角砂糖が溶けるように
5-4 一番乗りの客
麻奈美が千秋の家に行っているのと同じ頃、平太郎は一人、店内で客を待っていた。何もしないのは退屈なので、自分のコーヒーを淹れることにした。常連客もそろそろ来るはずなので、その用意も忘れていない。
麻奈美が夜遅くまで芝原を待っていた日、いつの間にか平太郎は眠ってしまっていた。麻奈美が入口を閉めたのは見ていたが、その後の記憶があまりない。朝になって目が覚めて初めて知った──自分が寝ている隣に麻奈美が、少し離れたところに芝原が眠っていた。
(何があったんだ……?)
頭を整理しているうちに、麻奈美の目覚まし時計が鳴り響いた。昨年、両親が旅行中に泊まりに来た時から、そのまま置いたままにしている。平太郎が使うことはめったになく、休憩に入った麻奈美がときどき使っていた。
目覚まし時計の音には麻奈美が先に気付き、思い出して芝原を揺さぶって起していた。平太郎が寝ている間には特に何もなかったらしく、ひとまず安心した。
(まぁ、そんな関係ではないからな)
麻奈美は家には夜のうちに電話連絡していたようで、起きてすぐに帰って行った。芝原もしばらくは二日酔いの頭痛で頭を押さえていたが、学校に行かなければならないからと、支度をしに家に戻った。
そして学校で芝原が校内放送をして、実習も無事に終わったことは麻奈美から聞いていた。教師になれるかどうかはともかく、実習が一番心配だった。
芝原が無事に星城高校の教師に採用されたことは、本人から聞いた。
けれど平太郎は、まだ何も安心していなかった。芝原の大学卒業後の仕事のことではなく──麻奈美との関係を、いつも一番気にしていた。チヨや三郎がいつも言っている『麻奈美と芝原がお似合い』という言葉が、頭から離れなかった。
(まだ認めないからな。もっとも、麻奈美は気付いていないが──)
カランコロン……
大夢に一番乗りで現れた客を、平太郎はじっと見つめた。
「──な、なんですか、いきなり……」
「別に。君がどういう人物なのか、見極めてただけだ」
「何ですか、それ。僕のことなら、知ってるんじゃないですか?」
芝原はそう苦笑しながら、珍しくカウンター席に座った。試験にも合格して大学卒業も確定しているので、以前ほど勉強する必要は今はないらしい。
平太郎はコーヒーを二人分入れ、一つを芝原に出した。
一緒に出ていたおしぼりで手をふきながら、芝原は店内を見渡した。
「麻奈美なら、今日は友達のところに行ってるよ」
「そう、ですか……」
「いま、麻奈美を探したんだろう?」
平太郎の言葉は図星だったようで、芝原は言葉が出なかった。
「こないだ、何があったんだ? うちに無断で泊まった日」
「あ──すみません、あの日の記憶、あんまりないんです」
「まったく、どれだけ呑んだんだ? それも覚えてないのか?」
記憶の糸をたぐっている芝原を見ながら、平太郎はコーヒーを飲んだ。他の客が来る気配はなかったので、普段は使わない折り畳みの椅子を出してきて座った。
「校長と話をして、終わった頃に廊下の窓から麻奈美ちゃんが見えたんです」
「ああ、担任の先生と話していたそうだ、君のことについて──そのまま帰されたそうだけどね。確か、伝言をお願いしたとか……君も、来たじゃないか」
「それは覚えてるんです。呑みながら、来て良いのか悩んでて。気付いたら、すみません、寝てました」
芝原は本当に、あの日のことを覚えていないらしい。
けれど平太郎は、麻奈美と芝原が何か話しているのを、確かに聞いた。
壁一枚隔てていたので内容はわからず、起きた時には、部屋に二人がいた。
「麻奈美に何かしたのか?」
「え? 何をですか?」
「それを聞いてるんだ」
平太郎はため息をつき、芝原は顔を歪めた。
「ちょっと待ってくださいね、あの日は、確か……僕も、すぐに学校から帰ったんです。でも勉強する気にはならなくて、ずっと悩んでて──」
「何もなかったんなら別に良い」
「良いんですか?」
「──麻奈美にも同じことを聞いたんだ」
芝原はカップを持とうとしていた手を止め、平太郎を見た。
「君とはただ、話をしただけだと言っていたよ。だけど、様子がおかしい」
「おかしい? どういう風にですか」
「君が試験合格を言いに来た時──」
あの日のことは、芝原もはっきりと覚えていた。
合格したと伝えると、麻奈美が飛びついてきた。
もちろん、麻奈美とはそんな関係ではないので、芝原は驚いて硬直した。
「あれはどういう意味なんだ? 何か、あったのか?」
「いえ、何もないです」
「本当に──手を出してないんだろうな?」
「だ、出してないですよ! 出せないです!」
「それなら、もういい。終わったことだ」
そう言って平太郎は、冷蔵庫から野菜を出して切り始めた。時計の針は十二時ちょうどを指していたので、昼休憩にやってくる客へのサラダの準備をしておく。キャベツやキュウリと一緒にトマトも乗せ、ドレッシングは客が選んだものを出す直前にかける。もちろん、芝原もまだ帰るつもりはなかったので、ランチメニューを注文していた。
平太郎はしばらく昼の客たちの接客をして、芝原とは話さなかった。
(麻奈美は絶対に何か隠してる。芝原は、どうなんだろうな)
麻奈美が夜遅くまで芝原を待っていた日、いつの間にか平太郎は眠ってしまっていた。麻奈美が入口を閉めたのは見ていたが、その後の記憶があまりない。朝になって目が覚めて初めて知った──自分が寝ている隣に麻奈美が、少し離れたところに芝原が眠っていた。
(何があったんだ……?)
頭を整理しているうちに、麻奈美の目覚まし時計が鳴り響いた。昨年、両親が旅行中に泊まりに来た時から、そのまま置いたままにしている。平太郎が使うことはめったになく、休憩に入った麻奈美がときどき使っていた。
目覚まし時計の音には麻奈美が先に気付き、思い出して芝原を揺さぶって起していた。平太郎が寝ている間には特に何もなかったらしく、ひとまず安心した。
(まぁ、そんな関係ではないからな)
麻奈美は家には夜のうちに電話連絡していたようで、起きてすぐに帰って行った。芝原もしばらくは二日酔いの頭痛で頭を押さえていたが、学校に行かなければならないからと、支度をしに家に戻った。
そして学校で芝原が校内放送をして、実習も無事に終わったことは麻奈美から聞いていた。教師になれるかどうかはともかく、実習が一番心配だった。
芝原が無事に星城高校の教師に採用されたことは、本人から聞いた。
けれど平太郎は、まだ何も安心していなかった。芝原の大学卒業後の仕事のことではなく──麻奈美との関係を、いつも一番気にしていた。チヨや三郎がいつも言っている『麻奈美と芝原がお似合い』という言葉が、頭から離れなかった。
(まだ認めないからな。もっとも、麻奈美は気付いていないが──)
カランコロン……
大夢に一番乗りで現れた客を、平太郎はじっと見つめた。
「──な、なんですか、いきなり……」
「別に。君がどういう人物なのか、見極めてただけだ」
「何ですか、それ。僕のことなら、知ってるんじゃないですか?」
芝原はそう苦笑しながら、珍しくカウンター席に座った。試験にも合格して大学卒業も確定しているので、以前ほど勉強する必要は今はないらしい。
平太郎はコーヒーを二人分入れ、一つを芝原に出した。
一緒に出ていたおしぼりで手をふきながら、芝原は店内を見渡した。
「麻奈美なら、今日は友達のところに行ってるよ」
「そう、ですか……」
「いま、麻奈美を探したんだろう?」
平太郎の言葉は図星だったようで、芝原は言葉が出なかった。
「こないだ、何があったんだ? うちに無断で泊まった日」
「あ──すみません、あの日の記憶、あんまりないんです」
「まったく、どれだけ呑んだんだ? それも覚えてないのか?」
記憶の糸をたぐっている芝原を見ながら、平太郎はコーヒーを飲んだ。他の客が来る気配はなかったので、普段は使わない折り畳みの椅子を出してきて座った。
「校長と話をして、終わった頃に廊下の窓から麻奈美ちゃんが見えたんです」
「ああ、担任の先生と話していたそうだ、君のことについて──そのまま帰されたそうだけどね。確か、伝言をお願いしたとか……君も、来たじゃないか」
「それは覚えてるんです。呑みながら、来て良いのか悩んでて。気付いたら、すみません、寝てました」
芝原は本当に、あの日のことを覚えていないらしい。
けれど平太郎は、麻奈美と芝原が何か話しているのを、確かに聞いた。
壁一枚隔てていたので内容はわからず、起きた時には、部屋に二人がいた。
「麻奈美に何かしたのか?」
「え? 何をですか?」
「それを聞いてるんだ」
平太郎はため息をつき、芝原は顔を歪めた。
「ちょっと待ってくださいね、あの日は、確か……僕も、すぐに学校から帰ったんです。でも勉強する気にはならなくて、ずっと悩んでて──」
「何もなかったんなら別に良い」
「良いんですか?」
「──麻奈美にも同じことを聞いたんだ」
芝原はカップを持とうとしていた手を止め、平太郎を見た。
「君とはただ、話をしただけだと言っていたよ。だけど、様子がおかしい」
「おかしい? どういう風にですか」
「君が試験合格を言いに来た時──」
あの日のことは、芝原もはっきりと覚えていた。
合格したと伝えると、麻奈美が飛びついてきた。
もちろん、麻奈美とはそんな関係ではないので、芝原は驚いて硬直した。
「あれはどういう意味なんだ? 何か、あったのか?」
「いえ、何もないです」
「本当に──手を出してないんだろうな?」
「だ、出してないですよ! 出せないです!」
「それなら、もういい。終わったことだ」
そう言って平太郎は、冷蔵庫から野菜を出して切り始めた。時計の針は十二時ちょうどを指していたので、昼休憩にやってくる客へのサラダの準備をしておく。キャベツやキュウリと一緒にトマトも乗せ、ドレッシングは客が選んだものを出す直前にかける。もちろん、芝原もまだ帰るつもりはなかったので、ランチメニューを注文していた。
平太郎はしばらく昼の客たちの接客をして、芝原とは話さなかった。
(麻奈美は絶対に何か隠してる。芝原は、どうなんだろうな)