角砂糖が溶けるように
1-4 ショートケーキ
「──セ、……川瀬!」
「は、はいっ」
「ぼーっとしてないで、立ちなさい、教科書一六頁、読んで」
学校では英語の授業中だった。数学と違って英語は得意なので、難しい単語が出ない限りはスラスラ読めるほうだ。つい先ほどまで違うことを考えていたのに、流暢な英語を喋っている、と自分でも思う。
大夢の男性客に傘を届けてから、麻奈美はずっと彼のことを考えていた。
なぜ、注文をしないのか。
なぜ、同じものを出すのか。
なぜ、文句もないのか。
なぜ、麻奈美を知っているのか。
平太郎とは、どういう関係なのか。
けれど、どれだけ悩んでも結果は同じで、彼のことは具体的にはわからなかった。もしかすると、麻奈美の知らないところで、注文を聞いたり、名前を聞かれたりしていたのだろうか。
「なんかこわくない?」
と友人たちは言うが、麻奈美にはそうは思えなかった。
自分の手伝う店の客だからかもしれないが、男性客が危ない人には思えない。実際、平太郎はそのような人とのかかわりを持たないし、麻奈美に向けてくれた笑顔は、汚れたものには思えないのだ。
「俺だったら、まず名乗るけどな」
という修二の意見は適当に聞き流しながら、校門前で麻奈美は友人たちと分かれた。そしてそのまま、家には帰らずに大夢へ向かう。今日は手伝いは休みの日だが、なんとなく足が向いた。
店には、やはり、いつものカウンター席に三郎とチヨがいた。平太郎はカウンターの中で、洗った食器を片づけたりしている。
「あれ、珍しいね。制服で」
三郎はいつもはホットコーヒーを飲んでいるが、今日はミックスジュースを飲んでいた。よくスーパーで売られているサラサラしたやつではなく、リンゴやバナナ等を牛乳と一緒にミキサーでとろりとさせたもの。麻奈美も大好きなのだ。
「やっぱり星城の制服はかわいいねぇ。私らの時は普通の紺の服だったけど、時代は変わったんだねぇ、これからもっと変わるよ。あと百年ちょっとで、ほれ、何て言ったかね、あの青くて丸い耳のない生き物──」
「おお、そうじゃ、あの何とかロボットが生まれた年も近い」
「あれ何て言ったかねぇ、麻奈美ちゃん」
「さて、なんでしょう?」
チヨと三郎にはそのままアニメの話をさせておいて、麻奈美もカウンター席に座った。普段は働いているところなので変な気がするが、たまには良いだろう。
メニューをとって注文を考えていると、
「これ、あちらのお客さんから」
平太郎が麻奈美にイチゴのショートケーキを出した。
「え? なに?」
「昨日のお礼だって」
平太郎が指すほうを見ると、
「あっ、──お礼って……」
例の大学生くらいの男性客だった。
麻奈美はただ傘を届けただけで、何も特別なことはしていない。お礼をもらうようなことをしたつもりはない。
男性客から出されたケーキを食べるのをためらっている麻奈美に、平太郎は「いいから、いただきなさい」と、目で合図した。
「ありがとうございます……」
彼はいつものように、コーヒーを片手に書類を眺めていた。ときどき、ペンで何か書き加えたり、窓の外を眺めたりしている。改めて彼を見ると、本当にきれいな顔をしている。
いったいどこの誰なんだろう……。
「ねぇ、おじいちゃん」
麻奈美は平太郎に聞こうとしたのだが、
「そんなこと聞くもんじゃないよ」
と言われてしまった。
確かに、本人がいる横では失礼かもしれない。
けれど、彼がいない場所で聞いてもはぐらかされてしまう。
「飲み物は? 水で良いのか?」
「え? あ……うーん……」
ショートケーキは大好きだが、生クリームを食べると口が甘くなる。だけど、コーヒーも紅茶も、あまり好きではない。甘いものを食べるときは、酸っぱいものがほしい。
いつもと同じオレンジジュースを頼んだとき、ドアに付いた鐘の音がした。ふと見ると、あの男性客が出て行くところだった。
思い出したように、麻奈美はあとを追う。店内には他の客もいるので、外に行くことにした。ドアの鐘が二回、カランコロン……と鳴り、やがて止んだ。
「あのっ……ありがとうございました」
店から数メートル離れたところで、麻奈美は彼に追い付いた。
「ん? ──いいんだよ。ほんのお礼だから」
男性客は麻奈美に気づいて微笑んだ。普段の顔もきれいだが、笑うと綺麗さが増す……と、つい見とれてしまいそうだが、今はそういうときではない。
「でも、私、何もしてないです、ただ傘を」
「本当に気持ちだから。気にしないで」
「でも──」
「女の子は笑ってるほうが可愛いよ」
そういう彼の手は、いつの間にか麻奈美の頭をポンポン叩いていた。
これ以上、彼に反論してはいけないんだ。
大人相手に、勝とうと思ってはいけないんだ。
彼も、それを望んでいないんだ──。
「そうだ、まだ名前も言ってなかったね」
男性客は鞄からメモ用紙とペンを出し、何か書いて麻奈美に渡した。
「僕だけ麻奈美ちゃん知ってるのも、気持ち悪いでしょ」
そして彼は、また来ると言い残し、どこかへ去って行った。
麻奈美が受け取った紙の切れ端には、『芝原颯太』と書かれていた。
「は、はいっ」
「ぼーっとしてないで、立ちなさい、教科書一六頁、読んで」
学校では英語の授業中だった。数学と違って英語は得意なので、難しい単語が出ない限りはスラスラ読めるほうだ。つい先ほどまで違うことを考えていたのに、流暢な英語を喋っている、と自分でも思う。
大夢の男性客に傘を届けてから、麻奈美はずっと彼のことを考えていた。
なぜ、注文をしないのか。
なぜ、同じものを出すのか。
なぜ、文句もないのか。
なぜ、麻奈美を知っているのか。
平太郎とは、どういう関係なのか。
けれど、どれだけ悩んでも結果は同じで、彼のことは具体的にはわからなかった。もしかすると、麻奈美の知らないところで、注文を聞いたり、名前を聞かれたりしていたのだろうか。
「なんかこわくない?」
と友人たちは言うが、麻奈美にはそうは思えなかった。
自分の手伝う店の客だからかもしれないが、男性客が危ない人には思えない。実際、平太郎はそのような人とのかかわりを持たないし、麻奈美に向けてくれた笑顔は、汚れたものには思えないのだ。
「俺だったら、まず名乗るけどな」
という修二の意見は適当に聞き流しながら、校門前で麻奈美は友人たちと分かれた。そしてそのまま、家には帰らずに大夢へ向かう。今日は手伝いは休みの日だが、なんとなく足が向いた。
店には、やはり、いつものカウンター席に三郎とチヨがいた。平太郎はカウンターの中で、洗った食器を片づけたりしている。
「あれ、珍しいね。制服で」
三郎はいつもはホットコーヒーを飲んでいるが、今日はミックスジュースを飲んでいた。よくスーパーで売られているサラサラしたやつではなく、リンゴやバナナ等を牛乳と一緒にミキサーでとろりとさせたもの。麻奈美も大好きなのだ。
「やっぱり星城の制服はかわいいねぇ。私らの時は普通の紺の服だったけど、時代は変わったんだねぇ、これからもっと変わるよ。あと百年ちょっとで、ほれ、何て言ったかね、あの青くて丸い耳のない生き物──」
「おお、そうじゃ、あの何とかロボットが生まれた年も近い」
「あれ何て言ったかねぇ、麻奈美ちゃん」
「さて、なんでしょう?」
チヨと三郎にはそのままアニメの話をさせておいて、麻奈美もカウンター席に座った。普段は働いているところなので変な気がするが、たまには良いだろう。
メニューをとって注文を考えていると、
「これ、あちらのお客さんから」
平太郎が麻奈美にイチゴのショートケーキを出した。
「え? なに?」
「昨日のお礼だって」
平太郎が指すほうを見ると、
「あっ、──お礼って……」
例の大学生くらいの男性客だった。
麻奈美はただ傘を届けただけで、何も特別なことはしていない。お礼をもらうようなことをしたつもりはない。
男性客から出されたケーキを食べるのをためらっている麻奈美に、平太郎は「いいから、いただきなさい」と、目で合図した。
「ありがとうございます……」
彼はいつものように、コーヒーを片手に書類を眺めていた。ときどき、ペンで何か書き加えたり、窓の外を眺めたりしている。改めて彼を見ると、本当にきれいな顔をしている。
いったいどこの誰なんだろう……。
「ねぇ、おじいちゃん」
麻奈美は平太郎に聞こうとしたのだが、
「そんなこと聞くもんじゃないよ」
と言われてしまった。
確かに、本人がいる横では失礼かもしれない。
けれど、彼がいない場所で聞いてもはぐらかされてしまう。
「飲み物は? 水で良いのか?」
「え? あ……うーん……」
ショートケーキは大好きだが、生クリームを食べると口が甘くなる。だけど、コーヒーも紅茶も、あまり好きではない。甘いものを食べるときは、酸っぱいものがほしい。
いつもと同じオレンジジュースを頼んだとき、ドアに付いた鐘の音がした。ふと見ると、あの男性客が出て行くところだった。
思い出したように、麻奈美はあとを追う。店内には他の客もいるので、外に行くことにした。ドアの鐘が二回、カランコロン……と鳴り、やがて止んだ。
「あのっ……ありがとうございました」
店から数メートル離れたところで、麻奈美は彼に追い付いた。
「ん? ──いいんだよ。ほんのお礼だから」
男性客は麻奈美に気づいて微笑んだ。普段の顔もきれいだが、笑うと綺麗さが増す……と、つい見とれてしまいそうだが、今はそういうときではない。
「でも、私、何もしてないです、ただ傘を」
「本当に気持ちだから。気にしないで」
「でも──」
「女の子は笑ってるほうが可愛いよ」
そういう彼の手は、いつの間にか麻奈美の頭をポンポン叩いていた。
これ以上、彼に反論してはいけないんだ。
大人相手に、勝とうと思ってはいけないんだ。
彼も、それを望んでいないんだ──。
「そうだ、まだ名前も言ってなかったね」
男性客は鞄からメモ用紙とペンを出し、何か書いて麻奈美に渡した。
「僕だけ麻奈美ちゃん知ってるのも、気持ち悪いでしょ」
そして彼は、また来ると言い残し、どこかへ去って行った。
麻奈美が受け取った紙の切れ端には、『芝原颯太』と書かれていた。