角砂糖が溶けるように
6-7 割れた食器
麻奈美が大夢の手伝いを辞めたことは、光恵の耳にも入っていた。麻奈美は自分からは何も言わなかったが、ふと立ち寄った大夢で平太郎が教えてくれた。
学校が終わるといつも店に直行していた麻奈美は、帰ってずっと勉強していた。まだ二年なので友達と遊びに行っても良いだろうと提案したが、麻奈美はそれは嫌だと言った。
「遊びたいけど、友達と会うと、面倒だから」
まさか友人関係が面倒だとは思えず、光恵はすこし考えた。
大夢で平太郎が言っていたことを思い出した。
──麻奈美は、芝原のことで悩んでるみたいだ──
けれど、麻奈美に直接聞くことは出来なかった。いつ部屋に様子を見に行っても真面目に勉強していたし、食事の時間にも、大夢での思い出を話そうとはしなかった。もしかして、と思って「おじいちゃんがね」と話をしても、相槌を打つのは父親だけだった。
「ねぇ、麻奈美」
勉強の合間に麻奈美が休憩していた時、光恵は思い切って聞いた。
「どうして、急にお店の手伝い辞めたの?」
「だって、最近、勉強が難しくなってきたし、宿題も増えたし、来年は受験生だから。勉強しないと、浪人だよ」
「何か……お店で何かあったの?」
「何かって、なに?」
わざとそうしているのだろうか、麻奈美の態度は冷たかった。今までは機嫌が悪くても光恵のことは避けなかったのに、今は顔も見ようとしない。
「たとえば、嫌なことがあった、とか……」
「何もないよ。本当に勉強だから」
「じゃあ、どうして、今までは試験中でも行ってたのに」
「──試験と受験は意味が違うよ」
言いながら立ちあがり、麻奈美はそのまま階段を上がって部屋に入ってしまった。
光恵は長めに溜息をついてから、晩ご飯の支度をした。
(本当に、何もないんだから……勉強しないと……!)
部屋の戸を閉めてから、麻奈美は机に向かった。
大夢の手伝いを辞めたのは、本当に、勉強が理由だった。手伝いばかりをしていて宿題はいつも適当にしかしていなかったし、授業の復習もせずに次の授業に臨んだため、クラスメイトに比べて理解度も低かった。
一か月ほど前に受けた模擬試験の成績も、信じられないほど悪かった。平均点もまだ低い方だったが、それにも届いていない。名前を知っている、というだけで選んだ志望校の判定もほとんどがDだったし、なんとなく書いた星城大学なんて、最悪のE判定が出た。
本気で勉強しないと、わざわざ星城高校に入った意味がない。
次に習う単元の予習をしようと教科書を開いて、麻奈美はさっそく詰まってしまった。もともと苦手だった数学が、急に難しくなった。
「だめだ、苦手に戻ってる……浅岡先生に見てもらおうかなぁ……」
と思いつき、けれど、次の瞬間、ブルブルと頭を振っていた。
浅岡と同時に、芝原も思い出してしまった。
──そもそも成績に影響が出たのは、芝原の存在のせいなのだ。
彼を好きになってしまったために、勉強が手につかない日々が長く続いた。
「もう、意味わからない……ダメだって言いながら、どうしてあんなこと」
芝原には好きな人がいるはずだ。
だから麻奈美は断られた。
それでも麻奈美を抱きしめるとは、いったい何事だ。
「はぁ……バカ……大っ嫌い」
もちろん、友人たちも麻奈美のことが心配だった。
麻奈美が大夢の手伝いを辞めてから、空気が重くなった。
文化祭のあと、麻奈美が戻って来るのを待って、芝原と何かあったのか聞いた。けれど麻奈美は「別に。帰ったよ」としか答えなかった。それから何度か彼の話題を出してみたが、最初のうちは適当に返されて、やがては別の話題に変えられるようになった。
「どうしたんだろう……前はあんなに気にしてたのに」
「やっぱ、ふられたショックかなぁ」
「それか、先生の好きな人が麻奈美ちゃんの知り合いだった、とか」
「──行くか」
「どこに? って、片平君、いたの?」
いつの間にか話の輪に加わっていた修二も、麻奈美のことを気にしていた。
「麻奈美の態度が前と違うからな。俺に冷たいときとは、なんか違う」
「あーそう言われれば……」
「今の麻奈美、目が死んでるんだよな。よし、行こう」
「だから、どこに?」
「麻奈美と何があったのか、あいつから聞きだすんだ」
その麻奈美はすでに帰っていたので、修二と千秋、芳恵は三人で大夢へ向かった。麻奈美がいない分、芝原にも質問しやすいはずだ。
「片平君、変わったよね」
「変わった? 何が?」
大夢へ向かう途中、千秋が笑った。修二は心当たりがないらしい。
「いろいろ。前は、麻奈美ちゃんのストーカーだったけど、今は違うもんね」
「ああ……俺には、麻奈美を受け入れる器がない。それに、麻奈美があいつのこと喋ってるとき、生き生きしてた。麻奈美にはあいつしかいない」
「じゃ、もし本当に麻奈美ちゃんが先生に振られてたら、どうするの? またストーカーするの?」
「そうだなぁ。まずは、麻奈美を慰めないとな」
全く汚れのない眼で修二は前を見つめ、大夢へと歩き続けた。
麻奈美のことは、千秋や芳恵よりも、もちろん芝原よりも詳しいつもりだった。
今の麻奈美がまとう空気を、修二は今までに感じたことがなかった。
麻奈美に再度アタックしたところで受け入れられる可能性は低いけれど、それでも麻奈美のために出来ることをしようと決めた。
店の中では、奥のテーブル席で芝原が勉強していた。
「先生……お久しぶりです」
「君たちは、確か──」
「麻奈美のことで、相談があります」
平太郎にジュースを注文してから、三人は芝原に麻奈美の話をした。文化祭の前後で様子がまったく違うことを、すべて話した。
「いい加減、本当のことを教えてやったらどうなんだ」
いつの間にか平太郎が隣に立っていた。片手にお盆を持って、芝原を見ながら腕を組んでいた。
「本当のことって、何ですか?」
「それは……」
「芝原が気になってる人のことだ。その方が麻奈美もすっきりするだろう」
「やっぱり、麻奈美は──対象外ですか」
「対象外っていうか、ダメなんだ」
ガッシャーン!
突然の何かが割れた音に振りかえると、麻奈美がカウンターの奥で顔を歪めて立っていた。平太郎が覗きこむと、床で食器が割れていた。
「麻奈美、何して……?」
「──っ、もう何も信じない……!」
割れた食器をそのままに、麻奈美は駆け出した。
耳障りなほどに鳴り響いたドアの鐘の音は、しばらく止まらなかった。
学校が終わるといつも店に直行していた麻奈美は、帰ってずっと勉強していた。まだ二年なので友達と遊びに行っても良いだろうと提案したが、麻奈美はそれは嫌だと言った。
「遊びたいけど、友達と会うと、面倒だから」
まさか友人関係が面倒だとは思えず、光恵はすこし考えた。
大夢で平太郎が言っていたことを思い出した。
──麻奈美は、芝原のことで悩んでるみたいだ──
けれど、麻奈美に直接聞くことは出来なかった。いつ部屋に様子を見に行っても真面目に勉強していたし、食事の時間にも、大夢での思い出を話そうとはしなかった。もしかして、と思って「おじいちゃんがね」と話をしても、相槌を打つのは父親だけだった。
「ねぇ、麻奈美」
勉強の合間に麻奈美が休憩していた時、光恵は思い切って聞いた。
「どうして、急にお店の手伝い辞めたの?」
「だって、最近、勉強が難しくなってきたし、宿題も増えたし、来年は受験生だから。勉強しないと、浪人だよ」
「何か……お店で何かあったの?」
「何かって、なに?」
わざとそうしているのだろうか、麻奈美の態度は冷たかった。今までは機嫌が悪くても光恵のことは避けなかったのに、今は顔も見ようとしない。
「たとえば、嫌なことがあった、とか……」
「何もないよ。本当に勉強だから」
「じゃあ、どうして、今までは試験中でも行ってたのに」
「──試験と受験は意味が違うよ」
言いながら立ちあがり、麻奈美はそのまま階段を上がって部屋に入ってしまった。
光恵は長めに溜息をついてから、晩ご飯の支度をした。
(本当に、何もないんだから……勉強しないと……!)
部屋の戸を閉めてから、麻奈美は机に向かった。
大夢の手伝いを辞めたのは、本当に、勉強が理由だった。手伝いばかりをしていて宿題はいつも適当にしかしていなかったし、授業の復習もせずに次の授業に臨んだため、クラスメイトに比べて理解度も低かった。
一か月ほど前に受けた模擬試験の成績も、信じられないほど悪かった。平均点もまだ低い方だったが、それにも届いていない。名前を知っている、というだけで選んだ志望校の判定もほとんどがDだったし、なんとなく書いた星城大学なんて、最悪のE判定が出た。
本気で勉強しないと、わざわざ星城高校に入った意味がない。
次に習う単元の予習をしようと教科書を開いて、麻奈美はさっそく詰まってしまった。もともと苦手だった数学が、急に難しくなった。
「だめだ、苦手に戻ってる……浅岡先生に見てもらおうかなぁ……」
と思いつき、けれど、次の瞬間、ブルブルと頭を振っていた。
浅岡と同時に、芝原も思い出してしまった。
──そもそも成績に影響が出たのは、芝原の存在のせいなのだ。
彼を好きになってしまったために、勉強が手につかない日々が長く続いた。
「もう、意味わからない……ダメだって言いながら、どうしてあんなこと」
芝原には好きな人がいるはずだ。
だから麻奈美は断られた。
それでも麻奈美を抱きしめるとは、いったい何事だ。
「はぁ……バカ……大っ嫌い」
もちろん、友人たちも麻奈美のことが心配だった。
麻奈美が大夢の手伝いを辞めてから、空気が重くなった。
文化祭のあと、麻奈美が戻って来るのを待って、芝原と何かあったのか聞いた。けれど麻奈美は「別に。帰ったよ」としか答えなかった。それから何度か彼の話題を出してみたが、最初のうちは適当に返されて、やがては別の話題に変えられるようになった。
「どうしたんだろう……前はあんなに気にしてたのに」
「やっぱ、ふられたショックかなぁ」
「それか、先生の好きな人が麻奈美ちゃんの知り合いだった、とか」
「──行くか」
「どこに? って、片平君、いたの?」
いつの間にか話の輪に加わっていた修二も、麻奈美のことを気にしていた。
「麻奈美の態度が前と違うからな。俺に冷たいときとは、なんか違う」
「あーそう言われれば……」
「今の麻奈美、目が死んでるんだよな。よし、行こう」
「だから、どこに?」
「麻奈美と何があったのか、あいつから聞きだすんだ」
その麻奈美はすでに帰っていたので、修二と千秋、芳恵は三人で大夢へ向かった。麻奈美がいない分、芝原にも質問しやすいはずだ。
「片平君、変わったよね」
「変わった? 何が?」
大夢へ向かう途中、千秋が笑った。修二は心当たりがないらしい。
「いろいろ。前は、麻奈美ちゃんのストーカーだったけど、今は違うもんね」
「ああ……俺には、麻奈美を受け入れる器がない。それに、麻奈美があいつのこと喋ってるとき、生き生きしてた。麻奈美にはあいつしかいない」
「じゃ、もし本当に麻奈美ちゃんが先生に振られてたら、どうするの? またストーカーするの?」
「そうだなぁ。まずは、麻奈美を慰めないとな」
全く汚れのない眼で修二は前を見つめ、大夢へと歩き続けた。
麻奈美のことは、千秋や芳恵よりも、もちろん芝原よりも詳しいつもりだった。
今の麻奈美がまとう空気を、修二は今までに感じたことがなかった。
麻奈美に再度アタックしたところで受け入れられる可能性は低いけれど、それでも麻奈美のために出来ることをしようと決めた。
店の中では、奥のテーブル席で芝原が勉強していた。
「先生……お久しぶりです」
「君たちは、確か──」
「麻奈美のことで、相談があります」
平太郎にジュースを注文してから、三人は芝原に麻奈美の話をした。文化祭の前後で様子がまったく違うことを、すべて話した。
「いい加減、本当のことを教えてやったらどうなんだ」
いつの間にか平太郎が隣に立っていた。片手にお盆を持って、芝原を見ながら腕を組んでいた。
「本当のことって、何ですか?」
「それは……」
「芝原が気になってる人のことだ。その方が麻奈美もすっきりするだろう」
「やっぱり、麻奈美は──対象外ですか」
「対象外っていうか、ダメなんだ」
ガッシャーン!
突然の何かが割れた音に振りかえると、麻奈美がカウンターの奥で顔を歪めて立っていた。平太郎が覗きこむと、床で食器が割れていた。
「麻奈美、何して……?」
「──っ、もう何も信じない……!」
割れた食器をそのままに、麻奈美は駆け出した。
耳障りなほどに鳴り響いたドアの鐘の音は、しばらく止まらなかった。