角砂糖が溶けるように

5-2 卒業後の進路

 一週間後。
 大夢のカウンター席には、いつも通りにチヨと三郎の姿があった。まだ昼間は陽射しが強いので、朝のうちに店に入っていた。
 麻奈美も夏休みになっていたので、開店同時から平太郎を手伝っている。お昼が近付いてから昼食に来る人で忙しくなり、その次のピークは三時頃になる。学校からは問答無用で宿題が大量に出されていたが、麻奈美はすでにほとんどを片づけていた。
「毎日、えらいねぇ。友達とは遊びに行かないのかい?」
 アイスコーヒーを飲みながらチヨは麻奈美に聞いた。
 隣では三郎が、ミックスジュースを飲みながら新聞を読んでいる。
「うーん……ここにいるほうが楽しいんです」
「涼しいしな」
 平太郎は食器を洗いながら笑っていた。
「平ちゃん、それは年寄りの言うことだよ。若い子が遊びに行くのに暑さなんか気にするもんか」
 チヨの言う通り、若者は大抵、暑さを気にせず遊びに行っている。
 外は熱いから、汗をかくから……と言うのは、大人の方が多い。
「海とかプールに行って泳いでも楽しそうだけどねぇ」
 三郎が見ているのは、新聞の『海水浴が大繁盛』という記事。写真つきで載っているのをチヨに見せた。
「そうだ、麻奈美ちゃん、あの学生さん」
「……はい?」
 チヨの言う学生さんというのは芝原のことなので、麻奈美は一瞬、ピクリとした。
「麻奈美ちゃんとお似合いだと思うんだけどねぇ、どう?」
「──いや、それは……ないです」
 本当は、麻奈美の頭の中は芝原でいっぱいになっていた。
 教育実習の最初の頃に抱きしめられてから、眠れない夜が続いた。
 彼には気になっている人がいると、わかっているのに。
 本人からも、彼氏ではない、と言われているのに。
『芝原先生をゲットするんだよ?』
 あの千秋の台詞も何度も頭でこだまして、本当にそうしたくて、考えれば考えるほど、眠れなかった。
「あいつには、ずっと気になってる人がいるんです。麻奈美もわかってる。な?」
「うん……」
 抱きしめられた夜は彼が酔っていたから、覚えていないのだろうか。
 お祝いの時に飛びついたら、驚いていた。
(でも、修二とは付き合おうとは思わないなぁ……可哀想だけど)
「そうだ平ちゃん、今日は学生さんは?」
「確か、卒業アルバムの撮影があるとかで、大学に行ってますよ」
「本当に良かったねぇ、就職も決まって卒業も出来て」
 チヨは、カウンターに置かれたアルバムを手に取っていた。それは大夢がオープンしてからの出来事を、平太郎が撮影してきたものだった。開店祝い、最初の客、常連客の笑顔。麻奈美が手伝いだしてからは、平太郎が仕事をする姿も収められている。
 もちろん、先日のパーティーの写真も、そこに入っていた。
「学生さん、星城の先生になるんだったら、麻奈美ちゃんの先生になるのか」
 三郎はもう新聞を読んでおらず、ミックスジュースの中で溶けた氷をストローでかき混ぜていた。麻奈美も大好きなので欲しくなるが、今は仕事中なので我慢する。
「はい。そっか、先生か……先生──」
 芝原先生と呼ぶのを想像しながら、麻奈美は入学した頃のことを思い出した。麻奈美の家庭教師になった浅岡は、『あそこの先生には惹かれないようにね』と言っていた。
(そんなんじゃ、余計、相手にしてくれないなぁ……)
 今は芝原は麻奈美に優しくしてくれているが、実際に教師になるとどうなるだろう。
 何も変わらず、今まで通りに接してくれるのか。
 学園の外でも、先生という立場は変わらないのか。
(他の女の子たち、動くのかなぁ)
 浅岡は、『星城で先生同士・生徒と先生の恋愛は難しいらしい』とも言っていた。
「先生相手じゃ、どうにもならないねぇ」
 チヨは、教師という立場を正しく理解しているらしい。
「でもなぁ、麻奈美ちゃんは好きなんじゃないのかい?」
 そう言う三郎の言葉を黙って聞いている平太郎ではなく、自分のコーヒーを淹れる手を止めて振り返った。
「麻奈美はまだ高校生だ、勉強してれば良いんです」
「ほら、また始まったよ、平ちゃんのヤキモチ」
「ヤキモチじゃないですよ。本当のことですよ」
「いや、絶対にヤキモチだね。学生さんに取られると思って焦ってるんだよ」
 チヨがそう言うのを聞いて、麻奈美は思わず笑ってしまった。
 芝原が平太郎から麻奈美を取る──。
「チヨさん、その心配はないですよ。芝原さんには、ずっと、何年も前から気になる人がいるし、私は相手にされないんです」
「それにしちゃあ、毎日ここに来てるけど、いつ会ってるんだい?」
「それは、……夜とか、大学が一緒、とか?」
 確かにチヨの言う通り、芝原はほぼ毎日のように大夢に通っている。
 麻奈美の知っている限りでは、常連客の中では滞在時間が一番長い。
 彼は勉強をしに来ているから短い時間では帰らないが、本当に、いつその人に会っているのだろうか。
 どんな人なのか、いつどこで会っているのか、誰にも聞けない。
「あの学生さんが忘れられないって、どんな人だろうねぇ。平ちゃんは知らないのかい?」
 アルバムを捲りながらチヨは聞いた。
「さぁ……僕が教師の頃から言ってますからね。よっぽど好きなんだろうな」
 再び平太郎は向き直り、自分のコーヒーをカップに入れた。
「麻奈美ちゃんはどうするのか決めたのかい?」
「何をですか?」
「高校を出てからだよ。大学へ行くのか、就職するのか」
「まだです。何も考えてなくて……」
 考えていない、というより、考える余裕がなかった。
 いつもなら埋まっているはずの奥のテーブル席は、今日はまだ誰も使っていない。
< 38 / 84 >

この作品をシェア

pagetop