角砂糖が溶けるように
5-3 たとえばの話
夏休みも終わる頃、麻奈美は千秋の家に招かれていた。
もちろん、二人とも宿題はすでに終わっているので勉強会ではない。本当は芳恵を含めた三人で集まる予定だったのが、芳恵は光輔とのデートに行ってしまった。
久々に遊べそうなのに寂しい、と麻奈美は思ったが、千秋には好都合だった。麻奈美と芝原の関係を聞ける、良い機会だ。
「もちろん、私には話してくれるよね？」
授業がある間は毎日会っていたが、夏休みになって会うのは初めてだった。麻奈美があまり家にいないから電話もほとんどしていないし、パソコンは企業で使われているくらいにしか普及していないので、一般家庭にはほとんど置かれていない。
「どこから話せば、良いの？」
「うーん……教育実習あたりから。先生が放送した日、麻奈美ちゃん眠そうだったんだけど、何かあったの？」
あの日、麻奈美は朝から眠そうな顔をしていた。
唯一、元気に起きているのが芝原の授業中だったのを、千秋は知っていた。
「他の先生の時は、ものすごい眠そうなのに、芝原先生の時だけ起きてるんだもん。ね、何か進展あったの？」
「──前の日の夜、抱きしめられた」
「わあ！ やった！」
「でも、違……芝原さん、酔ってたんだよ。千秋ちゃんに待ってもらってた時、担任に伝言、お店で待ってます、って伝言お願いして……芝原さんが来たのが八時半くらい」
「あれ？ お店って確か、夕方には閉まるって聞いたけど」
「うん。でもあの日は、芝原さんが来るまで待った。なかなか来ないから、おじいちゃんには帰れって言われたけど、勉強しながら待った」
麻奈美はつい眠ってしまっていたが、芝原の気配に気づいて目を覚ました。
そして、もうダメだと言う芝原に、諦めるな、と言った。
「お店の中はコーヒーの匂いが強くてわからなかったんだけど、お酒のにおいがした。校長先生に何言われたかは知らないけど、辛かったんだよ、きっと」
おそらく、お酒を飲みながら悩んでいたのだろう、と麻奈美は思った。
教師になって、やっていけるのか。
大夢には、行ってもいいのか。
「でも、来てくれたんでしょ？ 麻奈美ちゃんに会いに」
「だけど、それは……私が伝言したから……」
店には来ずに帰ろうかと思ったけど待たせているのは申し訳ない、とも芝原は言っていた。麻奈美は彼が来るまで、何時間でも待つつもりだった。
「じゃ、なんで抱きしめられたの？ 好きでもなかったらしないと思うけどなぁ」
「酔ってたから、無意識だったんだよ。たぶん。それに」
「それに？」
「──覚えてないみたい。あの時も、僕が同級生だったら、って言ってたし。素敵な人が、いるんだよ」
芝原が高校の頃から気になって、今も忘れることが出来ない人。
本人に聞くわけにはいかないし、平太郎も知らないと言っている。
浅岡には、聞く機会がなかった。
「もし、先生が本当にその人が好きなら、真っ先に行くんじゃないの？」
「一緒に、呑んでたんだと思う」
そうとしか考えられなかった。
校長に厳しいことを言われて真っ先に好きな人に会いに行き、慰めてもらってから麻奈美に会いにきた。その人がまだ芝原の彼女でないことはなんとなくわかっていたし、もしそうなら、名前が出てきていてもおかしくはない。
「例えばだよ、その、先生の気になってる人が」
そこまで言って、千秋は麻奈美を見た。
「その人が──麻奈美ちゃんだったらどうする？」
「え？ そんなわけないよ！ 今までだって、子供扱いされてたし……」
「でも、仮にも抱きしめられたんでしょ？ 絶対何かあるって！」
麻奈美もそう思いたかった。
けれど、芝原が言っていた「僕が同級生だったら」という言葉は、『年が離れてるから恋愛対象外』という意味にしか捉えられなかった。第一、芝原が気になり始めた高校生の頃、麻奈美とはまだ面識がない。
「ねぇ、もう一つ教えて。知ってるんでしょ？ 試験の結果！」
「あ──うん。あの日は、自分から飛びついちゃった」
「……え？ 何それ、本当に？ それで、どうなったの？」
麻奈美がそう言うのは予想外だったのだろう、千秋は目を丸くして口をぽかんと開けていた。
「お店だったし、みんなもいるからすぐ離れたんだけどね……芝原さん、ちょっと困ってるように見えた。だから、たぶん、私じゃないよ」
「なんで飛びついたの？」
「あ……試験には合格したんだって」
「それを先に言わないと！」
言葉では怒りながら、千秋は喜んでいた。
千秋にはもちろん彼氏がいるが、若くてかっこいい先生はやっぱり嬉しい。
「多いだろうね、先生に近付こうとする子」
「うん。でも、星城は厳しいから、どうなのかな」
「麻奈美ちゃんがそんなんでどうするの」
「え？ だって、先生相手には」
「先生である前に、麻奈美ちゃんにとっては大切な人なんでしょ？」
「それはそうだけど……」
「来年は三年で受験もあるから、担任にはならないだろうけど……早く見たいなー、麻奈美ちゃんと先生のウエディング！」
「ええっ、待ってよ、なんでそこまで飛ぶの？」
慌てる麻奈美を余所に、千秋は嬉しそうに未来のことを想像していた。
もちろん、二人とも宿題はすでに終わっているので勉強会ではない。本当は芳恵を含めた三人で集まる予定だったのが、芳恵は光輔とのデートに行ってしまった。
久々に遊べそうなのに寂しい、と麻奈美は思ったが、千秋には好都合だった。麻奈美と芝原の関係を聞ける、良い機会だ。
「もちろん、私には話してくれるよね？」
授業がある間は毎日会っていたが、夏休みになって会うのは初めてだった。麻奈美があまり家にいないから電話もほとんどしていないし、パソコンは企業で使われているくらいにしか普及していないので、一般家庭にはほとんど置かれていない。
「どこから話せば、良いの？」
「うーん……教育実習あたりから。先生が放送した日、麻奈美ちゃん眠そうだったんだけど、何かあったの？」
あの日、麻奈美は朝から眠そうな顔をしていた。
唯一、元気に起きているのが芝原の授業中だったのを、千秋は知っていた。
「他の先生の時は、ものすごい眠そうなのに、芝原先生の時だけ起きてるんだもん。ね、何か進展あったの？」
「──前の日の夜、抱きしめられた」
「わあ！ やった！」
「でも、違……芝原さん、酔ってたんだよ。千秋ちゃんに待ってもらってた時、担任に伝言、お店で待ってます、って伝言お願いして……芝原さんが来たのが八時半くらい」
「あれ？ お店って確か、夕方には閉まるって聞いたけど」
「うん。でもあの日は、芝原さんが来るまで待った。なかなか来ないから、おじいちゃんには帰れって言われたけど、勉強しながら待った」
麻奈美はつい眠ってしまっていたが、芝原の気配に気づいて目を覚ました。
そして、もうダメだと言う芝原に、諦めるな、と言った。
「お店の中はコーヒーの匂いが強くてわからなかったんだけど、お酒のにおいがした。校長先生に何言われたかは知らないけど、辛かったんだよ、きっと」
おそらく、お酒を飲みながら悩んでいたのだろう、と麻奈美は思った。
教師になって、やっていけるのか。
大夢には、行ってもいいのか。
「でも、来てくれたんでしょ？ 麻奈美ちゃんに会いに」
「だけど、それは……私が伝言したから……」
店には来ずに帰ろうかと思ったけど待たせているのは申し訳ない、とも芝原は言っていた。麻奈美は彼が来るまで、何時間でも待つつもりだった。
「じゃ、なんで抱きしめられたの？ 好きでもなかったらしないと思うけどなぁ」
「酔ってたから、無意識だったんだよ。たぶん。それに」
「それに？」
「──覚えてないみたい。あの時も、僕が同級生だったら、って言ってたし。素敵な人が、いるんだよ」
芝原が高校の頃から気になって、今も忘れることが出来ない人。
本人に聞くわけにはいかないし、平太郎も知らないと言っている。
浅岡には、聞く機会がなかった。
「もし、先生が本当にその人が好きなら、真っ先に行くんじゃないの？」
「一緒に、呑んでたんだと思う」
そうとしか考えられなかった。
校長に厳しいことを言われて真っ先に好きな人に会いに行き、慰めてもらってから麻奈美に会いにきた。その人がまだ芝原の彼女でないことはなんとなくわかっていたし、もしそうなら、名前が出てきていてもおかしくはない。
「例えばだよ、その、先生の気になってる人が」
そこまで言って、千秋は麻奈美を見た。
「その人が──麻奈美ちゃんだったらどうする？」
「え？ そんなわけないよ！ 今までだって、子供扱いされてたし……」
「でも、仮にも抱きしめられたんでしょ？ 絶対何かあるって！」
麻奈美もそう思いたかった。
けれど、芝原が言っていた「僕が同級生だったら」という言葉は、『年が離れてるから恋愛対象外』という意味にしか捉えられなかった。第一、芝原が気になり始めた高校生の頃、麻奈美とはまだ面識がない。
「ねぇ、もう一つ教えて。知ってるんでしょ？ 試験の結果！」
「あ──うん。あの日は、自分から飛びついちゃった」
「……え？ 何それ、本当に？ それで、どうなったの？」
麻奈美がそう言うのは予想外だったのだろう、千秋は目を丸くして口をぽかんと開けていた。
「お店だったし、みんなもいるからすぐ離れたんだけどね……芝原さん、ちょっと困ってるように見えた。だから、たぶん、私じゃないよ」
「なんで飛びついたの？」
「あ……試験には合格したんだって」
「それを先に言わないと！」
言葉では怒りながら、千秋は喜んでいた。
千秋にはもちろん彼氏がいるが、若くてかっこいい先生はやっぱり嬉しい。
「多いだろうね、先生に近付こうとする子」
「うん。でも、星城は厳しいから、どうなのかな」
「麻奈美ちゃんがそんなんでどうするの」
「え？ だって、先生相手には」
「先生である前に、麻奈美ちゃんにとっては大切な人なんでしょ？」
「それはそうだけど……」
「来年は三年で受験もあるから、担任にはならないだろうけど……早く見たいなー、麻奈美ちゃんと先生のウエディング！」
「ええっ、待ってよ、なんでそこまで飛ぶの？」
慌てる麻奈美を余所に、千秋は嬉しそうに未来のことを想像していた。
