は椅子を勧めた。本当に疲れていたのだろう、椅子に座るとすぐに、彼はカウンターに伏せてしまった。麻奈美は外に出て札を『本日は終了しました』に変え、外灯も消した。
店内に戻ると、芝原は顔を上げていた。奥の部屋から平太郎が顔を出し、麻奈美に「頼むよ」と合図してから再びドアを閉めた。
「──何か、食べますか?」
「いや、いい。そんな気分じゃない……ごめん、今日の僕、おかしい」
芝原はカウンターに肘をつき、頭を抱えた。
彼のこんな姿を見たことがなかった。
絶望の中に放り出され、何もかもを見失っていた。
「情けないな。こんなのが教師になれるわけないよな」
「諦めるんですか」
麻奈美は芝原の隣に座った。
「せっかく今まで頑張ってきたのに──それで良いんですか」
「僕のこと、あれから何か聞いた?」
「聞きました。おじいちゃんから……信じたくない、こと、ばっかりでした」
芝原は、両親同様、警察のお世話にもなった、と平太郎は言っていた。些細な喧嘩からクラスメイトを殴って大怪我をさせ、そのままバイクで逃走した。逃げる途中で事故を起こし、街の人にも怪我を負わせた。
「じゃ、あれは? ずっと気になってる」
「それも、聞きました。他の人には興味ないって……でも、私は気になるんです。教師になるって決めて、毎日勉強してたじゃないですか。そんな簡単に諦めないでください。私が知ってる芝原さんは──優しくて、前向きで、誰からも好かれる先生に、なれます」
そう言いきった麻奈美の目から涙がこぼれていた。芝原が実習を受けなくなり、教師とは違う道を進み、大夢にも来なくなる──そんなことは、想像するのも嫌だった。
「麻奈美ちゃん……今だけ、ごめん」
芝原は立ち上がり、腕の中に麻奈美を閉じ込めた。
「──っ、芝原さん……?」
想像以上に力は強くて、彼の鼓動がすぐそばで聞こえた。
抱きしめられて初めて気が付いた──芝原は酔っていた。ほんのわずかなお酒のにおいが麻奈美の鼻をついた。
「ありがとう。先生からの伝言、ずっと悩んでた。来て良かった」
芝原にはずっと気になっている人がいるし、麻奈美もそれを知っている。平太郎が教師だった頃からもう何年も変わらない。喧嘩ばかりしていた人がいまだに忘れることがない──それがどういう人なのか平太郎は教えてくれないし、もちろん芝原が言うこともない。
麻奈美には越えることが出来ない人だと、聞いた時から思っていた。叶わない恋だとわかっていた……けれどこんなことをされてしまうと、誰だって絶対動揺する。
「マスターが言ってたよ。麻奈美ちゃんはよくモテる、って」
「そ、そんなこと、ないです、私なんか、全然」
急に恥ずかしくなって芝原から離れようとして、強い力で引き戻された。
「ううん……僕がもし同級生だったら、絶対惚れる」
芝原が麻奈美と同級生だったら──。
麻奈美はきっと、彼には恋をしていない。
営業時間を変更したわけではなく、客の来店を待っていた。
必ず来るはずの常連がひとり、まだ顔を見せていなかった。
「麻奈美、もう今日は帰りなさい。明日も学校、あるんだろう」
「うん……でも、私が待ってるって言ったから……待つ」
学校で担任が言っていた通り、夕方、連絡網が回ってきた。麻奈美は店の手伝いをしていたので実家で母が対応した。特に大した連絡はなく、明日は全員出席するように、という一言だけだった。
「なんでみんなわからないのかな」
カウンターにうつ伏せになり、麻奈美は呟いた。
今の芝原は何も悪くない。
どう見ても、そんな風には見えない。
親たちは過去にとらわれ過ぎている──。
「仕方ない、あいつの頑張りを、誰が知ってる?」
「そうだけど……」
「ちょっと休んでるよ。来たら、まぁ、淹れてやれ」
平太郎はエプロンを外し、奥の住居へ入って行った。
バタン、と音がしてドアが閉まり、麻奈美は店内でひとりになった。窓の外はすっかり暗くなり、見えるのは軒先に付けられた灯りが照らす範囲だけだった。
(今日は、来ないのかな……)
けれど麻奈美は担任に伝言をお願いした。
芝原に、いつもと違うものを──平太郎ではない、麻奈美が淹れたコーヒーを用意して待っていると、伝わっていると信じていた。
(勉強しようかな。でも、眠くなってきた……)
「ねぇ、おじいちゃん」
住居部分へのドアを開け、麻奈美は顔を覗かせた。
「コーヒーって、眠気覚ましになるんだよね?」
「ああ。飲めるのか?」
「わからないけど……眠いんだもん」
「眠いなら帰れば良いのに。好きにしなさい」
「はーい」
ドアを静かに閉めてから、麻奈美はコーヒーを淹れ始めた。
(ちょっとだけにしよう)
やがて店内に香ばしい匂いが広がって、麻奈美はそれをカップに入れた。もともと好きではないので味はわからないが、匂いだけは気に入っている。
「んっ……、にがっ!」
一口飲もうとして、苦さに思わず顔を歪めた。ミルクを入れていないのを思い出して、慌てて入れた。それでも麻奈美には苦く感じ、全部を飲むことは出来なかった。
(やっぱ、ダメだー。私、まだまだ子供だなぁ)
眠気と戦いながら、麻奈美は店内で教科書を広げていた。今日は授業がなかったので昨日の復習をするつもりだった。
(眠いなぁ……暗いからかな? でも、これでも電気全部つけてるし……)
カタ、と音がして、麻奈美の手からペンが落ちた。それに気付くことはなく、麻奈美はそのまま眠ってしまった。
カタン──サー……
「ん……?」
目の前に誰かの手が見えて、背後に気配を感じた。寝ぼけながら顔を上げると、隣でコトン、と足音がした。
「起こしちゃった?」
「──? あっ、ごめんなさい!」
眠っている麻奈美に、芝原が上着を掛けてくれていた。
声は確かに彼本人だったが、表情はものすごくどんよりとしていた。
「どうしたんですか、そんな顔で……もしかして──」
「ううん、大丈夫。考えすぎて、疲れただけだから」
「そうですか? あ──ちょっと、待っててください」
麻奈美は椅子から立ち上がり、食器棚を開けようとして振り返った拍子にふらついてしまった。どれだけ眠っていたのだろうか、腕にも本の型がついていた。
「良いよ、今日はもう……こんな時間だし」
改めて時計を見ると、八時半を回っていた。
(私、そんなに寝てたんだ……危ない……)
「麻奈美ちゃん、コーヒー飲めるようになった?」
「え?」
芝原はカウンターに置いた麻奈美のカップを見ていた。飲もうとしても苦くて飲めなくて、そのままにしていた。
「いえ……眠気覚ましに淹れてみたけど、苦くて……」
「もらっていい? これ」
「──そんな、飲みかけの、しかもミルクいっぱい入れたから味が……、新しいの淹れます!」
それに、麻奈美が飲んでいたということは──。
「良いんだ、何でも」
小さく「いただきます」と言って、芝原はそれを飲んだ。幸い、麻奈美とは反対側で──けれど、彼はそんなことを気にしている風には見えなかった。いつも大夢で見せる顔とも、実習中の姿勢とも、どれとも同じではなかった。
飲み終わってからカップを置き、そのままカウンターに両手をついた。
「僕、やっぱりダメなのかな……」
力なく崩れそうになる芝原に麻奈美は椅子を勧めた。本当に疲れていたのだろう、椅子に座るとすぐに、彼はカウンターに伏せてしまった。麻奈美は外に出て札を『本日は終了しました』に変え、外灯も消した。
店内に戻ると、芝原は顔を上げていた。奥の部屋から平太郎が顔を出し、麻奈美に「頼むよ」と合図してから再びドアを閉めた。
「──何か、食べますか?」
「いや、いい。そんな気分じゃない……ごめん、今日の僕、おかしい」
芝原はカウンターに肘をつき、頭を抱えた。
彼のこんな姿を見たことがなかった。
絶望の中に放り出され、何もかもを見失っていた。
「情けないな。こんなのが教師になれるわけないよな」
「諦めるんですか」
麻奈美は芝原の隣に座った。
「せっかく今まで頑張ってきたのに──それで良いんですか」
「僕のこと、あれから何か聞いた?」
「聞きました。おじいちゃんから……信じたくない、こと、ばっかりでした」
芝原は、両親同様、警察のお世話にもなった、と平太郎は言っていた。些細な喧嘩からクラスメイトを殴って大怪我をさせ、そのままバイクで逃走した。逃げる途中で事故を起こし、街の人にも怪我を負わせた。
「じゃ、あれは? ずっと気になってる」
「それも、聞きました。他の人には興味ないって……でも、私は気になるんです。教師になるって決めて、毎日勉強してたじゃないですか。そんな簡単に諦めないでください。私が知ってる芝原さんは──優しくて、前向きで、誰からも好かれる先生に、なれます」
そう言いきった麻奈美の目から涙がこぼれていた。芝原が実習を受けなくなり、教師とは違う道を進み、大夢にも来なくなる──そんなことは、想像するのも嫌だった。
「麻奈美ちゃん……今だけ、ごめん」
芝原は立ち上がり、腕の中に麻奈美を閉じ込めた。
「──っ、芝原さん……?」
想像以上に力は強くて、彼の鼓動がすぐそばで聞こえた。
抱きしめられて初めて気が付いた──芝原は酔っていた。ほんのわずかなお酒のにおいが麻奈美の鼻をついた。
「ありがとう。先生からの伝言、ずっと悩んでた。来て良かった」
芝原にはずっと気になっている人がいるし、麻奈美もそれを知っている。平太郎が教師だった頃からもう何年も変わらない。喧嘩ばかりしていた人がいまだに忘れることがない──それがどういう人なのか平太郎は教えてくれないし、もちろん芝原が言うこともない。
麻奈美には越えることが出来ない人だと、聞いた時から思っていた。叶わない恋だとわかっていた……けれどこんなことをされてしまうと、誰だって絶対動揺する。
「マスターが言ってたよ。麻奈美ちゃんはよくモテる、って」
「そ、そんなこと、ないです、私なんか、全然」
急に恥ずかしくなって芝原から離れようとして、強い力で引き戻された。
「ううん……僕がもし同級生だったら、絶対惚れる」
芝原が麻奈美と同級生だったら──。
麻奈美はきっと、彼には恋をしていない。