角砂糖が溶けるように

6-5 式典のあとで

 目を開けると、見慣れない天井が見えた。
 そこがどこなのかは──においですぐに分かった。
 鼻を突くような薬品のにおいが広がっている、ここは保健室だ。
 麻奈美はベッドから上半身を起こした。
(私、どうしてここに……?)
 時計を見ると、午後四時を回っていた。
(そうだ、文化祭!)
 ベッドから降りてカーテンを開けると、すぐそこに先生が見えた。机に向かって本を読みながら、何か書いていた。
「あら、川瀬さん、気がついた?」
「はい……私、どうして、ここに?」
 麻奈美が聞くと、先生は立ち上がって麻奈美に席を勧めた。
「詳しいことは知らないんだけど、急に倒れちゃったんだって。若い男の子が運んで来てくれて、来年からここの教師になるって言ってたわ」
 先生は麻奈美を見て微笑んでいた。
「そうそう、今、みんな講堂に行ってるわよ」
「講堂?」
「ええ。確か、創立五十周年の式典だったかな?」
 麻奈美は元気になったのを確認してから先生に礼を言い、保健室を出た。
(講堂かぁ……)
 ポケットから鏡を取り出そうとして手を入れると、見覚えのない紙が一枚、折り畳まれて入っていた。広げてみると、芝原からの手紙だった。
『これから式典に出席してきます。その後は、グラウンドで打ち上げがあるらしいよ。僕は式典の続きで、もうしばらく拘束されそう……』
 講堂に近付くと、中から校長先生の挨拶らしきものが聞こえてきた。麻奈美は中に入るべきだが、あいにく扉はすべて閉められていた。
(別に、出なくても、良いよね……)
 麻奈美は講堂から離れ、中庭に移動した。先生も生徒たちもほぼ全員が講堂にいるので、誰の気配もない。
(私、何があったんだろう……)
 芝原と一緒にお化け屋敷に入ったことははっきり覚えていた。
(確か、出口のドアが見えて、外に出て……)
 つい数時間前のことを思い出してみる。
 ドアを開けて外の明るい世界に戻ったとき、麻奈美は──
(そうだ、安心して力抜けたんだ……)
 それを芝原が保健室まで運んでくれたらしい。
(ダメだなぁ、私。迷惑ばっかりかけてる)
 麻奈美はため息をついて、ぼんやり遠くを見た。生徒たちが講堂から出て、靴を履き替えているのが見えた。グラウンドに行くのだろうか。
 お化け屋敷の前で分かれた友人たちにも会いたかったが、麻奈美はグラウンドには行かなかった。行くような気分にはならなかった。
(もうしばらくここにいよう。みんなが教室に戻る時に、紛れようかな)
 やがてグラウンドのほうから生徒たちの笑い声が聞こえてきた。舞台で歌を歌っていたクラスだろうか、その曲をアカペラで歌っていた。
(去年もこんなだったのかなぁ。来年は、どうなるんだろう)
 文化祭の閉幕に立ちあえなかったことを悔やみながら、麻奈美はしばらく椅子に座っていた。何も考えずにグラウンドの方を見つめて、ただ風に吹かれていた。
「麻奈美ちゃん?」
 声のした方を見ると、疲れた表情の芝原が歩いてきていた。
「式典は……終わったんですか?」
「いや、まだだよ。大事な挨拶は終わって、あとは大人の打ち上げだから──校長とか教頭とか、PTAの会長とかだらけだから、抜け出してきた」
 ははは、と笑いながら、芝原は麻奈美の隣に座った。
「麻奈美ちゃんは、打ち上げ行かないの?」
「──良いんです。去年も行ってないし。それに、芝原さんに謝りたくて」
「どうして?」
「だって、お昼からずっと迷惑かけてるから……ごめんなさい」
 麻奈美が謝ると、芝原は麻奈美の頭をポンポンと叩いた。
「謝ることないよ、悪いことしたわけじゃないんだし」
「でも、私のせいで……私が、ダメなせいで……」
「僕は、楽しかったよ」
「え? 何がですか?」
「全部。型抜きもそうだけど、浅岡と二人で回るよりは、現役の高校生と一緒に回れて懐かしい感じだったし、麻奈美ちゃんの弱点もわかったし」
 芝原は笑いながら、最後の言葉を強調した。
「そんな、笑わないでください……」
 本当に怖かったんです、と言う麻奈美をポンポン叩く手を、芝原はそのまま乗せておいた。その僅かな重みの分だけ、麻奈美は彼の方に身体を傾けた。
「僕も、前に麻奈美ちゃんに迷惑かけた。だから、お相子だよ」
「迷惑なんか、かかってませんよ?」
「じゃ、この話は終わり。わかった?」
「──はい」
 大人しく従う麻奈美を、芝原は再度、ポンポンと叩き始めた。
「芝原さん……私、子供じゃないですよ」
「え? 本当に? 高校生はどう考えても未成年だけどな」
 芝原は楽しそうに笑っていた。麻奈美が何も言わないのでそのままポンポンと叩き続け、やがてその手は頭を優しく撫でた。
「こないだの返事、まだしてなかったね」
 ぽつりと言ってから、芝原はようやく麻奈美から手を離した。
「嬉しかったよ、ああ言ってもらえて。あの日はどん底だったけど、元気が出た。だけど、僕は──麻奈美ちゃんには、何も出来ない」
 冷たい言葉を言ってから、芝原は再び麻奈美の頭を撫でた。
「芝原さん、言ってることとやってることが逆なんですけど」
「何も出来ない、っていうか、答えは出なかった。もちろん、麻奈美ちゃんのことは嫌いじゃない。むしろ好きなくらい──だから、ときどきこうやって触れたくなる。でも、それ以上には進めない。進んだら、ダメなんだ」
 撫でていた手が麻奈美を引き寄せ、もう片方の腕で閉じ込めた。
 諦めなさいと言われた気がして、麻奈美はチクリと胸が痛んだ。
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