角砂糖が溶けるように
第5章
5-1 期待と再会
七月末、一昨年は大夢でパーティーが開かれた麻奈美の誕生日は、今年は何事もなくいつも通りに過ぎて行った。個人的に麻奈美の誕生日を知っていた客たちはプレゼントを持ってきてくれたり「おめでとう」と言ってくれたりしたが、麻奈美がパーティー開催を断った。
「今は、そんな気分じゃないから……あ、そうだ、芝原さんの就職が決まったらお祝いしてあげよう!」
麻奈美は自分のことより、芝原のことを優先していた。
「そうだな。あいつも喜ぶだろうな」
教育実習三日目の朝、ほとんどの生徒が連絡網の指示通り、いつも通りに登校した。千秋はもちろん芝原を信じて笑っていてくれたし、他の生徒たちも、「やっぱり、今が大事だからなぁ」と、考え直してくれていた。
そして朝のホームルームで、芝原からの校内放送が入った。麻奈美も知らなかったことなので、真剣に聞いた。
暴力団絡みの家に生まれて、そうやって育てられたこと。周りに真面目な人がいなくて、何が正しいのかわからなくて、喧嘩するしか能がなかったこと。親の見栄で星城に入れられて、もちろん大人しくするわけがなくて、成長と共にやることも酷くなっていったこと。一番厳しい先生にでも、全然怯まなかったこと。
麻奈美が芝原から聞いたこと、平太郎から聞いたこと、芝原はほとんどを正直に話した。そして最後に、三年の時の担任の先生が僕に道を開いてくれた、と続けた。
『僕はただ──平和な家庭に憧れてた。心配してくれる人がいて、守りたいものがあって、みんなと楽しく出来て──そんな暮らしが、ただ欲しかった。勉強は確かに大事。一生懸命勉強して、成績を上げるのも大事。だけど、それだけじゃない。もっと大事なものもあるよ、って……伝えたくて、僕は教師を目指してる。僕はもう、昔みたいなことはしない。みんなの力を貸してください!』
長い校内放送が終わると、あちこちの教室から芝原を呼ぶ声が聞こえた。実習が始まる前に散々悪口を言っていた修二さえ、麻奈美の前の席で妙にそわそわしていた。麻奈美はひとり、前日のことを思い出して照れていたのだけれど。
最初の数日間とはまるで違い、芝原が実習で行ったクラスはいつも楽しそうだったし、麻奈美のクラスに来た時も、授業は先生より分かりやすかったし、話し方も上手いので眠くなることもなかった。
(ん? 違うか……私が、好きだから気になって寝てる場合じゃないのかも……)
「今日は九日、出席番号九番は──。……川瀬さん」
「は、はい」
「その人の名前は?」
「え? 名前?」
「……僕の質問、聞いてましたか?」
「すみません──」
芝原は笑い、再び麻奈美に質問をした。今度は麻奈美もちゃんと聞いていたので、芝原が聞いた歴史上の人物の名前も、正しく答えることが出来た。
一週間ほどで教育実習は終わり、実習生たちはそれぞれの大学へと戻って行った。
「芝原先生、良い先生になって戻ってきてほしいね。ね、麻奈美ちゃん」
「う、うん。授業もわかりやすいしね」
千秋はそのまま芳恵に話しかけたが、麻奈美を見ながらニヤニヤしていた。芝原は星城高校の採用試験しか受けないと実習中に話していた。もし無事に採用されれば、一年間だけ、麻奈美が芝原と接する機会は増える。
星城の採用試験の合否通知は八月下旬。
芝原は試験の間も大夢に足を運んでいたが、パーティーのことはもちろん秘密にしていた。けれど麻奈美も平太郎も、彼の合格を信じていたので、発表の日は朝から張りきってお祝のメニューを用意していた。
カランコロン……
「いらっしゃ──あ、浅岡先生?」
「久しぶりね、麻奈美ちゃん。元気だった?」
「はい、先生も、元気そうですね!」
麻奈美が予想外の人物との再会に喜んでいる横で、平太郎は浅岡に席を勧めていた。
「連絡してくれれば美味しいもの用意したのに」
麻奈美が口をへの字に曲げて言うのを平太郎は聞き逃さなかった。平太郎の作るものが美味しくない、とは言わないが、久々に会うなら普段とは違うものを──
と言いかけて、麻奈美は聞いた。
「先生、もしかして」
浅岡は麻奈美の質問を予想していたのか、「ええ」と笑った。
「今日が発表で、結果は一番にここの人たちに言いたいって言ってたのよ、あいつ。だから待ち合わせることにしたんだけど、まだ来てないのね」
奥の芝原の指定席に彼の姿はまだない。
「浅岡先生、立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
という平太郎の声にひかれ、浅岡はカウンター席に座った。
もちろん、常連客のチヨや三郎も、すでに待機している。
麻奈美が浅岡にコーヒーを出すと、
「私の言った通りでしょ? 一年以内にわかる、って」
「あ──はい」
芝原の昔のことは、チヨと三郎、それから麻奈美の母・光恵にも伝えられていた。もちろん三人とも彼の今の姿を知っているので、麻奈美同様、驚いただけで済んだ。
「やっぱり麻奈美ちゃんには、あの学生さんが──」
チヨが何か言いかけた時。
カランカランカラン! カラン……バタン!
勢いよくドアが開けられて、勢いよく閉った。
「はぁ……はぁ……」
「もっと静かに来れないのか?」
「す、すみません、水、ください……」
息を切らす芝原に麻奈美は水をあげた。真夏の炎天下を走ってきたのだろう、かなりの汗をかいていた。コップにいっぱい入れた水は、すぐに無くなった。
「ありがとう……」
麻奈美はコップを受け取ってカウンターに置き、芝原の言葉を待った。麻奈美だけでなく、集まった客たち全員が彼に注目していた。
「試験──合格しました!」
パァン!
平太郎がカウンターの奥からクラッカーを鳴らし、拍手を送る。他の客たちも平太郎に続き、麻奈美は思わず芝原に飛びついた。
「えっ、ちょっと、麻奈美ちゃん?」
「良かった……おめでとうございます!」
麻奈美はすぐに彼から離れ、カウンターのほうへ向かった。
芝原にはずっと気になっている人がいて、麻奈美の敵う相手ではない。わかっているけれど、芝原が採用されたことが本当に嬉しくて、身体が先に動いていた。
「それじゃ、始めるか」
「何をですか?」
「芝原さんのお祝いです!」
麻奈美がカウンターからケーキを出すと、平太郎は店内BGMを明るめの曲にした。
「今は、そんな気分じゃないから……あ、そうだ、芝原さんの就職が決まったらお祝いしてあげよう!」
麻奈美は自分のことより、芝原のことを優先していた。
「そうだな。あいつも喜ぶだろうな」
教育実習三日目の朝、ほとんどの生徒が連絡網の指示通り、いつも通りに登校した。千秋はもちろん芝原を信じて笑っていてくれたし、他の生徒たちも、「やっぱり、今が大事だからなぁ」と、考え直してくれていた。
そして朝のホームルームで、芝原からの校内放送が入った。麻奈美も知らなかったことなので、真剣に聞いた。
暴力団絡みの家に生まれて、そうやって育てられたこと。周りに真面目な人がいなくて、何が正しいのかわからなくて、喧嘩するしか能がなかったこと。親の見栄で星城に入れられて、もちろん大人しくするわけがなくて、成長と共にやることも酷くなっていったこと。一番厳しい先生にでも、全然怯まなかったこと。
麻奈美が芝原から聞いたこと、平太郎から聞いたこと、芝原はほとんどを正直に話した。そして最後に、三年の時の担任の先生が僕に道を開いてくれた、と続けた。
『僕はただ──平和な家庭に憧れてた。心配してくれる人がいて、守りたいものがあって、みんなと楽しく出来て──そんな暮らしが、ただ欲しかった。勉強は確かに大事。一生懸命勉強して、成績を上げるのも大事。だけど、それだけじゃない。もっと大事なものもあるよ、って……伝えたくて、僕は教師を目指してる。僕はもう、昔みたいなことはしない。みんなの力を貸してください!』
長い校内放送が終わると、あちこちの教室から芝原を呼ぶ声が聞こえた。実習が始まる前に散々悪口を言っていた修二さえ、麻奈美の前の席で妙にそわそわしていた。麻奈美はひとり、前日のことを思い出して照れていたのだけれど。
最初の数日間とはまるで違い、芝原が実習で行ったクラスはいつも楽しそうだったし、麻奈美のクラスに来た時も、授業は先生より分かりやすかったし、話し方も上手いので眠くなることもなかった。
(ん? 違うか……私が、好きだから気になって寝てる場合じゃないのかも……)
「今日は九日、出席番号九番は──。……川瀬さん」
「は、はい」
「その人の名前は?」
「え? 名前?」
「……僕の質問、聞いてましたか?」
「すみません──」
芝原は笑い、再び麻奈美に質問をした。今度は麻奈美もちゃんと聞いていたので、芝原が聞いた歴史上の人物の名前も、正しく答えることが出来た。
一週間ほどで教育実習は終わり、実習生たちはそれぞれの大学へと戻って行った。
「芝原先生、良い先生になって戻ってきてほしいね。ね、麻奈美ちゃん」
「う、うん。授業もわかりやすいしね」
千秋はそのまま芳恵に話しかけたが、麻奈美を見ながらニヤニヤしていた。芝原は星城高校の採用試験しか受けないと実習中に話していた。もし無事に採用されれば、一年間だけ、麻奈美が芝原と接する機会は増える。
星城の採用試験の合否通知は八月下旬。
芝原は試験の間も大夢に足を運んでいたが、パーティーのことはもちろん秘密にしていた。けれど麻奈美も平太郎も、彼の合格を信じていたので、発表の日は朝から張りきってお祝のメニューを用意していた。
カランコロン……
「いらっしゃ──あ、浅岡先生?」
「久しぶりね、麻奈美ちゃん。元気だった?」
「はい、先生も、元気そうですね!」
麻奈美が予想外の人物との再会に喜んでいる横で、平太郎は浅岡に席を勧めていた。
「連絡してくれれば美味しいもの用意したのに」
麻奈美が口をへの字に曲げて言うのを平太郎は聞き逃さなかった。平太郎の作るものが美味しくない、とは言わないが、久々に会うなら普段とは違うものを──
と言いかけて、麻奈美は聞いた。
「先生、もしかして」
浅岡は麻奈美の質問を予想していたのか、「ええ」と笑った。
「今日が発表で、結果は一番にここの人たちに言いたいって言ってたのよ、あいつ。だから待ち合わせることにしたんだけど、まだ来てないのね」
奥の芝原の指定席に彼の姿はまだない。
「浅岡先生、立ち話も何ですから、どうぞ中へ」
という平太郎の声にひかれ、浅岡はカウンター席に座った。
もちろん、常連客のチヨや三郎も、すでに待機している。
麻奈美が浅岡にコーヒーを出すと、
「私の言った通りでしょ? 一年以内にわかる、って」
「あ──はい」
芝原の昔のことは、チヨと三郎、それから麻奈美の母・光恵にも伝えられていた。もちろん三人とも彼の今の姿を知っているので、麻奈美同様、驚いただけで済んだ。
「やっぱり麻奈美ちゃんには、あの学生さんが──」
チヨが何か言いかけた時。
カランカランカラン! カラン……バタン!
勢いよくドアが開けられて、勢いよく閉った。
「はぁ……はぁ……」
「もっと静かに来れないのか?」
「す、すみません、水、ください……」
息を切らす芝原に麻奈美は水をあげた。真夏の炎天下を走ってきたのだろう、かなりの汗をかいていた。コップにいっぱい入れた水は、すぐに無くなった。
「ありがとう……」
麻奈美はコップを受け取ってカウンターに置き、芝原の言葉を待った。麻奈美だけでなく、集まった客たち全員が彼に注目していた。
「試験──合格しました!」
パァン!
平太郎がカウンターの奥からクラッカーを鳴らし、拍手を送る。他の客たちも平太郎に続き、麻奈美は思わず芝原に飛びついた。
「えっ、ちょっと、麻奈美ちゃん?」
「良かった……おめでとうございます!」
麻奈美はすぐに彼から離れ、カウンターのほうへ向かった。
芝原にはずっと気になっている人がいて、麻奈美の敵う相手ではない。わかっているけれど、芝原が採用されたことが本当に嬉しくて、身体が先に動いていた。
「それじゃ、始めるか」
「何をですか?」
「芝原さんのお祝いです!」
麻奈美がカウンターからケーキを出すと、平太郎は店内BGMを明るめの曲にした。